【お土産】

 大阪と京都でたくさんお土産を買ったので、全部梱包して、大阪から実家に送った。けど、文哉に買った魔法の杖だけは、私と文哉が住んでいた高田馬場の住所に発送した。そろそろ届いている頃かもしれない。
 でも、今日はお土産をフミアニに渡す以外にも目的があって、私はフミアニの店の閉店間際に、私の『いつもの』生クリームパフェを注文し、他のお客もいなかったので、二階にはいかないで、カウンターでフミアニに買ってきたお土産のラムネ味の八つ橋を一緒に食べた。
「水色の八つ橋って綺麗だな」
 珍しそうにラムネの八つ橋を観察し終えると、フミアニは豪快に一口で食べてしまった。
 私は半分齧って、中の白いあんこも観察し、口の中の味と答え合わせをするように咀嚼した。
「中は白あんかと思ったけど結構ラムネの味だね」
「だな。ってかさ、文哉、年末帰って来たんだぜ?」
「うん。知ってたよ」
 今度は生クリームを口いっぱいに突っ込んで胃に流し込むように食べた。八つ橋より対レクトに甘い。なんとなく週に一回のペースで注文するけど、そういう時はストレスが限界な時だ。
「今日ね、文哉から実家に出演したアニメのDVDだのイベントブルーレイだの、缶バッチにアクリルスタンドにブロマイド、自分のかかわった仕事のもの全部送ってこられたの」
「それで?」
「私もね、嬉しいんだよ。でも凄く文哉が遠くに行っちゃったような気分になるの。物理的な距離をとったのは私なのにね。でも、今回どうしても納得のいかないグッズが届いたの」
 私は鞄の中にプチプチで包んだ手のひらサイズの小瓶を取り出した。
「なにそれ」
「文哉の香をイメージした香水なんだって」
「は?アイツ声優だろ?そんなグッズもあんの?」
「私だってビックリしたよ」
中の液体は薄い緑色で、瓶は艶消しの加工がしてある物だった。瓶の形状はまるでコレを一吹きすれば魔法少女に変身できるんじゃないかってくらい可愛らしく、瓶の見た目だけだったら文哉のイメージとはかけ離れていると思った。
「どんな匂いなわけ?」
 フミアニも厄介なものを見ているような表情をして、私に訊いてきた。
「まだ嗅いでないの。文哉の部屋で検証したいなって思って」
「実家に残したままの文哉の部屋の匂いと比べるってこと?別に文哉イメージってだけで文哉の体臭の香水じゃないんだろ?」
「変なこと言わないでよ。でもさ、ちょっと思い出したいんだよね文哉の匂い。だから、今夜お邪魔してもいい?」
 文哉の匂いが、好きだった。別になにか香水をつけているわけでもないのに、文哉の匂いは特別いい匂いがした。柔軟剤の香とか、シャンプーの香とか、そういうのとは違うし、DNAが遠い男を女は本能でわかるって言うけど、そういう感じなのかな。とりあえず、凄くいい匂いのがするっていうのは確かだ。洗濯物を一緒に洗っていたけど、文哉の服にしかしない文哉の匂いが存在する。
 正直、私は文哉のベッドの匂いが好きすぎる。
 だから、この文哉をイメージして作られた香水にガッカリさせられるのが嫌だった。絶対文哉の本当の匂いなんて入ってないんだから。
 きっと嗅いだら寂しくなる。恋しくなる。だったらせめて文哉の部屋で落ち込みたかった。別れを告げて、逃げてきて、こんなのズルいってわかってるけど、本当はテレビから聞こえる声じゃない文哉の声が聴きたい。けど、今は何を話したらいいかわかんない。
「まぁいいけど、だったらさ、たまには宅飲みしようぜ?ちょっと待ってな」
 そう言うと、フミアニはカウンターから奥の倉庫にしている部屋に入って行った。けど、すぐに出てきたと思ったら、エコバック、しかも文哉の出演しているアニメのキャラクターの描かれているものを持ってきて、カウンターの机に重そうに置いた。
 中を覗くと酎ハイの缶が六本入っていた。全部9%の強いアルコールのだ。
「コレ、お土産のお返しってことで。今夜は親いるし先に家に行っててくれよ。文哉の部屋入って一緒に飲もうぜ?」
「うん」
 とっさに元気のない返事をしてしまった。
 けれど、私は自分のことをわかっていた。今の私は元気がない。別れを切り出した時、文哉も言っていたけど、私はあの時鬱病手前で、今はきっと双極性障害。自己診断だから早くどこか病院に行くべきだと思う。けど、この病名をつけて欲しくなかった。
 精神的に障害のある女が文哉のカノジョでいてはいけない気がする。
だから、仕事も探していないわけじゃないけど、歯科技工士でいたいのか、他の仕事でもいいのか、悩んでいた。
新潟で生きていくと言ったけど東京に比べ、なにもかも圧倒的に求人が少ない。特に技工所なんて車で一時間とか通勤に平気で時間がかかる。もし、前の技工所と待遇が一緒だったら、今度こそ私は壊れてしまう。
 過労で倒れるならまだいい。でも、メンタルは回復に時間がかかる。そもそも一回ダメになったら、もう元の自分には戻れないような気がする。ううん。きっと戻れない。
 前は文哉が支えてくれていたから続けてこれた。そんな文哉は今、隣にはいない。
 壊れたくない。
「じゃあ、待ってるね」
 フミアニがくれた缶チューハイの入った袋を持って、店を出ると駐車場に置いていた車には少ししか止めていなかったのに雪が掛け布団をかけられたみたいに均一に分厚く積もっていた。それから車に乗って五分。文哉の実家に来た。
 フミママとフミパパに夜ご飯を一緒に食べようと言われて、フミママのビーフシチューを食べた。
 おふくろの味だった。泣きそうになって、ティッシュで慌てて鼻水をかんだ。
 随分長く食べていなかったけど、文哉の家でこうやって食卓を囲むことは久々で、懐かしいのに、身体には馴染みがあった。
 でも、文哉の席に文哉がいない。そもそもいつもテーブルで私が座らせてもらっている席は、いつまで私が座ってもいい席なのだろう。
 文哉に別の恋人ができたら、その人がきっと座る。私じゃなくなる。
 嫁でもないのに、私はフミママと当たり前に一緒にお皿を洗った。いつもだったらその間に文哉がお風呂を洗いに行く。けど、今日はフミパパがお風呂を洗いに行った。
 私、この家に勝手に溶け込んでるけど、文哉がはじき出してくれないなら、自分から去るべきだと思った。
「ねぇハネちゃん。あたしがこんなこと言うのも変なんだけど、文哉ってキャラがいいと思わない?」
「え?」
 最後のお皿を拭いていたフミママがふいにそんなことを言った。
「なんか文哉の出てるアニメのイベントのDVDみてたら『ああ。おいしいキャラだなぁ』って思ったのよ。ヘタレで泣き虫でちょっと天然っていうの?ゆるいっていうか、俺が!俺が!って前に出て行かなくちゃいけない業界のはずなのに、文哉は『オチ』なのよ。上手く会話に入れてもらえて会場を笑わせて、なんだか印象に残るの」
「それは私も思います。若手だからって言うのもあるかもしれないけど、愛されキャラだと思います。なんかあの甘ったれたヘタレスマイルが母性に刺さるというか、女性ファンを増やしていっている気がします」
 今の私は上手く笑えないけど、なんだか文哉のフニャフニャした笑顔を思い出すだけで心が温かくなったような気がした。
「母親の私がいうのも変かもしれないけど文哉があんなにトントン拍子に売れて、タレント性がある子だったんだなって知って、驚いてるの。声優になりたいから専門学校に行きたいって言われた時も、応援してあげたかったけど、ほぼ生まれた時から劇団に所属してるような人だっているし、そんな人たちに紛れて二年間で声優になれるわけないって、学校のパンフレット見た時には思ったりもしたわ。けど、他のことを、例えばハネちゃんみたいに国家資格が取れるわけでもないから、二人が東京で同棲することは全く問題ないと思っていても、ハネちゃんのヒモになっちゃったらどうしようって、本気で悩んだもの」
 フミママの言うことはあながち間違いじゃない。そのルートの世界線だってあったかもしれない。けど、文哉は売れた。専門学校も特待生ですぐに今の事務所からのスカウト、初めて出たアニメキャラは文哉を一躍有名にして、人気声優にのし上げた。
 もちろん、文哉にはその素質があったんだろう。だから文哉は周りが心配していた想像以上の結果を残し続けている。
 この先も、使ってもらえる声優に、もうなっている。でも、まだまだファンは今日か明日にでも結婚するなんて思ってないだろう。今の文哉にはもっと多くの人から推してもらう必要がある。ファンの人口がもっと増えれば、結婚して離れていくファンの数も少なくて済む。
 けど、誰かが傷つく。実際にはショックを受けるって感情が近いのかもしれない。芸能人が結婚を発表するとSNSは祝福の声と悲鳴を同時にあげる。
「ハネちゃんがなにもかも背負う必要なんてないんだからね」
「え」
 フミママは手をエプロンで拭くと、ポケットからハンドクリームを出して、塗りながら私にハンドクリームを渡してきたので私も手に塗った。
 歯科技工士を辞めたら、あんなに何を塗っても荒れていた手の皮膚は随分回復して、引っ掛かりはなくなっていた。
「文哉がしっかりすればいいのよ」
「案外しっかりしてますよ?私、仕事ばっかりで文哉だって忙しいのに、全然家事も出来なくなって、全部文哉に頼っちゃってましたし」
「共働きだもの。そういう時期だって明日と思うわよ?私は保育士だし、旦那は高校教師で、行事とかイベントごとのたびに繁忙期が来るから、その都度頼り合ってるもの。ハネちゃんは働きすぎたのよ」
「働きすぎて、文哉には何度も歯科技工士辞めて欲しいって言われました。今思えば初めてそう言われた時に辞めてたら、鬱病の症状なんて出なかったと思います」
「頑張っている人に頑張れって言っちゃいけないって育ててきたから、仕事辞めて欲しいなんて言ったのかもしれないと思うと、なんだか私の育て方が悪かったのかなってちょっと反省することもあるわね」
「いいんですよ。のびのび育ってる文哉が羨ましいなって思うこといっぱいあるし、そこが好きです。素直で心配性で、程よく甘ったれなところが文哉のいいところなんです」
「そんな風に思ってもらえて私は嬉しいわ。達也と違ってしっかりものじゃないと思ってても、ハネちゃんの支えになれるくらいになってたなら私も安心」
 お風呂洗いからフミパパが戻ってきて、フミママは「お茶入れますね」といって、電気ケトルに水を汲んだ。
 私は、フミアニと宅飲みをさせてもらうことを告げ、文哉の部屋のある二階に向かった。
 文哉の部屋のベランダを開け、置いておいたフミアニからもらった缶酎ハイはキンキンに冷えていた。
 一本飲んじゃお。
 鞄から文哉をイメージして作られた香水を取り出して、胸と首の間に向かってワンプッシュした。
 スッキリとしたアルコールに紛れお花の石鹸の匂いに蜂蜜のような甘い香り。
 いい匂いだけど、どこが文哉なんだろう。私のイメージする文哉はアスファルトが雪で濡れてキンと冷えた香。もしくは夏の田んぼに水が張られた時の芝刈りされた香。ううん。イメージはそうでも、本当の文哉の匂いじゃない。
 缶チューハイの二本目を飲んだ。レモンの味がする。さっきのグレープフルーツも美味しかったけど、柑橘系の酎ハイってなんでこんなに美味しいんだろう。
 文哉の香水の匂いが嫌で、三本目に手を出していた。つまみはないけど、空きっ腹ってわけじゃないから、四本目、五本目とスマホに入れておいた文哉と水戸錬太の二人ラジオCDを聞き流した。
 文哉の、穏やかでのんびりした声と、水戸くんのパワフルで大袈裟な喋り方が凄く相性がいいなと思った。
 気がつけば六本目。全部飲んじゃった。
 さすがに酔っ払っている。
 眠いんじゃないけど、なんかクラクラする。全部アルコール9%。無理もない。お酒は強い方だけど、キッチリ酔っ払っていた。
 フミアニ、なかなか帰ってこないな。お店閉める直前にお客でも来たんだろうか。
 私は握りしめていた香水を今度は誰かに向けて噴射するように前にツープッシュした。
 綺麗な匂いだと思う。でも、違う。全然違う。
 ワイヤレスイヤホンの充電が切れて、部屋が無音になった。
 するとコンコンと部屋のドアがノックされ、私がボーっとして何も返事を返さないでいると、フミアニがやっと部屋に入ってきた。
「うわ、なんか凄い匂いだな。コレが文哉をイメージして作られた香水?」
「……うん」
 フミアニは酔ってボーっとしている私の腕を引っ張って、文哉のベッドに座らせてきた。そして、テーブルに置いたままの私が飲み干してしまった缶チューハイを次々手に取っていく。
「ハネ、お前これ全部一人で呑んじまったのか?」
「うん。ごめん。でも来るの遅いんだもん」
「悪かった」
ベッドのふちに座る私の頭の上に手を置かれ。なんとなくそれだけで許してしまった。別に怒っていたわけでもないし、むしろ一本も缶チューハイを残していない方が申し訳ないくらいだった。
「で、今ハネからするこの匂いが文哉の匂いなわけ?」
 フミアニは私の首筋に顔を近づけ、私の両肩を優しく掴んだ。
「そうみたい。でも、文哉の匂いじゃない。そこの枕の方がよっぽど文哉の匂いがする気がする」
「ふーん」
 興味のない返事をしたフミアニは私の肩に顎を置いた。
 近い。でも、不思議。兄弟だからなのか文哉の匂いがする。この部屋の元の匂いと限りなくDNAが一緒だ。落ち着く。
「文哉とはレスだったのか」
「ちゃんと応えてたつもり。まぁ最後のエッチは最悪だったけど」
「なに、最悪って」
「BLのCDもちゃんと聴いてたからさ『ああ。この喘ぎ声聞いたことある』ってなっちゃって。なんかそれは違うんじゃないのって気分になっちゃって。それなら初めてのエッチの時の方がよかったなぁって」
「初めての時は、どんなだったの?」
「ココでした」
「やらしー。そん時、家に俺いた?」
「いなかったよ。フミアニはね、大学の友達と旅行に行ってた。多分」
 そうだったのような、そうじゃなかったような、いつもだったらはっきりしている記憶が曖昧で、多分と付け加えてしまった。
「旅行?ああ、沖縄か」
「そう、ただのちんすこう買って来るならいいのに、フミアニ『ちんちんすこう』なんて変なの買って来るから、文哉とちょっと気まずくなったんだから」
「ちんちんすこうに謝れ」
「じゃあ私と文哉が修学旅行で買ってきた北海道の『おっぱいチョコレート』にも謝って」
 ああ。ふざけてないで、帰らないと。お母さんに迎えに来てって電話しなくちゃ。
 次にしなきゃいけないことは決まっているのに、フミアニが話を続けてくるし、スマホもどこに置いたのか忘れた。
フミアニからする文哉に近い匂いが、昨日電話越しに強く文哉を罵ったことを思い出させて寂しくさせてくる。
「初めてした時って、文哉が脱がしたの?」
「ううん。自分で脱いだ。新品の上下お揃いの可愛い下着を見せびらかしたの。だってしようって作戦会議立ててたのに、文哉正座したまま固まっちゃって、何も言えなくなっちゃって、私も初めは恥ずかしかったけど、だんだんアホらしくなっちゃって」
「アホらしいって」
「だって最初の一回ってだけで最後の一回じゃないのに、ねぇ?」
 酔っ払ってる。血管の中を確実にアルコールが泳いでいる。体が熱い。
「ハネは文哉しか知らないでいいの?」
「わかんない」
 フミアニが私のパーカーのファスナーをおろして脱がした。セーター。トレーナー。長袖のインナー。シャツを脱がして、水色のブラジャー一枚にされた。
「何枚服着てんだよ」
「わかんない」
 気がついたら柔らかい羽毛布団に体が埋まっていた。
「初めての時も水色だった?」
 ジャージ。レギンス。靴下を脱がされて、そう言われた時、今日はたまたま上下一緒の水色の下着だと思い出した。
「はぁ?ピンクだったでしょ?!」
「そうだったな」
 なんか変。変だ。だけど、お酒が体の自由や思考を曖昧にしていく。文哉ではない。はず。フミアニと喋ってる。はず。
「ハネちゃん」
 呼び捨てじゃないってことは文哉なのだろうか?
でも、文哉の声と少し違うような似ているような本物のような。
 思考がハッキリしない中。文哉らしきものが私の上にピッタリ乗っかってきた。なんかお寿司のシャリになった気分だった。
 でも、そこでフミアニだと明確に分かった。文哉は私の上に全体重を乗せることなんてない。いつも『ハネちゃんが折れちゃったら困る』と言っていつも手と手を絡めるだけだ。
「フミアニ、これどういう状況?」
「やっぱ、俺ってわかっちゃうか」
「当たり前じゃん」
「なぁ初めての時、文哉は何から始めた?ブラジャーを外した?それともキスした?ないとは思うけどパンツに指突っ込んだ?」
 フミアニが私の右頬にキスをした。
「文哉は……」
 続けて左頬にキスをした。
「文哉は……」
「次は唇にする」
 そう宣告された声は文哉の声にそっくりだった。でもなんか違う。物まねにしては似すぎだけど、違う声だってちゃんとわかる。今喋ってるのはフミアニ。
 唇が近づいてきて、私は反射的に唇を口の中にしまい込んで、横を向いた。
 そんなことより、文哉は、私に何から始めた?どうしたっけ?文哉が緊張していたのは覚えている。でも、文哉は、下着姿になった私に何をした?いや、最後までしたのは覚えてるけど、文哉は、確か私を抱きしめて、それから、なんか言った?ううん。喋ってた。なんか会話をした。どんな顔だった?どんな声だった?どんなしぐさだった?
「なぁ、俺としちゃおうぜ?」
 今の、フミアニの言葉で、体に充満していたアルコールを裂くように記憶が蘇った。
「泣いた」
「は?」
「泣き出した」
「文哉が?」
「うん『これ以上好きになっていい?』って、言った」
「アイツ何基準でこれ以上って言ったんだよ」
「わかんない。わかんなかったけど、私『いいよ』って言ったの」
 そう言ったら、文哉はやっと私を本当に抱いた。あれは優しさから出た言葉ではない。懇願だった。私たちはちゃんとお互いのことが好きだった。でも、その先があることを知った。だけど、今はどうなんだろう。文哉だけが私を好きなのだろうか。私は文哉にまた『これ以上すきになってもいい?』と言われたら『いいよ』って言えるんだろうか。
「ハネはさ。充分にプロカノジョになれると思うぜ」
「カノジョにプロとかアマチュアがあるのがおかしいと思うけど、本当にそう思う?声優ってさ国家資格でもないしなれちゃったもん勝ちじゃん?」
「そうかな?俺は一回テスト受かったら一生使える国家資格より、仕事をもらうために何度もオーディションで受かり続けなきゃいけない一生受験生みたいな文哉の方が本当は大変だと思うよ。でもさ、アイツは今一生懸命キャリアアップして、ハネのこと迎えに来たいって思ってるし、実際そろそろ来ると思うぜ?」
「迎えになんて来てくれるかな。私、逃げてばっかりなのに」
「待っててやれよ。待てないって言うなら今から俺としようぜ?」
 フミアニと、する?エッチを?
「ふふふふふ」
「なんだよ。俺だって本気だぜ?プロカノジョやってるのが嫌なら俺にしとけって」
「文哉に嫌われるよ?」
「それで済めばいいけど、殺されるかもな」
「そんなこと文哉はしないよ」
「するよ。それくらいの覚悟でハネは文哉に愛されてるよ」
 そうかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
「どうする?俺と今やることやって、このまま新潟で生きていく?それとも文哉のところに帰る?」
「やらないけどさ」
「やらないんか」
 フミアニは私から一番初めに剥ぎとったパーカーを投げつけてきた。本当は順番に服を着たかったけど、とりあえず体を起こしパーカーを着た。下着姿なんて水着姿とあんまりかわらないなってこの時、危機感なく思ったのは、多分フミアニが相手だからだろう。
「文哉のところ帰っていいのかな」
「当たり前だろ。ここはハネが帰ってくる場所で居場所の一つってだけであって、本来いるべき場所は文哉の隣なんじゃないの?」
 私のいるべき場所。
「ハネが自分で決めていいんだから、ゆっくり考えな」
 フミアニは私の頭を大きな手で強めにポンポンすると文哉の部屋を出て行ってしまった。
 一人になった瞬間、ああ、一人で考えなきゃって思った。答えを出していいのは私だけなんだと思った。誰かが決めてくれることじゃない。文哉が私と結婚したいとか傍にいて欲しいって要求に、私はどう応えればいいのだろう。
 そもそも、どうなりたいんだろう。
 やめとけばいいのに、床に落ちていたスマホを拾って『千代文哉』と打ち込んだ。文哉が世間にどう思われているのか改めて知っておきたかった。どんな風に文哉は声優として評価され、どんな人物と認識されているのか、そこに私が食い込める隙が本当に存在するのか。そんなことが知りたかった。
 でも、検索キーワードの中の候補の四番目を見た瞬間、背中の産毛が逆立つのを感じた。

千代文哉 米田アイコ

何故、お前の名前が並んでいるのだ。怒りのような裏切られたような、嫌な気持ち。
でも、もし、米田アイコではなく大島羽根だったら?私が今思ったようなことを、文哉のファンたちが受け入れるしかないと割り切ってもらうしか出来ないのだとしたら、私は罪人のような扱いになるのだろうか、それとも千代文哉に選ばれた唯一の嫁の座に収まった、たった一人の女として称賛されるのだろうか。
 千代文哉 米田アイコ をタップして一番上に出てきた記事を選んだ。
『人気声優 千代文哉の恋人として噂されている米田アイコさんはアイドルグループ ノノノンカ に所属しており、担当カラーはミントグリーンで、千代さんの高校の同級生。千代さんの推しカラーの緑と同じであることなど共通点は多く、新潟から上京するタイミングや同じ新宿にある大学と専門学校に進学するなど、親密な関係であるとファンから認定されている。高校の卒業アルバムの寄せ書きに千代さんのことをフミくんと書くなど、学生の時からお付き合いしていたのではないかと予測されている。まだ若い二人だが数年のうちに結婚の可能性もあるのではないかと言われている』
 米田アイコのSNSのスクショの写真が記事には載っていた。胸まで伸びた黒髪に淡い緑色のリボンが編み込まれていて、白とゴールドをベースにしたミニスカートのドレスみたいな衣装に淡い緑色が組み込まれている自撮りの写真だった。
 だけど、思うところもあった。果たして米田アイコは千代文哉に釣り合う程、人気なのだろうか。逆に、千代文哉と付き合ってると思われているならアイドルとして人気なんか出ないんじゃないだろうか。米田アイコは文哉と付き合っている匂わせを今までたくさんしてきたけど、デメリットにしかならないような気がする。それでもいいのだろうか。けれど、匂わせといっても、どれも決定的なものではない。
 だって、文哉にとって米田アイコは、一方的に好かれているのか?くらいの存在で、文哉からのアプローチは一つもないのだ。
「おいハネ」
 ノックもせず、フミアニが戻ってきてドアを開けた。廊下の冷気が容赦なく入ってきた。
「もしもさ、もう歯科技工士やらないならさ、俺の店手伝ってくれたりする?」
「バイトってこと?」
「うん。でも、バイトだけど、ちゃんとボーナスだすし、自由出勤でいいよ。まぁ、ランチの時間が一番混むから出てくれたらありがたいけど、いつ休んでもいいし、いつ辞めてもいい。あとマカナつき。今のお前はさ、ちゃんとしない方がいいよ。だから、ちょっと考えておいて」
「わかった」
 ちゃんとしないほうがいい。
 実は、その言葉が欲しかった。
 早く新しく仕事をしないといけないと、焦っている。
眠れない。起きられない。何故か太陽の光が不快で、お酒がやめられない。朝から飲んでしま日もある。家にいたい、部屋にいたい、ベッドの中にいたい。誰とも会いたくない。喋りたくない。なのに、ある時、突然、急に元気になる。世界を征服したように気分がよくて、部屋の片づけや、家中の掃除、雪かき、食欲もその日だけは異常で、朝からカップ麺を四個食べり、フミアニの店に行って『いつもの』と生クリームをほおばる。
けど、家に帰ると充電が切れたみたいに死にたくなる。
どうかしている。コレが鬱病なのだろうかと、心配になって、何度もスマホで自分がおかしいと思ったことを検索する。
最近はそのせいで確信を、している。
私は、鬱病一歩手前ではない。もう、鬱病だ。
フミアニのお店なら働けるだろうか。選択肢がまた一つ増えた。米田アイコのせいでモヤモヤも一つ増えた。
 握っていたスマホが震え、通知を開くと、今撮った写真なのか文哉から水戸錬太が夜道のなか車を運転している横顔が送られてきた。
 なんて返せばいいのかわからなくて、既読スルーしてしまった。
 服を順番に着て、文哉のベッドにもぐりこんで眠った。