【一般の女性の覚悟】

夜の二十二時。東京はどこもかしこも明るい。
 家はきっと週刊誌の人とかコアなファンにバレているのかもしれないけど、私たちが借りているのは一軒家の二階部分。一階が大家さん夫婦やその娘さんや息子さんがたまに出入りすることもあって、千代文哉の家の特定率はかなり低い素晴らしい物件だと思う。
 だから、私もキャディーケースを引きずって、堂々と一階の玄関から家に入った。
 二階に登るとまだ文哉は帰ってきていないのか、それとも寝てしまっているのか、部屋は電気が付いてなかったけど、鍵は閉まっていた。
持っていた鍵で久々に部屋に入ると、エアコンがついていて暖かい真っ暗の部屋のソファーで文哉が寝ていた。
月明かりで顔の輪郭がはっきり見えて、美しいなぁと思った。美という漢字は文哉の為にあるのかもしれない。なんて大袈裟なことも考えた。
机の上には台本四冊と蛍光ペンがあって、台本の表紙を見て驚いた。全て知っているアニメやゲームだったし、劇場版の分厚い台本も紛れていた。
私は一応隣のビルの壁しか見えないカーテンを閉めた。
「え?」
 カーテンを閉めた音で、文哉が起きた。
「ただいま」
「おかえり。え?」
「帰ってきちゃった」
 文哉は飛び飽きて、ダッフルコートを着たままの私にしがみつくように抱きしめてきた。
「言ってよ。魔法使えたのかと思った」
 デーブルの上によく見ると台本と私が贈った魔法の杖が転がっていた。
私は文哉のブルべ肌の頬を強くつねった。
「うぁ~。痛―い。ちゃんと痛いぃ!」
「あのね文哉。きいて。私、明日、心療内科に行ってくる」
「うん。行ってきなよ。ついでに歯医者も眼科も内科も外科も全部行ってきなよ」
「なんでよ」
「だって、やっぱり全然元気ないってすぐわかるもん」
 そうだろうか。私は、そんなに元気がなく見えるのだろうか。
「でもやっぱりいいや。健康じゃなくたっていい。俺が笑顔にさせるし、眠れなかったらいくらでも一緒に起きててあげるし、食欲ないならその分俺が食べるし、毎日だって晩酌にだって付き合うから。もう、俺のモノになってよ」
「それで本当にいいのかな。文哉のファンがもし、私がメンタル病んでて、普通の生活を過ごすのも大変な奴だって知ったら、頭に来るんじゃないかな」
「ハネちゃんは、どうしていつも100%しか目指さないの?八割ぐらいでいいじゃん」
「じゃあ残りの二割から文哉が攻撃されたら、私はどうしたらいいの?何かできることないの?何もしちゃいけないの?」
「なにもしちゃダメ。なにも考えちゃダメ。ハネちゃんは何も背負う必要ない。俺がなんとかするの」
 いつの間にか文哉は鼻水を必死に鼻で吸い上げていた。
「泣いてるの?」
「まだギリギリ泣いてない」
「偉いじゃん」
「明日オーディションだから目を腫らしていくわけにいかないもん」
「なんのオーディション?」
「プロヴォイスプロジェクト」
「まじか!」
 ついにアニメ化するんだ。まぁアニメ化すると思っていた大好きな漫画だから、何かしらの役を文哉に奪ってきて欲しいと思った。
「主人公で受かったっら結婚して」
「なんで結婚にこだわるかなぁ」
 どうしてだろう、まだ言ってるよって感じの溜息がつきたかったのに、まだそう言い続けてくれるんだって安心した溜息が出た。
「だって俺、声優だもん。普通じゃないんだもん。一般男性にハネちゃんがとられるの嫌なんだもん。それにさ、フミ家とハネ家の家系図をくっつけたいのよ。兄ちゃんじゃなくて、俺とハネちゃんで家族になりたい」
 この誠実な気持ちに、誠実じゃない答えを返すのは多分天罰に値する気がする。
私は抱き着いたままの文哉を抱き返し、ゆっくり静かに二人で沈むように床に座った。
「もしも、結婚したとして、現段階で諦めて欲しいことがあるの」
「なに?」
「今の私には『やる気とか元気とか』そういうのが若さとか根性でどうにかならないところまで来てる。だから、何もできない日があるかもしれない」
「例えば?」
「食事、睡眠、それから何故かお風呂に入りたくない。太陽の光も浴びたくない。動きたくない。一日中ベッドで寝ていて、アニメを見ていたい。でも、アニメを見る体力もない日がある。それでもお酒がやめられない。ネットで酎ハイ九十缶セット注文して、一日に飲めるだけ飲んでしまうかもしれない。これから心療内科に行って色んな薬を処方されるかもしれない。だから、子供をつくるのを諦めて欲しい」
「こども?」
「うん。こんな私が妊娠したらどうなるかわからない。お腹の子供に恨まれるような生活しか出来ないかもしれないし、産んでからも、責任をもって子育てできる気がしない。自分のことも上手くコントロールできない私が、一瞬でも目を離したら死んでしまうような存在の面倒を見ることは、今の私には出来ない」
「そっか。別にいいよ」
「え、ほんとに?」
「俺だって仕事ばっかりでいいパパになれる自信今はない。それに、俺たち二十二歳だよ?まだまだ考える時間もやり直せる時間も努力する時間もいっぱいあると思う」
 文哉の言葉に、何故か勝手に目から何粒も涙が汗のように流れ落ちた。
「ねぇハネちゃんは知ってた?鬱病はね脳の病気なんだよ」
「心の病気だと思ってた」
「胸が痛くても、心の場所は脳にあるんだよ」
「そうなんだ」
 背中にあった文哉の手が、私の頭をゆっくり撫でてきた。
「治らなくたっていいよ。脳の病気だって言っても手術じゃ治らないんだって」
「治らないんだ」
「うん。治らないよ。よくなるかもしれないけど、治らないよ」
 絶望を突きつけられなのに、文哉の胸の中にいたら、なんかそれでもいいなって思った。スマホで毎日、鬱のなおし方を一生懸命調べていたけど、やっぱり文哉が私にとって一番のお薬だ。
「明日、病院に行っておいで」
「うん」
 そう言って私は、残してくれていた私の部屋のベッドに横になった。
 随分使っていなかったのに私の匂いがした。