【どうなったか】

 新幹線を降りて肺いっぱいに新潟の空気を吸い込んだ。
 五年経った今でも、私は働いていない。歯科技工士にはなれなかったんだと思う。もう入れ歯の作り方をちゃんと思い出せない。それに、セキュリティー対策がしっかりされたマンションの一室に、今も引きこもっている。
 眠れるときに眠って、起きられるときに起きて、無理矢理何かを食べる日々を送っている。急に死にたくなる日もある。何かしなきゃって焦ってしまう日もある。そんな日は料理だけする。定期的に届くようにした食材を思う存分調理する。
 プロカノジョなんてたいそうなことは何一つできていない。
 けど、文哉が帰ってきてくれるだけで、笑顔になれる。嘘。笑顔になれない日もある。自分ではどうにもできないくらい、暗くて歪な感情に支配されて、まともに文哉の顔を見れない時もある。
 そんな時でも、文哉は私を見捨てないし、ほおっておいてもくれない。ただ、視線が合うまで、私のことを優しく撫でてくれたり、アフレコの現場の話とかをしてくれる。オタク心の残っている私は、そういう話をきくだけで元気が出る。そうやって、文哉と視線を合わせると、泣きたくなるほど幸せになる。
 でも、どうしても鬱病になってから、鬱病になる前の私には戻ることが出来ない。
 多分一生治らないのだと思う。
「今年は雪少ないね」
 文哉の声がシンとした景色の中ではっきりと聞こえた。
「でも雪かきはしないとね」
「俺たちの宿命だもんね」
 私たちは手をつないで、濡れた駅の階段をゆっくり降りて、ロータリーに出た。フミアニの車を見つけ、近づくと後部ドアが自動で開いたので乗り込んだ。
「おかえり」
 フミアニはサングラスをかけていた。雪国だとよくあるファッションだけど、フミアニがサングラスをしていると、ちょっとやんちゃに見えるのは何故だろう。
「ただいま」
 私がそう言うと、文哉が手袋を取りながら「マジで今年のスケジュールは鬼だった」と言った。実際、今年の年末年始は帰れないんじゃないかってくらい文哉のスケジュールはパンパンだったと思う。年々忙しくなっている気もする。
「でも、昨日結婚発表したんだし、来年は仕事減ってるかもしれないじゃん」
 そうフミアニが言うと、文哉は嬉しそうに笑った。
「昔電話で言ったじゃん『ハネちゃんを幸せにするのは兄ちゃんじゃなくて俺だから』って」
「それ言われて俺はなんて言い返した?」
「言い返される前に切ったよ。兄ちゃんが俺になりすましてハネちゃんを襲おうとしたことだけは一生許さないから」
「弱ってる女の子程、可愛く見えるんだからしかたねぇだろ。でも、もうハネは義妹だからな。手はだせないな」
 フミアニが何処まで私に本気だったかはわからないけど、酔ったところに服を脱がされたことを墓場まで持っていくことは出来なかった。多分二年前くらいに鬱が酷い日があって、なんとなく文哉に打ち明けてしまったのだ。
 ちょっとショックは受けていたけど、別に文哉は怒らなかった。けど、フミアニを恨めしく思っているところが、まだ垣間見える時がある。
 五年前、私は文哉のお相手の一般女性になると決意したけど、結局、婚姻届けを出したのは二日前だ。
 もちろんネットニュースにもなったし、きっと五年前よりずっと世間から注目を浴びたと思う。文哉と仲の良い声優たちはみんなSNSでお祝いをしてくれたし、二日前の夜文哉は普段収録の一人ラジオを生放送にして改めて自分の言葉で結婚について報告もした。
 私もそのラジオを聴いていたけど、とても真剣な声なのにどこか嬉しそうで、涙が勝手に出てきた。
 私を離さないでいてくれてありがとうと、心から思った。
「もう俺の店、二階に全員揃ってるから」
「あ、兄ちゃんには先に言っておくんだけどさ」
「ん?」
「二階の円卓って七人しか座れないじゃん?」
「充分だろ」
「いや、もう一人増えるから」
「……それって、え、マジ?」
 フミアニは昔から本当に察しがいい。
「俺もついに本物のおじさんになるのか!」
「そう!兄ちゃんおじさんになる!」
「待て待て!じゃあ、母さんはおばあちゃんで、父さんはおじいちゃんか!」
「そう!」
 はしゃぐ兄弟を見ながら私はお腹を摩った。この子がお腹に宿ってからホルモンバランスが変わって、自分が鬱病だってことを忘れる日が増えた。産後鬱になったらどうしようとか、ちょっと不安になる日もあるけど、私は母親になる。
 大変で当たり前の日々が待っている。
 それが実は凄く楽しみで、今までは鬱を受け入れることばかり考えていたけど、少しだけこの気持ちと戦ってみたいと思った。
 だって私は母親になるけど、同時に文哉もパパになるのだ。なんかそれだけで勇気を感じる。
 家族への愛がどんどん大きくなっていく。
 時々、何もかも捨てて死にたくなることがなくなったのは、家族のおかげだ。これだけは絶対的な真実で疑うことは何一つない。
 私は仕事は上手くいかなかったし、過労で倒れたり、鬱病と診断されたり、たまにこのまま生きていてもいいのかなって思ってしまう日もある。
 でも、それは違う。
 超人気声優の妻として、頑張れることは少ないかもしれない。
 それでも自分と向き合っていきたい。
 私は私のことをもっと知りたい。
 そしていつか自分を理解してあげたい。
 どうかそんな日が樹るように、今は願い続けていた。
「文哉、ありがと」
 車の中で私は眠った。
 家に帰ったら今年だけ雪かきを文哉にしてもらおうと思った。