高校時代、バイクが大好きな友達がいた。
 名前は「紀江(のりえ)」という。
 彼女が30歳で2歳年下の男性と結婚したときは、披露宴に呼んでもらったけれど、「2年足らずで離婚した」という話を別の友人から聞いた後は、全く連絡を取っていない。

 1984年4月、紀江とは高校に入学してすぐ仲よくなった。
 出席番号順で決まった最初の座席で隣になったのがきっかけで、彼女から声をかけてくれたのだが、私がおどおどと、でも真面目に返事をしてくれる様子がツボにはまったらしい。

 小柄で童顔で初対面の人が苦手。自分ではまあまあしっかりしている方だと思っていたけれど、外見で他人からなめられる要素をたっぷり持った私は、誰かと親しくなると、やたらといじられたり、マウントを取られたりすることが多かった。
 紀江もまあそんな1人だと思っていたが、「美紅(みく)はそういうところがかわいいんだよ」というフォローも忘れなかった。

 入学間もないから、お互い15歳。当然免許は何も持っていなかったけど、6月生まれの彼女は「誕生日になったら、小型でいいからすぐバイクの免許取るんだ」と張り切っていた。

 実際はいわゆる「三ない運動(**下記注)」ってやつが邪魔をして、親御さんが免許を取ることを許さないだろうけど、カノジョ的には「そんなん無視無視」とケロッとしていた。
 確かにしれっと取って、何ならバイトしてバイクも買っちゃうんじゃないかなと思っちゃうような、よくも悪くも自由闊達な雰囲気が、紀江にはあった。


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日本において1970年代後半から1990年代にかけて行われた教育運動のひとつ。正式名称は高校生に対するオートバイと自動車の三ない運動で、高校生によるオートバイ(第1種原動機付自転車を含む)ならびに自動車の運転免許証取得・車両購入・運転を禁止するため、「免許を取らせない」「買わせない」「運転させない」というスローガンを掲げた日本の社会運動のことである。(ウィキペディアより引用)
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 話は変わるけど、私たちが住んでいた市は無駄に面積が広かったからか、ちょっと変わった制度があった。

 田舎だから私立の中学校が1校、少し離れた県庁所在地に国立大学の付属中が1校という環境で、みんな一番近くの市立中学校に進学するのが普通だった。
 ところが、市の西部で、すっごい山間部の地区があるんだけど、そこには市立中学校がなくて、隣の自治体(まち)の中学校の方が近かったのだ(それでも6キロくらい離れていたって!)。

 じゃあ越境で隣町の中学校に行くのかと思ったら、いろんな事情でそれはできないらしく、市街地にある市の中央駅までの交通費を市が少し負担して、駅から一番近くにある中学校に通うというのが一般的だったらしい。
 つまり、市内でも一番郡部の小学校から、市内で最も「都会」にある中学校に通うことになるのだ。

 早起きしなきゃいけないから、本人もおうちの人も大変だろうけど、電車やバスの定期を持って、にぎやかな繁華街を通って通学をするというのは、それはそれで楽しかったらしい。 

 私は市内のそこそこ開けた、商店と住宅地(と田んぼや畑が少々)が混在したようなところで生まれ育ったので、中学校までも2キロあるかないかだった。原則、自転車通学は認められていない。
 友達と連れ立って、おしゃべりしながらの通学は楽しかったけれど、友達が休みだったり、たまたまケンカで気まずくなったりして、ひとりで行き帰りするときの道は、変化に乏しくて退屈で、心細い気持ちになったこともある。

 紀江は実はその市の西部地区の出身で、電車通学をしていたという。
 その制度のことは聞いたことがあったけれど、実際に利用している人に会うのは初めてだったので、テンションが上がった私はいろいろと質問してみたが、少し気になることを言われた。

「電車通学は楽しかったんだけど、ウチから駅まで遠くてさ…」

 例えば東京や大阪などの都会に行くとき、飛行機を使うのが普通という距離に住んでいる人が、「飛行機で1時間だから、全然遠くないよ」という言い方をすることがあるけれど、みんながみんな空港の近くに住んでいるわけではないから、実際には飛行機よりも、空港と自宅の間をバスや家族の車で移動する時間の方が長い人が多かったりする――みたいな話をよく聞く。

 紀江たちだって同じで、みんながみんな駅の近くに家があるわけではない。
 最寄り駅の「最寄り」が意味をなしていない人も多かったみたいだ。
 駅までは、家族に車で送ってもらったり、自転車で行ったり、人によっては町場に勤める親の出勤に合わせ、中学校まで車で行く子もいたらしい。

「紀江は駅までどうしてたの?お父さんに送ってもらうとか?」
「私は原付(ゲンチャリ)だよ」
「え…って、免許は…」
「田舎だから何となく大丈夫だったんだ。一回も捕まったことないし」
「そ…う…なんだ?へえ…」

 紀江は悪い子ではなかったけれど、話を盛ったり、自分をちょっとワルっぽく見せたがる癖があった。
 例えば、お父さんの仕事が転勤が多かったので(これは本当らしい)、田舎に引っ越す前は、首都圏のK県に住んでいたことがある。
 そこではアジア最大級の暴走族グループのメンバーと付き合いがあって、怪しいものの運び屋をやったことがあるというのだ。
 いろいろ考えると、年齢的に無理がある話で、どんなに大人(・・)でも小学校高学年だったはずだ。

「怪しいものって…何?」
「わかんない。なんか薬とかかな。あんま重くなかったし」
「ふうん…」

 彼女の武勇伝のような、「アタシも若い(・・)頃はバカやってさ」的自虐エピソードは、今にして思うと、とんだ不良少女だとドン引きするべきなのか、ただのホラ話をと捉えるべきなのか、今となっては確かめようがない。
 ただ、何となく「ふうん、そうなんだ」と、拒絶するでも受け入れるでもなく、何となく受け流していた。

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 紀江は女子高生が読みそうな『週刊ハイティーン』とか『月刊ポップギャルズ』みたいな雑誌は、大体人から借りて読んでいたが、毎月欠かさず買っていた雑誌があった。 『月刊ヤングモーター』というバイク専門誌だ。
 値段は300円もしないし、毎月組まれる特集もバラエティーに富んでいて、かわいらしい女性タレントが表紙に起用されることもあり、手に取りやすいのだという。
 私は自分用の自転車も持っていないくらいだし(必要なときはおじいちゃんに借りていた)、オートバイともなると、本当に何も知らなかったけれど、紀江が時々、「見て!お便り載っちゃった!と言いながら、読者コーナーを見せてくれることがあった。
 また、読者コーナーの文通希望欄で知り合った男の子と仲よくなって、手紙のやりとりもしているらしい。
 私たちの高校は女子校だったから、そんなふうに異性の友人をつくる人も珍しくなかったし、趣味が合う人ならなおよしだろう。

「この間写真もらったんだけど、ちょっとカッコよくて。隣の県に住んでて、今度うちの街に会いにきてくれるの!」
「バイクで?」
「電車かな。まだ免許持ってないし」

 紀江が見せてくれた写真は、私の好みではなかったけれど、あっさりと整った顔立ちをした男の子だった。
 私たちと同じ高校1年生で、工業高校に通っているらしい。
 うまく言えないけれど、服装もちょうどいい具合にダサめで、「悪い人には見えない」感じだった。

「うまくいくといいね。会えたらまたいろいろ聞かせてよ」

 などと無責任に言っていたら、予想外の展開になってしまった。

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 私は紀江に、「おしゃれしてきてよ!この間着てた赤いチェックのシャツと白いサロペットとかいいんじゃない?」と言われ、言いなりになったわけではないけれど、まさにその服を着て、茶色の合皮製のリュックをしょって、中央駅の西口に立っていた。

 「靴下の色はトップス(シャツやジャケット)に合わせると、カラーコーディネートがうまくいくわよ」とか何とか、『月刊ポップギャルズ』のファッションページに書いてあった気がするので、靴下を赤にして、白いスニーカーを履いた。
 赤、白、赤、白って、まるで手旗信号みたいだけど、無難にまとまったと思う。

 日曜日、午前11時。紀江はまだ来ていない。
 たしか11時5分に到着する電車でやってくる「彼ら」を連れて、この待ち合わせ場所に来るはずだから、11時10分までには現れるだろう。

「美紅、お待たせ!」

 背後から声をかけてきた紀江は、スポーティーな黄色いのポロワンピースを着て、背の高い男の子を2人、後ろに従えていた。
 2人ともロゴの入ったTシャツにジーンズで、黒いリュックをしょっている。おしゃれではないが清潔感があるし、人に不快感を与える様子はなかった。
 1人は例の文通欄で仲よくなった男の子だと、顔を見てすぐ分かった。名前は隆太君というらしい。
 そして、もう1人は…。

「ども…今日はよろしく」

 「敦夫(あつお)」という名前のその男の子は、恥ずかしそうに私に向かって頭を下げた。
 目がくりっとしていて、どちらかというとかわいい顔つきだけど、背が高いので大人っぽく見える。
 これが「彼」との初めての出会いだった。