鍵を閉めて完全に二人きりになった瞬間、一気に気が楽になった。最近気まずかったのが嘘かのような安心感に包まれる。

「あぁ……」

 太陽も安堵の声をもらし、倒れるように壁にもたれかかった。危うく頭を打ちそうで、水姫は手を伸ばしかける。

「だ、大丈夫?って、全然大丈夫じゃないと思うけど……」

「俺は大丈夫だけど、青井さんは大丈夫?」

「私も大丈夫だよ。大野くんが代わりに怒ってくれたから」

 怒ってくれたおかげで本当に今、あんなに最悪だった状況も、これから何とかなるような気がしている。友達のパワーは凄い。
 だが、太陽は後悔するように顔を覆っている。

「ほんとヤバい奴だよね俺。青井さんもちょっとは引いたでしょ」

「全然。むしろ興奮した」

「こ、興奮?」

「大野くんは本当にすごいよ。あんなにはっきり自分の気持ちを言えるなんて。私はあの場ですら他人みたいに振る舞った少心者だから」

「いや、俺は青井さんこそすごいと思う。感情任せにならないで冷静に対処して……これが長年一人で培ってきた適応力なんだなって」

「それ褒めてる……?」

 わざとツッこむと、太陽もわざと首を傾げる。

「……多分」

「多分じゃ駄目では!?」

「いやいや、ほんとに尊敬してるよ。ぼっちの先輩として」

「友達が多い人が後輩面しないで!?」

 大袈裟に言い合ってから、一緒に吹き出す。

「はは、何だこれ」

「ふふ、意味不明だけど、笑ってくれて良かった」

「こちらこそ、青井さんがいてくれて本当に助かったよ」

「え、えへへ……」

 水姫が何を返したらいいか分からず愛想笑いを浮かべたせいで、変な間が空く。
 太陽は慌てたように壁から背中を離した。

「あ、俺が好意を抱いてるとか……気にしなくていいから。いや、あそこまで言われたら嫌でも気にするか……でもほんとに気にしなくていいから。いや、でもな……」

 太陽の顔が曇る。

「きっとあいつら、青井さんまで揶揄い始めると思う。無視してもしつこく。流石の青井さんでも耐えられないかもしれない」

 流石って何だろう。自分は一体どんな風に思われているのだろう。気になるが、聞ける雰囲気じゃない。

「結局青井さんも巻き込むことになって、俺、もうどうすればいいか……」

 また太陽が涙目になっていく。

「こんなことなら最初からキャラなんて偽らなきゃよかった。黙って一人でいじめられときゃよかった……」

 とうとう涙と共に崩れ落ちてしまった。
 でもそれは、100%本音ではないはずだった。

「そんなことないって、大野くんが一番分かってるはずだよ」

 水姫は優しく、されど力強く声をかけながら、うずくまる太陽の隣にそっとしゃがんだ。いつも対面か、どちらかが後ろにいたから、隣り合うだけでかなり新鮮で、少し心拍が上がる。

「偽るって言うけどさ、私はどの瞬間も大野くんだと思うよ。私も、家、学校、大野くんの前、全部ちょっとずつ違うけど、全部自分に違いないし。嘘をついちゃった瞬間も含めて、一瞬一瞬を精一杯生きてたって思えば、それでいいんじゃないかな」

 すごく親みたいなことを言ってしまった。堂々と言っておきながら、恐る恐る太陽の表情を窺うと。

「うっ、うぅ……」

 太陽はますます号泣していた。

「えぇ!?ご、ごめん何かまずいこと言っちゃった!?」

「いや、嬉し涙……」

「嬉し涙ってそんな量出るんだ!?」

「分からない、俺も人前でこんな泣くの初めてで……」

 感情を素直に出せるようになったのは良いことなのだろうが、人に泣いているところを見られるのは、自分だったらかなり恥ずかしいかもしれない。水姫は慌てて話題を変える。

「そ、そうだ!昨日見そびれた絵、早く見たいな!ファンの私があんな奴らに先を越されたなんて悔しすぎるし!」

「あぁ、今上げる……」

 太陽は涙もそのままに、ポケットからスマホを出してTmitterを操作し始めた。

「ついでにリア垢も消しておいたら?」

 つい水姫が口を挟むと、太陽は「あー」と首を傾ける。何を迷う必要があるのかと思ったが、案外思い入れがあるらしい。

「これはしばらく取っておこうかな。今すぐ消したらまた何か言ってくるだろうし、鬼ごっこ攻略についての呟きとか自分で見返すかもしれないし」

 鬼ごっこガチ勢すぎるて。それをいいねしていた友達もどき達も、それはそれで何なのか。失礼なことを思いつつ、一つ気になることが浮上する。

「そういえば他の人たちはどんな投稿してたの?やっぱりリア充アピールとか?」

「いや、普通に愚痴も言ってたよ。学校嫌だとか、一生寝てたいとか。普段うるさいくらい元気なのに、雨の日になると急に消えたいって連投し出す人もいたな」

「へえ、やっぱりその人たちも裏表あるんじゃん……」

 それなのにアイスクマや太陽の個性を馬鹿にするって、自分たちも馬鹿にしていいと言っているようなものではないのか。

「もしかしたらその人たちも、大野くんみたいに頑張って取り繕ってるだけなのかもね。大野くんのことも本当は好きで気になってしょうがないのかも。突っかかり方が異常すぎるけども」

「そうなんだろうね。気に入らないことは無視するか自分一人の鍵垢に吐き出せば済む話だし……最近思うんだ。実は俺よりあいつらの方が、気にしがちで自信ないのかもって」

 太陽はくすりと目を細める。

「あいつらのこと嫌いだけど、分からなくはない。実際一時期混ざれてたし。だから俺、唯一確信してることがある。あいつらの中にも絶対、アイスクマにハマる奴がいるはずだって」

「有り得るね笑」

「もし正直に出てきたら、もう一回友達になってやってもいいんだけどな笑」

 意地悪く微笑んだつもりだろうが、太陽の微笑みはどう見ても爽やかだった。流石天性の人気者、器が大きい。太陽にはつくづく感心させられることばかりだ。
 直後、Tmitterに今上げられた絵を見て、水姫はますます感激した。

「えっこれ漫画だったの!?すごい!!漫画初挑戦だよね!?」

 なんと一気に4ページも。コマ割りや台詞回しは勿論のこと、画力もかなり上達している。イラスト部で相当練習したのだろう。
 太陽は照れたように笑う。

「今までで一番頑張った。青井さんをびっくりさせたくて」

「わ、私の為に?」

「うん、青井さんのこと考えながら描いてた」

「えっ、えぇ……それは身に余る光栄というか何というか……」

 水姫は漫画に見入ったふりをしつつ、熱い顔をスマホで隠した。気にしないでとか言うくせに、これは許されるのか。ファンとしては、アイスクマの絵を描く時はアイスクマのことだけを考えていてほしいのだが。
 よくよく読むと、内容も自分のことを表しているように思えてきた。
 ──日光で溶けるのを恐れ、地下の冷凍室に一人閉じ込もっていたアイスクマは、ある日地下に炭鉱に来た人間と出会い、友達になる。だが別々の場所で暮らしている為、なかなか会えない日々が続く。アイスクマが勇気を出して『地上でも会いたい』と告げると、人間は透明で持ち運び可能の、アイスクマにぴったりのサイズの冷凍庫を開発し、一人と一匹はいつでも一緒に過ごせるようになったとさ──
 うん、完全に自分と太陽の関係を表している。生モノの夢妄想の部類に入るから注意書きをしておいた方がいいかもしれない。どんな注意書きだよ。
 なんて一瞬だけ思い上がってみたりしつつも──二次創作的にはレベルが高く、水姫にとっては原作超えといっても過言ではなかった。ずっとこんな展開が見たかった。太陽はまたしても水姫の夢を叶えてくれたのだ。
 水姫は尊い感情を噛み締め、しみじみと頷いた。

「うん……今までで一番好きだなあ」

 すぐ喜んだ反応が返ってくると思ったのだが、少し間が空く。代わりに太陽の熱い視線を感じ、前を向いたまま動けなくなる。

「……俺のことは?」

 突如顔を覗き込まれ、水姫はごくりと唾を飲んだ。これは反則以外の何物でもない。すごい攻めてくるじゃん。全然諦めてないじゃん。
 熱に飲み込まれないように、水姫は深く息を吸って気持ちを整え、はっきりと答えた。

「大野くんのことは、人として好きだよ。でもやっぱり、恋愛の意味ではないと思う。好きになってくれてありがとう。その好意は一生忘れないよ」

 一方、太陽は気持ちの余裕がないようだ。せっかく感謝を伝えたのに、それには答えず、まだ目を離そうとしない。

「それは……俺が陰キャだから?」

 水姫は思わず吹き出しそうになった。

「そんなわけないって。もしかすると、陰キャって言葉に一番囚われてるのは大野くんなんじゃないかな」

「……その通りだよ」

 ようやく太陽は観念したように苦笑し、前を向いた。そしてしみじみと呟いた。

「俺、青井さんのそういうところが好きだなぁ」

「ど、どこ?」

「意外と思ったことをはっきり言うところ」

「えっそこ?」

 意外だ。人から見た自分は意外な姿をしている。だから人を通して新たな自分を知ったり、思わぬ人に本性を見抜かれたりするのだろう。

「青井さんは俺のどこが好き?」

 攻めモードはまだ続いているようだった。

「ひ、人としてね?」

 水姫の補足に、太陽は「分かってる」と頷いてみせる。本当に分かっているのか。

「えっと、だから……人にも好きなものに対しても真面目なところとか、不器用なりに頑張って、頑張りすぎちゃうところとか、あと……そうやって意外と諦めが悪いところとか、かな」

 矛盾しているところが特に好き、とは言えなかった。一番好きなところほど、心に秘めておきたいこともあるのだ。
 それにしても、結局恋愛の意味で告白をさせられているようで解せないのだが。

「それ、遠回しに諦めるなって言ってる?」

 太陽に再び覗き込まれて、水姫は更に顔を赤くする羽目になった。

「言ってない言ってない!!それは流石に都合良い解釈すぎるよ!?」

「……嘘だよ」

 二度と嘘をつかないでほしい、と言おうとして──まだ太陽の目が潤んでいることに気付く。
 嬉しさと悲しさが混じったような、何とも言えない表情。これを見られるのは今この瞬間だけな気がして、つい水姫も吸い込まれるように、目に焼き付けようとしてしまう。

「……青井さん」

 ゆっくりと、太陽が縋るように両手を前に出す。何だろうこれは。
 切なくて、儚くて、愛らしい。
 どうしようもない感情に駆られ、水姫はその腕の中に入り、太陽をそっと抱き締めた。
 すると「えっえっ」と動揺した声。

「え?」

 今のはそういう意味ではなかったのか。困惑しながら確認すると、太陽は耳まで真っ赤になっていた。

「お、俺、ハンカチ貸してもらいたかっただけなんだけど……」

 なら名前じゃなくハンカチと言ってほしかった。

「うわあごめん!えっ、だとしてもなんで私のハンカチ?」

「だって青井さん、いつもハンカチ持ち歩いてるから……」

「いやでも手拭いたハンカチだよ?」

「俺は全然気にしないから……」

 こっちが気にするわ。それこそ下心満々だろ。

「ティ、ティッシュでいいよね?ティッシュの方が鼻水も拭けるよ?」

 とにかく急いで離れようとすると──ぐっと腰を抱き寄せられた。

「青井さん、やっぱり俺のこと好きだよね……?」

 だからなぜそうなる。

「いやほんとに違うから!!ただの勘違いだから!!勘違いで抱き締めたのもおかしいけど、ぼっちだからそういうの分からなくて!!ごめん詐してえ!!」

 錯乱状態には錯乱状態で対抗だ。そう思いパニックで叫ぶが、太陽は一向に離さない。むしろどんどん力が強まっていく。もはや人としても嫌いになりかけていると、耳元でぼそぼそと囁かれた。

「ごめん、今だけ許して……女子になんてもう二度と触れられないかもしれないから……」

 悲観的すぎるて。
 敵わないほどのネガティブを見せつけられ、不思議と落ち着きを取り戻した水姫は、面白いくらい汗だらけの太陽の背中をぽんぽんと叩いた。

「大丈夫、その調子でいれば良い人と出会えるよ」

「それ好きな人から一番言われたくないやつじゃん……」

「あっごめん無意識に!!」

「ううん、それでいいよ」

 太陽も正気に戻ったように手を緩めた。

「俺も、好きは好きだけど、ちゃんと友達のままでいるから」

「そ、それできそう?」

 今のところできなさそうだが。

「努力する。じゃなきゃ俺のせいで青井さんが一人ぼっちになるから」

 めちゃくちゃ気を遣わせている。

「一人でも大丈夫だよ。私、寂しがり屋のくせに、結構一人が好きみたいだから」

 水姫はそう返した。強がりではあった。でも嘘でもなかった。

「それに離れてても、お揃いであることには変わりないしね」

 太陽は無言のまま水姫を抱き締め続ける。何も言えなくても、重なり合う鼓動から、同じ気持ちであることがひしひしと伝わってくる。

「あ、でもアイスクマについてはこれからも付き合ってもらうかも」

「勿論だよ」

 そこで太陽はようやく笑った。あたたかい満面の笑顔で、まさに太陽のように。

「でも、もし途中で飽きたりとかしたら……」

 しかし、笑顔は一瞬で不安げな表情に変わる。そこが太陽らしいのだが。

「それならそれでいいよ。その時やりたいことができれば、それで」

 水姫が微笑むと、太陽も笑顔に戻った。

「じゃあ今、しばらくこうしててもいい?」

 笑顔でとんでもないことを頼んできた。

「……今だけだよ」

 まんまとやられて、水姫はしぶしぶ身体を預けることにした。
 本音を言うと、まだ離れたくないのもあった。