「——つまり、この『の』は格助詞です。そしてク活用の形容詞で……」
 梅雨の長雨が作ったグラウンドの水たまりを眺めながら、澪凛(みおり)は頬杖をつく。
 一時間目の古文の授業中。
 眠気を誘う教員の口調も相まって、大半の生徒が舟を漕ぐ中で1人考えを巡らせていた。

 昨日、眞紘(まひろ)とキスをした。
 普通の恋人相手なら何度も反芻(はんすう)して胸を高鳴らせるのだろうけど、とてもそんな気にはなれない。

「——さん、水無瀬(みなせ)さん」
「は、はい」
「この和歌の作者は?」
 
 数少ない起きている生徒の中から指名して、授業の体裁を保とうとする教員の、分厚い眼鏡ごしの垂れ目と視線がかち合う。
 澪凛は慌てて手元のプリントの文字を追った。
「えーっと、壬生忠岑(みぶのただみね)、です」
「はい。続いて……」

 現代の、リアルタイムで起こっている恋愛事情も千年の時が経てば、教科書の一文として淡々と描かれる味気ないものになるのだろうか。
 現代の恋愛事情が高尚なものでも、特別に味わい深いだなんて思わないけれど。
 それでもこうやって、他人の恋愛事情にすら一喜一憂し、アレコレと思い悩むほどのことも、いずれは無味無臭の史実の1つになってしまうのか。

——弟妹たちの世話や家事なんて、史実にすら……
 漫画や絵本では、報われない少女が実は由緒ある家柄だったとか、そんな大逆転物語があって。もしかしたら自分がそうなんじゃないかと考えることなんて、幼少期には誰でもあることだろう。
 特に澪凛の場合、境遇が境遇な為に実の両親が実は……と小学生の頃までは考えていた。

——冷静に考えたらそんなことある筈ないのにね
 実の両親と完全に縁を切る特別養子縁組ということは、実の両親は育てられないほど困窮した人か中高生か、小学生の可能性だってある。それか、虐待する危険の高い人なのか。
 考えられるのはそれくらいだが、いずれにせよ今より生活水準の下がった家庭環境であることに間違いはない。
 そう考えたら、澪凛は甘んじてこの生活を受け入れる他なかった。

 とはいえ。
 いや、だからこそ義弟との奇妙な関係は、モノクロだった視界に降り注がれた香辛料のようだった。
 甘くも、不味くもない。けれど、澪凛自身を確実に動かすものだと、どこかで確信していた。

——それにしても、あと一体何をすれば……
 ほの香と圭汰を思い出す。
 名前で呼び合うのは幼い頃からのことだし、一緒に帰るのも良くあること。
 食材や日用品の買い出しを含めるならば、一緒に買い物に行くのも同じことだ。
——そうだ

 澪凛はポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いた。

 昼休み。
「ほの香、優梨奈(ゆりな)ごめん。今日は別のとこで食べるね」
「?うん」
「おっけー」

 澪凛はスマートフォンと水筒、財布を持って教室を出た。そのまま混雑する購買でおにぎりを2つ買い、目的地へ向かう。
 放送部のお昼の放送に流行りの音楽、部活動のミーティングをする声や談笑する喧騒(けんそう)の間を縫う。

「おまたせ。早いね」
 立ち入り禁止の屋上前の階段で、眞紘は直方体型の栄養クッキーを咥えていた。
 その場所は人通りが少ない。昼休みのざわめきの渦から一歩下がり、いかにもな青春の匂いに霧がかった場所に、眞紘を呼び出した。

「授業早く終わったから。で、何?」
「これ、付き合ってる人たちがしそうなことじゃない?」
 
 眞紘は「あぁ……」と納得したように言い、スマートフォンを弄りだす。
「またそれ?」
「腹が満たされればそれで良いだろ」

 家では掃除を担当する澪凛の部屋にはモノが散乱しているように、料理を担当する眞紘は、食に一切の興味がない。いつもしている家事が、本人の得意なことや好きなことだという訳ではない。
「推しのライブ前の優梨奈でさえサラダパスタなのに。はい、これとこれ交換ね」
 澪凛は持っていたおにぎりの1つと眞紘のゼリー飲料を取り換えた。

「梅干し嫌い。そっちが良い」
 口を尖らせた眞紘はもう1つの、さけのおにぎりを指さした。
「え、嫌いだったの?いつも家では普通に食べてんじゃん」
 澪凛はそう言いながらおにぎりを取り換えた。
「食えないことはないけど、好んで食おうとは思わん。でも、弟たちに『好き嫌いせずにとりま食ってみろ』って言ってる手前で示しつかんだろ」
 
 澪凛はりんご味のゼリー飲料を飲み込みながら、眞紘の肩が触れる距離まで近づいた。
 学校で会う時、私たち2人の間に会話はない。あったとしても家に関する連絡事項ばかりで。
——でも、そんな時間も悪くないかもね

 澪凛は少しだけ眞紘に体重を預け、スマートフォンを操作してインスタグラムを開いた。そして友人達のストーリーズをタップしながら見ていく。
「……これだ」
 澪凛はそう呟いて、素早くスマートフォンを操作し始めた。

「眞紘。これ」
 しばらく経って、眞紘にスマートフォンの画面を見せた。彼もまた澪凛に体重を掛けて画面をのぞき込む。
 見せたのは灰色の初期アイコンに『NEW』と表記された、作られたばかりのアカウント。

moarhii_0615
🖤(16)×♥(16)

「……カップルアカウント?何で圭汰たちみたいなことしてんの」
「承認欲求を埋めるんでしょ?恋愛って。だから承認欲求の権化をやってみようかなって。パスワード送っといたよ」
「でも鍵垢じゃん。意味なくね」

 ほの香と圭汰は、公開アカウントで2人の日々の記録を載せている。先ほども、『2人とお友達ちゃんでお昼~♡』の文言と共に2人のお弁当の写真がストーリーズに投稿されていた。
 顔出しはしていないものの、中高生の間で人気を集め、フォロワー数は1000人を軽く超えている。

「特定されたら終わりでしょ。まずは形だけでも楽しんでみようかなって」
 そう言いながら澪凛は、床に無造作に置かれた眞紘の手の上に自身の手を重ね、写真を撮る。
 その写真をアイコンに据え、フォロー0フォロワー0の鍵垢カップルアカウントが出来上がった。

 重ねられていた手をそのままにしていると、下にあった眞紘の手がくるりと回って澪凛の手を握る。
「今日、買い出し行くけど澪凛も一緒に行く?」
「え、うん。行くよ?」
 毎週金曜日は近所のスーパーが特売日で、学校帰りにいつも2人でまとめ買いしに行く。
——そんなのいつものことじゃん。なんで?

「じゃ、約束な」
 眞紘は握られていた手を離し、小指をたてて見せた。そして澪凛もそれに小指を絡める。
「よし」
「これがしたかったの?」
 そう尋ねると、眞紘は小指を離して視線を逸らした。
「形から入るんだろ」
 眞紘は余裕そうに見えて意外と照れ屋なのかもしれない。この奇妙な関係になって、澪凛はそのことに気づき始めていた。

「……っと、次の英語当たるんだった。先行くわ」
 眞紘は水筒とゴミを一(まと)めに持って立ち上がり、前を通り過ぎる。
「あ」
 その姿は階段を数歩下りたところで動きが止まり、180°回転して引き返してきた。

「何、忘れも……」
 言い終わらない内に顎先に眞紘の手が触れ、その指先の(おも)くままに斜め上を向く。黒く光る瞳の中に自身の姿を捉えた瞬間、唇に柔らかいものが当たった。

 それが彼の唇だと気づいた時には、既に彼の姿はなかった。

 相変わらずの、無味。
——いや、
 澪凛は手に持ったままのゼリー飲料のパッケージに印字された文字を追う。
——『りんご味』