「富樫さん、すみません。父が勝手なことを申しまして」

総支配人のいなくなった部屋で、友香が困ったように頭を下げる。

「いえ、とんでもない。ありがたいお仕事のお話をいただき、大変恐縮です。お力になれるよう、私も精一杯尽力いたします。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」

そして二人は名刺を交換する。

「今後の詳しいやり取りはメールでご連絡させていただきますね。せっかくですから、少しホテルの資料をお渡ししたいのですが…。富樫さん、お時間まだよろしいでしょうか?」
「はい、私は大丈夫ですが。友香さんは?」
「わたくしも大丈夫です。今夜のご予約のお客様は、皆様で最後ですから。では富樫さん、オフィス棟までご同行いただけますか?」
「承知しました」

四人でレストランを出ると、ロビーで成瀬や美怜と別れ、卓は友香について隣のオフィス棟に案内された。

「へえ、オフィス棟なんてあるんですね。ここもかなり大きな建物ですね」

長い廊下の両側にはオフィスが並び、こうして見るとどこかの大企業のようにも見える。

「はい。会社としての業務もここで行っております。従業員の人数も多いですし、ロッカーや休憩室、仮眠室もありますので」
「そうなんですね。ホテルは二十四時間体制だから、夜勤や早朝勤務は大変でしょう?」
「そうでもありませんよ。わたくしの場合、遊びでも徹夜しますから」
「あはは!お若い証拠です。大学を出られたばかりですか?」
「去年の三月に卒業しましたから、ホテルの正社員になって二年目に入ったところです」

ということは、自分よりも二つ年下か、と卓は頭の中で計算する。

「お若いのにしっかりしてらっしゃいますね。それに総支配人のご令嬢でいらっしゃるのに、現場でバリバリ働いて」
「あら、何もできない世間知らずな小娘に見えました?」
「いえ、とんでもない!ホテルのスタッフとしても、とても優秀な方だと思いました。生き生きとプライドを持ってお仕事されているようにお見受けします」
「ありがとうございます。家にずっといると見合いの話をされるので、仕事に逃げているっていうのも事実ですけどね」

ああ、と卓は、パーティーでのことを思い出した。

あんなふうにしつこく男に言い寄って来られては、断るのも大変だろう。

すると友香も同じくパーティーでの出来事を思い出したのか、卓を振り返って頬を赤らめた。

「先日はすみませんでした。今思い返すと、本当に恥ずかしくて」

あ…、と卓も気まずそうに目を伏せる。

あの男に芝居を打ち、ダーリンと呼ばれてハニーと返してしまったことは、思い出しただけでも赤面ものだ。

「お互いあのことは忘れましょう」
「そうですね。またあの男性に見つかったら、その時はちゃんとお名前で呼ばせてください。卓さん」
「分かりました。でも咄嗟にあんなお芝居をするなんて、案外面白い方ですね、友香さんって」
「いえいえ。あんなセリフ、言ったことないですよ?卓さんはどうか知りませんけど」
「私だって言ったことないですよ!」
「言ったことなくて、よくポンと出てきましたね、ハニーって」

卓は途端に顔を真っ赤にする。

「友香さんこそ。サラッと言いましたよね?ダーリ…」
「わー!もうこの話はやめにしましょう!」

友香も真っ赤になって慌てて手を振る。

「さっ、ビジネスビジネス」とひとり言のように呟きながら、友香は表情を引き締めて、卓を小さな会議室に案内した。

「ホテルのパンフレットと、簡単な見取り図などをお渡ししますね。客室内の家具やロビー装飾なども、写真で載せてあります」

そう言って友香は卓の前のテーブルにたくさんの資料を並べる。

「このホテルは、ありがたいことに古き良き時代を感じられる伝統的なホテルとしてお客様に愛されてきました。ですがいつまでも何もしないままでは、古き良き、ではなく、古臭いホテルになってしまいます。新しい時代を感じるからこそ、昔の良さも生かされてくると私は思います」

友香の言葉に卓も頷く。

「おっしゃる通りですね。弊社の家具のアンティークシリーズと、モダンでスタイリッシュな家具を良いバランスで配置し、相乗効果を得られたらと思います。いくつかシミュレーションした画像を作成し、ご提案できるよう進めてまいります」
「かしこまりました。御社の製品を詳しく拝見したいのですが、カタログなどはいただけますか?」
「すぐに準備いたします。実物を一度にご覧いただけるミュージアムにも、お時間があればぜひご案内させてください」

その後も二人は熱心に話し合いを続けた。