「おいしそう……」

 そんなつぶやきが漏れてしまったとき。

「おひとついかがですか?」

 通りかかった給仕から声をかけられた。片手にいくつものグラスを並べたトレーを持っていて、そのうちのひとつを手渡される。

「あっ……いいえ、結構です」

 知らない人に話しかけられたことにウララは驚き、さらに目が合っても怯えられないことに驚いて、とっさに拒否してしまった。給仕は、「かしこまりました」と言ってあっさり去っていく。ウララが例の雨ふらしの令嬢だとも、エーデルの婚約者だとも気づいていないようだった。
 その背中を目で追いながらほっと胸をなでおろしたとき、ふと人々の視線を感じた。

「あの令嬢、もしかして先ほど殿下が紹介していた婚約者じゃないか」
「たしかエングー公爵家の」
「雨ふらしの公女。呪われた娘」

 雨ふらしの公女。東区で呼ばれていた蔑称が聞こえてきて、ウララは目をみはった。

 ――こんなところまで知られているなんて……

 ウララは胸の前で両手をキュッと握りしめる。

「一人でいるけれど、殿下はご一緒じゃないのかしら」
「どうせ政略結婚なのよ」

 誰かが鼻で笑ったのを皮切りに、そこかしこから遠慮のない視線が飛んでくる。
 父親は一族の汚点だとウララの存在をひた隠しにしていたから、余計、何者なのだと探られているのだろう。
 これ以上目立たないようにうつむき、足早に人だかりを抜けた。

 そういえば、エーデルがウララのことを知っていたのはなぜだろうか。あの容姿なのだからきっと女性からの誘いは多いだろう。引く手あまたで、望めばどんな女だって手に入る身分の王子がなぜ、雨ふらしの公女を求めたのか。
 
 ――一人ならどう言われようとかまわないけれど、シスがいるのだから。しっかりしないと。怖がってなにもできなくなるのが一番だめ。

 侍女であるシスの待遇もはっきり書面で確認したいところだし、落ちついたら時間を取ってもらえるか尋ねてみよう、とウララは一人うなずいた。

 人の目を避けて歩いていたら、いつの間にか、広間の一番奥に位置するバルコニーの近くまで来ていた。半開きになっているガラスの扉から外の様子をうかがうと、薄暗くてよく見えないものの人はいないように見える。雨はいつのまにかやんでいたようだ。
 天井を一瞥して、途中までは屋根があることを確認する。ウララが外に出ても、屋根など遮るものがある場所なら雨はふらない。意を決して足を踏み出した。
 夏の訪れを予感させるぬるい風がウララの頬をなでる。目を閉じて、花々のかぐわしい香りと、鼻をつく草いきれをしばらく堪能する。会場に通じる扉は開けっ放しだから、相変わらず喧噪は聞こえるが、薄闇のなかで一人目を閉じているとそれらはだんだんと遠のいていく。

「お嬢さん」

 ふいに声が聞こえたような気がして目を開けると、薄闇のなか、小柄な男性がこちらに歩いてくるのが見えた。