それから数日後。
途中で馬車から荷馬車に乗り換えて、私の旅は続いていた。
のどかな風景に思わずあくびが出てしまう。ポカポカ陽気が心地いい。
神殿から追い出されてしまった私は、王都を包み込むように存在していた邪気を浄化するというお役目がなくなった。
こんなにのんびり過ごすのは久しぶりだわ。なんだか身体の調子がいつもより良い気がする。
それでも顔を隠すための黒ベールは手放せない。邪気の象徴であるこの黒い文様は、見る人を怖がらせてしまうから。
オグマート殿下には嫌われてしまったけど、フリーベイン公爵領では、上手くやっていかないと……。
私は馬車に揺られながら、毎日の日課である祈りを始めた。
聖女の祈りを受け取ってくださるのは、大昔にこの国を救ってくださった大聖女様だ。初代聖女様でもある彼女は、その偉業からこの国の守り神として崇められていた。
祈りを捧げたあとに、邪気を浄化できるようになる人のことをこの国では聖女と呼ぶ。邪気を浄化できる力は不思議と女性にしか現れない。
お役目のなくなった私は、祈りのあとに離れて暮らす家族や領民達の無事を願った。
「どうか、皆が笑顔で暮らせますように」
私がそうつぶやいたとたんに、ドドドッという地鳴りが聞こえてきた。
荷馬車の御者が「な、なんだ、ありゃ!?」と声を上げている。御者が指さすほうを見ると、遠くで土煙が上がっていた。それがすごい勢いでこちらに近づいてくる。
土煙を上げていたのは立派な騎馬隊で、あっという間に荷馬車は騎馬隊に取り囲まれてしまった。
「ひ、ひぇえ」と悲鳴をあげる御者を守るために、私は荷馬車から降りた。
「これは何事ですか?」
そう尋ねると、騎士たちは一斉に馬から降りて地面に片膝をつく。
「聖女エステル様ですね? 我らはフリーベイン公爵家の騎士です。エステル様をお迎えに上がりました」
「わ、私を?」
驚く私を騎士達は「どうぞ、こちらへ」と豪華な馬車に案内した。一人の凛々しい女性騎士が私のカバンを運んでくれる。
「聖女様の荷物はこれだけですか?」
「あ、はい」
私の荷物を運んでくれている女性騎士は、馬車に一緒に乗りこむと礼儀正しく頭を下げた。
「キリアと申します。これから聖女様の護衛にあたらせていただきます」
「ご、護衛ですか?」
「王都では護衛はつきませんでしたか?」
「はい、私は神殿内にずっといたので……」
キリアは「では、慣れないかもしれませんが、ここは王都と違い危ないので、どうか私を護衛としてお側に置いてください」と再び頭を下げる。
「ええ!? そんなっ、私のほうこそよろしくお願いします」
私もあわてて頭を下げると顔を隠していたベールがずれてしまった。視線が合ったキリアはポカンと口を開ける。
「み、見えましたか?」
「……あ、はい」
ベールで隠していた禍々しい黒文様を見られてしまった。
「すみません……」
「いえ、こちらこそ」
ふぅとため息をつくキリア。
「公爵閣下は、エステル様のような方を婚約者にできて幸せですね」
「……え? 今、なんて?」
「はい、公爵閣下は幸せ者だと」
「いえ、その少し前です」
「あ、エステル様のような方を婚約者(・・・)にできて……ですか?」
「んん?」
聞き間違いでなければ、私が公爵様の婚約者になったと言われている。
「私が、公爵様の婚約者、ですか?」
「はい、そうです」
「あの、私はフリーベイン公爵領の下働きとしてここに来ました」
「下働き……ええっ!? しかし、オグマート殿下から閣下にたしかに連絡が!」
キリアがいうには、オグマート殿下から公爵様宛に手紙が届いたそうだ。
その内容は『いらなくなった婚約者をおまえにくれてやる』だった。
「だからエステル様は、閣下の婚約者になられたのですよね?」
「あ、あー……」
私は頭を抱えた。オグマート殿下がいい加減な手紙を送ったせいで、だいぶ誤解をさせてしまっている。
オグマート殿下は『エステルはいらないから、おまえにやる。好きにしろ』という意味で手紙を送ったのに、受け取った公爵様は『いらなくなったエステルをおまえの婚約者として与える』という意味で受け取ってしまっている。
これは、なんというか、大変な誤解が……。
公爵様も聖女と呼ばれている女性は、きっと美人だと思っているはず。
ど、どうしましょう。こんな私が婚約者だなんて、公爵様も嫌がるわ。悩んでも仕方がないので、公爵様に会って直接誤解を解くしかない。
謝っても許してもらえず、追い出されるかも?
はぁ、再就職は前途多難だわ。
*
それからさらに数日後。
私とキリアを乗せた馬車は、ようやくフリーベイン公爵領にたどり着いた。
馬車の中から見える景色は牧歌的だった。たくさんの羊がのんびりと草をはみ、その横で羊飼いの少年が歌っている。
フリーベイン公爵領は、危ないところだと聞いていたけどそうは見えない。
興味津々の私に、護衛騎士のキリアは「何もないところでしょう?」と微笑んだ。
「いいえ、とても住みやすそうですね。魔物が出ると聞いていたのですが、ただのウワサだったようです」
平和なことは良いことだけど、平和な場所には聖女の仕事はないかもしれない。私が不安に思っていると、キリアは深刻な顔をした。
「いいえ、魔物は出ます」
「出るんですか!?」
喜ぶことではないけど、仕事があるかもしれないとつい喜んでしまう。
「ご心配なさらず。公爵閣下が魔物をすべて討伐してくださっています。我ら騎士団も討伐に参加しております」
「そうなのですね!」
魔物は邪気を吸うと強くなるといわれているので、邪気を浄化できる聖女なら討伐の役にたてるかもしれない。
「では、私も聖女として、その討伐に参加させていただいて……」
キリアは「未来の公爵夫人に、そのようなことはさせられません!」と顔を青くする。
「いや、ですから、それは誤解で……」
そんなやりとりをしているうちに公爵邸についてしまった。公爵邸は、王都の華やかなお城とは違い要塞のような作りになっていた。
私が馬車から降りると、馬車から公爵邸の入り口まで、ずらりと使用人が並んでいる。
「ようこそお越しくださいました! 聖女エステル様!」
「ひぇっ」
勘違いから大歓迎されてしまっているわ。
は、早く公爵様にお会いして謝罪しないと……。
ベールが脱げてしまわないように押さえながら私は「よろしくお願いいたします」と頭を下げた。
そのとたんに、使用人たちがザワッとざわめき「聖女様が私たちに頭を下げた?」やら「なんてお優しいのかしら」というささやきが聞こえてくる。
ここの人たちは、みんな良い人ばかりみたい。
好意的に受け入れてもらえて嬉しいけど、問題は公爵様の婚約者と誤解されていることだわ。
困ったことに公爵邸には、婚約者専用の豪華な自室まで準備されていた。
「わぁ、お姫様が住むところみたい」
私のつぶやきを聞いたキリアが、「神殿とは違いますか?」と話しかけてくれる。
神殿内では、私は聖女と呼ばれながら影で邪気食いと嫌悪されていた。
ずっと腫れ物にさわるように遠巻きにされていたので、キリアの距離感が嬉しくて仕方ない。
「はい、ぜんぜん違います」
神殿から与えられた私の自室は、簡素な作りで家具も必要最低限のものしか置かれていなかった。
あ、でも、ここは公爵様の婚約者用のお部屋なのよね? 私が住んで良いところではないわ。
「あの、公爵様は?」
「今は外出されていますが、夜にはお戻りになられます」
「夜……そうですか。では、明日にでもお時間をつくってほしいとお伝え願えますか?」
「はい、もちろんです!」
申し訳ないけど、一晩だけこの素敵な部屋に泊まらせてもらおう。
そのあと私は、お風呂に入るように勧められて身ぎれいになった。その際に手伝うといってくれたメイドの申し出は丁重にお断りした。
こんな黒文様まみれの身体は見せられないものね。
「あれ?」
身体を洗おうとしたとき、黒文様がとても薄くなっていることに気がついた。
「前は、もっとたくさんあったような……?」
鏡で確認したかったけど、ここには置かれていない。あとから確認しようと思いながら私はお風呂から上がった。身体を拭いて、自分で持ってきていた神殿服に着替える。顔を黒ベールで隠すことも忘れない。
私がお風呂から上がるのを部屋で待ち構えていたメイドは、綺麗なワンピースを手に持っていた。
「わぁ、素敵。これはどなたのですか?」
部屋に控えていたメイドに尋ねると「もちろん、エステル様のものです」と言われてしまう。
こ、こんなに綺麗なワンピースが私のもの!? あ、そういえば、公爵様の婚約者と勘違いされているんだった。
「お気に召しませんか? でしたら、すぐに別のものをお持ちします!」
青い顔で部屋から飛び出していこうとするメイドを、私は必死にとめる。
「いえいえ、これが良いです! これを着ます!」
今、話をややこしくするわけにはいかないので、メイドに部屋の外に出てもらい、私はワンピースに着替えた。とても着心地が良くてうっとりしてしまう。綺麗なワンピースに着替えたあとも、顔を隠す黒ベールは外すわけにはいかない。
急いでメイドに「着替えました!」と報告すると、彼女は「お似合いです!」と満面の笑みで褒めてくれた。
おかしな格好をしているのに、公爵家の使用人たちは、誰もとがめたり、嫌な顔をしたりしない。
それどころか、おいしいごちそうをたくさん食べさせてくれた。
ああ、誤解だけど、誤解だけど幸せ!
私が涙を浮かべながら「おいしいです! こんなにおいしい食事は初めてです!」と繰り返していると、使用人たちは、みんな温かい笑みを浮かべる。
明日からは、私も同じ使用人ですけど、どうか嫌わず仲間に入れてくださいね!
そんなことを思いながら、私はふかふかなベッドで眠った。
ふと夜中に目が覚めたのは、キィと扉が開く音が聞こえたからだった。気のせいかと思ったけど、コツコツと足音が近づいてくる。
護衛騎士のキリアは、「この部屋は、厳重に警備されているので安心してお休みください」と言っていた。
だから、この部屋に入れるのは危ない人ではないはず。もしかして、キリア? それともメイド? 何か緊急事態なのかもしれない。
私はベッドから起き上がると寝室から出た。室内は暗くて相手の姿が良く見えない。
「どちらさまですか?」
声をかけると人影は立ちどまった。
「……俺に話があると聞いた」
低く落ち着いた声だった。
「話って、あっ!」
そういえば、『明日にでも時間を作ってほしい』と公爵様に伝言をお願いしていたわ。
「もしかして、公爵様ですか?」
人影がコクリとうなずいたので、私はあわてて頭を下げる。
「お初にお目にかかります。私はエステルと申します。実は婚約の件でお話が――」
「俺もその件で話がある」
固い声で話をさえぎられた。
「はい、なんでしょうか?」
「婚約の件は、なかったことにしてくれ」
「と、いいますと?」
公爵様からの言葉を待っていると、月を覆っていた雲が晴れて、窓から月明かりが差し込んだ。
月明かりに照らされた公爵様は、背の高い青年だった。その顔には見慣れた黒文様が浮かんでいる。
ハッとなり両手で口を押える私を見て、公爵様は自嘲(じちょう)した。
「この醜(みにく)いアザが理由だ。俺の全身に広がっている。おぞましかろう?」
私は、無言で首をふった。
「ムリをしなくていい」
「あ、あの!」
私は一生懸命に自分の顔を指さした。ついさっきまで寝ていたので黒ベールをかぶっていない。私の顔には、公爵様と同じ文様が浮かんでいるはずなのに、公爵様は不思議そうな顔をしている。
「あれ?」
仕方がないので私が袖をまくると、腕にあった黒文様は消えていた。
「おかしいわ」
ナイトドレスをずらして肩を出すと、ようやく見慣れた黒文様を見つけられた。
「な、何を!?」
驚いている公爵様に、私は肩の黒文様を指さす。
「あの、公爵様、これを見てください!」
公爵様の瞳が大きく見開いた。
「あなたにもアザが……どうして?」
「私は邪気を吸収して体内で浄化する聖女なのです。その影響でこうなってしまって……。公爵様は?」
「俺は、幼いころから魔物討伐で返り血を浴び続けていたらこうなった。ずっと俺だけなんだと……」
「私も黒文様が浮かび上がるのは、私だけだと……」
だって、歴代聖女の中に黒文様が浮かび上がった人は、一人もいなかったから。
この数年間、私は毎日王都の邪気を浄化した。それでも邪気は増す一方で、少しずつ私の身体の黒文様は広がっていった。
邪気に塗(まみ)れていく自分は、いったいどうなってしまうの? 不安だったけど誰にも相談できなかった。
こんな思いをしているのは私だけなんだと思っていた。まさか、私と同じように黒文様で苦しんでいる人がいたなんて。
「公爵様……」
子どものころから過酷な境遇だった公爵様に、こんなことをいうと怒られてしまうかもしれない。でも、私はどうしてもこの言葉を言いたかった。
「私たち、一緒ですね!」
公爵様は、しばらく無言で私を見つめていた。やっぱり怒らせてしまったかもしれない。
「エステル、と言ったか?」
「は、はい、そうです」
「俺はアレク・フリーベインだ。アレクと呼んでくれ」
「でも……」
婚約の誤解が解けて、これから下働きをさせてもらう私が、公爵様を名前で呼ぶわけにはいかない。
「えっと、あの、お気持ちだけで」
私がそう伝えると、公爵様はなんともいえない顔をした。
ようやくエステルを王都から追い出せた私は、清々しい気分だった。
この国の第三王子である私の婚約者が、あんなに醜い者であっていいはずがない。
父である陛下には、いつも『この国には聖女が必要だ』と言われていた。だから、私は王族の務めだと自分に言い聞かせて、仕方なく邪気食い聖女と婚約を続けていた。
でも新しい聖女が現れた今、もう我慢する必要はない。
私は聖女マリアを王城に呼び出した。
侯爵令嬢であるマリアは、私に向かって上品に淑女(カー テ)の礼(シー)をとる。
波打つ金色の髪に透き通るような白い肌。元婚約者のエステルにはなかった優雅さや美しさがそこにはあった。
「オグマート殿下にご挨拶を申し上げます」
「マリア、よく来てくれた!」
彼女こそ、私の婚約者にふさわしい。私はマリアに優しく微笑みかけた。
「邪気食いのエステルとは婚約破棄をし、王都から追い出した。これからは、あなたが私の婚約者だ」
喜んでくれると思ったマリアは、「……何をおっしゃっているのですか?」と表情を曇らせる。
「何をって、エステルを追い出したから、今日からあなたがこの国の聖女になれるんだよ」
「殿下は、何を言って……? 聖女エステル様を追い出した? ウソですよね?」
「ウソじゃない! あんなに醜い姿の女、聖女にも、私の婚約者にもふさわしくないだろう? だから、追い出してやったんだ!」
マリアは、ようやく事態をのみ込めたのか口を大きく開けた。
「なんて、愚かなことを……陛下はご存じなのですか!? 聖女エステル様なしで、この王都をどうするおつもりですか!?」
「陛下にはあとから報告するよ。でも、マリア、王都にはあなたがいるじゃないか」
その言葉に、マリアは青ざめる。
「私の聖女の力は、手をかざしたところの邪気しか浄化できないのです! それでも、聖女エステル様のお役にたちたくて、こうして志願したのに、まさかエステル様を追い出すなんて!」
「エステルの邪気食いなんて、この国には必要ない!」
「聖女のお役目は王都の邪気を浄化することです。でも、エステル様が聖女になられてからは、王都だけではなく国中から魔物の被害が激減しました。他国と違いこの国にはめったに魔物が現れないのは、すべてエステル様のおかげなのですよ!? 歴代聖女の中でも、エステル様ほど力が強い聖女は存在しません!」
「そ、んな……」
急に城内が慌ただしくなった。王宮騎士がかけよってくる。
「オグマート殿下!」
「どうした!?」
「魔物です! 城下に魔物が現れました! 陛下より『すぐに総指揮をとれ』とのことです!」
「総、指揮? 私が?」
たしかに私は、この国の防衛を任されていた。でも、今までは平和そのものだった。だから、実際に戦場で指揮をとったことなど一度もない。最近では、剣の鍛錬すらしていなかった。
「マ、マリア」
すがるようにマリアを見ると「魔物など、私の手におえません!」と突き放される。
「殿下! ご出陣を!」
周囲にせきたてられ、勝手に戦(いくさ)準備を始められる。
「あ、う……い、嫌だ!」
魔物になんて勝てるはずがない!
「そ、そうだ、エステル!」
エステルならきっと私を助けてくれる。
「エステルを呼べ!」
側にいた侍従に叫ぶと、侍従は青ざめていた。
「聖女エステル様の姿は神殿のどこにも見当たらないそうです! 神殿内も混乱しております!」
王宮騎士に両脇をつかまれて、私は無理やり引きずられた。
「なっ!? 離せ!」
「殿下、一刻を争います!」
「た、助けてくれ! エステル!」
私の叫びに応えてくれる者はいなかった。
公爵様と別れたあと、私は無事に婚約者の誤解がとけたことにホッとしていた。
それにしても、私の身体に浮かぶ黒文様が消えていたのは、どういうことなのかしら?
不思議に思いながらも、旅の疲れが出たのか私はベッドに横になったとたんに眠ってしまった。
次の日の朝、鏡を見ると顔にあった黒文様が消えていた。手や足を確認してもきれいさっぱりなくなっていて、もう黒文様は左肩にしか残っていない。
「夢や勘違いじゃなかったのね」
部屋の扉がノックされた。私はいつものくせで黒いベールをかぶろうとしてやめる。黒文様がなくなったのなら、もう顔を隠す必要はない。
「失礼します!」
そう言って部屋に入ってきた護衛騎士キリアは、私に深く頭を下げた。
「昨晩は大変申し訳ありませんでした! 夜に戻った閣下にエステル様のお言葉を伝えたところ、そのままエステル様の部屋に向かわれてしまい!」
「あ、いえいえ! お気になさらず」
「実は昨日、閣下も一緒にエステル様をお出迎えする予定だったのですが、領内に魔物が出てしまい。閣下と一部の騎士達で討伐に向かっておりました」
「魔物の討伐……」
公爵様は、子どものころから魔物を倒して返り血を浴び続けることにより黒文様が現れたといっていた。
「ここでは、魔物の討伐が当たり前なのですね」
王都では長らく魔物が出没していない。だから、魔物と戦う必要がなかった。
もしかして、公爵様が王都で『血まみれ公爵』と恐れられている理由は、公爵様自ら魔物退治をするからなのかも?
「エステル様を怖がらせてはいけないと魔物討伐のことを黙っておりました。お許しください。それでなくとも閣下は、あまり明るいうちに出歩くことがなく。その、少し事情がありまして……。なので、失礼を承知で、夜にエステル様のお部屋に向かわれたのだと……」
キリアは、言いにくそうにしているけど、公爵様が明るいうちに出歩かない理由が私にはわかる。
きっと身体に浮かぶ黒文様で、人々を怖がらせないためよね。私も同じ理由で、今までずっと黒ベールで顔を隠していたから。
「公爵様の身体中にアザが……黒文様があるからですよね?」
「え?」
驚くキリアに私は左肩に残っている黒文様を見せた。
「実は私にもあったのです。もっとひどかったのですが、フリーベイン領に来たらなぜか消えてしまって。今では肩にしか残っていません」
「ええっ!? では、エステル様のお力で閣下の黒文様も消せるんですか!?」
「消える条件さえわかれば可能だと思います」
私を見つめるキリアの瞳がキラキラと輝いている。
「さすが聖女様!」
「いえ、まだ消せると決まったわけでは……」
「そうですが、それでもやはりすごいです!」
こんなにまっすぐほめてもらえるなんて、なんだかくすぐったい。
「さぁさぁ朝食に向かいましょう! 料理人がエステル様のために腕をふるいましたよ!」
「その件ですが……あ、待ってキリア」
はりきるキリアに背中を押されて、私は食事の席まで連れていかれてしまった。
食卓テーブルには花が飾られ、美しい食器が並べられている。
「さぁ、どうぞ」
キリアが椅子を引いて座らせてくれた。
「いえ、あの私は、本当は婚約者じゃなくて――」
使用人なのですと言う前に、料理が運ばれてくる。
うっ……おいしそう。
私は罪悪感にさいなまれながら朝食をいただいた。
「おいしい! 本当においしいです!」
フリーベイン公爵領の食事は、どれもとてもおいしい。味付けが良いのはもちろんのこと、王都で食べる食事より食材が新鮮な気がする。
使用人たちの温かい眼差しを感じて私は我に返った。
「って、違う!」
「エステル様?」
戸惑うキリアに、今度は私が頭を下げる番だった。
「ごめんなさい! 実は私、本当は公爵様の婚約者ではないんです!」
使用人たちは、ポカンと口を開ける。
「王都から追い出されてしまい、フリーベイン領には働きに来ました。下働きでもなんでもします。ここに置いてください!」
「あの、エステル様、何か誤解があるようです。私達は、今朝、閣下よりエステル様に最高級のもてなしをするように、と指示を受けました」
「でも、私は公爵様の婚約者ではないのに?」
キリアとしばらく見つめ合ったあと、私はハッとなった。
「もしかして……」
公爵様は、同じ黒文様で苦しんできた私を哀れに思ってくださったのかもしれない。
私だって昨晩、公爵様の黒文様を見て、不謹慎(ふきんしん)にも一緒だと嬉しくなってしまった。
公爵様も同じ気持ちだったのかも?
「なるほど、公爵様と私は、黒文様仲間ということなのね……」
「えっと、エステル様?」
だいぶ状況がわかってきた。
「わかりました。公爵様のお気持ちはありがたくいただきます」
キリアを含めた使用人たちは、ホッと胸をなでおろしている。
「エステル様、お部屋はいかがでしたか? 閣下より、部屋が気に入らなかったら、エステル様の好きに改装して良いと言われています」
「改装? いえ、あのままで十分すてきです」
「それは良かったです!」
部屋はあのまま使わせてもらって良いみたい。もう私が使ってしまったから、公爵様に本当の婚約者ができたら、きっと全面改装するよね?
「じゃあ、お言葉に甘えて部屋はあのまま使わせていただきますね」
「はい! あ、エステル様、閣下から『必要なものを言ってくれ。すべてこちらでそろえる』とのことです」
「え?」
たしかに神殿で着ていた服は、ここでは浮いてしまう。私は、神殿服以外に着替えなんてもっていない。今もワンピースを貸してもらっている。
「そうですね、ありがとうございます。では、着替え用にメイド服を二着いただけませんか?」
メイド服なら動きやすいし、汚れてもすぐに洗えるからね。
「メイド、服?」
ざわつく使用人たちの中で、キリアは「さすが聖女様! つつしみあるお言葉ですが、あなたは次期公爵夫人になるお方! メイド服では困ります。こちらでエステル様に似合うものをそろえさせていただきますね!」と明るく笑う。
うーん、誤解が根深いわ。これは公爵様から直接、皆さんに説明していただかないと。
でも、追い出されなくてよかった。
公爵様の優しさに感謝しながら、私はここでお役に立てることがないかと真剣に考え始めた。
朝食を終えたあとは、公爵邸の中をキリアに案内してもらった。
公爵邸は、王城とも神殿とも違う作りだった。外敵と戦うために作られた建物だそうで、その周りは頑丈な壁で取り囲まれている。
キリアは「もし、魔物の大群が押し寄せたり、大きな戦が起こったりした場合は、公爵邸自体が領民の最終避難地になります」と教えてくれた。それくらい、この土地は危険と隣り合わせということなのだろう。
ここで私に何ができるかしら?
考え込む私に、キリアが微笑みかけてくれる。
「ご安心ください、エステル様。閣下が守ってくださいます! 閣下はすごくお強いんですよ! 騎士団員の憧れです」
「公爵様は、みんなに愛されているのですね」
「もちろんです! だからこそ、エステル様のような素敵な方が閣下の婚約者様になってくださって本当に嬉しいです」
「……うっ」
この勘違いを公爵様に解いてもらうまで、下働きはさせてもらえなさそう。ということは、聖女として役に立つ方法を考えないと。
フリーベイン領は、頻繁に魔物が出るとのこと。そして、子どものころから魔物を退治していた公爵様は、黒文様が体中に浮かび上がっている。
「……あれ?」
私は隣を歩くキリアを見た。
「魔物討伐には、キリアも参加していたのですか?」
「はい」
「そのときに魔物の返り血を浴びることはありました?」
「そうですね、ありました」
私はキリアの顔や手を見つめた。どこにも黒文様は現れていない。
「ねぇキリア、公爵様以外に黒文様が現れている人はいますか?」
キリアは驚き首をふる。
「いえ、騎士団の中にはいません。領民の間でも聞いたことはありません」
騎士団員なら公爵様と同じように魔物の返り血を浴びることもあるはず。それなのに、公爵様以外の人には黒文様は出ていない。
返り血を浴び続けていた長さが原因なのかしら?
くわしいことはわからないけど、公爵様の体に邪気が溜まっている状態なら、その溜まった邪気を浄化すればいいのでは?
私は体内に邪気を取り込み浄化する力があるけど、王都の邪気は年々濃くなっていき、私一人では浄化しきれなくなっていた。
そのせいで、私の体に黒文様がどんどん広がっていったけど、王都を出て邪気の浄化をやめると黒文様が消えた。
「ということは、もしかして、公爵様の体に溜まっている邪気を浄化したら、公爵様の黒文様も消える……?」
私のつぶやきを聞いたキリアは目を見開いた。
「キリア、公爵様に会いたいです」
でも、まだ明るいので公爵様は外に出たがらないかもしれない。
「夜でも、いつでもいいので」
「わかりました」
キリアは深刻な顔でうなずくと、近くにいたメイドに指示を出した。メイドはすぐにその場から離れる。
公爵様に会えるのは夜になるかもと思っていたけど、戻ってきたメイドは私をすぐに公爵様の元へ案内してくれた。
「こちらが公爵様の執務室です。エステル様、どうぞ」
「どうぞと言われましても……」
お仕事中に入っていいのかしら?
私がためらっているとメイドが執務室の扉を開けてしまった。
「あっ」
「エステル様がいらっしゃいました」
中から「どうぞ」と低く落ち着いた声が聞こえる。
私は緊張しながら執務室の中へと足を踏み入れた。
広い執務室の中は、必要なもの以外置いていないといった雰囲気だった。執務机に座って書類を手に持っていた公爵様が顔を上げる。
他に誰もいないせいか、顔を隠していない。
公爵様は黒髪だったのね。昨晩、月明かりの下であったときは薄暗くて色までわからなかった。
透き通るような公爵様の紫色の瞳が、私に向けられている。
「俺に話があると聞いたが?」
「あっはい」
公爵様の顔が整いすぎていて、つい見惚れてしまったわ。黒文様のせいで、この顔を隠しているなんてもったいない。
「あの、公爵様を浄化したいのですが、少しだけお時間をいただけませんか?」
「俺を浄化?」
「はい、少しためしてみたいことがありまして……」
うまくいけば黒文様が消えるかもしれないけど、必ず消えるとは言えない。期待だけもたせるわけにはいかないので、私は言葉を濁(にご)した。
「えっと、あやしいことはいたしません!」
「そんなことは心配していない」
公爵様は執務机から立ち上がると「俺はどうすればいい?」と尋ねた。
「フリーベイン領には聖女が来たことがない。だから、浄化がどういうものかわからないんだ」
「あ、そうですよね」
聖女の数が多い時代では、聖女たちは王都以外の土地にも出向いて浄化に当たっていたらしい。でも、今の時代の聖女は私しかいなかったので、私が王都から出ることはなかった。
オグマート殿下は、新しい聖女が現れたと言っていたので、もしかすると、これから聖女が増えていくのかもしれない。そうだったら、とても嬉しい。
聖女が邪気を浄化し続けると魔物の出現率は下がる。実際、私が生まれ育った故郷では六十年前に一度、魔物が現れたくらいでそれ以降、魔物を見た者はいない。
こんなに頻繁に魔物が出るのは、フリーベイン領くらいかもしれないわ。
私は公爵様に微笑みかけた。
「公爵様は、何もしなくていいですよ。そのままそこに立っていてください」
目をつぶり、いつものように大聖女様に祈りを捧げる。
私の祈りが届いたようで、公爵様から黒いモヤが湧き出てきた。この黒いモヤが邪気だ。
邪気は私の体に吸い込まれていく。私は『邪気食い』なんて呼ばれているけど、実際に邪気を口から食べるわけではない。
すべての邪気が消えたあと、私はじっとしてくれている公爵様に顔を近づけた。
「あれ? 顔の黒文様が少し薄くなっていませんか?」
「まさか」
公爵様はそういうけど、本当に薄くなっているように見える。
「公爵様、鏡を見てください」
「鏡などこの部屋にはない」
「あっ、そうですよね」
わざわざ執務室に鏡を置いて、自分の顔に浮かぶ黒文様を見たいなんて思わない。
私は執務室から出ると、扉前に控えていたメイドに声をかけた。
「鏡を持ってきてください」
「はい」
メイドはすぐに手鏡をもって戻ってきた。それを受け取った私は「どうぞ」と公爵様に手鏡を差し出す。鏡を見た公爵様の瞳が大きく見開いた。
「本当だ……薄くなっている」
「ですよね!?」
「信じられない!」
私達は喜びのあまり、気がつけば手を取り合っていた。
「エステル、あなたはすごいな!?」
「いえ、お役に立ててうれしいです! これから毎日、公爵様の邪気を浄化しますね!」
「ああ、頼む!」
気がつけば公爵様の顔がすぐ近くにあった。
「す、すまない」
繋いでいた手がパッと離される。
「こちらこそ、すみません」
公爵様は、黒文様仲間だから自然と気を許してしまうわ。
でも、ちゃんとわきまえた態度を取らないと、元婚約者のオグマート殿下に嫌われていたように、公爵様にもまた嫌われてしまうかもしれない。
公爵様は、コホンと咳払いした。
「エステル、あなたにお礼がしたいのだが」
「あ、それでしたら……」
公爵様にお礼がしたいと言われた私は思い切って望みを言ってみた。
「ここで聖女として働かせてください。そして、その分の……報酬をいただきたいのです」
この国では、貴族があくせく働き賃金をもらうのは、恥ずかしいこととされている。でも、私の実家の男爵領は貧しかった。だから、領主の家族である私達も働くのが当たり前。
生きるために恥ずかしいだなんていっていられない。
そんな家族のためにも、男爵領で暮らす人たちのためにもお金は必要だ。
公爵様に「報酬というと?」と聞かれたので「お金です」と伝える。
「私の家に仕送りをしたいのです」
腕を組んだ公爵様は、何かを考えこんでいるようだった。
『金銭を要求するようなやつは聖女じゃない!』とか言われて、フリーベイン領から追い出されたらどうしよう……。
緊張しながら公爵様の言葉を待っていると、「すまない」と謝られてしまった。
やっぱり無理なのね。
「ご無理を言ってすみませ――」
「すぐに渡せる報酬が、金貨十袋くらいしかないのだが足りるだろうか?」
私の言葉をさえぎって、公爵様がとんでもないことを言ったような気がする。
金貨十袋? ふくろ!?
いやいや、おかしいわ。きっと金貨十枚と聞き間違えてしまったのね。それか公爵様は冗談を言っているのかも?
顔を上げて公爵様を見ると、とても真剣な表情をしていた。冗談を言っているような顔ではない。
「公爵様、今、金貨十袋と聞こえたのですが?」
「そうだ。すぐに渡せる金貨が十袋しかない。聖女への対価としては足りないだろう。至急用意させるから、数日待ってもらえないだろうか?」
私は無言で公爵様を見つめた。公爵様も私を見つめている。
聞き間違いでも冗談でもなかったのね。公爵様は、本当に金貨十袋以上を支払おうとしている。
「あの、多すぎです」
「そうなのか? だかしかし、聖女の浄化は奇跡の力だぞ。たった今、俺もその奇跡を見せてもらった」
尊敬するような眼差しをむけられて、なんだかそわそわしてしまう。神殿内では、邪気食い聖女と遠巻きにされていたから、こんな風にほめてもらったことがない。
「ありがとうございます。でも、お金は働いた分だけで大丈夫です。それだと多すぎます」
「聖女に支払う金額の相場がわからないのだが?」
「……それはそうですね」
新しい聖女が現れるまで、私しか聖女がいなかったから聖女を雇うなんてことはありえなかった。
「では、実家に手紙を出して、国と神殿からもらっていた援助金の金額を聞きますね。それを参考にして決めるのはどうでしょうか?」
手紙には、『神殿から追い出されてしまったけど、私は元気に暮らしている』ということも書かないとね。家族を心配させたくない。
「わかった、そうしよう。で、俺からの礼は何をさせてもらえばいいんだ?」
私はもう一度公爵様をまじまじと見つめた。公爵様は不思議そうな顔をしている。
「公爵様。お礼って?」
「あなたがフリーベイン領で、聖女の力を使ってくれることは願ってもないことだ。ぜひお願いしたいし報酬も必ず支払う。それとは別に俺の浄化をしてくれた礼がしたい」
「えっと。ですから、それが聖女の力なので報酬以外にお礼はいりません」
「俺の気持ちの問題だ。あなたに感謝を伝えたい」
「感謝……」
聖女は王国のために力を使うことが当たり前だった。誰にも感謝なんてされない。今まで私もそれが普通のことだと思っていた。
だからこそ、予想外の公爵様の言葉に私の胸は温かくなる。優しい公爵様を苦しめる黒文様が一日でもはやくなくなればいいのに。
「ありがたくお気持ち受け取りますね」
「ああ、なんでも言ってくれ」
「では、公爵様の黒文様を完全に消すために邪気について調べたいです。だから、フリーベイン領にある本を読ませていただけませんか?」
公爵様は端正な眉をひそめた。
「俺のために本を? それでは、礼になっていないような気がするのだが」
「そんなことありませんよ。公爵様の気のせいです」
クスクス笑っていると、公爵様の口元にも笑みが浮かぶ。
「エステル、俺のことはアレクと……」
公爵様の言葉をさえぎるように扉がノックされた。
「キリアです。入ってもよろしいでしょうか?」
「入れ」
公爵様の許可を得てから執務室に入ってきたキリアは神妙な面持ちだった。その後ろには、私をここまで案内して手鏡を持ってきてくれたメイドの姿もある。
何かあったのかしら?
公爵様もそう思ったようで「何かあったのか?」と尋ねている。
「いえ、エステル様の帰りが遅いのでお迎えにあがりました」
チラッとこちらを見たキリア。その顔は何か言いたそう。
あっなるほど、キリアも公爵様の黒文様がどうなったのか知りたいのね!
メイドに手鏡を持ってきてもらったし、公爵様と一緒になって喜んでいたので騒がしかったのかもしれない。
「キリア、浄化は大成功でしたよ。公爵様のお顔の黒文様が少し薄れました。これを続けると綺麗になくなると思います」
「そうなのですね!? すごいです、エステル様!」
ここの人たちは、すぐにほめてくれるので、なんだかくすぐったい。
「公爵様のお役に立ててうれしいです」
「エステル」
私の名前を呼んだ公爵様は、銀色のカギを私の手のひらに置いた。
「公爵邸内にある図書館のカギだ。あなたが持っていてくれ。いつでも入っていいし、どの本を読んでもいい」
「ありがとうございます!」
キリアは、さっそく私を図書館まで連れて行ってくれた。公爵邸内の図書館は、とても広い。その広い壁一面に本がずらりと並んでいる。
「二階にも本があるのね」
本棚の前で本の整理をしていた女性が「何をお探しですか?」と聞いてくれた。
「あなたは?」
「この図書館で働く司書です」
図書館司書に「邪気関連の本を読みたいです」と伝えると、すぐに五冊持ってきてくれた。
「五冊だけ?」
「はい、ここにあるものは、これですべてです」
五冊とも借りて部屋に戻った私は、キリアやメイドにさがってもらい一人で本を読んだ。
どの本にも、『邪気は聖女が浄化するもの』としか書かれていない。それに邪気の本というより、聖女の奇跡をつづった本ばかり。
そっか、聖女がいるこの国では、邪気の研究をする必要がないのね。だって、邪気は聖女が浄化してくれるものだから。
もしかすると聖女がいない国でなら、もっと邪気の研究がされているのかもしれない。
「これ以上、邪気を調べても仕方ないわね」
私は本を閉じてため息をついた。
「とにかく、ここで私ができることをしましょう」
*
それから、数か月の月日が経った。
私は公爵様の元で、聖女の仕事をしながらのびのびと暮らしている。
いつもそばにいてくれる護衛騎士のキリアがニコリと私に微笑みかけた。
「エステル様、今日は外でお茶にしましょう」
「あれ? 昨日も外でお茶をしませんでしたか?」
「あ、その、今日もどうでしょうか?」
「そうですね。天気も良いですし、そうしましょうか」
キリアと並んで公爵邸の庭園に向かう。そこには心地好い風が吹いていた。
木漏(こも)れ日の下では、すでにお茶の準備が整えられていた。白いテーブルの上においしそうなお菓子が並び、ピンク色の可愛い花が飾られている。
キリアが椅子を引いて私を座らせてくれた。彼女は未だに私のことを丁寧に扱ってくれている。
「いつもありがとうございます」
私がお礼を伝えると、キリアは困った顔をした。
「エステル様。そろそろ我らに敬語をおやめください。あなたは公爵夫人になるお方……」
その言葉を聞いて、今度は私が困った顔をする番だった。
数か月たった今でも、公爵邸の人たちは、私を公爵様の婚約者だと誤解している。
たしかに、公爵様は私にとても良くしてくれているけど……。
たくさん贈り物をくれたり、『俺のことは、アレクと呼んでくれ』と言ったりしてくれる。でも、それは黒文様仲間としてで、そこに恋愛感情はない。
私はもう一度、キリアの説得をこころみた。
「キリア。何度もいいますけど、公爵様にははっきりと『この婚約はなかったことに』と言われています。だから、そもそも私を護衛する必要はないんですよ?」
「くっ! 閣下はいつになったらエステル様を落とせるんだ……」
「あの、キリア? 私の話を聞いていますか?」
たぶん聞いていない。今回も誤解を解くのに失敗してしまったわ。
私がハァとため息をつくと、偶然にも公爵様が通りかかった。
「エステル」
「あ、公爵様」
左手に剣を持っているので鍛錬のあとに通りかかったのかもしれない。
「あなたの姿が見えたので」
キリアが「せっかくなので、閣下もご一緒してはいかがでしょうか?」と公爵様に進めている。
そういえば、昨日もバッタリ出会って一緒にお茶をしたような?
キリアのすすめでお茶の席についた公爵様の元に、すぐに淹(い)れたてのお茶が運ばれてくる。
「もしかして、公爵様も休憩時間ですか?」
「俺のことはアレクと呼んでくれと……。いや、まぁそんな感じだ」
そう答えた公爵様の顔に浮かび上がっていた黒文様はきれいに消えていた。浄化を続けることによって、体中にあった黒文様もどんどん薄れてきている。
今思えば、元婚約者のオグマート殿下が公爵様のことを『醜い男』と言っていたのは、私と同じ黒文様があったからなのね。
公爵様は黒文様があっても整った顔をしていたのに、黒文様がなくなった今は、だれが見ても美しい青年だった。日々鍛えているせいか、体つきもたくましい。
ああ、美青年を眺めながら過ごせるって幸せ~。
私は、おいしいお茶を飲みながら、サクサクのクッキーを食べた。フリーベイン公爵領の食事はどれもおいしい。公爵様もカップを口元に運んでいる。
「そういえば、私たち、最近よく会いますね」
お茶を飲んでいた公爵様がゴフッと小さくむせた。なんだか急に顔色が悪くなったような気がする。
「……迷惑だったか?」
「いえ、そういうわけではなく! ご一緒できて楽しいです!」
「……なら、よかった」
どこかホッとした様子の公爵様。王都では公爵様は残虐非道(ざんぎゃくひどう)なんてウワサがあったけど、そんな事実は少しもなかった。
私が公爵様を見つめると、「な、なんだ?」となぜかあせっている。
「私の聖女の力、少しはお役にたっていますか?」
フリーベイン領は王都より邪気が少ないのよね。だから、聖女の仕事も多くない。そのおかげか私の体にも再び黒文様は現れていない。でも、今でも左肩にだけは黒文様が残っている。
公爵様が少しだけ口元をゆるめた。
「ああ、もちろん役にたっている。あなたが来てからは、魔物がめったに現れなくなったからな」
「それは良かったです」
公爵様からは、私が聖女の仕事をするかわりにたくさんの報酬をいただいていた。そのおかげで実家に仕送りができている。
この前家族から届いた手紙には、弟が無事にアカデミーに入学できたと書かれていた。
ふと公爵様の視線を感じて、私は公爵様を見つめた。こころなしか公爵様の顔が赤いような気がする。
「公爵様、どうかしましたか?」
「いや、ベールはもうつけないのだなと思い……」
「あ、つけたほうが良いですか?」
顔の黒文様が消えたので、もう顔は隠していない。
「いや、つけていないほうがいい。その、あなたはとても綺麗だから」
「……きれい? だれが?」
「あなたが」
「あなたって?」
「エステル、あなただ」
公爵様の言葉を理解するのにたっぷり五秒かかってから、私は叫んだ。
「え、えー!? そんなこと初めて言ってもらいました! 嬉しいです! ありがとうございます」
お世辞でもなんでも嬉しくて仕方ない。
「あなたの元婚約者……オグマートは褒めてくれなかったのか?」
「はい、醜い姿だって言われていました」
パキンッと公爵様が持っていたカップの取っ手が割れた。
「公爵様!? 大丈夫ですか!?」
「……大丈夫だ。あなたに仕える神殿の者たちは?」
私は神官たちの冷たい視線を思い出して、うつむいてしまう。
「私は汚らわしい邪気食いなので、なんというかその……遠巻きにされていました、ね」
えへへと私が笑うと、公爵様の顔が急にこわくなった。
「あ、すみません! このような情けないお話をしてしまい」
「いや、聞いて良かった」
公爵様は、控えていたキリアに「今後は、オグマートと神殿から来た手紙は、私にまわさず全て燃やせ」と指示している。
「はい!」
フゥとため息をついた公爵様は、私に向き直った。透き通るような紫色の瞳が私を見つめている。
「俺は、あなたがいつか王都に帰りたいのではないかと思っていた」
「そんな!? ありえません! お願いですからここに置いてください!」
王都に戻っても私の居場所なんてどこにもない。ここでは公爵様もキリアも、みんな優しくしてくれる。
公爵様の手が私の指にそっとふれた。
「あなたが王都に戻る気がないのなら……あなたさえよければ、その……俺と婚約を……。そして今度、隣国の舞踏会にあなたと一緒に参加したい」
語尾がだんだんと小さくなっていく公爵様の横で、キリアが『頑張れ』と言いたそうに両手をにぎりしめている。
私が公爵様と……婚約?
ふいにオグマート殿下の声が聞こえた。
――あいかわらず、醜い姿だな。
胸がチクッと痛む。
公爵様の言葉で混乱してしまっていたけど、おかげで冷静になれたわ。
たしか隣国の舞踏会は、パートナーなしでは参加できなかったはず。ということは、つまり……。
「わかりました! 舞踏会で私が婚約者のふりをすればいいのですね?」
「!? いや、その、ちが……」
「お役にたてて、とても嬉しいです!」
「うっ……」
長い沈黙のあとに公爵様は「……ああ、そういうことだ」と硬い表情で告げる。
「任せてください! 私、立派に婚約者のふりをしてみせます!」
「うむ、頼んだぞ」
そういった公爵様は、どこか遠い目をしていた。もしかしたら、私が婚約者役をうまくできるのか不安なのかもしれない。だったら、ちゃんとできることを証明しないと!
「これからは、アレク様と呼ばせていただきますね!」
「あ、ああ!」
パァと表情を輝かせるアレク様。
なぜか、キリアや周りにいるメイドたちから、何か言いたそうな視線を感じた。
やっぱりみんな、私がうまくできるか不安よね。
よく考えたら、私は社交界デビューをしていない。実家にそんな余裕がなかったからこそ、聖女になるために神殿の門をくぐった。
聖女の私とオグマート殿下の婚約が正式に結ばれたとき、婚約発表をかねて、一度だけ殿下と一緒に舞踏会に参加したことがある。
あのときは、黒文様がまだ私の顔にまで出ていなかった。だから手足をすべて隠すようなドレスを着て参加した。
覚えているのは私をエスコートするオグマート殿下の嫌そうな顔。
小声で何度も「必要以上に俺に近づくな!」と、きつく注意を受けた。ダンスは踊らなかった。
あれ以来、舞踏会には一度も参加していない。
ダンスは聖女になる前は大好きだったけど、今はもう自信がない。
「あの、アレク様。ダンスはお好きですか?」
「いや」
私はホッと胸をなでおろした。
「私、ダンスに自信がなかったので良かったです。もしアレク様がダンスがお好きなら、一緒に練習させていただこうかと思っていました」
「……」
しばらく何かを考えこんでいたアレク様は咳ばらいをした。
「いや、だが一曲くらいは踊らないといけない……はず」
なぜか視線が合わない。
「そうなんですか!? では、ダンスの練習に付き合っていただけませんか?」
「ああ、喜んで!」
ようやく視線があった。
アレク様はいつもとても優しい目をしている。そんなアレク様と一緒なら舞踏会も楽しいかもしれない。
魔物の襲撃後すぐに、フリーベイン領に私名義で何度も手紙を送らせた。だが、いまだにエステルからの返事はない。
「くそっ!」
私は手に持っていたグラスを床に叩きつけた。
ガシャンとグラスが割れる音とともに、ワインのシミが床に広がっていく。
「エステルは、まだ戻らないのか!?」
怒鳴りつけると、侍従はおびえながら首をふった。
魔物被害の報告に来ていた騎士団長のため息が聞こえ、私をさらにいら立たせる。
「オグマート殿下、落ち着いてください」
「落ち着いていられるか! エステルがいなくなってから、もう五回も魔物の襲撃を受けているんだぞ!?」
エステルがいなくなったあの日、出現した一匹の魔物は城下町には目もくれず、まっすぐ城を目指してきた。
遠目で見た魔物は、巨大なオオカミのように見えた。しかし、尻尾は炎のように燃え盛り、黒いモヤでおおわれるその姿は普通の動物ではない。
血のように赤い目が三つもあり、思い出すだけでゾッとする。
王都中の騎士を集めてなんとか討伐したものの、こちらの被害は甚大(じんだい)だった。
騎士達の三分の一は死傷した。その責任を取らされて、私は軍の総指揮から降ろされた。今は兄である第二王子が総指揮にあたり、王子であるこの私が騎士団長の下につけられている。
魔物の襲撃後、多くの貴族が王都に構えていた邸宅を捨て、逃げるように自分たちの領地に帰っていった。
住む者がいなくなった貴族街は廃墟のようになっている。
「なんとしてでも、エステルを王都に呼び戻さないと……」
「聖女エステル様は、大丈夫でしょうか? ご無事なら良いのですが」
騎士団長を含む多くの者は、私がエステルを追い出し、フリーベイン領に行かせたことを知らない。
聖女の不在は、魔物が多く出没するフリーベイン領を哀れに思ったエステルが、勝手に向かったことになっている。
真実を知っているのは、私と新しい聖女マリア、そして、エステルをフリーベイン領まで送った神殿で働く馬車の御者だけだった。
御者には大金を渡して口止めし他国に行かせた。だから、エステルが王都に戻ってくるまで、マリアさえ黙っていれば、なんの問題もなかったものを!
あろうことかマリアは、私がエステルを王都から追いだしたことを国王陛下である父に告げ口した。
なんとか黙らせようとしたが、侯爵令嬢というマリアの地位が邪魔をして思うようにできなかった。
魔物の襲撃が、私が聖女を追い出したせいだと知られると王家の威信(いしん)は失われる。だから、父の判断でその事実を伏せることになった。
マリアも「今は混乱を避けるべきだ」と陛下に言われ、しぶしぶだが従う。
父が私に向ける視線は冷ややかだった。
「オグマート、お前が、これほどまでに愚かだったとは……」
あのときの父に向けられた目を思いだすと、今でも腹が立つ。
くそっマリアめ! あの女、高貴な生まれで麗しい外見だったから優しくしてやったのに、あんなに心が醜(みにく)かったなんて。
こんなことになるのなら、外見が醜いエステルのほうがまだマシだった。
エステルは従順だし、聖女の力は役に立つ。
「エステルを引きずってでも、私の元に連れ戻してやる!」
そうすれば、すべて元通りだ。
私の言葉を聞いた騎士団長が「殿下、聖女様になんてことを……」と言ってくる。本当に不愉快なやつだ。
「うるさい! 用が済んだらさっさと部屋から出ていけ!」
「まだ伝言が終わっていません」
「私が出て行けといえば出ていくんだ!」
襟首をつかみ脅しても、騎士団長は顔色ひとつ変えなかった。
「上官への暴力は禁止されている。今すぐ手を放すんだ」
「私は王子だぞ!? だれに物を言っている!?」
「……お前にだよ、オグマート」
騎士団長に手を払われたと思ったら、気がつけば私が襟首をつかまれていた。
「お前は、王族の権限をすべて剥奪(はくだつ)された。これは陛下のご指示だ」
「なっ!?」
騎士団長がパッと手を離したので、私は無様に床に尻もちをつく。
「国王陛下より伝言だ。今後は一兵卒として戦場の最前線で戦い、一体でも多く魔物を倒すこと。そして、その命が尽きるまで戦い続けること」
「そんなの、死ねと言っているようなものではないか!?」
私を見下ろす騎士団長の目は、おそろしく冷たい。
「言っているようなものではない。王家のために死ねと言われているんだ。そんなこともわからないのか?」
「父に抗議してくる!」
立ち上がろうとした私の肩を、騎士団長は強く押さえつけた。
「聞こえなかったか? お前は王族の権限を失っている。もう陛下に謁見(えっけん)できるような身分ではない。早く荷物をまとめて一兵卒用の兵舎へ向かえ」
「ふざけるな!」
私の肩に騎士団長の指がめり込んだ。
「痛っ!?」
「ふざけているのはお前のほうだ。俺の意見を無視してクソみたいな命令を出し、よくも大事な部下たちを殺してくれたな」
その声は殺気に満ちていた。
「お前がこの場で殺されないのは温情ではない。よりお前を苦しませるためだ」
騎士団長の言葉通り、それからの生活は地獄だった。
一兵卒用の兵舎で、私にあてがわれた部屋は臭くてせまい。まるでブタ小屋のようだった。食事もまずくて食べられたものではない。だがこれは嫌がらせではなく、普通の一兵卒の暮らしだと言われた。
訓練は朝から晩までつづき、部屋に戻ると固いベッドで泥のように眠った。それを繰り返しているうちに、次第に剣の扱い方や体の動かし方を思い出していく。
そういえば、私は剣の腕前だけは、優秀な兄たちに勝(まさ)っていた。でも平和すぎる世の中では、剣術が強くても評価されることはなかった。
私がほめられるのは、この整った外見くらいだ。
軍の総指揮を任されたときも、陰では貴族たちに『ただの名誉職だ』とあざ笑われていたことを私は知っている。
騎士団長の言っていたとおり、魔物が現れたら最前線に立たされ命がけで戦わされた。
そのたびに己の剣術がさえていくのがわかる。
周囲のやつらは、犯罪者を見るような目で私を見ていた。しかし、私が魔物を倒すたびに、それが少しずつ変わっていくのがわかる。なんとも言えない気分だったが、まぁ悪くはなかった。
せまい自室に戻り、魔物の返り血を浴びた服を脱ぎ捨てる。
そのとき、何かおかしなものが見えた。
あってはならないものが、なぜか私の体にあったような気がする。
おそるおそる自身の腰あたりを見ると、そこにはエステルにあった醜い黒文様が浮き上がっていた。
「う、うわぁああああ!?」
ゴシゴシと手のひらでこすっても取れない。
「なぜ私に!?」
同じように魔物と戦っている者達の中で、体に黒文様が浮き上がったなんて聞いたことがない。
エステルは、会うたびに体を蝕(むしば)む黒文様が広がっていた。
「たしか、エステルに最後に会ったときは、顔にまで浮き上がっていたぞ……私もああなるのか?」
この私が、あんなにおぞましい、醜い姿に?
想像するだけで血の気が引くような思いだった。
「い、嫌だ……エ、エステル。そうだ、エステルを呼び戻さないと……」
王都や神殿からフリーベイン領にエステルを迎えにいったが、すべてフリーベイン公爵に追い返され、聖女に会わせてもらえなかったというウワサ話を聞いていた。
だから、エステルはまだフリーベイン領にいる。
エステルが王都に戻り邪気を浄化すれば魔物は現れない。そうすれば、私の黒文様はきっと消えるはず。
聖女を連れ戻した功績で、また王子にだって戻れるかもしれない。
「醜いのは、エステルだけで十分だ」
私は部屋の中にあったわずかな荷物を袋に詰め込むと、真夜中の兵舎をあとにした。