2人の間には『どちらかに好きな人、もしくは恋人ができたらこの関係は解消する』という唯一絶対のルールが交わされた。

「で、恋人同士がするようなことって、何するの」
「……さあ」
「いや『さあ』って何よ」

 翌日の放課後。
 2人は何事もなかったかのように家事をこなす。
 作り置きのミートボールをタッパーに詰める眞紘(まひろ)に、ダイニングテーブルにこびりついた汚れを拭きながら、澪凛(みおり)は尋ねた。
 要領を得ない返事と落ちないシチューの汚れに溜息を()く。

「……それ終わったら俺の部屋来てくんね?」
「うん……ん?」
 
 顔を上げると眞紘の姿は既に無く、階段を上る音だけが響いた。
——もう?いや、ないか。ないない
 自分に言い聞かせるようにふるふると首を振り、汚れの載ったテーブル布巾(ふきん)を水に濡らした。
 
 眞紘の部屋は3階の一番奥にある。その手前には澪凛の部屋があり、一番手前には両親と4才の(つむぎ)、2才の芽衣、1才の(なぎ)が一緒に寝る一番大きな寝室がある。

 ドアをノックして眞紘の部屋に入ると、石鹸(せっけん)の香りが漂ってきた。見ると、勉強机の他にもう1つある小さなテーブルに、3本のスティックが刺さったルームフレグランスが置かれていた。
 ベッドに背中を預ける眞紘のそばに腰掛ける。2人の肩と肩が触れるか、触れないかの距離で。

「とりあえず、見られたら一発アウトなのはどちらかの部屋だけにするか」
「それは普通の恋人同士でもそうだと思うけど……うん、分かった」
「ま、実質俺の部屋が固定だな。……今、澪凛の部屋って足の踏み場あんの?」
「ありますとも。……少しなら」

 澪凛は目を泳がせた。
 いつも家中の掃除や片付けをしている澪凛は、自室に入るとスイッチが切れる。
 とは言っても、ゴミは出すし掃除機も定期的にかけるが、出したモノをそのまま放置することが多い。

 ボストンバッグは所定の位置に置かれ、帰ったら速攻で制服がハンガーに掛けられる眞紘の部屋と違い、今も澪凛の部屋の床には、ボストンバッグと制服が無造作に投げ出されている。

「で、そんなことを言うためにここに呼んだの?」
「いや」

 眞紘はおもむろに澪凛の長い髪に触れた。毛束の間に指を通し、()かすように毛先まで指を滑らせた。その動きを追った澪凛の視線と眞紘の視線が交錯する。

「澪凛、好きだ」
「……は?」

 時間が止まったかのように呆然とする澪凛の頬を、眞紘は軽くつついた。
「ほら、恋人の澪凛はなんて返すの?」
——ああ、そういうことか
「好きだよ。眞紘」
 
 そう返すと眞紘は満足そうに口元を緩ませる。
「好きだ」
「好き」
「俺も…………いや、これ一生続くだろ」
「うん。多分、私たち愛してるゲームでギネス狙えると思う」
「間違いないな」

 明らかに乾いた空気が2人の間を支配する。やっぱり恋愛感情は分かりそうもない。
——でも……
「ちょっとだけ温かい気持ちになった、ような」
「あー本当だ。好意を表明されるのは気分が良いんだよな、純粋に」
「うん。好きだよ、眞紘」
 
 眞紘はその言葉に返さず、澪凛に手を伸ばした。その手は澪凛の頭に触れ、スリスリと撫でる。もう片方の腕が澪凛の背中へと周り、トントンと(なだ)めるように叩かれる。

——待って、無理。これ
 澪凛は軽く眞紘の肩を押しのけ、距離をとる。
「ごめん。大丈夫か?」
 眞紘は虚空に固まっていた腕を下ろした。

——胸がザワザワする
 恋愛で起こるらしいドキドキのようなときめきではない、拒否感。

 澪凛はしばし逡巡(しゅんじゅん)し口を開いた。
「『眞紘』じゃなくて『大家族の長男』に面倒見られてるみたいで……」
——ものすごい違和感……というか忌避感
「……それは思った。俺も妹たちを世話してる気分になったし」

 脳が勝手に「やめろ」と言っている。
 頭を撫でたり背中を(さす)るのは、悲しいことがあった時の弟妹たちに2人がよくする動作だ。逆に言えば、2人が誰かから同じことをしてもらうことはない。
 
 私は世話をする方で、『そっちじゃない』。
 
 だから、怖かった。その不適応さ以上に、目の前に一瞬だけ見えた『底なし沼』が。

 脱力した眞紘は頬をベッドにつけて澪凛の髪の毛先に触れた。澪凛はその指先をつまみ、滑らかな爪の表面ごと弄した。
 乾燥した手に、硬い爪。
 自分のものとは確実に違う質感に、澪凛は心が揺れ動くのを感じた。

「キス、しようか」

 ふいに口をついて出た言葉に、自分の中では動揺はなかった。それに対し、眞紘は目を見開いて起き上がった。
「い、いや……何言ってんの」
「嫌ならしなくても良いけど……」
「そうじゃなくて。逆に良いのかよ、その、ファーストキスじゃ……」

 眞紘は少し顔を赤らめた。
——え、そこ?純粋すぎない?

「いや、そこに頓着(とんちゃく)ないから……それこそ眞紘はどうなの」
——そもそもなんで初めてだって前提?事実だけどさ

「俺は初めてじゃないし」
「あれ?彼女いたんだっけ?」
 澪凛は「いつも牽制(けんせい)される」と言っていたことを思い出す。

「いや……」
「じゃあ彼氏?」
「でもなくて。あの、人助けで……」

——……人工呼吸かい
 心の中で軽口を叩くと、眞紘の頭を撫でる。
 桃色に染めた顔を逸らす眞紘が幼い子供に見えた。
「良いんだよー眞紘が嫌なことはしなくて」

——こうしていると弟のようにも……
「ああ、確かにこれはキツイな」

 眞紘は頭を撫でる澪凛の手を緩く掴んで制止し、そのまま指を絡めた。
「いつもの自分と乖離(かいり)しすぎてて、身体が拒絶するんだな」
「だけど……私はこわ……」

 「怖いよ、その先に見えたものが」。

 そう言いかけて、どちらからともなく唇を重ねた。
 その瞬間に気づいた。これも「言ったら終わること」の1つなのだと。

 頭から追いやるように、角度を変えて何度も唇を(ついば)み、啄まれる。

 不思議と拒否感はない。心拍数に変化もなく、ただ恋愛ドラマを見ているような、じんわりと心に沁みる感覚が澪凛の中に拡がっていく。
 父母たちが『血はつながっていなくとも家族』という教育方針のために、澪凛の血が繋がっていないことを幼い頃から学習していた、思わぬ効果が発揮されたらしい。

 いつでも逃げられる、離れられる、その距離で2人は(しばら)くの間触れ合っていた。

 酸っぱいレモンや甘いイチゴの味など当然しない、無味。
 ルームフレグランスから香る石鹸の匂いだけが際立って純潔だった。