全てが面倒臭かった。

家族を捨て男と出ていった母親も、

体裁ばかりを気にする父親も。

嬉々として噂話に花を咲かせる家政婦だって……。

そう言ったもの全てから、

逃げて、

逃げて、

逃げて__。



気がついたら、俺はすっかり夜に染まっていた。


「ヒッ、もう、許してくれ」

そんななりして怯えられてもな。

俺は冷たい目で男を見下ろした。

そもそも喧嘩に"許す"も"許さない"もないだろう。

怖気付くくらいならはじめから受けなきゃ良いんだ。

手から伝わる相手の頬骨が砕ける感覚。

生物の脆く柔らかい体を痛めつけると感じる少しばかりの罪悪感しか、その頃の俺には生を感じる術がなかった。

「んだよ、これ」

久々に帰った家には、珍しくアイツがいた。

「受験票だ。そこだけでも受けておけ」

「……命令すんなよ」

「夜遊びもほどほどにしないと、いつか痛い目見るぞ」

は、よく言うぜ。

どのツラ下げて言いやがる。

その夜遊びが激しくて、母さんに見放されたのはどこのどいつだよ。



……でも、高校でねぇとバイトもろくにできないか。



アイツに従うようで癪だが、

受けるだけ受けてやる__


握りしめた受験票の学校はどうやら隣町にあるらしかった。




最悪だ。

ただでさえ気が乗らないつぅうのに、試験に消しゴム忘れるとか普通んなことあるか?

「あの」

手を挙げると、係の女は嫌そうな顔でこちらまで歩いてきた。

「……何でしょうか」

「消しゴム忘れたんすけど、借りれますか」

「無理です」

「そうすか」

試験監の軽蔑した眼差しはまるで俺にはこの学校を受ける資格なんないと言いたげで、

思わず口から大きなため息が漏れた。

何がこの学校でも受けておけだ。

バリバリの進学校じゃねぇか。

派手に染め上げ傷んだ髪の人間なんて、俺以外誰一人としていない。

みんないい家のお坊ちゃん、お嬢ちゃんって感じだ。

まぁ、家柄だけで言えば、自分もお坊ちゃんに入る部類かと思うとおかしくて笑えてくる。

……もしこの世に神がいるのなら、俺は相当嫌われてるんだろうな。

「あの、これどうぞ」

「あ?」

前の席の女だった。

長い黒髪が鬱陶しそうな女。

差し出された消しゴムは手でちぎったのか歪な形をしていた。

「お互い、頑張りましょう」

女は呆けている俺に、消しゴムを押し付けると、くるっと前を向いてしまう。

それだけだった。

たったそれだけのことだった。

でも俺にとっては大きくて、

また会いたいと思ってしまった。

まだ名前も知らない女に。

もし合格できたら、やり直せるだろうか。

あの女の隣に並んでもおかしくない自分に。

それはきっと罪悪感を数える日々より楽しいだろう。