【呼ぼうぜ】

 友達の家の床に手をついて、僕は泣いていた。
「ひとの家来て三秒で泣き出すなよ」
 水戸くんの言葉に「だってぇ」とか「でもぉ」しか言い返せないくらい、汚い嗚咽の声をあげながら僕は泣いた。
 待ちに待った年末年始。意気揚々と新潟に帰ったら、ハネちゃんがいなかったのだ。何度も十二月の三十一日から帰るとか、十時の新幹線に乗るとかメッセージを送っていた。それに対してハネちゃんは『わかった~』とか返事をくれていたので会えるものだと思っていたら、ハネちゃんは茨城県で暮らしている歯科技工士の専門学校時代に親友になったスズッキーさんと大阪のUSJに年末年始旅行パックで行ってしまったというのだ。
「ハネちゃんがハリーポッター好きなのは知ってた。でもさ、としまえんの跡地の方のハリーポッターだっていいじゃん!そしたらワンチャン会えたじゃん!俺新潟に雪かきしに行っただけになった!ハネちゃんのいない新潟の雪に価値なんてないのに!」
「だからって元旦に東京戻ってきて俺の家で泣かなくても……」
「だって水戸くんラジオの収録の時、お正月の過ごし方のお便りに『家でゲーム』って言ったじゃん。それにハネちゃんと何回か会ってるし」
「まぁ。そうだけど、あんな真面目そうな子が避けってくるってよっぽど嫌われてんじゃん、そういう子って一度決めると決意硬いんだよ。もう諦めなって」
「むりぃ……」
「来てくれるかわかんないけど、呼ぶか」
「誰を」
「日口さんと、さっちゃんと、ロメ」
「元旦だよ?そんな人気声優の化身みたいな人達来てくれるわけないじゃん」
「いや、千代くん。元旦に俺の家でそれ言う?」
 ハネちゃんが新潟に帰ってから、僕はハネちゃんをいつか迎えに行ける凄い声優になろうと思いながら、嫌々ハネちゃんの荷物をまとめた。段ボール四箱の荷物。発送しようとしていることをポロっとマネージャーの藤原さんに言ったら「私がやるから!あんた本名で女に四箱も段ボール送りつけたのが世間にバレたら女がいましたって言ってるようなもんじゃない!私名義で送るから!」と怒られた。そういうもんだろうか。
 泣きべそをかいている僕の横で、電話をしはじめた水戸くんの足元に、僕はキャディーケース一杯に買ってきた新潟の清酒の瓶の数々を、鼻水をすすりながら、床に並べた。
「あ、そうなんですよ。女がらみのことです。なんか里帰り失敗したみたいで俺の家で泣いてて。今床に新潟の酒瓶並べてます。ボーリング出来そうなくらい酒はあります。つまみ?あー、買ってきますよ。コンビニのでもいいですよね?はい。じゃあ、日口さんが誘えばさっちゃんもロメも来ると思うんでよろしくお願いします。はーい!」
「日口さんなんだって?」
「今すぐ来るってよ」
「水戸くん凄い」
 日口那々太。確か今年三十二歳の人気声優だ。現場でも顔なじみだし、最近は制作決定舞台挨拶のイベントでも一緒だった。サブスク限定のコンテンツでパーソナリティも務めているし、なにしろ色気が強い。微笑みかけただけでファンがSNSで妊娠したなんて言う人が続出した経歴もある。たまに現場で会うけど、でも、私生活がなんとなくオシャレなんだろうなぁくらいしか知らない。
 さっちゃんは、さっちゃんと呼んでいるけど本名は笹田悟。水戸くんと同じ二十八歳で、二十五歳の時に声優の田辺ハルノさんと結婚してるし、子供もこの前一才になるというので、僕もお誕生日プレゼントで一才から遊べる新潟のお米を素材にした口に入れても大丈夫な積み木セットをプレゼントした。後日、共演したことないけど奥さんのハルノさんからお礼のお手紙もいただいて、若手では珍しく早めに業界人同士の夫婦生活をスタートさせた人だ。
 問題は、ロメことROMEOくんだ。人気声優だけど、よく知らない。年齢は確か二十六?だったと思う。水戸くんとは同じアニメに出てるけど、僕は今のところ面識がない。どんな人なのか一度水戸くんに訊いたけど「いい奴だよ。関わっちゃいけないタイプだけどな」って矛盾した答えが返ってきた印象しかない。
 だけど、全員人気がつく声優であることは間違いない。それでも、そんな人気声優がさっちゃん、日口さん、ロメくんの順に水戸くんの家に一時間で集結した。
 さっちゃんがみんなに鍋にしませんか?と提案したようで、さっちゃんは自身の代表作のアニメ柄のエコバックに野菜と豚コマ肉のパックを持って現れた。日口さんは白滝とこんにゃくとはんぺんに、家にあったというA5ランクのすき焼用の肉を持ってきた。でも、ロメくんはその辺で摘んで来たのかと一瞬思う程、ナチュラルにパクチーだけ片手で握って来た。
「すみません。急に集まってもらって」
 三人が僕の買ってきた酒瓶を持って食卓を囲んだ時にそう言うと、三人とも「気にすんなよ」とか「カノジョと上手くいかないとかこの業界じゃよくあるし」とか言ってくれて、僕はやっと泣き止んだ。
「さっちゃん、家庭があるのに元旦からこんなとこと来て平気?」
 そう僕がいうと、キッチンから「こんなとこって俺んちだからな!」と水戸くんの声がした。
「ハルノと娘は彼女の両親とディズニー行ってるよ。僕も行きたかったけど、僕が一緒だとゆっくりできないから」
「ミッキーより目立つもんね」
「見つかってSNSでパーク内なのに居場所が特定されてグリーティング状態になるの嫌だからね。ハルノは俺と違って変装上手だし」
 大変だな。よりも、なんか寂しいなって思った。結婚出来て、子供が生まれても、普通のお父さんではいられないんだ。
 僕もそうなるのかな。ってか、そうなれるのかな?ハネちゃんが会ってもくれないのに、僕はカレシを名乗り出ることも出来なくて、カレシから旦那になれるのかな?
「日口さんは予定とかなかったんですか?」
「俺?家で寝てた。明け方までカノジョの家にいたし」
「へー。って、カノジョいるんですか?」
「いるよー。事務所公認」
「あの、相手って……」
 訊いていいのかな?
「スタイリストだよ。会ったことあるんじゃない?身長低いくてピンクの髪してるんだけど」
「ああ!及川さん!……へぇー」
 ちょっと見た目が派手でお洒落な日口さんと及川さんの二人を知っているからこそ、納得のいく組み合わせだと思った。
 具材を切ってボールに入れたものを水戸くんが持ってきてくれて、一緒に用意したテーブルの上のIHヒーターのかかった鍋に、水戸くんが野菜を入れようとしたら、握りしめていたパクチーをロメくんが「だばぁ!」と言って入れてしまった。
「あ、こらロメ。ふざけんなよ」
「鍋に入れたくて持ってきたんだもーん」
「あとでドレッシングでお前だけ喰えばいいと思ってたのに最悪。俺パクチーのアンチなんだが」
「オイラはパクチー信者だもーん」
「まぁ、危険植物じゃないだけいいだろ」
 日口さんが呆れながら言うと、僕も水戸くんもさっちゃんも黙ってしまった。多分だけど一瞬、ロメくんのことを疑った。
 自分の強い個性というかキャラみたいなのをわかったうえで声優の仕事している人の中にはONとOFFをうまく切り替えて生きている人が一定数いる。お笑い芸人が楽屋では一切笑わないとかそんな感じのことなんだとマネージャーの藤原さんに言われて、なんとなく納得していたけど、舞台挨拶イベントで直前まで誰とも喋らないでゲームしてる人も、舞台に上がった瞬間に『ご本人だ!』って思うくらい楽屋と舞台では全然キャラが違う人もいる。
 ロメくんは自分のこと『オイラ』って言うイメージだけど、普段からそうで、ずっとこうなのかと、ちょっと驚いてしまった。この人はずっとONなんだ。
そう実感した瞬間、今鼻の中が鼻水でパンパンで、ハネちゃんから嫌われてるのかもしれない状況を受け入れきれずに、また涙をこぼしそうな僕は完全にOFFだ。これがONではいけない。
「こうやって改まって話したことなかったけど、千代くんのカノジョって新潟に住んでるんだ」
 日口さんが水戸くんにお酌されながらそう言ったので、僕は目の前に置かれた箸の前にちゃんと正座しなおして「はい」と言って、彼らの胸を借りようと思って今回の出来事を泣かずに話した。
 十年付き合っていること。
 家族ぐるみで付き合いがあること。
 一緒に十八歳の時上京してずっと一緒に住んでたこと。
 就職してからカノジョは毎日始発終電で酷い時は週七で働いていたこと。
二カ月前に別れたいと言われた直後、彼女が過労で倒れたこと。
 本気で将来を考えて入院している彼女に記入済みの婚姻届けを渡したこと。
 でも彼女は何も言わずに新潟に帰ってしまったこと。
 メッセージはかろうじて三日に一度くらいは返ってくること。
 電話に出てくれないこと。
 やっと会えると思って新潟に帰ったら親友と大阪に旅行に行っていて会えなかったこと。
 両親や兄からは『もう少しハネちゃんの歩幅に合わせなさい』と言われたこと。
 どうしたらいいかわからなくて、気がついたら水戸くんの家に来ていたこと。
 全部、ポツポツと話すと、みんなお酒をチビチビのんで、時々頷いてくれた。
「ずっと傍にいたからって、これからも傍にいて欲しいっていうのはわかるけど、なんか意外だな」
「意外って?変ですか?」
 日口さんの言葉に飛びついたけど、帰ってきたのはさっちゃんの言葉だった。
「俺もちょっとそう思った。千代くんって言葉は悪いけど苦労知らずだと思ってた」
 苦労、知らず?
「だって、俺と現場一緒になった時、千代くんって十八歳だったよね?」
 さっちゃんに出会った時って確か僕の初レギュラーのアニメだった。さっちゃんは四年前にはすでに売れっ子でスケジュールがぎっしりのイメージだったけど、実際結婚前で、さっちゃんがそうとう忙しくしていた時期だと思う。
「なんか二年制の……アニメの専門学校生だったじゃない」
「まぁ、そうですね」
「特待生だったんでしょ?」
「はい」
「しかも学生のうちから今の事務所からスカウト来て入ったんでしょ?」
「はい」
「で、初現場が京アニ作品のレギュラーキャラで、確かキャラソンとかも出してるよね?」
「はい」
「その後は主人公とか主人公より人気のキャラばっかり受かってるよね?」
「だって、人気声優になるには人気なキャラ受からないとって思って」
「その、思ってって簡単に言ってくれるけど、普通そんな受からないよ?」
 さっちゃんは空いたグラスに別の清酒をついだ。
 普通、そんなに受からないって、本当にそうなのだろうか。実際、オーディションで僕はあまり落とされたことない。
「俺ちゃんと、原作のある漫画や小説のオーディションの前は必ず全部買って読むし、練習もしてます。そうやって頑張れば受かることが多いし、頑張ってきたから受かれたとおもうんです」
「いや、原作読んだぐらいで受かるのがもう普通じゃないから、俺たちだってオーディションなんて落ちまくりよ?声優界でも千代くんの売れ方普通じゃないって」
普通ってなんだ?
「無自覚こわー」
 ロメくんが一杯目なのに顔だけじゃなく腕まで真っ赤にしてお酒を水みたいに飲んでそう言った。
「ちょ、大丈夫?お酒弱いの?」
「いにゃー。弱くはにゃーい。体が素直なだけー。でもさぁー、声優の専門学校とか養成所行ったけど声優として売れなかった人ってほとんど舞台いくよねぇ」
「まず、養成所とか行っても声優の仕事もあるかないか微妙な感じで配信者になったりとかする形の未来って結構あるのに、千代くんは何もかも手に入れてきた方なんじゃない?」
 水戸くんの言葉に悪意はないのだろうけど、僕が今を簡単に手に入れてきたわけじゃないことはわかって欲しいと思っていたら、ロメくんがシャブシャブしたパクチーを何枚か口に運んでモグモグした。でもすぐにゴクンと喉を鳴らすように嚥下して、意地悪な笑顔のまま長いベロを出して口に何も入ってないアピールをされた。
ロメくんは今までかかわったことのないタイプの人間だと思った。でも、いい意味で裏表はなさそうだし、仲良く出来そうだ。そう認識したせいか、なんかロメくんには敵が存在しないような気がする。
「つーか、千代ちゃんさぁ超絶ブラックな会社で働いてたカノジョの世話してる自分のこと結構好きだったんじゃなーい?」
 そんなロメくんの言葉に僕は堂々と言い返した。
「好きとかじゃなくて、家事は時間に余裕がある方がやった方がよくない?始発終電で仕事してる彼女に、家事しろなんて言いたくないし、休みだってあったりなかったりの生活で、俺も基本的に土日もイベントとかアフレコあるし、せめて家で一緒にいられる時間くらいは二人でなるべく過ごしたいなって思ってただけですよ?」
 日口さんもさっちゃんもロメくんも水戸くんも、僕がそう言い切った瞬間、なにか凄く納得した表情になって「それかも」「それだね」「それだぁー」「そういうとこだよ」と一斉に言った。
「え、ちょ、え、なんですか?」
 僕の言葉に正解があったのだろうけど、僕自身は全然わからなかった。
「食事はどうしてたの?」
「朝、俺も頑張って起きて彼女にオジヤとかフレンチトーストとか作ってました。じゃないと彼女、朝食抜いちゃうんで」
「洗濯は?」
「もちろんちゃんとやってましたよ!日当たり悪いし、ベランダ出ると身バレするかもって彼女の助言しっかりきいて、前は部屋干ししてたんですけど、今はドラム式の洗濯機買ったんでフカフカな状態で畳んで、彼女のクローゼットにしまってました」
「その洗濯機って千代くんが買ったの?」
「はい。喜んでくれると思ってクリスマスプレゼントだよって俺が買いました」
「ゴミ捨ては?」
「彼女家にほとんどいないんですよ?もちろん俺がやってましたよ」
「風呂掃除は?」
「俺です!」
「食材の買い出しは?」
「俺です!」
「お金は?」
「家賃、光熱費、食費、折半でした。俺が多く払うと怒るんで家計簿も俺がつけてて」
 ハネちゃんに家のことで負担をかけないようにしてきた。
 それなのに。
「それだと思う」「それだね」「それそれー」「それな!」と、全員が溜息交じりにそう言った。僕はソレがなんなのか全くわからなかった。
「重すぎるっちゃ」
 ロメくんがそう言いながら両足を広げ、片足を僕の膝の上に置いた。酔っ払いの脚は片方でも重かった。でも、これがロメくんの距離感なんだなって思った。
「重い?俺が?」
 納得のいかない僕に、鍋の具材を取り分けて、水戸くんが渡してきたので受け取ると、困ったように水戸くんはみんなに説明しだした。
「カノジョさん真面目なタイプなんですよ。多分だけど、職場で絶対その真面目さに付け込まれて膨大な仕事やらされてるタイプです」
「そんなの俺だってわかってるよ!だから辞めて欲しいって何度も言ったし……」
「千代くんさ、辞めて欲しいって酷くない?」
「え」
「言っていいギリギリのラインは多分『辞めた方がいいよ』までだよ。たかがカレシの分際で何言っちゃってるの?」
 たかがカレシ。水戸くんの言葉に、さっちゃんは苦笑いしてたけど、日口さんとロメくんは冷めた目で僕を見ていた。
「仕事が辛そうなカノジョを支えるために家のこと完璧にしてたのは偉いよ?でも、内心追い詰められてたと思うよ『私はカレシに何もしてあげられない』って、絶対思ってたと思う」
 追い詰めてた?僕が?
「最後にデート行ったのっていつ?」
 鍋の上で膨らんだはんぺんを箸で取り皿に移しながら日口さんの問いに、僕は答えがすぐに出せなかった。
「その……上京して、まだハネちゃんが専門学生の時に、浅草とスカイツリーに行ったくらいで、あとはお家デートでした。俺、声優の仕事っていっても雑誌とか顔出しの仕事ばっかりだったんで、一緒に出掛けるのやめようってハネちゃんに言われて、その方がいいのかなって思って」
「彼女さんの方が危機管理できてるぅ!」
 ロメくんがハネちゃんを称えるようにそう言って、僕は自分の甘さみたいなものにやっと気が付いた。
「確かに、ハネちゃんの気遣いがなかったら、同棲してるのだってすぐにバレてたかもしれない。専門学生の時のハネちゃんは俺より変装上手で、髪型も服装もメイクも毎日バラバラだったし、俺のスキャンダルになりたくないが口癖だったけど、私生活で彼女を支えたいって思って何が悪いんですか!」
 ハネちゃんは僕を頼りにしたくなかったってことか?だけど、僕にとってハネちゃんは一緒にいてくれるだけでよかった。二人の時間が大好きだった。それじゃ駄目だったのか?
 またパクチーを飲み込んだロメくんが何気なく、僕のお皿にもパクチーを入れてきながらポツっと言った。
「一人になりたかったのかもよーん」
 え。と、声も出なかった。
「ロメの言うとおりだな。カノジョさん、家がゴミ屋敷になっても、洗濯物に埋もれても、冷蔵庫が空っぽでも、自分のペースで生きてみたかったのかもよ?」
 日口さんがそう言いながら僕にお酒を注いでくれた。
「真面目な人ほど人に頼らないところあんじゃん?全部千代くん任せの生活が申し訳ないとかそういう理由で追い詰めちゃったのかもよ?」
 さっちゃんに肩をポンと叩かれて首がグラグラした。
 僕は両親と兄に言われた『もう少しハネちゃんの歩幅に合わせなさい』の意味が分かった気がした。