暖かな陽が射す三月の初旬、沢田利彦は「鍼灸マッサージ 加納治療院」の看板のある家のインターホンを押した。そこは普通の住宅で、おそらく部屋の一つを施術室にしているのだろうと思った。
利彦は最近背中に痛みを感じるようになった。仕事は「荷揚げ屋」と建設業界で呼ばれているもので建設現場に内装用の石膏ボードを搬入する仕事だった。おもに3尺(さぶ)×6尺(ろく)の厚さ九ミリ、もしくは十二ミリの石膏の板を4枚、時には6枚以上両手で持ったり背中に抱えたりして運ぶ。階段を上ることもある。
鹿児島で育ち、高校卒業後東京の寿司店に就職したが肌に合わず職業を転々とした。今の仕事はスマートフォンの求人アプリで知ったのだ。日当がいいと思って始めた仕事だが思ったよりきつい仕事で次第に体が悲鳴を上げるようになった。背中が痛いと先輩に言ったら言われた。
「早く治療に行くんだな、今に腰に来るぞ」
どんな治療がよいか訊くとマッサージと鍼を薦められた。利彦は事務所へ行く途中車でこの治療院の前を通るのでここにしようと思い、仕事のない今日訪れたのだ。
ドアが開き、初老の女性が顔を出した。
「何の御用でございましょう」
そっけない挨拶に利彦の気は沈んだ。治療院の看板があるのだから治療を受けに来たのだとわからないのだろうか。それともまだ二八歳の自分は治療を受ける歳とは思えないのだろうか。
「背中が痛いのでマッサージを受けたいんです」
鍼はまだ必要ないと思った。マッサージだけでも数千円はかかるだろうから。
「今日は施療できますがこれからは電話で予約を入れてください。施療は娘一人でやっておりますので」
意外に思った。治療院という名から男であれ女であれ年配の人が施療していると思ったからだ。この人の娘だとすると自分と同じくらいの年齢か。利彦はどんな女か関心がわいてきた。
案内された部屋のドアを開けると施療台があった。あと鍼灸の道具などが入っているらしい戸棚。
「少々お待ちください」
母親が会釈して去って行った。部屋には大きな窓がありそこから庭が見えた。大きな広葉樹があった。利彦は施療台に腰かけた。
ドアが開き白衣の若い女が入って来た。白杖は持っていなかったが動作から盲目であるようだった。長い髪は後ろで結んである。綺麗な顔立ちだなと利彦は思った。
「マッサージでしたね」
「はい」
女は利彦のシャツに触れた。
「今日はパジャマとかルームウェアとか持ってないでしょう?」
「はい」
「以後当院で施療を受ける際は持ってきてください。柔らかな薄地の服が施療しやすいのです」
「今日はどうすればいいですか」
「服を脱いで下着だけになってください」
利彦は上着を脱いだ。ズボンの下はボクサーパンツで、目が見えないとはいえ若い女の前でそれをさらすのは恥かしかった。
「バスタオルをかけますから大丈夫です」
女は利彦の思いを察したように言った。施療が始まった。テレビもラジオもない静かな部屋で若い女性に身体を触られるのは不思議な気分だった。
「けっこう凝ってますね」
「そうですか」
「鍼もした方がよいと思います」
女の本心か金儲けの為かわからない
「でもそうすると施療代が加算されるでしょう」
女は笑った。
「そうですね、加算されます」
加算という言葉が大仰に聴こえたのだろうか。ともあれ鍼も頼むことにした。せっかく来たのだから完全に凝りや痛みを解消したかった。
施療が終わり母親が会計をした。言われた金額を利彦は払った。思ったより高額になったが仕方がない、それに綺麗な女と知り合えて満足だった。施療の後、女は名刺を差し出した。「鍼灸マッサージ 加納治療院 加納詩織」と印字されていた。名前の左上に小さく「あん摩マッサージ指圧師 はり師 きゅう師」と添えられている。電話番号もあり、括弧書きで要予約とあった。
(詩織という名前か)
「よろしければまたいらっしゃってください」
鍼とマッサージの効果は絶大だった。翌日利彦は体のどこにも凝りや痛みを感じなかった。そのことを先輩に告げると先輩は言った。
「調子が良くても月に一度はマッサージに通った方がいいぞ。じきに凝りや痛みがぶりかえすからな」
確かに仕事が続くとまた体のあちこちが痛み出した。だから翌月に利彦は再び治療院へ行った。身体の凝りを取りたいという思いもあったが詩織に逢いたいという思いの方が強かった。詩織の母に言われた通り電話で予約した。
施療の日、インターホンを押すと母が出て、いらっしゃいといった。慇懃無礼というか、にこりともせず施療室に案内された。リュックにルームウェアを入れてきたので着替えた。詩織が入ってきてこんにちはと言った。前回同様、マッサージと鍼をしてもらった。それからひと月に一度利彦は施療に訪れた。車で通り道沿いの小学校の桜が満開になり、やがて新緑となった。
いつも家は詩織と母とふたりだった。父親に逢ったことがない。もしかしたら亡くなったのだろうかと思ったがそのことを訊くのはためらわれた。通うごとに詩織の母は利彦に親しげになるのだった。ちっとも笑わないのはいつも通りだったが。施療の後お茶をどうぞと言われたり、あなたの故郷はどこですかと訊かれたりした。あまり流行っているとも思えないこの治療院で、自分は好い客なのだろうと思った。
どうやら詩織はまだ独り身のようだった。結婚していたとしても利彦が治療に来るのは平日だから夫は仕事で出ていて当然なのだが、一台しか入らないカーポートはいつも白い軽自動車が置かれており母が不在の時車はないのだった。夫は運転しないのかもしれないが詩織との会話の中に夫の話題は出なかった。
次第に利彦に打ち解ける母を見て、まさか詩織の母は娘を自分と結婚させようと思っているのではないかと思ったが、そう考えると悪い気もしなかった。盲人の彼女が料理できるのかわからないが手伝うくらいはできる。利彦は割烹料理店に勤めたこともあった。先輩と相性が合わず、ほどなく辞めたが包丁の使い方くらいは学んだ。
「沢田さんのお仕事ってなんですか」
何度目かの施療の時詩織が訊ねた。
「荷揚げ屋、っていうんですけど、ビルやマンションの新築現場で、壁や天井の内装下地の石膏ボードを運ぶ仕事です。一枚10kgから13kgぐらいの板を一度に四枚から六枚運ぶんです」
だからしょっちゅう身体が凝るのね、と言った。最近少し親しく話せるようになったので利彦は
「先生は何歳ですか」
と訊ねた。詩織のことをどう呼べばいいかわからなかった利彦は、つい先生と言ってしまった。
「女性に年齢を訊くんですか」
と笑ったが、三十歳よ、と答えた。
意外だった。自分より二つ年上だったか。しかしそんなことはどうでもよかった。施療の後利彦は思い切って
「今度の日曜日にドライブしませんか」
と誘った。利彦の車は中古の軽自動車で、デートするにはみすぼらしかった。だがどうしても詩織とドライブしたくなったのだ。
「沢田さん」
「はい」
「いままで訊ねはしませんでしたが、あなた独身ですか?」
あっと利彦は思った。もし自分が妻帯者だったら、あきらかに詩織と不倫をすることになる。
「僕は独身です」
「恋人は?」
「今はいません」
「じゃ、以前はいたのね」
言われて利彦は口を閉ざしたが、
「失礼ですけど、先生は?」
と問いかけた。
詩織はしばらく黙っていたが、独身(ひとり)です、と言った。
「どこへドライブに行くつもりですか」
「海を見に行きませんか。都心(ここ)から車で二時間ほど西へ行った海岸へ」
「そのあとホテルへ入るの?」
利彦ののどがぐっと詰まってしまった。そこまで考えてはいなかった。答えられずにいると詩織が笑った。
「いいですよ、連れて行ってください」
それじゃ、最寄りの駅で待ち合わせましょう、というと詩織は
「家まで迎えに来てください」
と言った。
「でも、それでは」
と言いかけて利彦は口を閉ざした。自分があなたを迎えに家まで来ると、あなたのお母さんは僕が視覚障害者のあなたの心も身体もオモチャにしようとしていると思うのではないかと訊ねようとしたのだ。だがもちろんそんなことは言えないとすぐ気付いた。わかりましたと言い利彦は詩織の家まで迎えに行くことにした。
日曜日利彦は車で詩織の家に行った。六月の中旬で梅雨に入ったようだが空は青い。約束の時間きっかりに玄関戸を開けると詩織は框に腰かけていた。白のブラウスに水色のロングスカート、ストローハット。白杖を手にしていた。白杖を持つ詩織を見るのは初めてだった。立ち上がる詩織の後ろに立つ母が、
「利彦さん、よろしくお願いします」
と言った。
利彦は詩織の母が自分の下の名前を知っていることに少し驚いた。
そういえば何度目かの施療の時利彦は、詩織って名前は誰がつけたんですかと訊いた。すると彼女は小説好きの母が付けたのよ、と言った。詩を織る、ことばをつむぐ、そういう意味で。ここでも父親の話は出ない。
利彦は、僕の名前は父が利夫なので一字取って利彦にしたんです、と言った。詩織はそれを覚えていて母との会話で自分が話題になった時「利彦さん」と言ったのだろう。それがどんな会話だったかはわからないが。
だがしかし、と思った。自分が娘とドライブするのだから、ある意味娘の命を男に預けたようなものだ。事故に逢わないとは限らないし、もしかして娘の処女(に違いない)を奪われるかもしれない。それでもいいのだろうか。
利彦は玄関を出た詩織の左手を持った。右手は白杖を持っている。
「利彦さん」
詩織も利彦さん、と呼んだ。
「右腕をあなたの身体に密着させて。そして肘を直角に曲げてください」
言われたとおりにすると詩織は利彦の右ひじの上を握った。
「あなたの腕があなたの身体に密着していると視覚障害の人は安心するの」
車を走らせ高速道路へ向かった。暑からず寒からずの天気で利彦はエアコンを切って車の窓を少し開けた。
「利彦さんの故郷は鹿児島でしたね」
「うん」
「きょうだいはいらっしゃるの?」
「兄が一人」
「どうして東京に出てきたの?」
利彦はしばらく無言だった。
「東京へ来ればいいことあるかなと思って」
「いいことあった?」
「全く無いことはなかった」
「どんないいこと?」
「君と知り合えた」
詩織はふっと笑った。
高速道路を走ってしばらくすると海が見えてきた。
「潮の香りがするわ」
嗅覚が優れているんだなと利彦は思った。
サービスエリアで休憩し、再び車を走らせる。詩織の家を出て二時間が過ぎインターを抜けた。下道を二十分ほど走り海水浴場に着いた。駐車場に車を止め降りる。車を出た利彦が助手席のドアを開けた。詩織に言われたように腕を体につけ詩織に肘上を握らせた。シーズンオフの海岸に人気はない。青い海、静かな波音。空は晴れ渡っている。遠くに松の木が並んでいる。白砂青松とはこのことだと利彦は思った。砂浜を二人は歩いた。
「シートを持ってくればよかったな」
利彦はジーパンにシャツだが着飾った詩織を砂浜に座らせるわけにはいかない。
「私、もってきたの」
詩織は手提げバッグからシートを出した。砂浜に敷き、並んで座った。静かな波の音。
「昼ごはん、どこで食べようか」
「ここで」
「えっ」
詩織は笑い、やはり手提げバッグからタッパーを出した。
「おにぎりと厚焼き玉子、トマドサンド、おしぼりも持ってきたわ」
バッグからナイロンの袋に入った濡れタオルを出した。
「君が作ったの?」
詩織はまた笑う。
「これぐらい作れるわ。母のヘルプはあったけどね」
そういうと彼女はまたバッグから缶コーヒーを出した。
「お茶の方がよかったら水筒にあるわ」
「いや」
利彦は詩織の手から缶コーヒーを取りプルタブを引いた。
「海は久しぶりだわ。ちっちゃいころはよく母に連れて行ってもらったんだけど」
「お父さんとは?」
詩織は返事をしなかった。まずいことを訊いたかなと思った。
利彦はタッパーからサンドウィッチを取り頬張った。
「詩織さん」
「さん付けで呼ぶの?」
利彦はとまどった。詩織と呼ぶほどお互いの距離は縮まっているとは思えない。まして彼女は年上だ。
「じゃ、やっぱり先生だな。あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師、加納詩織先生」
「やめてよ、じゃ、さん付でいいわ」
また笑う。今日の詩織は今までになく明るい表情だった。
「ラブホテルへ行くのかって、言ったじゃない」
「ええ」
「本当に行っていいのかな」
詩織は見えない眼で海を見つめた。
「その返事を女性にさせるの?」
俊彦は口をつぐんだ。
利彦には苦い経験があった。二十歳のころ、当時付き合い始めた彼女と二回目のドライブでラブホテルに行こう、と言ったのだ。 女は、二回目のデートでホテルなんて早いわ、と言い利彦もそうだなと思いホテルの前を通り過ぎた。彼女の家に送った時、女は小声で、意気地なし、と言って車を降りた。それ以来その女とは疎遠になってしまった。
食事を終えると詩織は白杖を折りたたんでバッグに入れ立ちあがった。
「歩きましょうよ」
利彦が驚いた。
「大丈夫なの?」
「平気よ、回りは誰もいないんでしょう?」
立ち上がると詩織は海岸線に平行に歩いた。波の音を頼りに歩いているようだった。利彦さん、と彼女は左手を差し出した。利彦は詩織の左手を持ち肘の上を握らせた。
「そんな握り方は嫌。恋人みたいに掌を握らせて」
詩織は左手を利彦の肘から滑らせ、掌を握った。風で彼女の髪とスカートがひらひら舞う。
車を走らせ意を決してインター手前のラブホテルに入った。
ガレージに車を入れると利彦は車を降り、シャッターのスイッチを押した。ガラガラと音がしてシャッターが降りるが詩織は無表情だった。階段を上り(詩織は白杖で階段を軽く叩きながら登って行った)ドアを開け中に入った。利彦は詩織をソファに座らせバスに湯を入れた。この場になって、もし拒まれたら、せめて広い浴槽に一人で浸かろうと思った。レイプする気などなかった。脱衣場を出て詩織の横に座り、肩を抱き寄せた。詩織は顔を利彦の肩にくっつけた。
しばらくすると詩織は顔を起こしブラウスのボタンをはずしていった。ブラウスを脱ぐと丁寧に畳んで横に置いた。
「一緒にお風呂に入りましょう」
詩織はブラジャーを取りスカートを脱いだ。利彦はあっけにとられたがハッと気づき急いで服を脱ぎ始めた。パンティを脱いだ詩織が私の身体を見て、と言った。
「私は自分の身体を見れないから。どう、きれい?」
利彦は詩織を抱きしめた。
二人は風呂から上がると体を拭きベッドに入った。利彦は詩織を抱きしめ唇を重ねた。乳首を指でつつくと息が荒くなった。その指を滑らせ詩織の秘部に触れると、あっと小声で叫んだ。もう濡れてきたのか指が簡単に入っていった。絶頂を迎え利彦は詩織の中へ入って言った。
それからしばらく二人はベッドで手を握りあった。
「利彦さん」
「何?」
「私のこと愛してる?」
思いがけない問いかけに利彦は戸惑った。詩織という女に関心がなかったわけでなく、むしろ惹かれたからこそドライブに誘ったのだが、愛しているかと訊かれたらそうだとすぐには言えない。
「うん、愛してるよ」
言いつつ利彦は、嘘をついているかなと思う。
「ありがとう、もう一度キスして」
利彦は詩織の背中に手をまわし唇を重ねた。
帰るころは日は傾きかけていた。家まで送ると車を降りた詩織がにっこり笑った。
「利彦さん、今日は愉しかったわ、ありがとう」
それからひと月後、利彦は施療を受けに詩織の家に行った。施療後玄関に向かう利彦を詩織の母は、ちょっと、と言って応接室に招いた。母は一旦部屋を出るとしばらくしてまた入って来た。トレイを持っていた。トレイにはコーヒーの入ったカップが乗っている。利彦にコーヒーを差しだし利彦の向かい側に座った。
「沢田さん」
利彦への呼びかたが「利彦さん」から「沢田さん」に変わった。
「あなたは娘のことをどう思っていらっしゃるのですか」
予想しなかった質問に利彦は戸惑った。
「とても優秀な、あん摩マッサージ師であり、はり師だと思います。お灸はしてもらってないのでわかりませんが、きっとその方も優れているでしょう」
「それだけですか」
「……視覚障害があっても日常生活はこなせるし、経済的にも治療院を開業しているし、立派だなと思っています」
「沢田さん」
詩織の母は利彦を見据えて行った。
「私は詩織を女性としてどう思うか訊いているのです」
参った、と思った。
「素敵な女性だと思います」
利彦は端的に答えた。
「ならばあなたは今後娘とどういう付き合いをしていくおつもりですか」
「結婚」の二文字が浮かんだ。利彦は言葉に詰まった。今更ながらお互いの家柄を考えたのだ。
自分は実家が鹿児島の燃料店で二人兄弟の弟、だから実家を継ぐ必要はない。しかし仕事は荷揚げ屋で、それ自体は立派な仕事だと思っているが体力的にいつまでもやっていける仕事ではない。そろそろ別の仕事も考えなければ。今の自分は、いやな言葉だがフリーターだ。
「私は沢田さんに娘を貰ってほしいと思っています。あなたは次男さんだそうだし、この家に婿養子に来ていただけたらと思っております」
意外な言葉に利彦は驚いた。
「娘にはいい縁談は来ないと思うのです。キズモノですから」
「えっ!」
詩織の母はふっとため息をついた。
「高校生の時、男たちに輪姦されたのです。日の短い冬、盲学校からの帰り道でした。男たちは人通りの少ない道で待ち伏せしていたのです。娘は男達にワゴン車で連れ去られて、廃ビルで犯されました。
連れ去られる時白杖を落としたのです。後で通った盲学校の近所の主婦が見つけて。視覚障害者が路上で白杖を失ったら大変だとすぐ学校に電話してくれました。白杖には娘の名前が書いてあったので、娘の身に何かあったのではと大騒ぎになり学校側が警察に電話したのです。
夜遅く娘は発見されました。廃ビルで横たわっていました。両手は粘着テープで縛られ、ブラウスは引きちぎられ、スカートも下着も切り裂かれていました。警察は即座に娘を病院に連れて行きました。私は避妊の処置はとってもらいましたが警察の娘への聞き取りはお断りしました。第一娘は目が見えませんから男たちの声は覚えていても姿かたちがわかりません」
母は淡々と語った。
「それ以来、下校は私が付き添いましたが、すっかり娘は心を閉ざしてしまいました。鍼や灸の資格を取っても就職せず個人で開業いたしました。あなたがこちらへ来るようになってからすこしずつ娘は明るさを取り戻していったのです。娘はあなたに恋していると思います」
利彦が口を開いた。
「考える時間をください、それと、今の話を受け入れるにせよそうでないにせよ、今後も施療を受けにきてもいいですね」
「ええ」
母と別れた後利彦は無性に詩織に逢いたくなった。自分でもおかしいくらいだった。
土曜日利彦は詩織の携帯に電話した。日曜日に公園へ行こうと言った。ただし今回は詩織の家でなく駅で待ち合わせたいと言った。詩織の家から駅は徒歩で十分ほどで、慣れているから一人で行って、電車も一人で乗るというのを聞いていたのだ。だからドライブの時も駅での待ち合わせを提案したのだった。なぜか詩織は反対しなかった。
当日駅で合流した二人は電車に乗り、公園に近い駅で降りた。梅雨明けの夏空に太陽の光がまぶしかった。広葉樹の並ぶ公園を歩いた。いつかのように詩織は左手で利彦の右肘を持った。右手は白杖を持っている。二人はベンチに腰かけた。
「どうしてドライブに行くときは家まで迎えに来てって言ったの?もちろんそれは構わなかったんだけど。お母さんが僕を快く思っていなかったんじゃなかったかと思ってさ」
ふふと詩織は笑った。
「最初のデートのときはお母さんに彼氏を紹介したかったの。でもそれより前に利彦さんはお母さんに逢ってたんだけどね」
すると自分とのドライブが彼女の初めてのデートだったのか。
「じゃ、今回駅で待ち合わせたのに反対しなかったのは?」
「おとなの恋は秘密の恋よ。お母さんには内緒」
そういって詩織は笑う。
「じゃ夕飯前には帰らないといけないよね」
またふふと、詩織は笑う。
「母に電話します。今日は利彦さんの部屋に泊まると」
ファミリーレストランで食事した後二人は利彦のアパートに入った。ベッドはなく万年床だ。作業ズボンやタートルネックシャツが畳の上に散らかっている。急いでそれらをどけ、詩織が座るスペースをつくった。
不思議な女性だ、と利彦は思った。大人の恋は秘密の恋と言いながら母に男の部屋に泊まると電話する。母が反対しないのは自分に娘を貰ってほしいからかもしれないが女も節度というものがあるはずだ。
利彦は冷蔵庫から缶ビールを出した。
「ビール飲める?」
「少しなら」
「飲んだことあるの?」
「母が好きなの。お付き合いでおちょこに注いでもらって飲んだわ」
それじゃと利彦はコップにビールを注ぎ詩織に渡した。詩織はビールを少しだけ舐めた。
「利彦さん」
「何」
「私が、はじめての、おんな?」
「今までに何人か彼女がいたな」
詩織は少し黙った後口を開いた。
「利彦さんがはじめて抱いたおんなは私?」
利彦は答えに困った。付き合った女性と性的関係はなかったが利彦は数回ソープランドに行ったことがあった。
「愛する女性としてセックスしたのは、君が初めて」
「じゃあ愛してない女性とセックスしたことがあるのね」
利彦は返す言葉がない。
「私のことは愛してるのね?」
「ああ」
詩織はふっとため息をつく。
「ありがとう、そしてごめんなさい。私みたいなけがれた女を、おんなにしてくれて」
詩織が乱暴されたことは彼女の母から聞いて知っている。
「きみはけがれてなんていないよ」
「母は結婚していないのよ」
意味が解らない。
「私は母と伯父……母の姉の夫との間にできた子なの」
「えっ」
「伯母、つまり母の姉の結婚後、母は大きな出版社に勤める伯父を誘惑したの。そして私を身ごもったら伯父を脅迫したの。おなかの子の父であることを認知しなさい。でないと姉と出版社に何もかも話しますよ。週刊誌にも話しますよと。
その出版社は当時話題作を次々と出して映画化された作品もあったのよ。そんな時だから編集者の浮気が書かれたら大変なことになるわ。
伯父は母と約束を交わしたのよ。私の父であることを認知し、月々養育費、まあ生活費よね、を払う。支払いは振り込みとし振込明細書は保管しておく。その代り母は私の出生の秘密に関しては他言しない。もしメディアに知らせたら母を恐喝罪で訴えると。明細書を見せれば間違いないからね。
母はそういう魔性を持った女よ。はたからみたら華道と茶道を教えているつつましやかな女性に見えたでしょうけど。まあそれは私が開業してからはやめちゃったけどね。母は自宅で教えてたから。
今の話は伯父から聞いたの。そして私は伯父に犯されたのよ」
「何だって」
詩織はビールを一口飲んだ。
「中学一年の時よ。おそらく母は月々の養育費のほかに別のお金を求めたのだわ。いけ花展で母が不在の時を見計らって伯父が来たのよ。お前の母親はとんでもない欲ぼけババアだなと。そして今の話をして、私を押し倒したの。伯父は実の娘をレイプしたのよ」
高校生の時よりも前に一度レイプされていたのか。
「でも仕方がないの。私はそういう運命だったのよ。神様がそういうふうに私の人生を仕組んだんだわ。盲目にしたのも、レイプされたのも」
「自分を卑下しちゃいけないよ」
「利彦さん」
「何」
詩織は利彦の背中を指でなぞった。「あいしてる」と書いたように思えた。寝ましょう、といいシャツとブラジャーを脱いだ。詩織の乳首を見て利彦はドキッとした。前に一度彼女の裸は見たはずなのに。
「Tシャツ貸してくれませんか」
利彦は衣類の入ったボックスを開けTシャツを渡した。詩織はスカートを脱いだ。パンティがむき出しになった。
「下は?」
「このままでいいわ」
詩織は布団に寝そべった。
「利彦さん、抱いて」
利彦は横たわる詩織を抱いた。
「輪廻転生って、信じる?」
「え?」
「生まれ変わりのことよ。私は死んで生まれ変わって、利彦さんの子供になりたい」
「死ぬなんて言わないでよ」
「こんな人生終わりにしたい。私は利彦さんの子供になりたい」
利彦は詩織と夜通し抱き合った。
翌朝利彦は車で詩織を家まで送った。家に入るとき詩織はなぜか「さよなら」と言った。
数日後利彦は詩織の家にマッサージの予約の電話を入れた。母が出た。利彦は予約をお願いしますと言った。
「詩織は亡くなりました」
利彦は声が出なかった。
「あなたのアパートから帰った日の夜、台所の包丁で首を切って死にました」
詩織は自殺したのか。
「そのことであなたに渡したいものがあります。家へ来てください」
翌日仕事を終えた利彦は詩織の家に行った。ドアを開けた詩織の母がどうぞ、と手招きした。
母は階段を上っていった。ドアを開けた。
「詩織の部屋です」
ベッドとタンスと机だけの質素な部屋だった。
「これを」
母は机の上の封筒とA4の紙を差し出した。紙には「この手紙をとしひこさんにわたしてください」と印字されていた。詩織が打ったのだろう。視覚障害者でもパソコンが使えるとテレビで見たことがあった。
「利彦さん」
母の呼びかたがまた利彦さんになった。
「お時間ありますか」
「少しなら」
時刻は午後八時を過ぎていた。母はにっと笑った。気持ち悪い笑顔だった。
二人は階段を降りた。母は奥の部屋へ利彦を導いた。襖を開くと畳に布団が敷かれていた。枕元に男の陰茎を模した大人のオモチャがあった。母が利彦に抱き着いてきた。利彦は母を突き放し、走って家を出た。
(あの女は、俺を婿養子に迎え入れて、関係するつもりだったのだ)
アパートに帰り封筒の封を切った。やはりA4のコピー用紙に印字されていた。
としひこさん。私を愛してくれてありがとう。私にとってあなたが初めての異性でした。でも私のようなよごれた女はあなたに愛される資格はありません。
私は死にます。死んであなたの子供として生まれ変わります。
それまでしばらく待っててね。
しおり
利彦は手紙を封筒に入れた。携帯が鳴った。兄からだった。
「すぐ帰ってこい、親父が危篤だ」
父の葬儀後利彦は東京のアパートを引き払い鹿児島で兄とともに家業の燃料店を継いだ。一年後、紹介された女性と結婚した。
やがて妻は妊娠し、女児を産んだ。利彦は娘を詩織と名付けた。
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