公爵様と別れたあと、私は無事に婚約者の誤解がとけたことにホッとしていた。
それにしても、私の身体に浮かぶ黒文様が消えていたのは、どういうことなのかしら?
不思議に思いながらも、旅の疲れが出たのか私はベッドに横になったとたんに眠ってしまった。
次の日の朝、鏡を見ると顔にあった黒文様が消えていた。手や足を確認してもきれいさっぱりなくなっていて、もう黒文様は左肩にしか残っていない。
「夢や勘違いじゃなかったのね」
部屋の扉がノックされた。私はいつものくせで黒いベールをかぶろうとしてやめる。黒文様がなくなったのなら、もう顔を隠す必要はない。
「失礼します!」
そう言って部屋に入ってきた護衛騎士キリアは、私に深く頭を下げた。
「昨晩は大変申し訳ありませんでした! 夜に戻った閣下にエステル様のお言葉を伝えたところ、そのままエステル様の部屋に向かわれてしまい!」
「あ、いえいえ! お気になさらず」
「実は昨日、閣下も一緒にエステル様をお出迎えする予定だったのですが、領内に魔物が出てしまい。閣下と一部の騎士達で討伐に向かっておりました」
「魔物の討伐……」
公爵様は、子どものころから魔物を倒して返り血を浴び続けることにより黒文様が現れたといっていた。
「ここでは、魔物の討伐が当たり前なのですね」
王都では長らく魔物が出没していない。だから、魔物と戦う必要がなかった。
もしかして、公爵様が王都で『血まみれ公爵』と恐れられている理由は、公爵様自ら魔物退治をするからなのかも?
「エステル様を怖がらせてはいけないと魔物討伐のことを黙っておりました。お許しください。それでなくとも閣下は、あまり明るいうちに出歩くことがなく。その、少し事情がありまして……。なので、失礼を承知で、夜にエステル様のお部屋に向かわれたのだと……」
キリアは、言いにくそうにしているけど、公爵様が明るいうちに出歩かない理由が私にはわかる。
きっと身体に浮かぶ黒文様で、人々を怖がらせないためよね。私も同じ理由で、今までずっと黒ベールで顔を隠していたから。
「公爵様の身体中にアザが……黒文様があるからですよね?」
「え?」
驚くキリアに私は左肩に残っている黒文様を見せた。
「実は私にもあったのです。もっとひどかったのですが、フリーベイン領に来たらなぜか消えてしまって。今では肩にしか残っていません」
「ええっ!? では、エステル様のお力で閣下の黒文様も消せるんですか!?」
「消える条件さえわかれば可能だと思います」
私を見つめるキリアの瞳がキラキラと輝いている。
「さすが聖女様!」
「いえ、まだ消せると決まったわけでは……」
「そうですが、それでもやはりすごいです!」
こんなにまっすぐほめてもらえるなんて、なんだかくすぐったい。
「さぁさぁ朝食に向かいましょう! 料理人がエステル様のために腕をふるいましたよ!」
「その件ですが……あ、待ってキリア」
はりきるキリアに背中を押されて、私は食事の席まで連れていかれてしまった。
食卓テーブルには花が飾られ、美しい食器が並べられている。
「さぁ、どうぞ」
キリアが椅子を引いて座らせてくれた。
「いえ、あの私は、本当は婚約者じゃなくて――」
使用人なのですと言う前に、料理が運ばれてくる。
うっ……おいしそう。
私は罪悪感にさいなまれながら朝食をいただいた。
「おいしい! 本当においしいです!」
フリーベイン公爵領の食事は、どれもとてもおいしい。味付けが良いのはもちろんのこと、王都で食べる食事より食材が新鮮な気がする。
使用人たちの温かい眼差しを感じて私は我に返った。
「って、違う!」
「エステル様?」
戸惑うキリアに、今度は私が頭を下げる番だった。
「ごめんなさい! 実は私、本当は公爵様の婚約者ではないんです!」
使用人たちは、ポカンと口を開ける。
「王都から追い出されてしまい、フリーベイン領には働きに来ました。下働きでもなんでもします。ここに置いてください!」
「あの、エステル様、何か誤解があるようです。私達は、今朝、閣下よりエステル様に最高級のもてなしをするように、と指示を受けました」
「でも、私は公爵様の婚約者ではないのに?」
キリアとしばらく見つめ合ったあと、私はハッとなった。
「もしかして……」
公爵様は、同じ黒文様で苦しんできた私を哀れに思ってくださったのかもしれない。
私だって昨晩、公爵様の黒文様を見て、不謹慎(ふきんしん)にも一緒だと嬉しくなってしまった。
公爵様も同じ気持ちだったのかも?
「なるほど、公爵様と私は、黒文様仲間ということなのね……」
「えっと、エステル様?」
だいぶ状況がわかってきた。
「わかりました。公爵様のお気持ちはありがたくいただきます」
キリアを含めた使用人たちは、ホッと胸をなでおろしている。
「エステル様、お部屋はいかがでしたか? 閣下より、部屋が気に入らなかったら、エステル様の好きに改装して良いと言われています」
「改装? いえ、あのままで十分すてきです」
「それは良かったです!」
部屋はあのまま使わせてもらって良いみたい。もう私が使ってしまったから、公爵様に本当の婚約者ができたら、きっと全面改装するよね?
「じゃあ、お言葉に甘えて部屋はあのまま使わせていただきますね」
「はい! あ、エステル様、閣下から『必要なものを言ってくれ。すべてこちらでそろえる』とのことです」
「え?」
たしかに神殿で着ていた服は、ここでは浮いてしまう。私は、神殿服以外に着替えなんてもっていない。今もワンピースを貸してもらっている。
「そうですね、ありがとうございます。では、着替え用にメイド服を二着いただけませんか?」
メイド服なら動きやすいし、汚れてもすぐに洗えるからね。
「メイド、服?」
ざわつく使用人たちの中で、キリアは「さすが聖女様! つつしみあるお言葉ですが、あなたは次期公爵夫人になるお方! メイド服では困ります。こちらでエステル様に似合うものをそろえさせていただきますね!」と明るく笑う。
うーん、誤解が根深いわ。これは公爵様から直接、皆さんに説明していただかないと。
でも、追い出されなくてよかった。
公爵様の優しさに感謝しながら、私はここでお役に立てることがないかと真剣に考え始めた。
朝食を終えたあとは、公爵邸の中をキリアに案内してもらった。
公爵邸は、王城とも神殿とも違う作りだった。外敵と戦うために作られた建物だそうで、その周りは頑丈な壁で取り囲まれている。
キリアは「もし、魔物の大群が押し寄せたり、大きな戦が起こったりした場合は、公爵邸自体が領民の最終避難地になります」と教えてくれた。それくらい、この土地は危険と隣り合わせということなのだろう。
ここで私に何ができるかしら?
考え込む私に、キリアが微笑みかけてくれる。
「ご安心ください、エステル様。閣下が守ってくださいます! 閣下はすごくお強いんですよ! 騎士団員の憧れです」
「公爵様は、みんなに愛されているのですね」
「もちろんです! だからこそ、エステル様のような素敵な方が閣下の婚約者様になってくださって本当に嬉しいです」
「……うっ」
この勘違いを公爵様に解いてもらうまで、下働きはさせてもらえなさそう。ということは、聖女として役に立つ方法を考えないと。
フリーベイン領は、頻繁に魔物が出るとのこと。そして、子どものころから魔物を退治していた公爵様は、黒文様が体中に浮かび上がっている。
「……あれ?」
私は隣を歩くキリアを見た。
「魔物討伐には、キリアも参加していたのですか?」
「はい」
「そのときに魔物の返り血を浴びることはありました?」
「そうですね、ありました」
私はキリアの顔や手を見つめた。どこにも黒文様は現れていない。
「ねぇキリア、公爵様以外に黒文様が現れている人はいますか?」
キリアは驚き首をふる。
「いえ、騎士団の中にはいません。領民の間でも聞いたことはありません」
騎士団員なら公爵様と同じように魔物の返り血を浴びることもあるはず。それなのに、公爵様以外の人には黒文様は出ていない。
返り血を浴び続けていた長さが原因なのかしら?
くわしいことはわからないけど、公爵様の体に邪気が溜まっている状態なら、その溜まった邪気を浄化すればいいのでは?
私は体内に邪気を取り込み浄化する力があるけど、王都の邪気は年々濃くなっていき、私一人では浄化しきれなくなっていた。
そのせいで、私の体に黒文様がどんどん広がっていったけど、王都を出て邪気の浄化をやめると黒文様が消えた。
「ということは、もしかして、公爵様の体に溜まっている邪気を浄化したら、公爵様の黒文様も消える……?」
私のつぶやきを聞いたキリアは目を見開いた。
「キリア、公爵様に会いたいです」
でも、まだ明るいので公爵様は外に出たがらないかもしれない。
「夜でも、いつでもいいので」
「わかりました」
キリアは深刻な顔でうなずくと、近くにいたメイドに指示を出した。メイドはすぐにその場から離れる。
公爵様に会えるのは夜になるかもと思っていたけど、戻ってきたメイドは私をすぐに公爵様の元へ案内してくれた。
「こちらが公爵様の執務室です。エステル様、どうぞ」
「どうぞと言われましても……」
お仕事中に入っていいのかしら?
私がためらっているとメイドが執務室の扉を開けてしまった。
「あっ」
「エステル様がいらっしゃいました」
中から「どうぞ」と低く落ち着いた声が聞こえる。
私は緊張しながら執務室の中へと足を踏み入れた。
広い執務室の中は、必要なもの以外置いていないといった雰囲気だった。執務机に座って書類を手に持っていた公爵様が顔を上げる。
他に誰もいないせいか、顔を隠していない。
公爵様は黒髪だったのね。昨晩、月明かりの下であったときは薄暗くて色までわからなかった。
透き通るような公爵様の紫色の瞳が、私に向けられている。
「俺に話があると聞いたが?」
「あっはい」
公爵様の顔が整いすぎていて、つい見惚れてしまったわ。黒文様のせいで、この顔を隠しているなんてもったいない。
「あの、公爵様を浄化したいのですが、少しだけお時間をいただけませんか?」
「俺を浄化?」
「はい、少しためしてみたいことがありまして……」
うまくいけば黒文様が消えるかもしれないけど、必ず消えるとは言えない。期待だけもたせるわけにはいかないので、私は言葉を濁(にご)した。
「えっと、あやしいことはいたしません!」
「そんなことは心配していない」
公爵様は執務机から立ち上がると「俺はどうすればいい?」と尋ねた。
「フリーベイン領には聖女が来たことがない。だから、浄化がどういうものかわからないんだ」
「あ、そうですよね」
聖女の数が多い時代では、聖女たちは王都以外の土地にも出向いて浄化に当たっていたらしい。でも、今の時代の聖女は私しかいなかったので、私が王都から出ることはなかった。
オグマート殿下は、新しい聖女が現れたと言っていたので、もしかすると、これから聖女が増えていくのかもしれない。そうだったら、とても嬉しい。
聖女が邪気を浄化し続けると魔物の出現率は下がる。実際、私が生まれ育った故郷では六十年前に一度、魔物が現れたくらいでそれ以降、魔物を見た者はいない。
こんなに頻繁に魔物が出るのは、フリーベイン領くらいかもしれないわ。
私は公爵様に微笑みかけた。
「公爵様は、何もしなくていいですよ。そのままそこに立っていてください」
目をつぶり、いつものように大聖女様に祈りを捧げる。
私の祈りが届いたようで、公爵様から黒いモヤが湧き出てきた。この黒いモヤが邪気だ。
邪気は私の体に吸い込まれていく。私は『邪気食い』なんて呼ばれているけど、実際に邪気を口から食べるわけではない。
すべての邪気が消えたあと、私はじっとしてくれている公爵様に顔を近づけた。
「あれ? 顔の黒文様が少し薄くなっていませんか?」
「まさか」
公爵様はそういうけど、本当に薄くなっているように見える。
「公爵様、鏡を見てください」
「鏡などこの部屋にはない」
「あっ、そうですよね」
わざわざ執務室に鏡を置いて、自分の顔に浮かぶ黒文様を見たいなんて思わない。
私は執務室から出ると、扉前に控えていたメイドに声をかけた。
「鏡を持ってきてください」
「はい」
メイドはすぐに手鏡をもって戻ってきた。それを受け取った私は「どうぞ」と公爵様に手鏡を差し出す。鏡を見た公爵様の瞳が大きく見開いた。
「本当だ……薄くなっている」
「ですよね!?」
「信じられない!」
私達は喜びのあまり、気がつけば手を取り合っていた。
「エステル、あなたはすごいな!?」
「いえ、お役に立ててうれしいです! これから毎日、公爵様の邪気を浄化しますね!」
「ああ、頼む!」
気がつけば公爵様の顔がすぐ近くにあった。
「す、すまない」
繋いでいた手がパッと離される。
「こちらこそ、すみません」
公爵様は、黒文様仲間だから自然と気を許してしまうわ。
でも、ちゃんとわきまえた態度を取らないと、元婚約者のオグマート殿下に嫌われていたように、公爵様にもまた嫌われてしまうかもしれない。
公爵様は、コホンと咳払いした。
「エステル、あなたにお礼がしたいのだが」
「あ、それでしたら……」
公爵様にお礼がしたいと言われた私は思い切って望みを言ってみた。
「ここで聖女として働かせてください。そして、その分の……報酬をいただきたいのです」
この国では、貴族があくせく働き賃金をもらうのは、恥ずかしいこととされている。でも、私の実家の男爵領は貧しかった。だから、領主の家族である私達も働くのが当たり前。
生きるために恥ずかしいだなんていっていられない。
そんな家族のためにも、男爵領で暮らす人たちのためにもお金は必要だ。
公爵様に「報酬というと?」と聞かれたので「お金です」と伝える。
「私の家に仕送りをしたいのです」
腕を組んだ公爵様は、何かを考えこんでいるようだった。
『金銭を要求するようなやつは聖女じゃない!』とか言われて、フリーベイン領から追い出されたらどうしよう……。
緊張しながら公爵様の言葉を待っていると、「すまない」と謝られてしまった。
やっぱり無理なのね。
「ご無理を言ってすみませ――」
「すぐに渡せる報酬が、金貨十袋くらいしかないのだが足りるだろうか?」
私の言葉をさえぎって、公爵様がとんでもないことを言ったような気がする。
金貨十袋? ふくろ!?
いやいや、おかしいわ。きっと金貨十枚と聞き間違えてしまったのね。それか公爵様は冗談を言っているのかも?
顔を上げて公爵様を見ると、とても真剣な表情をしていた。冗談を言っているような顔ではない。
「公爵様、今、金貨十袋と聞こえたのですが?」
「そうだ。すぐに渡せる金貨が十袋しかない。聖女への対価としては足りないだろう。至急用意させるから、数日待ってもらえないだろうか?」
私は無言で公爵様を見つめた。公爵様も私を見つめている。
聞き間違いでも冗談でもなかったのね。公爵様は、本当に金貨十袋以上を支払おうとしている。
「あの、多すぎです」
「そうなのか? だかしかし、聖女の浄化は奇跡の力だぞ。たった今、俺もその奇跡を見せてもらった」
尊敬するような眼差しをむけられて、なんだかそわそわしてしまう。神殿内では、邪気食い聖女と遠巻きにされていたから、こんな風にほめてもらったことがない。
「ありがとうございます。でも、お金は働いた分だけで大丈夫です。それだと多すぎます」
「聖女に支払う金額の相場がわからないのだが?」
「……それはそうですね」
新しい聖女が現れるまで、私しか聖女がいなかったから聖女を雇うなんてことはありえなかった。
「では、実家に手紙を出して、国と神殿からもらっていた援助金の金額を聞きますね。それを参考にして決めるのはどうでしょうか?」
手紙には、『神殿から追い出されてしまったけど、私は元気に暮らしている』ということも書かないとね。家族を心配させたくない。
「わかった、そうしよう。で、俺からの礼は何をさせてもらえばいいんだ?」
私はもう一度公爵様をまじまじと見つめた。公爵様は不思議そうな顔をしている。
「公爵様。お礼って?」
「あなたがフリーベイン領で、聖女の力を使ってくれることは願ってもないことだ。ぜひお願いしたいし報酬も必ず支払う。それとは別に俺の浄化をしてくれた礼がしたい」
「えっと。ですから、それが聖女の力なので報酬以外にお礼はいりません」
「俺の気持ちの問題だ。あなたに感謝を伝えたい」
「感謝……」
聖女は王国のために力を使うことが当たり前だった。誰にも感謝なんてされない。今まで私もそれが普通のことだと思っていた。
だからこそ、予想外の公爵様の言葉に私の胸は温かくなる。優しい公爵様を苦しめる黒文様が一日でもはやくなくなればいいのに。
「ありがたくお気持ち受け取りますね」
「ああ、なんでも言ってくれ」
「では、公爵様の黒文様を完全に消すために邪気について調べたいです。だから、フリーベイン領にある本を読ませていただけませんか?」
公爵様は端正な眉をひそめた。
「俺のために本を? それでは、礼になっていないような気がするのだが」
「そんなことありませんよ。公爵様の気のせいです」
クスクス笑っていると、公爵様の口元にも笑みが浮かぶ。
「エステル、俺のことはアレクと……」
公爵様の言葉をさえぎるように扉がノックされた。
「キリアです。入ってもよろしいでしょうか?」
「入れ」
公爵様の許可を得てから執務室に入ってきたキリアは神妙な面持ちだった。その後ろには、私をここまで案内して手鏡を持ってきてくれたメイドの姿もある。
何かあったのかしら?
公爵様もそう思ったようで「何かあったのか?」と尋ねている。
「いえ、エステル様の帰りが遅いのでお迎えにあがりました」
チラッとこちらを見たキリア。その顔は何か言いたそう。
あっなるほど、キリアも公爵様の黒文様がどうなったのか知りたいのね!
メイドに手鏡を持ってきてもらったし、公爵様と一緒になって喜んでいたので騒がしかったのかもしれない。
「キリア、浄化は大成功でしたよ。公爵様のお顔の黒文様が少し薄れました。これを続けると綺麗になくなると思います」
「そうなのですね!? すごいです、エステル様!」
ここの人たちは、すぐにほめてくれるので、なんだかくすぐったい。
「公爵様のお役に立ててうれしいです」
「エステル」
私の名前を呼んだ公爵様は、銀色のカギを私の手のひらに置いた。
「公爵邸内にある図書館のカギだ。あなたが持っていてくれ。いつでも入っていいし、どの本を読んでもいい」
「ありがとうございます!」
キリアは、さっそく私を図書館まで連れて行ってくれた。公爵邸内の図書館は、とても広い。その広い壁一面に本がずらりと並んでいる。
「二階にも本があるのね」
本棚の前で本の整理をしていた女性が「何をお探しですか?」と聞いてくれた。
「あなたは?」
「この図書館で働く司書です」
図書館司書に「邪気関連の本を読みたいです」と伝えると、すぐに五冊持ってきてくれた。
「五冊だけ?」
「はい、ここにあるものは、これですべてです」
五冊とも借りて部屋に戻った私は、キリアやメイドにさがってもらい一人で本を読んだ。
どの本にも、『邪気は聖女が浄化するもの』としか書かれていない。それに邪気の本というより、聖女の奇跡をつづった本ばかり。
そっか、聖女がいるこの国では、邪気の研究をする必要がないのね。だって、邪気は聖女が浄化してくれるものだから。
もしかすると聖女がいない国でなら、もっと邪気の研究がされているのかもしれない。
「これ以上、邪気を調べても仕方ないわね」
私は本を閉じてため息をついた。
「とにかく、ここで私ができることをしましょう」
*
それから、数か月の月日が経った。
私は公爵様の元で、聖女の仕事をしながらのびのびと暮らしている。
いつもそばにいてくれる護衛騎士のキリアがニコリと私に微笑みかけた。
「エステル様、今日は外でお茶にしましょう」
「あれ? 昨日も外でお茶をしませんでしたか?」
「あ、その、今日もどうでしょうか?」
「そうですね。天気も良いですし、そうしましょうか」
キリアと並んで公爵邸の庭園に向かう。そこには心地好い風が吹いていた。
木漏(こも)れ日の下では、すでにお茶の準備が整えられていた。白いテーブルの上においしそうなお菓子が並び、ピンク色の可愛い花が飾られている。
キリアが椅子を引いて私を座らせてくれた。彼女は未だに私のことを丁寧に扱ってくれている。
「いつもありがとうございます」
私がお礼を伝えると、キリアは困った顔をした。
「エステル様。そろそろ我らに敬語をおやめください。あなたは公爵夫人になるお方……」
その言葉を聞いて、今度は私が困った顔をする番だった。
数か月たった今でも、公爵邸の人たちは、私を公爵様の婚約者だと誤解している。
たしかに、公爵様は私にとても良くしてくれているけど……。
たくさん贈り物をくれたり、『俺のことは、アレクと呼んでくれ』と言ったりしてくれる。でも、それは黒文様仲間としてで、そこに恋愛感情はない。
私はもう一度、キリアの説得をこころみた。
「キリア。何度もいいますけど、公爵様にははっきりと『この婚約はなかったことに』と言われています。だから、そもそも私を護衛する必要はないんですよ?」
「くっ! 閣下はいつになったらエステル様を落とせるんだ……」
「あの、キリア? 私の話を聞いていますか?」
たぶん聞いていない。今回も誤解を解くのに失敗してしまったわ。
私がハァとため息をつくと、偶然にも公爵様が通りかかった。
「エステル」
「あ、公爵様」
左手に剣を持っているので鍛錬のあとに通りかかったのかもしれない。
「あなたの姿が見えたので」
キリアが「せっかくなので、閣下もご一緒してはいかがでしょうか?」と公爵様に進めている。
そういえば、昨日もバッタリ出会って一緒にお茶をしたような?
キリアのすすめでお茶の席についた公爵様の元に、すぐに淹(い)れたてのお茶が運ばれてくる。
「もしかして、公爵様も休憩時間ですか?」
「俺のことはアレクと呼んでくれと……。いや、まぁそんな感じだ」
そう答えた公爵様の顔に浮かび上がっていた黒文様はきれいに消えていた。浄化を続けることによって、体中にあった黒文様もどんどん薄れてきている。
今思えば、元婚約者のオグマート殿下が公爵様のことを『醜い男』と言っていたのは、私と同じ黒文様があったからなのね。
公爵様は黒文様があっても整った顔をしていたのに、黒文様がなくなった今は、だれが見ても美しい青年だった。日々鍛えているせいか、体つきもたくましい。
ああ、美青年を眺めながら過ごせるって幸せ~。
私は、おいしいお茶を飲みながら、サクサクのクッキーを食べた。フリーベイン公爵領の食事はどれもおいしい。公爵様もカップを口元に運んでいる。
「そういえば、私たち、最近よく会いますね」
お茶を飲んでいた公爵様がゴフッと小さくむせた。なんだか急に顔色が悪くなったような気がする。
「……迷惑だったか?」
「いえ、そういうわけではなく! ご一緒できて楽しいです!」
「……なら、よかった」
どこかホッとした様子の公爵様。王都では公爵様は残虐非道(ざんぎゃくひどう)なんてウワサがあったけど、そんな事実は少しもなかった。
私が公爵様を見つめると、「な、なんだ?」となぜかあせっている。
「私の聖女の力、少しはお役にたっていますか?」
フリーベイン領は王都より邪気が少ないのよね。だから、聖女の仕事も多くない。そのおかげか私の体にも再び黒文様は現れていない。でも、今でも左肩にだけは黒文様が残っている。
公爵様が少しだけ口元をゆるめた。
「ああ、もちろん役にたっている。あなたが来てからは、魔物がめったに現れなくなったからな」
「それは良かったです」
公爵様からは、私が聖女の仕事をするかわりにたくさんの報酬をいただいていた。そのおかげで実家に仕送りができている。
この前家族から届いた手紙には、弟が無事にアカデミーに入学できたと書かれていた。
ふと公爵様の視線を感じて、私は公爵様を見つめた。こころなしか公爵様の顔が赤いような気がする。
「公爵様、どうかしましたか?」
「いや、ベールはもうつけないのだなと思い……」
「あ、つけたほうが良いですか?」
顔の黒文様が消えたので、もう顔は隠していない。
「いや、つけていないほうがいい。その、あなたはとても綺麗だから」
「……きれい? だれが?」
「あなたが」
「あなたって?」
「エステル、あなただ」
公爵様の言葉を理解するのにたっぷり五秒かかってから、私は叫んだ。
「え、えー!? そんなこと初めて言ってもらいました! 嬉しいです! ありがとうございます」
お世辞でもなんでも嬉しくて仕方ない。
「あなたの元婚約者……オグマートは褒めてくれなかったのか?」
「はい、醜い姿だって言われていました」
パキンッと公爵様が持っていたカップの取っ手が割れた。
「公爵様!? 大丈夫ですか!?」
「……大丈夫だ。あなたに仕える神殿の者たちは?」
私は神官たちの冷たい視線を思い出して、うつむいてしまう。
「私は汚らわしい邪気食いなので、なんというかその……遠巻きにされていました、ね」
えへへと私が笑うと、公爵様の顔が急にこわくなった。
「あ、すみません! このような情けないお話をしてしまい」
「いや、聞いて良かった」
公爵様は、控えていたキリアに「今後は、オグマートと神殿から来た手紙は、私にまわさず全て燃やせ」と指示している。
「はい!」
フゥとため息をついた公爵様は、私に向き直った。透き通るような紫色の瞳が私を見つめている。
「俺は、あなたがいつか王都に帰りたいのではないかと思っていた」
「そんな!? ありえません! お願いですからここに置いてください!」
王都に戻っても私の居場所なんてどこにもない。ここでは公爵様もキリアも、みんな優しくしてくれる。
公爵様の手が私の指にそっとふれた。
「あなたが王都に戻る気がないのなら……あなたさえよければ、その……俺と婚約を……。そして今度、隣国の舞踏会にあなたと一緒に参加したい」
語尾がだんだんと小さくなっていく公爵様の横で、キリアが『頑張れ』と言いたそうに両手をにぎりしめている。
私が公爵様と……婚約?
ふいにオグマート殿下の声が聞こえた。
――あいかわらず、醜い姿だな。
胸がチクッと痛む。
公爵様の言葉で混乱してしまっていたけど、おかげで冷静になれたわ。
たしか隣国の舞踏会は、パートナーなしでは参加できなかったはず。ということは、つまり……。
「わかりました! 舞踏会で私が婚約者のふりをすればいいのですね?」
「!? いや、その、ちが……」
「お役にたてて、とても嬉しいです!」
「うっ……」
長い沈黙のあとに公爵様は「……ああ、そういうことだ」と硬い表情で告げる。
「任せてください! 私、立派に婚約者のふりをしてみせます!」
「うむ、頼んだぞ」
そういった公爵様は、どこか遠い目をしていた。もしかしたら、私が婚約者役をうまくできるのか不安なのかもしれない。だったら、ちゃんとできることを証明しないと!
「これからは、アレク様と呼ばせていただきますね!」
「あ、ああ!」
パァと表情を輝かせるアレク様。
なぜか、キリアや周りにいるメイドたちから、何か言いたそうな視線を感じた。
やっぱりみんな、私がうまくできるか不安よね。
よく考えたら、私は社交界デビューをしていない。実家にそんな余裕がなかったからこそ、聖女になるために神殿の門をくぐった。
聖女の私とオグマート殿下の婚約が正式に結ばれたとき、婚約発表をかねて、一度だけ殿下と一緒に舞踏会に参加したことがある。
あのときは、黒文様がまだ私の顔にまで出ていなかった。だから手足をすべて隠すようなドレスを着て参加した。
覚えているのは私をエスコートするオグマート殿下の嫌そうな顔。
小声で何度も「必要以上に俺に近づくな!」と、きつく注意を受けた。ダンスは踊らなかった。
あれ以来、舞踏会には一度も参加していない。
ダンスは聖女になる前は大好きだったけど、今はもう自信がない。
「あの、アレク様。ダンスはお好きですか?」
「いや」
私はホッと胸をなでおろした。
「私、ダンスに自信がなかったので良かったです。もしアレク様がダンスがお好きなら、一緒に練習させていただこうかと思っていました」
「……」
しばらく何かを考えこんでいたアレク様は咳ばらいをした。
「いや、だが一曲くらいは踊らないといけない……はず」
なぜか視線が合わない。
「そうなんですか!? では、ダンスの練習に付き合っていただけませんか?」
「ああ、喜んで!」
ようやく視線があった。
アレク様はいつもとても優しい目をしている。そんなアレク様と一緒なら舞踏会も楽しいかもしれない。
魔物の襲撃後すぐに、フリーベイン領に私名義で何度も手紙を送らせた。だが、いまだにエステルからの返事はない。
「くそっ!」
私は手に持っていたグラスを床に叩きつけた。
ガシャンとグラスが割れる音とともに、ワインのシミが床に広がっていく。
「エステルは、まだ戻らないのか!?」
怒鳴りつけると、侍従はおびえながら首をふった。
魔物被害の報告に来ていた騎士団長のため息が聞こえ、私をさらにいら立たせる。
「オグマート殿下、落ち着いてください」
「落ち着いていられるか! エステルがいなくなってから、もう五回も魔物の襲撃を受けているんだぞ!?」
エステルがいなくなったあの日、出現した一匹の魔物は城下町には目もくれず、まっすぐ城を目指してきた。
遠目で見た魔物は、巨大なオオカミのように見えた。しかし、尻尾は炎のように燃え盛り、黒いモヤでおおわれるその姿は普通の動物ではない。
血のように赤い目が三つもあり、思い出すだけでゾッとする。
王都中の騎士を集めてなんとか討伐したものの、こちらの被害は甚大(じんだい)だった。
騎士達の三分の一は死傷した。その責任を取らされて、私は軍の総指揮から降ろされた。今は兄である第二王子が総指揮にあたり、王子であるこの私が騎士団長の下につけられている。
魔物の襲撃後、多くの貴族が王都に構えていた邸宅を捨て、逃げるように自分たちの領地に帰っていった。
住む者がいなくなった貴族街は廃墟のようになっている。
「なんとしてでも、エステルを王都に呼び戻さないと……」
「聖女エステル様は、大丈夫でしょうか? ご無事なら良いのですが」
騎士団長を含む多くの者は、私がエステルを追い出し、フリーベイン領に行かせたことを知らない。
聖女の不在は、魔物が多く出没するフリーベイン領を哀れに思ったエステルが、勝手に向かったことになっている。
真実を知っているのは、私と新しい聖女マリア、そして、エステルをフリーベイン領まで送った神殿で働く馬車の御者だけだった。
御者には大金を渡して口止めし他国に行かせた。だから、エステルが王都に戻ってくるまで、マリアさえ黙っていれば、なんの問題もなかったものを!
あろうことかマリアは、私がエステルを王都から追いだしたことを国王陛下である父に告げ口した。
なんとか黙らせようとしたが、侯爵令嬢というマリアの地位が邪魔をして思うようにできなかった。
魔物の襲撃が、私が聖女を追い出したせいだと知られると王家の威信(いしん)は失われる。だから、父の判断でその事実を伏せることになった。
マリアも「今は混乱を避けるべきだ」と陛下に言われ、しぶしぶだが従う。
父が私に向ける視線は冷ややかだった。
「オグマート、お前が、これほどまでに愚かだったとは……」
あのときの父に向けられた目を思いだすと、今でも腹が立つ。
くそっマリアめ! あの女、高貴な生まれで麗しい外見だったから優しくしてやったのに、あんなに心が醜(みにく)かったなんて。
こんなことになるのなら、外見が醜いエステルのほうがまだマシだった。
エステルは従順だし、聖女の力は役に立つ。
「エステルを引きずってでも、私の元に連れ戻してやる!」
そうすれば、すべて元通りだ。
私の言葉を聞いた騎士団長が「殿下、聖女様になんてことを……」と言ってくる。本当に不愉快なやつだ。
「うるさい! 用が済んだらさっさと部屋から出ていけ!」
「まだ伝言が終わっていません」
「私が出て行けといえば出ていくんだ!」
襟首をつかみ脅しても、騎士団長は顔色ひとつ変えなかった。
「上官への暴力は禁止されている。今すぐ手を放すんだ」
「私は王子だぞ!? だれに物を言っている!?」
「……お前にだよ、オグマート」
騎士団長に手を払われたと思ったら、気がつけば私が襟首をつかまれていた。
「お前は、王族の権限をすべて剥奪(はくだつ)された。これは陛下のご指示だ」
「なっ!?」
騎士団長がパッと手を離したので、私は無様に床に尻もちをつく。
「国王陛下より伝言だ。今後は一兵卒として戦場の最前線で戦い、一体でも多く魔物を倒すこと。そして、その命が尽きるまで戦い続けること」
「そんなの、死ねと言っているようなものではないか!?」
私を見下ろす騎士団長の目は、おそろしく冷たい。
「言っているようなものではない。王家のために死ねと言われているんだ。そんなこともわからないのか?」
「父に抗議してくる!」
立ち上がろうとした私の肩を、騎士団長は強く押さえつけた。
「聞こえなかったか? お前は王族の権限を失っている。もう陛下に謁見(えっけん)できるような身分ではない。早く荷物をまとめて一兵卒用の兵舎へ向かえ」
「ふざけるな!」
私の肩に騎士団長の指がめり込んだ。
「痛っ!?」
「ふざけているのはお前のほうだ。俺の意見を無視してクソみたいな命令を出し、よくも大事な部下たちを殺してくれたな」
その声は殺気に満ちていた。
「お前がこの場で殺されないのは温情ではない。よりお前を苦しませるためだ」
騎士団長の言葉通り、それからの生活は地獄だった。
一兵卒用の兵舎で、私にあてがわれた部屋は臭くてせまい。まるでブタ小屋のようだった。食事もまずくて食べられたものではない。だがこれは嫌がらせではなく、普通の一兵卒の暮らしだと言われた。
訓練は朝から晩までつづき、部屋に戻ると固いベッドで泥のように眠った。それを繰り返しているうちに、次第に剣の扱い方や体の動かし方を思い出していく。
そういえば、私は剣の腕前だけは、優秀な兄たちに勝(まさ)っていた。でも平和すぎる世の中では、剣術が強くても評価されることはなかった。
私がほめられるのは、この整った外見くらいだ。
軍の総指揮を任されたときも、陰では貴族たちに『ただの名誉職だ』とあざ笑われていたことを私は知っている。
騎士団長の言っていたとおり、魔物が現れたら最前線に立たされ命がけで戦わされた。
そのたびに己の剣術がさえていくのがわかる。
周囲のやつらは、犯罪者を見るような目で私を見ていた。しかし、私が魔物を倒すたびに、それが少しずつ変わっていくのがわかる。なんとも言えない気分だったが、まぁ悪くはなかった。
せまい自室に戻り、魔物の返り血を浴びた服を脱ぎ捨てる。
そのとき、何かおかしなものが見えた。
あってはならないものが、なぜか私の体にあったような気がする。
おそるおそる自身の腰あたりを見ると、そこにはエステルにあった醜い黒文様が浮き上がっていた。
「う、うわぁああああ!?」
ゴシゴシと手のひらでこすっても取れない。
「なぜ私に!?」
同じように魔物と戦っている者達の中で、体に黒文様が浮き上がったなんて聞いたことがない。
エステルは、会うたびに体を蝕(むしば)む黒文様が広がっていた。
「たしか、エステルに最後に会ったときは、顔にまで浮き上がっていたぞ……私もああなるのか?」
この私が、あんなにおぞましい、醜い姿に?
想像するだけで血の気が引くような思いだった。
「い、嫌だ……エ、エステル。そうだ、エステルを呼び戻さないと……」
王都や神殿からフリーベイン領にエステルを迎えにいったが、すべてフリーベイン公爵に追い返され、聖女に会わせてもらえなかったというウワサ話を聞いていた。
だから、エステルはまだフリーベイン領にいる。
エステルが王都に戻り邪気を浄化すれば魔物は現れない。そうすれば、私の黒文様はきっと消えるはず。
聖女を連れ戻した功績で、また王子にだって戻れるかもしれない。
「醜いのは、エステルだけで十分だ」
私は部屋の中にあったわずかな荷物を袋に詰め込むと、真夜中の兵舎をあとにした。
ダンスの練習をしたいと言ったエステルのために、ダンスの講師を公爵邸に呼び寄せた。
「お久しぶりです。閣下」
俺の記憶よりいくぶんか年を取ったベレッタが、優雅に淑女の礼(カーテシー)を取る。
「久しいなベレッタ」
ベレッタは母の友人であり、俺のダンスの先生でもあった。優しくときには厳しい良い先生だったように思う。
両親が亡くなり、まだ子どもだった俺が公爵位を継ぐと、ダンスの練習などする暇がなくなった。
父に代わり騎士団を率いて魔物退治をつづけているうちに、体に不気味な黒文様が浮き上がってきた。それからは、人前に出ることをさけていたので、ダンスなんてエステルに言われるまで存在自体を忘れていた。
ベレッタに会うのは、両親の葬式以来だ。
「ご立派になられて……」
そういったベレッタの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ベレッタ、またダンスを教えてほしいのだが」
「もちろんです! 婚約者様と三か月後に開催される舞踏会に参加するのだとうかがっております」
「ああ、婚約者はエステルという。それで――」
「エステル様ですね! 王都の神殿にお仕えしていた聖女様だとお聞きしております! エステル様はどちらに?」
瞳を輝かせるベレッタから、俺はそっと視線をそらした。
「その件だが、ダンスは別々に教えてくれないだろうか?」
不思議そうなベレッタ。
ダンスなんてもう何年も踊っていない。まともに踊れる気がしない。
「その……エステルに情けないところを見せたくなくて、だな」
恥を忍んで頼むと、ベレッタの瞳から涙がボロボロとこぼれた。
「べ、ベレッタ!?」
ふ、ふふ、と笑ったベレッタは人差し指で涙をぬぐう。
「閣下は素敵な方に出会えたのですね」
「ああ、俺にはもったいないくらいの婚約者なんだ」
正確には、エステルは婚約者のふりをしてくれているのだが。そのことを思いだすと、自分の情けなさに気が滅入るのであまり考えないようにしている。
今思えば、エステルに初めて会ったあの夜、エステルに『私たち、一緒ですね!』と微笑みかけられた瞬間、俺はエステルに心を奪われていた。
そのあともエステルを知れば知るほど彼女に惹かれていくのがわかった。
でも、わかったものの、どうしたらいいのかはわからなかった。
この数年間、魔物退治と公爵の仕事のくり返しで、まさか自分が女性に好意を持つ日がくるなんて考えたこともない。
使用人達のすすめで、エステルにいろんな贈り物をしたが、喜んでもらえているのだろうか?
エステルの護衛キリアからは、「エステル様は、閣下のことを黒文様仲間のお友達だと思われているようです」と報告が上がっている。
周囲の協力もあり、なんとか告白したが、それもうまく伝わらず、エステルは婚約者のふりをしてくれることになってしまった。
一緒に舞踏会にいってくれるそうだ。ならば、せめてダンスくらいまともに踊れるようになって、エステルに良いところを見せたい。
そうベレッタに伝えると、なんだか生温かい目を向けられてしまう。最近、俺の周りにいる人たちは、みんなこんな目をしている。
「閣下の事情はわかりました。優雅なダンス、完璧なリードでエステル様に振り向いていただきましょう!」
「ああ、頼んだぞ」
*
そうして、エステルと別々のダンスレッスンを受けた一か月後。
なんとか俺のダンスが形になり、エステルと一緒にダンスレッスンをすることになった。
ダンスホールに現れたエステルの足取りは軽い。彼女が歩くたびに、黄色のスカートがフワフワとゆれる。
そのドレスは、エステルのブラウンの髪に良く似合うと思って贈ったドレスだった。
「あっ、アレク様」
俺の名前を呼びながら、まるでひまわりのように明るい笑みを浮かべる。
「……美しい」
ボソッとつぶやいた俺を、ベレッタが肘でつついた。
そうだった。女性をほめるときは、相手の目を見て大きな声で伝えるのですよ、と言われていた。
俺はエステルの側に行くと、その瞳をまっすぐ見つめる。
初夏のみずみずしい若葉のような瞳がキラキラと輝いている。
「とても美しい」
エステルの白いほほに、少しだけ赤みがさした。
「嬉しいです。アレク様もとっても素敵ですね!」
「あ、ああ」
使用人たちに、朝からあーだこーだ言われながら、服を選んだかいがあった。
それ以上何を話していいのかわからず困っていると、ベレッタがパンパンと手を叩く。
「では、さっそくお二人で合わせて踊ってみましょう」
「はい!」
元気なお返事をするエステル。
ダンスのために手を取り合うと、それだけで心臓が高鳴った。
エステルは小声で「緊張しますね」とささやき微笑む。
「ああ」
俺よりは緊張していなさそうに見えるが。
曲の演奏が始まると、エステルの表情が変わる。
いつもにこにこしているエステルが真剣なまなざしになる。見たことのない表情に見惚れていると、ベレッタに「ダンスに集中!」と怒られた。
そうだった、エステルに良いところを見せないと。
体に叩きこんだステップは、もう無意識に再現できる。練習を繰り返すうちにリードもベレッタにほめてもらえた。
ふと、エステルと視線があった。
真剣だった表情がゆるみ、愛らしい笑みが浮かぶ。
「アレク様、私、楽しいです」
「ああ、俺も楽しい」
楽しそうに笑ってくれるエステルを見ているうちに、俺のほほも自然とゆるんでいた。
楽しい。
最近、生きることが、楽しくて仕方ない。
公爵位の重圧と、命がけの魔物との戦いの中で心がすり減り、楽しいだなんて感情を長い間忘れていた。
エステル、あなたをだれよりも幸せにしたい。
それが最近できた、俺の願いだった。
アレク様とのダンス、楽しかった……。
先日のダンスレッスンのことを思いだして、ニコニコしてしまっている自分に気がつき、私はあわてて表情を引き締めた。
今の私は、全身鏡の前でメイドたちに囲まれている。
「エステル様、こちらのドレスはどうでしょうか? このレース部分が素敵ですよ」
「いえ、こちらのドレスのほうがお似合いかと」
楽しそうにドレスを選んでくれるメイドたちの後ろで、護衛騎士のキリアは申し訳なさそうな顔をした。
「ドレスはオーダーメイドにしたかったのですが、舞踏会までの日数が足りず既製品を改良することになってしまいましたね」
「それで充分ですよ」
既製品といってもどのドレスもきれいだった。しかも、わざわざドレスを改良するためだけに、アレク様は公爵邸に服飾士までまねいてくれた。
服飾士が来ると聞いたときは、王都での嫌な思い出に少しかまえてしまったけど、フリーベイン領の服飾士は、とても優しいお姉さんだった。
彼女は私の左肩に残る黒文様を見ても、嫌な顔ひとつしない。むしろ、瞳を輝かせながら「聖女様にお会いできて光栄です」なんて言ってくれた。
戸惑う私に「聖女様はどんなドレスがお好きですか?」と微笑みかけてくれる。
「あの、えっと、ドレスのことは良くわからなくて……」
「オーダーメイドドレスは、初めてですか?」
「いえ」
王都でオグマート殿下との婚約発表のときに、一度だけ王家の指示でドレスをオーダーメイドしたことがあった。
そのときの服飾士は、手足に浮き上がる私の黒文様を不気味がり、私に近づくのもためらっていた。
ドレスも、とにかく手足の黒文様を隠せればいいといったデザイン。
サイズもきちんと測っていなかったようで、できあがったドレスは私には大きかった。
それは、流行にうとい私でも「これはちょっとどうかな?」と思ってしまうほどの出来で。
そのドレスを着た私を見たときのオグマート殿下の冷たい目を思い出すと、今でも胃の当たりが痛くなる。
「お前のようなヤツを連れて舞踏会に参加するのは恥だ」と言う殿下に、私は小声で「すみません」と謝ることしかできなかった。
本当に舞踏会には良い思い出がない。
でも、アレク様と一緒にダンスレッスンをしたあとから、私の気持ちは大きく変わった。
ダンスを踊る前はとても緊張した。でも、アレク様と手を取り合い曲に合わせてステップを踏むとすぐに楽しくなった。
そういえば、私、父以外の男性とダンスを踊るのがはじめてだわ。
実家では、父がダンスレッスンの相手役をしてくれていた。そのときも楽しかったけど、アレク様とのダンスは楽しいだけじゃない。
なんというか、その、少しドキドキしてしまう。
ダンス中にチラリとアレク様を見ると、優しい笑みを向けられた。
それだけで身体だけでなく心も弾む。アレク様にも「楽しい」と言ってもらえたことが何よりも嬉しかった。
ダンスのときに重ねたアレク様の手は、私の手より大きく手袋の上からでもわかるほど固かった。
この手で剣をふるって、今まで大切なものを守ってきたのね。
神殿で祈りを捧げ邪気を浄化するだけの私とは、比べ物にならない苦労をしてきたのだと思う。
私もキリアや他のみんなのように、アレク様のお役に立ちたい。
心の底からそう思える。
「エステル様、もう少し背筋を伸ばして、胸を張っていただけますか?」
「あ、はい!」
服飾士の声で、私は我に返った。
そうそう、今はドレスの制作に集中しないと。
何着かドレスを着たあとに、服飾士は「これですね。このドレスが一番お似合いです」とつぶやく。その後ろでは、メイドたちが大きくうなずいている。
「エステル様の美しいブラウンの髪には、黄色や緑、白や黒も似合いますが、私は断然、赤が良いと思います」
「赤、ですか?」
そんなにきれいな色が私に似合っているのかしら?
それに服飾士が似合うと言ってくれたドレスは、とても華やかな作りだった。
きめ細かい刺繡がほどこされていて、鎖骨や肩が見えてしまっている。
私はそっと、左肩に残る黒文様にふれた。
私がためらっている理由に気がついたのか、服飾士は可愛らしい花飾りを私の左肩に当てる。
「肩が気になるようでしたら、これで隠しましょう」
飾りひとつで黒文様は綺麗に隠れてしまった。
「でも、こんなに高そうで綺麗なドレスを、私が着ても大丈夫でしょうか?」
「もちろんですわ」
服飾士は、私が着ているドレスの腰の部分を指でつまむ。
「エステル様には少し大きいので、今からサイズを合わせますね。特別なものになるようにレースや飾りも足しましょう。私にお任せください。必ずあなた様に似合う最高のドレスをご用意いたします」
自信に満ちた服飾士の瞳を見て、私は大切なことに気がついた。
そうだわ、私に自信がなくても、私はこの服飾士の仕事を信じればいいんだわ。
それなら簡単にできる。
「お願いします。私をアレク様の婚約者として恥ずかしくないようにしてください」
「お任せください」
「ドレス、楽しみです」
服飾士が私に向けた笑みは、とても温かかった。
隣国の舞踏会まであと二ケ月。
その間にダンスだけでなく貴族のマナーも学び直さないと。
隣国の文化についても知っておいたほうがいいわよね?
毎日とても忙しいけれど、神殿で一人祈っていたときより今のほうがずっと楽しい。
アレク様やキリア、フリーベイン領のみんなのためならなんでもできるわ。
そう思ったとき、私の体からまばゆい光があふれ出した。
私からあふれ出した光は、大きく膨れあがると空に昇っていった。
上空でパンッとはじけ飛んだかと思うと、空からヒラヒラと淡い光が降りそそぐ。
「エステル様、これは!?」
側にいたキリアが驚いているけど私にもわからない。
「わかりません、こんなことは初めてで……」
そのときは、何が起こったのか、誰もわからなかった。
*
それから、ひと月後。
一緒にお茶をしていたアレク様は難しい顔をしていた。
「前にフリーベイン領の上空に上がった光の正体だが」
「わかったのですか!?」
「わかった、というよりは……あれからフリーベイン領に、魔物が一度も出ていないんだ」
フリーベイン領は、それまで頻繁に魔物が出ていたと聞いている。でも私が来てからはめったに出なくなったと言っていた。
その魔物が今度は、まったく出なくなったらしい。
「ということは……」
「おそらく、何かしらの聖女の力でフリーベイン領全域が守られているのではないだろうか?」
「そんなことが可能なのでしょうか?」
歴代聖女の中でそんな力を持っている人がいたなんて聞いたことがない。
「できないのか? 王都では、聖女の力で魔物は長年出ていないと聞いている」
「たしかに王都では魔物はでませんでした。でもそれは歴代聖女が邪気を浄化し続けていたからであって、浄化をやめると魔物がでたと思います」
フリーベイン領では邪気が少ないので、私はほとんど浄化をしていない。だから、この土地は邪気が多くて魔物が出ているのではない。
それなのに、急に魔物がでなくなったというなら、それは浄化ではなく大聖女様だけが使えたと伝えられている魔物を寄せ付けない結界を張る力に近い気がする。
そう伝えると、アレク様は「結界……」とつぶやいた。
「舞踏会が開催される隣国カーニャでは、邪気や聖女について積極的に研究しているらしい。そこで何かわかればいいのだが」
「そうですね……」
もし本当に私が結界を張ることができたのなら、偶然ではなくいつでもその力を使えるようになりたい。そうすれば、聖女がいない国で魔物におびえて暮らす人達の恐怖を取り除けるかも?
アレク様の手が、そっと私の手にふれた。
「まだわからないことだらけだが、フリーベイン領にとってこれほど嬉しいことはない。ありがとう、エステル」
澄んだ紫色の瞳が優しく細められる。アレク様に微笑みかけられると、私はとても嬉しくなる。
「お役にたてて光栄です!」
この勢いで、婚約者のふりも立派に果たしたい。
アレク様とのダンスレッスンは順調で、ダンスを教えてくれるベレッタ先生にも「お二人とも、うまくなりましたね」とほめてもらえた。
貴族のマナーも学び直したし、隣国の文化も調べて準備は完璧……だと思う。
「エステル。以前から伝えていたが、フリーベイン領から隣国カーニャの王都まで馬車移動で数日はかかる。もうそろそろ出発する予定だったが、魔物が出ないなら安心して旅立てるな」
「そうですね」
「道中はこまめに休息するし、宿も手配しているので心配しなくていい」
「はい!」
はじめて他国に向かうけど不安は少しもなかった。
キリアと一緒に荷物も詰めたし、あとは出発するだけ。
*
出発の当日。
空は青く晴れ渡り、ポカポカ陽気が気持ち良い。まさにお出かけ日和だった。
動きやすいワンピースを着て、旅用のブーツを履いている私に、キリアはフード付きのマントを手渡す。
「朝晩冷えることもあるでしょう。エステル様、こちらをお持ちください」
「ありがとうございます」
受け取ったマントの手触りのよさに、ついうっとりしてしまう。
「エステル様、こちらに馬車を準備しております」
キリアに案内された先で、私はポカンと口を開けた。
頑丈そうな大きな馬車の周りを騎乗した騎士達が取り囲んでいる。その後ろには荷物を積んだ荷馬車も見えた。
「こんなにたくさんで隣国に行くんですか?」
私の質問には、キリアが答えた。
「騎士の半数以上は、フリーベイン領を守るために置いて行きます。道中不安かもしれませんが、必ず我らがエステル様をお守りします」
「いえ、不安とかじゃないんです」
ひとりぼっちで王都から出発した日とは、比べ物にならないくらいにぎやかだったので少し驚いてしまっただけで。
「エステル様、先に馬車にお乗りください」
キリアのエスコートを受けて私は馬車に乗り込んだ。馬車内は、あと五人くらい乗っても平気そうなくらい広い。もしかすると、宿がない場所ではこの中で寝ることもあるのかもしれない。
しばらくすると、周囲が騒がしくなった。
馬車の窓から外を見るとアレク様がこちらに向かって歩いてきている。黒い騎士服の上にマントを羽織り、颯爽と歩くアレク様から目が離せない。
「わぁ、かっこいい」
美青年とのおでかけって幸せよね。
馬車に乗り込んできたアレク様と視線があった。私が小さく手をふると、アレク様はなぜか固まる。
「エステル?」
「はい?」
「ど、どうして同じ馬車に?」
その問いは私ではなく、馬車の外にいたキリアに投げかけられた。
「どうしても何も、婚約者が別々の馬車で隣国に向かったら、仲が悪いのかと疑われてしまいます」
「いや、しかしっ!」
「ごゆっくり」
キリアは良い笑みを浮かべたまま馬車の扉を閉めた。
アレク様は、なんだか難しい顔をして固まってしまっている。
「あの、アレク様。この馬車、とても広いから二人で乗っても大丈夫ですよ!」
少しの沈黙のあとで「……あ、ああ、そうだな」と小さな声が返ってきた。