中学時代も、親は私に酷い言葉を投げかけた。

 虐められるお前が悪い。

 何度そう言われたことか。



 最初はそう思った。私が悪いから虐められるんだと。

 だけど、そうじゃないってことを教えてくれた人がいた。

 桜川工業高校のおじさんだ。





 ある雨の日。
 傘を差しながら、中学校の裏門付近に座っていた。

 そこにやって来る、いつものおじさん。
 おじさんは私の姿を見るなり「は?」と声を上げ、小走りで駆け寄ってきたのだ。


「お前馬鹿か……。傘差してまでそこに居る意味あるかよ」
「……おじさんには分からないと思います。私の気持ちなんて、誰にも分からない」
「……」
「私なんて、死ねばいい」


 小さくうずくまり、アスファルトに落ちてくる雫に目を向ける。

 着地すると同時に飛び散る雫が何とも儚く見えた。私も高いところから飛べば、この雫のように飛び散るのかな……なんて。その頃の私は、やり場のない思いから自殺願望を抱いていた。


「馬鹿だな……。自分を大切にしろ」
「意味が分かりません。誰からも必要とされていない私は、死ねばいい」

 おじさんも私と同じように傘を差して、ポケットからタバコを取り出していた。傘を差してまで吸いたいタバコって……一体なに。

「……お前の事情は分からんけど。誰からも必要とされないってことは無いと思う。今は独りぼっちかもしれないけど、生きてりゃいつか、お前のことを必要としてくれる人に出会える」
「そんな人、絶対にいません」
「……」
「親にすら見捨てられた私。誰が必要とするの」
「…………」

 つい、涙が零れた。
 おじさんの前で泣くなんて最悪だ……なんて考えながら、溢れ出る涙を制服の裾で拭う。いっそのこと傘なんて閉じてしまおうか。そうすれば、涙か雨か……分からない。

 そう思い傘を閉じて、その場で立ち上がる。そして徐に歩き出すと、おじさんが「あ、待て」と声を上げて、中学校の敷地の方に入って来た。勢いよく私の腕を掴んで、歩みを止めさせる。


「……お前、名前は?」
「…………柊木綾香」
「柊木か。分かった。お前1日1回、ここで俺の話し相手になれ。今のお前を俺が必要としている。寂しんだ、ここで1人タバコを吸うのが」
「……」


 嘘だ。
 率直にそう思った。


 けれど、そんな嘘ですら……ほんの少しだけ、喜びを感じる。単純な私。

 おじさんを睨むように見つめて、ゆっくりと頷き言葉を発する。

「……考えときます。てか、私も名乗ったんだから。おじさんも名乗って下さい」
「あ、あぁ……そうだな、ごめん」

 私の腕から手を離して、おじさんはタバコを片付けた。そして脇で支えていた傘を手に持ち、そっと私の方に傾ける。
 長い前髪、黒縁の眼鏡。背の高いスーツのおじさん。ニヤッと口角を上げて、名乗ってくれた。


河原(かわはら)啓治(けいじ)。高校の数学教師だ」



 その日から本当に1日1回、おじさんと境界付近で色々な会話をした。

 家でも学校でも誰とも会話をしなかった私。最初は躊躇ったものの、慣れてくるとおじさんとの会話に楽しみを見出せるようになってきた。


 おじさんは沢山の話をしてくれた。
 少し前までタバコを1日40本吸っていたけど、今は1日1本まで減らしたとか。そのきっかけは、前に居た高校で生徒にタバコへの興味抱かれたからとか。骨折した中学生を助けたことがあって、その人と高校で再会して担任をしたとか。

 何となくだけど、おじさんの話に出てくる“生徒”って、全て同一人物のような気がした。

 それで、ある日聞いたんだ。

「……おじさん、その生徒さんって全部同一人物ですよね」
「は?」
「てか、おじさん……好きですよね。その生徒さんのこと。表情が違います」
「……」

 一気に顔が真っ赤になったおじさんが何だか面白かった。どうやら図星だったみたい。

 おじさんは思わず歯を食いしばって、タバコを噛み潰していた。そしてふぅ……と小さく息を吐き、今度はニヤッと笑う。

「……ったく、正解だよ。……俺はその生徒のことを沢山泣かせてきた。想いを寄せてくれていたのに、応えなかった。なのにアイツ、健気でな。何度も好きだと伝えてくれて……最後は俺が負けたよ。だけど、年の差があるから今は付き合えないと伝えて、卒業後に再会できたらその時は付き合おうと言ったんだ。運命なら、年の差を乗り越えられるはず。そんな約束をしているんだ」


 私には恋とか愛とか。そんなことは一切分からない。
 だけど、率直に素敵だと思った。

 顔は真っ赤なんだけど、優しさの滲み出る言葉や声色に、その生徒さんへの想いが溢れている気がする。


 そして私はと言うと、そんなおじさんの様子を見て久しぶりに笑えた気がして、何故か涙がジワッと滲んだ。