【大阪は晴れ】

 二十二歳、まだ私たちと同じ歳で大学生をやっている子もいる。なんて言い訳をしながら、ハリーポッターのローブを買った。もちろん私はスリザリン。マルフォイ役のトムフェルトンが好きだって言うのもあるけど、緑は文哉の色で、無意識に緑を基調としたスリザリンが好きだった。
一緒に来てくれたスズッキーさんはかけているメガネはまん丸じゃないけど、ショートヘアーでなんとなくハリーっぽいという理由でグリフィンドールのローブを買った。寒かったからコートを脱ぐことは出来ず、着るというよりはただ肩から羽織る形だったけど、気分は魔法使いになり、気がついたら杖も買っていた。本当にその杖で魔法が使えるエリアもあったし、買ってよかった。
「全部魔法で作れたらいいのに」
 大阪の青空に向かってホットのバタービールを飲みながら私がそう言ったら、スズッキーさんは「魔法で作ったものって手作りって言うのかな?」と訊いてきた。
「映画だとロンのお母さんが魔法で編み物の棒を動かしてなんか編んでるシーンがあるんだけど、ロンはお母さんの作ったセーターって言ってるよね」
「魔法を使った人が製作者になるのかねぇ」
「どうなんだろう。入れ歯も銀歯も3Ⅾプリンターで作れるし最新の技術ってみんな魔法みたいなもんだよね」
 スズッキーさんこと鈴木エリカは帰国子女で高校生の時にイギリスから来て、日本の高校生活になじめず『一人で黙々と作業できる医療系職業』という理由で一緒の歯科技工士の専門学校で二年間を過ごした。
 私と一緒でアニメとか漫画が好きで、すぐに意気投合して休み時間に推しのイラストを描いて遊ぶような仲だった。スズッキーさんは実家の茨城から板橋にある学校の近所に住んでいて、私は何度もお泊りをさせてもらった。だから文哉がでているアニメのブルーレイなどを持参し、二人で感想を言い合いながら鑑賞する放課後を過ごした。
その時「なんでバイトもしてないのこんなにDVDとかブルーレイボックス持ってるの?」と訊かれ、私はスズッキーさんを信用して、私は持ってきているアニメに出演している千代文哉のカノジョなのだと打ち明けた。
 驚いてはいたけど、スズッキーさんは私を虚言壁の女と疑わずにすぐに信じてくれて、一応、メッセージのやり取りや文哉が水戸錬太や他の声優と映っている写真や私との自撮りオフショットを見せたりしたけど、感心するだけで何か見返を、例えばサインが欲しいとか握手したいとかそういう厚かましいことも一切なく、今も私と文哉が付き合っていることをちゃんと秘密にしてくれているし、相談にも乗ってくれる。
 そしていつも「ハネちゃんは日本人でたった一人の親友だから」と、いつも私の左側を歩き、私の左腕に絡みつくようにくっついてくる。その距離感が私は嬉しかった。
 私も学生の時は勉強ばかりで優等生をやっていたし、高校までの友達には『使われている』という感覚があった。彼女たちはテスト前とかノート提出の時のために私を友達としてキープしているとわかっていたし、何度も文哉との関係を訊かれるたびに、はぐらかす私のことを面白くないと思われていても仕方がなかった。
 実際、高校を卒業したら連絡の一つも来ないし、私から連絡して会いたいほど大切に思う友達はいなかった。
 結局、優先してきたのは文哉との関係なのだ。
 思い出さなくてもいいのに、また米田アイコのことを思い出していた。
多分文哉に興味のある女の子たちは私を文哉の受付カウンター係だとでも思っていたのか、文哉本人には訊かないのに私のところにはやってきた。質問の内容は「千代くんと付き合ってるの?」とか「千代先輩のカノジョなんですか?」とかそういうものだった。
でも、米田アイコが私を訪ねてきたのは卒業目前の三年生の時の一回だけ。
「大島さんさ、フミくんの好きな人知ってる?」だった。
 何気なく言い放ち、どこか私に勝ち誇った表情を向けた米田アイコに、私は「知ってるよ」と笑顔で返した。普段なら、いや、誰かに同じことを言われていたら、きっと私は「仲は良いんだけど教えてもらってことないなぁ」とかはぐらかしてた。でも、米田アイコには意地悪をしたかった。
 文哉の好きな人は私。あの頃は絶対的な自信があった。だけど、そろそろどうなのだろう。
 別れ話をして、新潟に逃げ帰り、なるべくスマホを見ないようにして、溜まっていく文哉のメッセージの数の多さに対し、当たり障りのない『頑張ってるね!』と『頑張って!』と『大丈夫だよ!』と、その三つを言い返すのが精一杯だったし、年末年始、新潟に帰ると連絡が来た時は『わかった~』と送った。何日の何時の新幹線で、何時に長岡駅に着いて、何日までいられて、何時の新幹線で帰らなきゃいけないとか。詳細な情報にも『わかった!』と『おっけー!』を繰り返してた。だけど、文哉がくれた詳細は記憶にも残らなかった。
 逃げる気満々だったのだ。
 両親にはもちろんフミ家にも足を運び、広い玄関に土下座する勢いで頭を下げた。そして自分が予想していた声量よりはるかに大きな声で「文哉にまだ会いたくないです!ごめんなさい!」と叫んでいた。
 フミパパもフミママもフミアニも「そんなに自分を追い詰めなくていいんだよ」とか「文哉になんでも合わせなくていいのよ」とか「真面目すぎ」と口々に励ましの言葉をもらえた。
 でも、私は確信していた。多分文哉は実家に帰ってきて私が新潟にいないと知ったら、絶対泣く。
 付き合って知ったけど文哉はわりと平気で人前で泣く。フミアニがしっかりしている正統派の兄貴肌のせいか、文哉は物凄く弟属性気質だ。家族や友達から甘やかされているわけでもないし、身の回りのことも自分で出来るし頼ってこないけど、ちょっとだけ甘ったれだ。多分、よく言えば素直なんだと思う。裏表のない性格でみんなから好かれている。
 学校でもオタクである自分をアイデンティティにしていて、誰かに嫌われることなんてなくて、程よく甘えるのが上手。
 だからこそイメージした理想と違う結果になった時、平気で泣いて気分が落ち着くまで泣く。
 私が東京の歯科技工士の専門学校に合格した時は、一緒に喜んでくれたけど、まだ自分の東京行きが決まっていなかった頃、毎晩フミアニの部屋で「ハネちゃんと遠距離になっちゃったらどうしよう」とか「東京の男にとられるかもしれない」とかごちゃごちゃ言いながらずっと泣いていたらしい。
 泣き虫のくせに、声優になった頃の文哉の悩みが「なんか俺、泣く演技が一番苦手かも」だったことに、さすがに首をかしげたのを覚えている。
 閉園時間の一時間前、私はスズッキーさんにお願いをしてまたハリーポッターのエリアに戻り、お土産を買いあさった。
 朝一でローブと杖を買った時は、無職なのにこんなにお金を使っても平気か?と一瞬ためらったりもしたけど、安い給料でも使う暇がなければそれなりに貯金は出来ていたので、私は自分が買った月桂樹と不死鳥の羽の杖を買った。杖の材料に不死鳥の羽が入っていたので、自分の名前が羽根であることもあって、なんとなく気に入ってレジへ持っていったら、店員が「この杖は働き者の人にたくさんの魔法を使わせてくれる杖ですよ」と説明してくれた。
 働き者の杖。今の私に相応しい杖かどうかはわからないけど、お守りにしたいと思った。でも、戻ってきて買ったもう一本は文哉の誕生日の五月生まれの人用のサンザシの杖を買った。周囲の人を大切にして愛情深い人の意味がある杖だそうだ。文哉にはピッタリだと思う。
 一通りお土産を買い、シャトルバスに乗ってホテルに着いた。
 チェックイン前に近くにあったコンビニで缶チューハイを六缶と、あたりめとビーフジャーキーと関東とは味が若干異なると噂の関西のカップうどんも買ってから、チェックインした。
 先にスズッキーさんがシャワーを浴びている間、私はビーフジャーキーを口に入れてよく噛んだ。あたりめもそうだけど、硬いものがしっかり噛めるうちは硬いものをたくさん食べようと思っていた。
 入れ歯を作るたび、この人はこの入れ歯で何を食べたいんだろうとか思って作業してたのが大きな要因だ。
 館内着を着たスズッキーさんが出てきたので私もシャワーを浴びた。
 二年間伸ばしっぱなしだった髪を肩まで切ったら髪が凄く洗いやすくなった。いや、石膏や金属の削りカスがついてないから洗いやすくなっただけかもしれない。
 実家では寒くて必ず湯船につかるけど、大阪は別にシャワーでも全然問題なかった。東京でもほとんどシャワーだったけど、文哉と同棲を始めた初期は一緒に狭い湯船に入っていつも文哉が後ろからハグするように私を抱きかかえながら湯船につかって今日あったことを語り合った。
 そして「こんなことしてるって家族は想像してるかな?」と文哉が言って「今更何言ってんの」と笑い返す余裕があった。
 今は、どうだろう。
 ドライヤーで髪を乾かして、スズッキーさんとベッドの上で缶チューハイをあけて乾杯した。
「おつかれさまぁ」
「あつかれぇー」
 口いっぱいに大阪限定のレモンチューハイの味が広がる。
「ハネちゃん」
「ん?」
「実は言ってなかったんだけど、ってか言いたくなかったんだけど、もう白状するね」
 スズッキーさんが外していたメガネをかけて私に微笑んだ。
「あたしね、今はもう歯科技工士やってないんだ」
「マジで?」
「茨城の地元の歯科医院で歯科助手やっててたまに技工物の修理とかもするから資格手当も出るし、完全週休二日制で、日曜は午後休みだし、残業なんてあっても十五分ぐらい」
「そうだったんだ。え、最近の話?」
「いやー……学校通ってた時に決まった就職先には二カ月しかいなかったんだよね。だって、残業とか仕事量とか考えて日給計算したら十四時間拘束で日給六千五百円くらいで、時給計算したら四百六十円だよ?しかもね、退職したいって言ったら『じゃああと半年くらい働いていって』って言われてマジで謎すぎて法律的に退職したいって言ってから二週間で辞めても法的にその月の給料保証されるってネットで調べたら載ってたから、二週間後に自分の道具まとめてバックレたんだよね」
「凄い行動力」
「いや、普通に逃げるでしょだってさぁ、あたしが使った後だったからって理由で超音波洗浄機を壊したって罪を着せられたんだよね」
「え」
「二十五年も使ってたのに『鈴木が壊した』ってみんなに思われて嫌み言われて、挙句の果て弁償しろだよ?そりゃ逃げるって」
「私だったら弁償しちゃってたかも」
「でも二十五年も使ってたんだよ?あたしたちより年上の機械だよ?冗談じゃないよ」
「まぁ、古い機械の方が丈夫なことってあるもんね。特に専門器具だし」
「ほんとそれ。機械も社員も酷使しすぎ」
「私は、入院してる間に退職させられちゃったから」
「カレシくんが退職代行頼んでくれたんでしょ?よかったじゃん」
「まぁ、そうなんだけど」
 退職代行業者についていくつか文哉に質問するメッセージを送ったら、その正体が『神崎』と偽名を名乗って声優の水戸錬太が会社に電話をしたと教えてくれた。
 バレたら犯罪だけど、多分詮索されないだろうと思っていたら、本当にスムーズに私は退職させられていた。
 源泉徴収票も離職票も届き、保険証を着払いで送り付け、私は新潟のハローワークで失業手続きをしたら、半年の失業手当を受給できることがわかった。ありがたかったのは会社都合で辞められたので、三カ月の待機期間なしですぐに受給することが出来たことだ。
 まだあと四カ月、失業手当はもらえるけど、仕事を探していないわけじゃなかった。
 試しに一番実家から近い新潟の技工所の見学に行った。前の技工所と違って広かったけど、ボロかった。机が木だったし床が剥がれてコンクリートが剝き出しになっている個所も多くて、機械の何もかもが時代遅れというか、年季を感じるものばかりだった。女性は一人もいなくて、平均年齢五十歳といったとこか、話が合いそうな人もいなかった。
 人手不足だからなのか、若い女だからか、わからないけど歓迎してくれそうな雰囲気だったけど、私もいくつか質問をした。
 休憩時間は何分あるのか。完全週休二日制じゃないのならいつ休みを取れるのか。タイムカードはあるのか。残業代は出るのか。そもそも残業は月に何時間くらいあるのか。
 どれも今度は失敗したくないからきちんとした答えが欲しかった。でも、案内してくれた初老男性の社長は「うちはアットホームだからその都度適当にやってるよ!」と笑顔で言われた。
 適当。私の一番大っ嫌いな言葉だ。
 私は笑顔を崩さなかったけど、全身全霊で逃げなきゃ。と思った。
「やっぱり技工所に再就職したい?」
「そのつもりだったけど、確かに時給計算したら私も最低賃金下回ってるし、歯科助手もいいかなって、今のスズッキーさん見てるといいなって思っちゃう。けど、私、入れ歯作ること自体は嫌じゃなかったなって」
「確かに。作るのは楽しいよね。私も子供の頃から工作とか大好きだったからなんとなくわかる。でも、倒れるまでやる価値ある?」
「わかんない。でも、二年学校に通って、就職して二年すら働けなかった自分が不甲斐なくて。それにせっかく国家資格取ったのになぁっていうのと、傍で文哉が生活のこと全般支えてくれててくれたのに、文哉に何もしてあげられなくなっていく自分を見捨てないでいてくれるのに、ちょっとずつ違和感を感じてたの」
 スズッキーさんは二本目のチューハイをあけた。私はまだ五口ぐらいしか飲んでいないい。お酒はゆっくり飲むのが好きだ。新潟にはいい酒がいっぱいある。二十歳を過ぎてからは新潟の酒瓶を文哉も私も馬鹿みたいにたくさん買って東京に帰ってゆっくり飲んでた。
 最後に一緒に飲んだのはいつだったか、もう思い出せない。
「オタク目線で話してもいい?」
 スズッキーさんはそう言ってゆっくりあたりめを嚥下した。
「なに?」
「初めて知った時は、ハネちゃんなら人気声優と付き合ってっても不思議じゃないって思ったんだ。可愛いと美人の美味しいとこどりした見た目と、真面目で勉強もできるのに鼻にかけないし『良い人』って思ったんだよね。だから人気声優千代文哉にカノジョがハネちゃんだって知った時、ぶっちゃけ『だよね!』ってなった」
「なんで?普通は『ショックで死にそう』とかじゃないの?」
「そういう人もいるだろうけど、イケメンで愛され癒し系ヘタレキャラで人気の声優が一生独身でいてほしいとか、一部の人の幻想だよ。好きな人と結婚も出来ない推しを望むなら、その人はファンの資格ないと思う。ってか黙れてろって思うね!」
 帰国子女だからなのか、元からの性格なのかスズッキーさんは時々、過激になる。日本人が裏垢でしか呟けないようなことも平気で言う。だけど、毎回凄くいい笑顔で言うので、感心してしまう。
「あたしがもし、魔法使いだったら、もれなく悪口影口誹謗中傷してくる奴は杖振り回して『アバダケダブラ』って言うよ」
「禁断の魔法だよ?」
「でも、銃で撃ち殺したり、日本刀で切り裂くより、魔法の杖で殺っちゃったら罪悪感あんまりないかも」
 スズッキーさんは時々とても攻撃的だけど、悪気なく清々しい程に爽やかで、私もそれくらい強気な考えを持ってもいいのかな、なんて思ったりする。
 例えば、米田アイコをSNSの裏垢を作って「出身校が一緒なだけでろくに話したこともないのに大人気声優の千代文哉のカノジョであると匂わせるアイドル米田アイコ」とかちょっと呟いてみたい。気もする。
 私とスズッキーさんは職場で冷遇された時の話をつまみに、チューハイを飲み、あたりめとビーフジャーキーを食べ、関西限定のカップ麺を食べて、チェックアウトギリギリまで眠り、次の日とその次の日も大阪の街と京都の町を観光した。
 でも、旅行最後の夜、スズッキーさんは言った。
「もしも、もしもだよ?千代くんが他の女の人と付き合ったり結婚したりしたらネットニュースになるでしょ?その時、そのハネちゃんは心から祝福できる?」と私を優しく見つめてそう言葉を残して旅行最後の夜、眠りについた。
 即答できなかった。本当に、心から、私じゃない人と結ばれた文哉を知った時、私はどう思うのだろう。
 文哉のことは好きだ。だけど、私はパートナーとしては出来が悪すぎる。そう自覚してしまっている。だから、文哉が私以上の人を見つけられたとなれば、嫌でも祝福しなくちゃいけない。それが、自分から別れを切り出し、会うのさえも拒んだ罰だと受け入れるしかないんじゃないかって考えたけど、本当に心の底から我儘を言っていいなら、私をまた選んでほしい。選んでもらえるように、選んで後悔させないような女に、なれるのならなりたかった。
 本当は心底文哉のことが大好きなのだ。けど、自分が文哉に相応しい女性じゃないような気がして、今日も逃げ回っている。
 本当に『プロカノジョ』って言葉を作った奴に殺意が湧くほど、私はプレッシャーを背負っていた。
 過労で倒れてから、自分からメッセージを送るのを避けていたけど、スズッキーさんと一緒にホグワーツ特急列車の前で撮ってもらった写真を一枚だけ文哉に送ってから眠りについた。
 明日、新潟に帰る。帰る場所はまだ文哉のところではない。それだけが私の中の決定事項だった。