廊下の水道で一人、ハンカチを洗う。こんな仕打ちを受けなければならないのは、自分が地味で大人しくて一人ぼっちだからだろう。可愛い人気者だったら、謝るどころか新しいものを弁償して、ついでにデートにまで発展したかもしれない──なんて、被害妄想のしすぎかもしれないが。
 とにかく今は、太陽がクラスで人気者の扱いをされていることが信じられない。彼はいつも友達に囲まれ、女子にもモテて、チャラい外見なのに勉強がそこそこできるから先生にも気に入られている。
 自分だって人に優しく真面目に生きてきたつもりなのに、この差は何だろう。謝れない太陽が幸せそうで、謝りすぎてしまうような自分は幸せじゃない。この世界は本当に不平等だ。
 苛立って、ハンカチを擦る手にどんどん力が入る。たかがこんなことで涙が滲みそうになる。
 その時、ふと背中に視線を感じた。

「ん?」

 振り返ると、すぐ目の前に例の太陽が立っていた。

「うわぁ!?」

 水姫は思わず声を上げて後ずさった。それはそうだ、並んでいるとしてもこんな音もなく近付かれたら。
 多分さっきのことなんてとっくに忘れて、『早く洗い終われよ』とか『何驚いてんだよ』とか思ってるんだろうなと勝手な想像をしつつ、横にずれる。
 まだ洗い終わっていないくせに。少心者の自分がつくづく嫌になる。

「待って」

 すると、太陽が声を発した。なんだろう、文句でもあるのだろうか。期待せず振り返ると、太陽は頭を下げた。

「さっきはごめん」

 それもきっちり45度で。
 なんだ、ちゃんと謝れるんじゃん。上から目線で感心しつつも、それならなぜ一回無視したのだろうという疑問が残る。
 太陽は半分頭を上げ、尚俯いた状態で答えを口にした。

「俺、人見知りなんだ。特に女子が苦手で。だから咄嗟にパニックになって逃げた。でもそれを言い訳にしちゃいけないと思う。本当にごめん」

 それは言い訳というより、告白だった。衝撃のあまり水姫は固まった。嘘かと思って顔を確認してみるが、至って真険な、というより思い詰めたような表情で、今のところ演技には見えない。
 どちらにせよ、ひとまず謝ってもらえただけで十分だ。

「全然大丈夫。むしろ滑って転ばなくて
良かったよ」

 さっき転べと念じたのが嘘かのように、精一杯爽やかに微笑んでみせる。それがぎこちなかったのだろうか。太陽はまだ納得していないようだった。

「ハンカチ洗うよ」

「ううん、もう洗い終わったから」

「だめだ、まだ汚れてる」

  太陽はハンカチを取って広げる。そしてなぜか、そのまま固まった。

「ね、時間かかりそうでしょ。後は自分で」

「いや、これ、アイスクマ……」

 『アイスクマ』という単語が太陽の口から飛び出た瞬間、水姫の全身に鳥肌が立った。アイスクマは知る人ぞ知るキャラクターなのに。校内でも好きな人は自分くらいだと思っていたのに。そのハンカチにアイスクマという文字は一言も書かれていないのに、一目見ただけで分かるなんて。

「ど、どうしてその名前を……?」

 恐る恐る尋ねると、太陽はアイスクマのイラストを見つめたまま言った。

「Tmitterの公式アカウントフォローしてて、毎日イラストチェックしてる」

 自分と一緒だ。ガチファンだ。というかTmitterをやっているのがそもそも意外だ。てっきりイムスタのキラキラリア充アカウントをぶん回しているのかと。

「あっ見る専な、見る専」

 聞いてもいないのに答えながら、太陽はハンカチを洗い始めた。物凄い勢いで。自分が好きなキャラクターだったから余計気合が入っているのだろうか。
 アイスクマ好きに悪い人はいない、と言ったら主語が大きすぎるが、でも思ったよりは良い人そうだ。
 一生懸命な背中を、水姫は安心して眺めていた。