鍵穴に鍵を差し込み、カチャン、と無機質な音が響く。
澪凛たちが暮らす水無瀬家は3階建てで、この住宅街の中では大きい方に分類される。9年前、蘭と円が産まれたタイミングでこの一軒家に引っ越した。
母の勤める会社はかなりの大企業で、母自身が優秀だからか、そこそこのポジションにいるらしい。
「産休育休にも理解があって働きやすい」とよく言っていた。
単身赴任に出ている父の稼ぎもそれなりにあって、水瀬家は大家族の割に、高校生の澪凛と眞紘がアルバイトで家計を支えなくても良いくらいには経済的に安定していた。
水無瀬家の各階に1つずつトイレと洗面所があり、1階と2階には風呂場がある。
1階にはリビングと食卓に広めのキッチンが、2階と3階には父母の寝室と子どもたちの部屋があり、中学生以上はそれぞれの個人部屋、小学生以下は性別で分けられている。
大家族、と聞くと「貧困なんじゃ?」「プライバシーなさそう」とよく言われる。そういう例もあるのだろうけど、案外そんなことはない。
家にはまだ誰もいない。高校受験を控えている晴翔は塾に、結愛は校外学習で、小学生はみんな学童保育所にいる。
未就学児の子たちは保育園の延長保育を利用していて、母が中学生の2人、時によっては小学6年生の悠真を連れて迎えに行く。母が残業の日は澪凛や眞紘が迎えに行くこともある。
眞紘は夕飯の買い出しで、しばらくは帰ってこないだろう。
大家族では数少ないひとり時間だが、澪凛にゆっくりしている時間はない。
澪凛は3階の自室に入り、ボストンバッグを置いて部屋着に着替える。
——ええと、まずは……
1階に降りて、リビングにあるテレビを付けた。
『お伝えしていますように、史上最悪の無差別マンション放火殺害事件の主犯である2人の元死刑囚の——』
キッチンのシンクに溜まった朝食時の食器類に手を付ける。食べ残しは生ごみ入れに捨て、油汚れはキッチンペーパーで落とす。
全ての食器を食洗機にパズルのように詰め込み、洗剤を投入しスタートボタンを押した。
数分か、あるいは数秒か。澪凛はゴトゴトと音を立てる食洗機の前で突っ立っていた。
——いけない。えっと次は……
澪凛は階段下にある収納から掃除機を取り出し、1階全てに掃除機をかけ、収納に戻した。各階にも掃除機とクイックルワイパーをかけていく。
それぞれの寝室はその部屋の住人が掃除することになっていて、各階に掃除機が常設されている。
澪凛はそのまま3階と2階のベランダに出て、今朝方に干した洗濯物のうち乾いているものを取り込み、リビングで全ての洗濯物で山をつくった。
1つずつ洗濯物を畳んでいく。BGM代わりに流しているテレビからは、今日死刑が執行された元死刑囚が起こした事件の詳細が語られていた。
——ほの香は眠る両親に何を話すんだろ……
ほの香は4月2日生まれで、事件が起こったのはその6日後の4月8日だ。澪凛は9月生まれのため、事件当時は生まれてすらいない。『史上最悪の無差別殺人』だとか、『悪魔たちの所業』だとか声高に言われていても、いまいち実感は持てなかった。
「ただいまー!」
リビングの扉が開かれ、母が顔を出した。かなり忙しなく動いたのか、括られた髪からは沢山のおくれ毛が出ていた。
「どうしたのお母さん。こんな時間に」
「夜の会議で使う資料忘れちゃって……外回りのついでにね」
母はリモコンでテレビのチャンネルをスポーツ中継に変えながら言い、寝室のある3階まで駆け上がって行った。
「お母さん髪すごいことになってるよ。ここ座って」
「あらいいの?」
資料の入った封筒を片手に1階に降りてきた母を面お前に座らせた。きつく縛られた髪ゴムを解き、櫛で髪を梳かしていく。こげ茶色の髪には数本白髪が混じっていた。
「白髪ある。2本くらい」
「えー?抜いちゃってー」
澪凛はテレビ台の引き出しを開け、小物入れから髪切りハサミを取り出し、髪の生え際からカットする。
母の髪を梳かし、コームを使って一箇所に纏める。母の直毛は、湿度の高い6月でも我関せずのようだった。観衆たちの熱狂する声と実況アナウンスが響く中、リビングのドアが開いた。
「ただいまーあれ、母さん?」
「あらお帰り、眞紘。ちょっとね、もうすぐ出るから」
眞紘はスーパーの袋から食材を取り出し、冷蔵庫にサッサと放りこんでいく。
「そうだ母さん、月々の食費少し増やせない?悠真と中学生組、最近よく食うんだよな」
「あら食べ盛りねぇ……分かったわ」
「はい、できたよ」
澪凛は母の肩をそっと叩く。
「あらもう?澪凛ありがとね……あらやだ、もう行かないと。2人とも後はよろしくね」
母は慌てて仕事用の鞄に、資料の入った封筒を仕舞ってリビングを出て行った。
ちょうど流れ続けていたスポーツ中継が終わり、夕方の情報番組が流れ始めた。相変わらず、トップニュースは死刑囚の話題だ。
「……それ」
引き返してきていたのか、母がリビングの入口で声をかけてきた。
「そういうの、子どもたちの前で流さないで」
「え?」
「はいはい」
眞紘がリモコンを操作してチャンネルを変えた。
「じゃあ行ってくるわね」
玄関ドアの開閉する音が鳴り響き、母は今度こそ家を出て行ったようだった。
——……なんで?ただの情報番組なのに。ショッキングな事件だから?
「お母さんの友達か知り合いに、あの事件の被害者とかっていたっけ?」
洗濯物の山に手を付け始めた眞紘に尋ねると、眞紘は少し手を止めた。
「……さあ?特にそんな話は聞いてないな」
変えられたテレビのチャンネルでは、数年前のものと思われる画質のロマンス映画が放送されていた。
澪凛たちが暮らす水無瀬家は3階建てで、この住宅街の中では大きい方に分類される。9年前、蘭と円が産まれたタイミングでこの一軒家に引っ越した。
母の勤める会社はかなりの大企業で、母自身が優秀だからか、そこそこのポジションにいるらしい。
「産休育休にも理解があって働きやすい」とよく言っていた。
単身赴任に出ている父の稼ぎもそれなりにあって、水瀬家は大家族の割に、高校生の澪凛と眞紘がアルバイトで家計を支えなくても良いくらいには経済的に安定していた。
水無瀬家の各階に1つずつトイレと洗面所があり、1階と2階には風呂場がある。
1階にはリビングと食卓に広めのキッチンが、2階と3階には父母の寝室と子どもたちの部屋があり、中学生以上はそれぞれの個人部屋、小学生以下は性別で分けられている。
大家族、と聞くと「貧困なんじゃ?」「プライバシーなさそう」とよく言われる。そういう例もあるのだろうけど、案外そんなことはない。
家にはまだ誰もいない。高校受験を控えている晴翔は塾に、結愛は校外学習で、小学生はみんな学童保育所にいる。
未就学児の子たちは保育園の延長保育を利用していて、母が中学生の2人、時によっては小学6年生の悠真を連れて迎えに行く。母が残業の日は澪凛や眞紘が迎えに行くこともある。
眞紘は夕飯の買い出しで、しばらくは帰ってこないだろう。
大家族では数少ないひとり時間だが、澪凛にゆっくりしている時間はない。
澪凛は3階の自室に入り、ボストンバッグを置いて部屋着に着替える。
——ええと、まずは……
1階に降りて、リビングにあるテレビを付けた。
『お伝えしていますように、史上最悪の無差別マンション放火殺害事件の主犯である2人の元死刑囚の——』
キッチンのシンクに溜まった朝食時の食器類に手を付ける。食べ残しは生ごみ入れに捨て、油汚れはキッチンペーパーで落とす。
全ての食器を食洗機にパズルのように詰め込み、洗剤を投入しスタートボタンを押した。
数分か、あるいは数秒か。澪凛はゴトゴトと音を立てる食洗機の前で突っ立っていた。
——いけない。えっと次は……
澪凛は階段下にある収納から掃除機を取り出し、1階全てに掃除機をかけ、収納に戻した。各階にも掃除機とクイックルワイパーをかけていく。
それぞれの寝室はその部屋の住人が掃除することになっていて、各階に掃除機が常設されている。
澪凛はそのまま3階と2階のベランダに出て、今朝方に干した洗濯物のうち乾いているものを取り込み、リビングで全ての洗濯物で山をつくった。
1つずつ洗濯物を畳んでいく。BGM代わりに流しているテレビからは、今日死刑が執行された元死刑囚が起こした事件の詳細が語られていた。
——ほの香は眠る両親に何を話すんだろ……
ほの香は4月2日生まれで、事件が起こったのはその6日後の4月8日だ。澪凛は9月生まれのため、事件当時は生まれてすらいない。『史上最悪の無差別殺人』だとか、『悪魔たちの所業』だとか声高に言われていても、いまいち実感は持てなかった。
「ただいまー!」
リビングの扉が開かれ、母が顔を出した。かなり忙しなく動いたのか、括られた髪からは沢山のおくれ毛が出ていた。
「どうしたのお母さん。こんな時間に」
「夜の会議で使う資料忘れちゃって……外回りのついでにね」
母はリモコンでテレビのチャンネルをスポーツ中継に変えながら言い、寝室のある3階まで駆け上がって行った。
「お母さん髪すごいことになってるよ。ここ座って」
「あらいいの?」
資料の入った封筒を片手に1階に降りてきた母を面お前に座らせた。きつく縛られた髪ゴムを解き、櫛で髪を梳かしていく。こげ茶色の髪には数本白髪が混じっていた。
「白髪ある。2本くらい」
「えー?抜いちゃってー」
澪凛はテレビ台の引き出しを開け、小物入れから髪切りハサミを取り出し、髪の生え際からカットする。
母の髪を梳かし、コームを使って一箇所に纏める。母の直毛は、湿度の高い6月でも我関せずのようだった。観衆たちの熱狂する声と実況アナウンスが響く中、リビングのドアが開いた。
「ただいまーあれ、母さん?」
「あらお帰り、眞紘。ちょっとね、もうすぐ出るから」
眞紘はスーパーの袋から食材を取り出し、冷蔵庫にサッサと放りこんでいく。
「そうだ母さん、月々の食費少し増やせない?悠真と中学生組、最近よく食うんだよな」
「あら食べ盛りねぇ……分かったわ」
「はい、できたよ」
澪凛は母の肩をそっと叩く。
「あらもう?澪凛ありがとね……あらやだ、もう行かないと。2人とも後はよろしくね」
母は慌てて仕事用の鞄に、資料の入った封筒を仕舞ってリビングを出て行った。
ちょうど流れ続けていたスポーツ中継が終わり、夕方の情報番組が流れ始めた。相変わらず、トップニュースは死刑囚の話題だ。
「……それ」
引き返してきていたのか、母がリビングの入口で声をかけてきた。
「そういうの、子どもたちの前で流さないで」
「え?」
「はいはい」
眞紘がリモコンを操作してチャンネルを変えた。
「じゃあ行ってくるわね」
玄関ドアの開閉する音が鳴り響き、母は今度こそ家を出て行ったようだった。
——……なんで?ただの情報番組なのに。ショッキングな事件だから?
「お母さんの友達か知り合いに、あの事件の被害者とかっていたっけ?」
洗濯物の山に手を付け始めた眞紘に尋ねると、眞紘は少し手を止めた。
「……さあ?特にそんな話は聞いてないな」
変えられたテレビのチャンネルでは、数年前のものと思われる画質のロマンス映画が放送されていた。