その日の夜。
夕食が終わりホッと一息ついたころに、アレク様が訪ねて来た。
「エステル、少しいいだろうか?」
「はい、もちろんです」
室内に招き入れようとすると、アレク様は「少しだけ俺に付き合ってほしい」と私に右手を差し出す。不思議に思いながらもその手をとった私は、アレク様にエスコートされながら庭園まで歩いた。
夜の庭園では月明かりに照らされた噴水がキラキラと輝いている。
アレク様はその前で立ち止まり私に向き直った。
「エステル、これを」
そう言いながら小箱を私に手渡す。
「これは?」
「開けてみてくれ」
言われるままに箱を開けると、そこには美しい宝石が入っていた。
深紅の宝石は見たこともないようなきらめきを放っている。
こ、これは絶対に高いやつだわ。落としたら大変ね。
「ネックレス、ですか?」
それにしては短いような気がする。
「チョーカーというらしい。王都で流行っているそうだ」
「へぇ、とっても素敵ですね!」
アレク様と私の間に妙な沈黙が降りた。噴水から流れでる水音だけが聞こえてくる。
「その、気に入ってもらえただろうか?」
「え?」
「エステルのドレスに合わせて作らせたんだ」
「ということは、これは私のためのもの?」
「そうだ。俺からあなたへの贈り物だ」
私はたっぷり間を開けたあとに「ええー!?」と叫んでしまった。
「こんな高そうなものを私に!? いいんですか?」
「エステルにもらってほしい。できれば、明日の舞踏会で身につけてほしいのだが」
「もちろんです! 必ず身に付けますね。すごく嬉しいです!」
「良かった……」
胸をなでおろすアレク様。
「断られたらどうしようかと思っていた」
そうつぶやくアレク様を見て、私はとんでもないことを思ってしまった。
「アレク様って、もしかして――」
そこまで言葉にして私は口を閉じた。
今、私、何を言おうとしたの? 何を期待してしまったの?
アレク様が不思議そうな顔でこちらを見ている。言葉のつづきを言えずに視線をそらすと、私の手にアレク様が優しくふれた。
「エステル。舞踏会が終わったら、あなたに伝えたいことがある」
私に向けられる瞳があまりに真剣で目をそらせない。
「予想外のことであなたは戸惑うかもしれない。あなたを困らせてしまうかもしれないが、どうか聞いてほしい」
私がなんとかコクリとうなずくと、アレク様は微笑んだ。その嬉しそうな笑みを見て、私の鼓動はどうしようもなく早くなる。
「戻ろうか、エステル」
何も言わずに手を取り合って並んで歩くこの時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思った。
*
次の日。
約束通り、昼から来たメイド達に、私は舞踏会の準備の仕上げをしてもらった。
その中のメイドの一人は、私の髪をブラシでときながらずっと真剣な表情をしている。
「優雅に流す……? 豪華に盛る……? いえ、ここは聖女様の美しさを引き立てるために、少しだけ編んで髪飾りを……」
ブツブツと言いながら髪を編むメイドは、しばらくすると「はい、できました!」と顔を上げた。
鏡には、いつもの髪型を元にしながらも舞踏会にふさわしい華やかさを足したような私が映っている。
「すてき……」
私のつぶやきを聞いたメイドは、嬉しそうにうなずいた。
「聖女様、とってもお美しいですわ」
「ありがとうございます。これなら私も貴族令嬢に見えますね! あっいえ、元から私も貴族ですけど」
実家が貧乏男爵家だったので貴族らしい生活をしてこなかったけど……。
髪のセットが終わると今度はドレスの着用だった。メイドが二人がかりでドレスを広げている。このドレスは背中部分が開くようになっているので、そこをめいいっぱい開けてそこから着用する。
「聖女様、ここに足を入れて立っていただけますか?」
「はい」
言われるままにドレススカートをまたぎドレスの中心に立つと、メイドたちはドレスを上に上げた。スカートがふわりと広がる。
手伝ってもらいながら私はドレスのそでに腕を通した。
最近まで知らなかったけど、舞踏会用のドレスを着るのはすごく大変なのよね。一人でなんか着れないわ。
貴族令嬢にメイドが必要な理由がよくわかる。
着用したドレスは、私の身体にピッタリと合っていた。どこもたるんだり、余ったりしていない。本当にわたしのために作られたドレスだった。
肌ざわりもいいし、着ているだけでスタイルが良く見える。
全身鏡を見つめながら、私は自信に満ちたフリーベイン領の服飾士の瞳を思い出した。
約束通り、彼女は最高の仕事をしてくれたのね。
私の肩にある黒文様は、予定通り可愛らしい花飾りで隠した。
それまで部屋の隅で控えていた護衛騎士のキリアが、小箱を持って近づいてくる。
「エステル様、これを」
「ありがとう、キリア」
これは昨晩、アレク様がくれたアクセサリーだった。メイドの一人がキリアから、うやうやしく小箱を受け取る。
小箱から取り出されたチョーカーを私の首につけたメイドは、感嘆するようなため息をもらした。
「とてもお似合いですわ」
鏡に映る自分自身を見て、私も「本当に」とつぶやく。
アレク様は『ドレスに合わせて作らせた』と言っていたけど、元からこのドレスの一部だったのではないかと思いたくなるくらい調和がとれている。
全身鏡にうつる姿を見て、私はメイドたちとうなずきあった。
「素敵に着飾ってくれて、ありがとうございます!」
メイドたちは、一斉に頭を下げた。
「光栄です、聖女様!」
その後ろでは、キリアが「お美しいです、エステル様!」と手放してほめてくれている。
いける。これなら美青年の隣に立ち、かつ、堂々と公爵様の婚約者を名乗れるわ!
キリアが「先ほどから扉前で閣下がお待ちです」と教えてくれた。
「今、行きます!」
足取り軽く部屋から出ると、そこには舞踏会用に着飾ったアレク様が立っていた。
「!?」
そのあまりの眩しさに、私はつい目をつぶってしまう。
そうだったわ、私が着飾るんだから、アレク様だって着飾るんだわ!
なんとか目を開けてアレク様を見ると、今まで見た騎士服とも平民服とも違う格好をしていた。
男性の服のことはよくわからないので、くわしく説明できないけど、なんというか、もはやこれは王子様服。そう、王子様のようなアレク様がそこにいた。
美形って何を着ても似合うのね。
感心していると、アレク様の首元に輝く宝石に気がついた。深紅のその宝石は、私の首元を飾るものと同じで……。
私の視線に気がついたのか、アレク様は「エステルと揃いなんだ」と教えてくれる。
「なんというか私達、とても婚約者っぽいですね」
「ぽいじゃなくて俺たちは婚約者だ」
そういうアレク様は、いつものように優しい笑みを浮かべている。
「エステルはいつも美しいが、今日は一段と輝いているな」
サラリとこんなことを言えるなんてアレク様って本当にすごいわ。理想の王子様ってこういう人のことを言うのかもしれない。
そういえば、アレク様は公爵で王族の血を引いているんだった。
私、頑張って着飾ったけど、今のアレク様の隣に立って大丈夫かしら?
少しだけ不安になりながら、差し出されたアレク様の手を取り隣に並ぶ。ふと見上げたアレク様の耳は真っ赤に染まっていた。
それを見た私は、なんだかホッとして嬉しくなってしまった。
馬車にゆられてたどり着いたカーニャ国の王宮はとても広く、その豪華さに目を奪われる。月明かりに照らされた王宮は、まるで夜空に浮かんでいるように見えてとても幻想的だった。
アレク様にエスコートされて会場入りすると、入口に立っていた係の者が声を張り上げる。
「フリーベイン公爵様、その婚約者エステル様のご入場です」
会場にいた貴族たちの視線が一斉に集まった。
その場から逃げ出したい気持ちをグッとこらえて、私は必死に微笑みを顔に貼り付ける。
一度だけ自国で参加した舞踏会会場より、さらに華やかですべてが輝いているわ。
チラリとアレク様を見ると、堂々としていて少しも気後れしていない。
さすがアレク様。頼もしいわ。私も堂々としておかないと。
背筋を伸ばしていると、会場にファンファーレが鳴り響いた。
先ほど私たちを紹介してくれた係の者が、「国王陛下、王妃殿下のご入場です」と声を張り上げた。
その場にいた貴族たちは、一斉にうやうやしく首(こうべ)を垂れる。
「つづきまして、王太子殿下と王太子妃殿下、並びに第二王子殿下とその婚約者様。さらに――」
恐ろしいことに係の者の読み上げは、第六王子殿下のフィン様まで続いた。
その間、ずっと同じ姿勢で頭を下げているので、私は全身がプルプルしてしまった。王族が多いとこういう苦労もあるのね。
カーニャ国では側室制度があるから王家の血を引く方が多いんだわ。
その点、自国のゼルセラ神聖国には側室制度はない。国王陛下と王妃殿下の間に三人の王子がいるのみ。
カーニャ国の国王陛下のありがたい挨拶が終わると、楽団が演奏を始めて会場内は和やかな空気になった。
それぞれがパートナーと手を取り合って、会場の中心へと向かう。
あっダンスをするのね。
私がアレク様を見るとアレク様はニコリと微笑み、私に右手を差し出した。
「俺と踊っていただけますか?」
「はい!」
手を取り合いダンスの輪の中に入っていく。
何度も何度もくり返し練習したおかげで、身体がステップを覚えている。アレク様のリードはとてもうまく、私たちの呼吸はぴったりと合っていた。
紫色の優しい瞳が私だけを見つめてくれている。
「楽しいな」
「はい、とっても楽しいです」
煌びやかな王宮で、王子様のように素敵な男性とダンスを踊る。それは乙女ならだれもが夢見る出来事。
でも、アレク様とならどこでダンスをしたって楽しい。もし、二人とも泥だらけだったとしても、アレク様とだったらきっと楽しく微笑み合える。
ダンスを踊り終えた私たちは、ウェイターからグラスを受け取りのどを潤した。果実の甘みが口に広がっていく。
「なんだかよくわからないけど、おいしいですね」
「ああ、よくわからないがおいしいな。……少し甘すぎるが」
小声でヒソヒソとそんな会話をする。
私もそうだけど、アレク様も同じくらい貴族らしいことに興味がないみたい。だから、舞踏会で出される飲み物の名前なんて二人ともさっぱりわからない。
無事にダンスが終わってホッとしたのもつかの間、ワッと人が寄ってきて私とアレク様は取り囲まれてしまった。集まってきた人たちから私を庇うように、アレク様が一歩前に出た。
その結果。
「フリーベイン公爵様、お初にお目にかかります! 私は――」
「婚約者様は、ゼルセラ神聖国の聖女様だとか!? ぜひご挨拶を――」
「私はこの国で絹織物の生産をしておりまして、ぜひフリーベイン領と取引を――」
次々に話しかけてこようとする人たちに向かってアレク様は片手をあげる。すると、シンッと辺りが静まり返った。
「光栄だが、その話はまたの機会に」
アレク様は私の肩を抱き寄せると、サッサとその場をあとにした。
「いいんですか?」
「いいんだ。エステルも、私が血まみれ公爵と呼ばれていることを知っているだろう?」
「はい……」
事実無根のウワサだけど、たしかに王都でもそう言われていた。
「そのウワサを信じずに、私の元にやって来た者とはすでに取引している。だから、今さら取引先を増やそうとは思わない」
「なるほど……」
アレク様に黒文様が浮かんでいても、それを恐れずに訪ねていった人たちがいたのね。その人たちとの交流を大切にしているアレク様の気持ちはよくわかる。
人々の視線から逃げるように、私たちはバルコニーへと出た。
ダンスで火照った身体に、ひんやりとした夜風が心地いい。
「あっ」と声が聞こえたかと思うと、アレク様の手が私の肩から離れていった。
アレク様の頬は赤く染まっている。
もしかして、さっき飲んだのお酒だったのかしら?
「大丈夫ですか? 顔が赤くなっていますよ」
私はそっとアレク様の頬に手をのばした。
「もしかしてアレク様、お酒に弱い……とか?」
もしそうだったら意外だわ。お酒に弱いアレク様を想像すると、ちょっと可愛いかもしれない。
アレク様から返事はない。ただ、ぼぅと私を見つめている。
「えっと、アレク様?」
「あ、ああ。いや、酔っていない」
「でもお顔が」
「それは……あなたに見惚れていたから」
赤い顔のアレク様の隣で、今度は私が顔を赤くした。
バルコニーでアレク様と一緒に赤くなる私に背後から声をかけられた。
「あ、ここにいたんですね!」
振りかえると、バルコニーの入り口でフィン様とフィン様によく似た銀髪の青年がにこやかに微笑んでいる。
たしか、この方はさっき第四王子殿下と紹介されていた方だわ。
「ようこそ、エステル! やっと見つけましたよ」
私に駆けよるフィン様を見て、背の高い銀髪青年が眉をひそめた。
「こらフィン。お前が聖女様に会えて嬉しいのはわかるが、それではフリーベイン公爵に失礼だぞ」
「あっ、公爵もようこそ!」
あわててアレク様にも挨拶をしたフィン様は、隣の青年を紹介してくれた。
「こちらは僕の兄でこの国の第四王子です」
「ギルだ」
アレク様が「カーニャ国の第四王子ギル殿下、第六王子フィン殿下にご挨拶を申し上げます」と頭を下げたので、私も淑女の礼(カーテシー)をとる。
たくさん練習したおかげで、ふらつかずにできたわ。
ギル殿下は「弟が迷惑をかけていないだろうか?」とアレク様に尋ねた。
「フィン殿下には、とてもよくしていただいています」
その言葉にフィン様は「ね? 僕はきちんと役目を果たしていますよ」と胸を張る。
「本当かぁ?」
「もう兄様、信じてよ!」
ハハハと笑うギル殿下と、不満そうな顔をしているフィン様はとても仲が良さそうだった。
いつもはしっかりしている印象のフィン様なのに、ギル殿下の前では年相応に見えてなんだか可愛い。
フィン様の頭をポンポンとなでてからギル殿下はアレク様を振り返った。
「ところで、公爵は肌に黒いアザがある者を探しているとか?」
「兄様、アザじゃなくて黒文様です」
「そうそう、その黒文様を持つ者だが、先日捕らえた不審者の身体にあってな」
フィン様は「兄様は、カーニャ国の防衛を任されているんですよ」と得意げに教えてくれた。
アレク様が「その者に会わせていただけますか?」と尋ねるとギル殿下はうなずく。
「そういうと思ってな。今日、別室に連れてきている。私としても少し気になることがある」
「気になること、とは?」
ギル殿下は腕を組んで思案するような表情を浮かべた。
「その不審者が、自分はゼルセラ神聖国の第三王子だと言っていてな。第三王子と言えばオグマート殿だろう?」
私とアレク様は予想外な名前を聞いて、思わず顔を見合わせた。
ギル殿下の話では、ゼルセラ神聖国を訪問したときにオグマート殿下には会ったことがあるが、顔まで覚えていないらしい。
「不審者のたわごとだと思うが、黒文様のこともある。念のため公爵にはその者に会ってほしい」
「わかりました」
フィン様が「エステルも一緒に来ますよね?」と笑顔で話しかけてくれる。私が何か言う前にアレク様が答えた。
「エステルは行きません。大切な婚約者を不審者に会わせたくないです」
「そっか、そうですね! では、エステルには別室を用意しますね。一人でここに残ったら大変なことになると思いますので」
先ほどから遠巻きに見ている貴族たちから痛いほど視線が刺さっている。それだけではなく、「聖女様だ」「本物の聖女様よ」というささやきがずっと聞こえてきていた。
フィン様の言う通り、ここに一人で残ると大変なことになりそう。
「お言葉に甘えます」
別室に案内してもらった私をアレク様はとても心配してくれた。
「エステル、一人で大丈夫か?」
「はい、フィン様が扉の前に二人も護衛をつけてくださったから大丈夫ですよ」
室内を見回すアレク様。
「カーテンが開いている。閉めておいたほうがいいのでは?」
その言葉にはギル殿下が答えた。
「ああ、そうだな。今日は舞踏会だから客が外から王宮を見たときに、王宮全体が明るく見えるようにわざとすべての部屋のカーテンを開けているんだ」
なるほど。だから、王宮が闇夜に浮かび上がるように見えたのね。
ギル殿下の指示で、護衛騎士がカーテンを閉めた。
「公爵、これで安心したか?」
「はい。……エステル、できるだけ早く戻る」
心配そうなアレク様に笑顔で手を振ると、私はその場に残った二人の護衛騎士に「よろしくお願いします」と声をかけた。
いつものように、護衛騎士のキリアが側にいてくれたら安心だったんだけど……。
王宮内には、武器の持ち込みや護衛騎士を伴うことを禁止されている。なので、キリアは王宮内に入れない。
私は広い部屋の中で一人、ソファーに座って時間を潰した。
室内の装飾品に見惚れていると、どこからかコツンと音がする。私がキョロキョロしていると、またコツン。
窓のほうから?
カーテンを閉めているので外は見えない。
私はソファーから立ち上がると、念のため護衛騎士が控えている扉のほうにあとずさった。
ドアノブに手をかけた瞬間、ガシャンと窓が割れる音がする。
訳がわからず悲鳴を上げると部屋にあわてて護衛騎士たちが入ってきた。
「聖女様、どうされましたか!?」
「きゅ、急に窓が割れて!」
護衛騎士たちはそろって腰の剣を抜いた。一人は窓に近づき、もう一人は私を背後に隠す。
「だれかいるのか!?」
返事はない。護衛騎士はカーテンをつかむと勢いよく開けた。そこにはだれもいない。でも、割れた窓の破片が室内側へ落ちている。
「外から割られています。まだ近くにいるかもしれません」
護衛騎士が窓を開け放ちバルコニーに出た瞬間、その護衛騎士に黒い影が飛びかかった。
「うわっ!?」
あっという間に護衛騎士は、自分が持っていたはずの剣を不審者に奪われて、首元に突きつけられている。
私を背後に隠すように守ってくれていた護衛騎士が「聖女様、お逃げください!」と叫んだ。弾かれるように部屋から出ようとした私を冷たい声が呼び止める。
「エステル。逃げたらコイツを殺すぞ」
思わず足を止めた私に、剣を突き付けられた護衛騎士は「お逃げください!」と叫ぶ。
その様子をフンッと鼻で笑った不審者は、ためらいもなく護衛騎士を切りつけた。切りつけられた個所を押さえながら護衛騎士は苦痛に顔を歪めている。
もう一人の護衛騎士が不審者に切りかかったが、剣で弾かれて逆に切り捨てられた。
その場にうずくまった護衛騎士を、フードを深くかぶった不審者が見下ろしている。
「仲間を助けようとでも思ったのか? そんな腕前で?」
不審者は護衛騎士のマントで刃についた血をふき取ったあと、私に向き直った。
「私と一緒に来るんだ。お前が逃げたら、こいつらを殺す」
フードで顔は見えない。そういえば、アレク様と街に言ったときに、フードを被った人が私にふれようとしていたと言っていた。
もしかして、目の前の人物があのときの人なの?
不審者の足元でうずくまる護衛騎士たちは、まだ息がある。早く手当てをしなければ。でも、どうやって?
私は聖女と言われているけど、邪気の浄化はできても治癒の力は持っていない。聖女はあくまで邪気や魔物に対抗できる存在だから。
「そうおびえるな。エステル」
私に近づいて来た不審者はフードを下ろした。
金髪に青い瞳、そして驚くほど整った顔立ち。肌は日に焼けて雰囲気は変わっているけど、私はこの顔に見覚えがあった。
――醜い姿だな。
嫌悪を隠さない瞳に、吐き捨てるような侮蔑の言葉が脳裏をよぎる。
「……オグマート、殿下?」
おそるおそるその名前を呼ぶと、オグマート殿下の口元がニヤリと上がる。
「ようやく会えたな、エステル」
オグマート殿下は、急にうっとりとした表情を浮かべた。
その顔は、過去に私に婚約破棄を突き付けて、新しい婚約者がマリア様だと教えてくれたときのことを思いださせる。
「ああっ、なんて美しいんだ……」
この人はこんな状況下で何を言っているの?
ゼルセラ神聖国の第三王子が王宮に忍び込み、カーニャ国の騎士を切りつけた時点で両国の友好関係は崩れ去った。
目の前の男は、もう王子ではなくただの罪人だ。
オグマートの手が私の髪にふれそうになったので、あわてて避けた。その様子を見てオグマートはフッと笑う。
「恥ずかしがらなくていい。今のお前なら私にふさわしい」
「ふさわしい? さっきから何を言って……?」
部屋の外が騒がしくなった。バタバタと複数の足音が近づいてくる。
それに気がついたオグマートが舌打ちをしながら、剣先を足元でうずくまる騎士たちに向けた。
「エステル。着いてこないと……わかっているな?」
切りつけられた騎士達は、今ならまだ助かるかもしれない。私は覚悟を決めた。
「わかりました。着いていきます。だから、これ以上彼らを傷つけないという証拠に、その剣を捨ててください」
オグマートは「やはり聖女は、そうでなくてはな」と嬉しそうに剣をその場に投げ捨てた。
「さぁ行くぞ」
手首をつかまれ強引にバルコニーまで連れ出される。ふれられた箇所が気持ち悪くてゾワッと鳥肌が立った。
「落とさないから安心しろ」
私が何かを言う前に、オグマートは私を横抱きに抱きかかえた。そして、バルコニーの柵に足をかけたかと思うと、そのまま飛び降りる。
わずかな浮遊感のあとに、身体が落下していく。驚きすぎて悲鳴すらあげられない。
オグマートは、左手で私を抱きかかえたまま、落下途中に右手で木の枝をつかみ、落下の勢いを殺してから地面に着地した。
それでもかなりの衝撃があったのに、ふらつくことも立ち止まることもなく、私を抱きかかえたまま走り出す。
私はすぐ近くにあるオグマートの冷たい横顔を呆然と見つめていた。
大聖女様は『ゼルセラ神聖国内で能力が飛びぬけて高く、強靭(きょうじん)な精神を持つ者を三人選びました』と言っていた。
たしかに、オグマートはすごい。大聖女様に選ばれるほどの能力を持っているのかもしれない。
でも、ためらいもなく人を切りつけて殺そうとするような人でもある。
大聖女様は、どうしてそんな人を選んだの?
どれだけ祈っても大聖女様には、あれから会えていない。
お願いだから、もう一度会って話を聞かせてほしい。私が両手を合わせて大聖女様に祈っているとオグマートの手が私の髪をなでた。
「エステル、心配しなくていい」
どこか甘い響きを含むオグマートの言葉に吐き気を覚える。オグマートの腕の中で、少しずつ自分の意識が遠のいていくのがわかった。
**
ピチャン
水滴が落ちる音で目が覚めた。
私はいつの間にか、冷たい石の床に倒れこんでいた。舞踏会用のドレスを着ていたはずなのに、なぜか寝るときに着ているナイトドレスに着替えている。
ドーム型の天井の中心部からは淡い光が差し込んでいた。
あ、ここは大聖女様がいる薄暗い神殿……。
――エステル。
落ち着いた静かな声を聞いて、私はあわてて身を起こした。
側には、栗色の髪の女性がたたずんでいる。
「大聖女様!」
大聖女様の顔には、以前見たときと同じようにびっしりと黒文様が浮かんでいた。そして、以前とは違い、彼女の周りには邪気が漂っている。
「大変! すぐに浄化します!」
私の言葉を聞いた大聖女様は、うつろな瞳で『もういいのです』とささやいた。
「でも!」
――私はもう、手遅れです。
「で、でも……」
大聖女様は困ったように小さく微笑む。
――エステル。私に聞きたいことがあってここに来たのでは?
私はその言葉にハッとなった。
「大聖女様が選んだ三人目を見つけました。でも、どうしてオグマートなんですか? 彼は……とてもひどいことを平気でするような人ですよ?」
――それは、善悪関係なく能力のみで、私のあとを継げる者を選んだからです。
「大聖女様の、あとを継ぐ?」
頭が真っ白になり、すぐには言葉がでてこない。私はなんとか言葉を絞り出した。
「……それは、大聖女様の代わりに、この薄暗い神殿で祈り続けるということですか?」
大聖女様は、ゆっくりとうなずいた。
――はい。その責務に耐えられる者を選びました。
「で、でも、私以外聖女ではないのに、どうやって……?」
――聖女でない者は、邪気が具現化した魔物を、ここで倒し続けることになります。
だとしたら、もしアレク様があとを継いだら、ここで気が遠くなるほどの年月、たった一人で魔物を退治し続けるの? そんなこと絶対にさせたくない。
「大聖女様……もし、だれもあとを継がなかったらどうなるんですか?」
――邪気があふれ出し、大陸中に魔物が現れます。
やっぱり……。そうなってしまうと今の平和は失われてしまう。
両親や妹や弟。フリーベイン領で出会った大切な人たちの顔が脳裏に浮かんでは消えていく。
最後にアレク様の優しい笑みを思い出して、私は痛いくらい胸がしめつけられた。
「アレク様がつらい目に遭(あ)うくらいなら、私が……」
私の唇に大聖女様の指がそっとふれた。指の先まで黒文様が現れている。
――エステル、この件は一人で決めてはなりません。選ばれた者達で決めてください。一人で決めないことに意味があるのです。
「どうして?」
――これは……私の、最後のわがままです。
大聖女様は、悲しそうに瞳をふせた。
――今のこの状況は、過去に私の身に起こったことをまねています。神の力を得た私たちのだれかが犠牲になることで世界に平和が訪れる。大昔に、私たち夫婦は今のエステルと同じ選択を迫られました。
邪気があふれだす、この場所を、だれがどうするのか?
――神の力を得たと同時に、世界を平和にもたらすという使命を与えられていた私たちは、すぐに結論を出せませんでした。でも、長い沈黙のあとで夫が『俺がここに残る』と言ったので私は結界を張り、夫をこの場所から追い出しました。大切な人が苦しむくらいなら、自分だけが犠牲になればいいと思ったのです。
それは、ついさっき私も考えたことだった。
――結界の外で、夫は暴れて怒鳴り散らしたあとに、しくしくと泣きはじめました。そんな夫に私は『幸せになってね』と伝えました。長い間、結界の前に立ち尽くしていた夫は、ある日フラッとどこかへ消えてしまいました。私はあのときの選択を後悔していませんでした。でも……。
大聖女様の瞳から、また涙が一粒こぼれた。
――長い月日を一人きりですごしているうちに、私はあのときの選択が本当に正しかったのか、わからなくなってしまったのです。
その話を聞きながら、私はどうしようもなく泣きたくなった。
天井から降り注ぐ淡い光を大聖女様が見上げる。その姿は黒文様まみれでも神々しい。
――ここには大陸中の祈りと願いが届きます。小さな願いから、醜悪な欲望まで。私がここで邪気を浄化しつづけても、人々はこんなにも苦しんでいます。いったい何が正解だったのでしょうか? もうすぐ朽(く)ちて消えゆく私は、最後にどうしても、私以外の人の選択を知りたくなったのです。
『エステル、あなたたちを巻き込んでしまってごめんなさい』と大聖女様はささやく。
私は真相を聞いても、大聖女様を恨むことができなかった。神殿で大切な人達のために一人祈る姿は、過去の私そのものだったから。
大聖女様は私。フリーベイン領に行かず、アレク様に出会えなかった私。だから私はどうしても彼女を助けたい。
ボロボロと涙を流しながら、私は大聖女様に尋ねた。
「だ、大聖女様はどこにいるんですか? この神殿はどこにあるんですか? 魔物がたくさん現れるフリーベイン領にいるんですか?」
ゆるゆると大聖女様は首をふる。
――フリーベイン領に魔物が頻繁に現れつづけるのは、夫の剣がそこにあるからです。
そういえば、アレク様が持っている剣は、英雄が使っていたものだと言っていた。
――あの剣には神の力が宿っていて、切ることで邪悪なものを浄化することができます。前にも話しましたが、ゼルセラ神聖国を恨み、国そのものの消滅を願っている者がいます。邪気を操るその邪悪な者が、自分を浄化できる剣を奪おうとしているのです。
「では、大聖女様はどこに?」
――私は……。私はゼルセラ神聖国の地下深く、閉ざされた神殿内にいます。
信じられない言葉に耳を疑っていると、大聖女様は言葉を続ける。
――ゼルセラ神聖国は、数年後に戻って来た夫が、地下で祈り続ける私を見守るために興(おこ)した国なのです。
――ゼルセラ神聖国は、数年後に戻って来た夫が、地下で祈り続ける私を見守るために興(おこ)した国なのです。
大聖女様の言葉を聞いて、私は思い当たることがあった。
王都の神殿で私が聖女をしていたとき、毎日祈って邪気を浄化しても王都の邪気は増えていく一方だった。
「そう、そうだったのね……。王都は元から邪気が集まる場所だったんだわ」
今まで大聖女様が地下の神殿で浄化してくれていたから問題なく暮らせていたけど、大聖女様の力が衰えた今、少しずつ王都に邪気があふれでてしまっているのかもしれない。
「では、ゼルセラ神聖国の王族は、英雄の子孫……?」
私のつぶやきに大聖女様は『いいえ』と答えた。
――夫は国を興(おこ)し英雄と称えられましたが、王位は別の者に譲りました。でも、私はゼルセラ神聖国の民を、私たちの子だと思い見守ってきましたよ。
大聖女様は私の頭をなでてくれた。黒文様まみれのその手はとても温かい。
やっぱり大聖女様をこのままにしておけない。そして、アレク様だって不幸にしたくない。
大聖女様のお話を聞いてようやくわかった。だれかが犠牲にならないと保てない平和なんて間違っているわ。必ずもっといい解決方法があるはず。私だけでは思いつかなくても、他の人たちの意見を聞いたら何か思つくかもしれない。
「……わかりました。皆が幸せになれる方法を必ず見つけてみせます。そして、大聖女様に会いに行きますね! だから、それまで待っていてください!」
私はとびっきりの笑みを浮かべた。
――エステル……。
ほんの少しだけ大聖女様は微笑んでくれたように見えた。
**
目が覚めると私は簡素なベッドの上で横になっていた。薄汚れたカーテンの隙間から光が漏れている。
私が気を失っている間に夜が明け、朝になってしまったみたい。
この部屋は、王都で聖女をしていたときに神殿内で私に与えられていた部屋によく似ていた。だから一瞬、今までのことはすべて夢だったのでは?と思ったけど、私が身にまとっている鮮やかな赤いドレスが夢ではないと教えてくれる。
「……ここは?」
部屋の中にはだれもいない。家具もほとんどなくヒビ割れた鏡が壁にかかっていた。
部屋の扉が乱暴に開いた。そこにはオグマートが立っていて、私を見るなり目を鋭くする。
「エステル、どういうことだ!?」
オグマートはヒビ割れた鏡を壁から取ると、私の顔に突きつけた。
鏡に映る私の唇に、黒文様が浮かんでいる。
これは……夢の中で大聖女様がふれた個所に、また黒文様が浮かんでいるんだわ。自分自身を浄化するとすぐに消えるけど、オグマートはそのことを知らない。
「せっかく美しくなったのに! もちろん消せるよな!?」
なんて答えるのが正解なの? 戸惑う私にオグマートは冷たく言い放つ。
「……消せないのなら、お前の扱いを変えないとな」
残忍そうな声に背筋がこおる。このままじゃ何をされるかわからない。オグマートが私を攫(さら)った目的がわかるまでは、言うことを聞いておいたほうがいい。
「……消せます」
「やってみろ」
言われるままに大聖女様に祈りを捧げ自分自身を浄化する。
私をにらみつけていたオグマートの表情がほころんだ。
「すごいぞ、さすが本物の聖女! 偽物の聖女マリアとは大違いだ!」
「マリア様が偽物……?」
「ああ、そうだ! あの女は聖女を名乗りながら、大した力を持っていなかった。しかも、地位と外見だけの心が醜い女だった」
吐き捨てるようにそう言ったオグマートは、私の左手首をつかんだ。
「だが、エステルは違う! 強い聖女の力を持ち、なにより心が美しい! それだけでも良かったのに……」
オグマートの表情がうっとりとする。
「こんなに美しくなるなんて完璧だ」
ほめられているのに、少しも嬉しくない。
「オグマート……殿下は、マリア様と婚約されているのでは?」
「だれがあんな女と! 私の婚約者はエステルだけだ」
私は信じられない気持ちでオグマートを見つめた。
「殿下と私の婚約は破棄されています。殿下がはっきりと婚約破棄だとおっしゃったではないですか!」
「あれは取り消す」
そういうオグマートは少しも悪びれた様子がない。
「私はアレク様……フリーベイン公爵様の婚約者です!」
「だが、また婚姻はしていない。公爵との婚約を白紙に戻して、私とまた婚約すればいい。そうすれば、すべてが元通りだ」
自分勝手な言い分に開いた口がふさがらない。
「エステル……」
そうささやきながら髪をなでられた。アレク様になでられたときとぜんぜん違う。怖いし気持ち悪くて仕方ない。
「そんなにおびえるな。王族の花嫁は清らかな身体でないといけないからな。式を挙げるまでは決して手出ししない」
「花嫁? では、殿下は私を殿下の妻にするためにここまで連れて来たとでも言うんですか?」
「さっきからずっとそう言っているではないか」
ウソをついているような顔じゃない。全身から力が抜けて、私の口から深いため息が出た。
そんなことのために、カーニャ国の王宮に忍び込み、騎士たちを切りつけたなんて信じられない。でも、私に危害を加えるつもりはないと聞いて安心した。
ようするに、オグマートは私の聖女の力を手に入れるのが目的なのね。黒文様が消えてるから、ついでに嫁にしてやるってところかしら? だったら、殺されることもないわね。
「……殿下、いろいろ言いたいことはありますが、今はそれどころではありません。殿下の身体にも黒文様が現れていますね?」
「ああ、なぜ知っている?」
オグマートは、着ているシャツを脱いだ。その身体は日に焼けて鍛えられている。
あれ? オグマートってこんな感じだったかしら?
前はもっとヒョロヒョロしていたし、肌も真っ白でお上品で偉そうな王子様という感じだったような?
混乱しながらも私はオグマートの腰あたりに広がる黒文様を確認した。
やっぱりオグマートが大聖女様に選ばれた三人目なのね。わかっていたけど納得できない。
「エステル、これも消せるのか?」
「あ、はい」
私は祈りを捧げてオグマートを浄化した。アレク様ほどひどくなかったので、黒文様はすぐに薄れて消えていく。でも、私やアレク様と同じように一か所だけ黒文様が残った。
「素晴らしい! だが、まだすべて消えていないぞ」
「これは消せません」
「どうしてだ?」
「わかりません、私にも残っていますから」
私はドレスの飾りを外して黒文様を見せた。これを見せることで、やっぱり嫁にはしないで聖女の力だけほしいとか言わないかな。
オグマートに愛をささやかれても少しも嬉しくない。
私の肩をじっと見つめたオグマートは、「まぁそれくらいなら」と黒文様を許容した。
「私にも残るのなら、それくらいは許してやろう」
いや、許してくれなくていいから!?
その言葉をグッと飲み込んだ私に、オグマートは「着替えろ」と女性ものの服と靴を投げつけた。そういえば、前に黒いベールも投げつけられたことがあったわね。
あのときは、そんな扱いをされても仕方がないと思っていた。でも、フリーベイン領で大切にしてもらった私は、この扱いがひどいものなのだと今ならわかる。
こんな扱いをしてくる人の妻になるなんて絶対に嫌だった。でも、ドレスとヒールの高い靴のままではオグマートから逃げることもできないので、大人しく着替えることにした。
でも、ドレスってどうやって脱ぐの?
数人がかりで着させてもらったものを、一人でぬげるものなのかしら?
というか、オグマートはどうして部屋の外に出ないの? 私が着替えている間、そこにいるつもりなの?
さっさと着替えない私に腹が立ったのか、オグマートが近づいてきた。
「後ろを向け」
言われるままに後ろを向くと、布が引き裂かれる音がする。
「な、何を!?」
オグマートはナイフを手に持っていた。
「一人で脱げないのだろう? 手伝ってやる」
抵抗する間もなく私は壁に押し付けられ、ドレスの背中が切り裂かれていく。
「や、やめて!」
このドレスは、とても大切なものなのに。
フリーベイン領のメイド達が選んでくれて、服飾士が私のために丁寧に仕上げてくれた。とても、とても大切なドレスだった。
「ほら、脱げたぞ。さっさと着替えろ」
無残に切り裂かれたドレスを見て涙があふれる。
「ひどい……」
私の言葉を鼻で笑ったオグマートは、「そんなものより、もっと良いドレスをこれからいくらでも贈ってやる」と少しも悪びれない。
大聖女様は、選んだ三人で世界の理(ことわり)を決めてほしいと言っていたけど、こんな人と話し合いなんてできる気がしない。
とにかく、ここから逃げてアレク様と合流しないと。
涙をふいた私は急いで着替えた。飾り気のないワンピースに歩きやすそうなブーツを履く。これなら走って逃げることだってできる。
「……着替えました。これからどうするんですか?」
オグマートはナイフをポケットにしまい、部屋の隅に置いていた荷物を抱えた。
「国に帰る」
「ゼルセラ神聖国に?」
「そうだ。それ以外どこがある?」
「でも……。王宮に忍び込んで私を攫(さら)ったのだから、今ごろ国中大騒ぎになっているのでは?」
クッとオグマートは笑った。
「カーニャ国の王族が、王宮主催の舞踏会で聖女が誘拐されたなんて失態を公言するわけないだろう? まぁ今ごろ血眼になって探しているだろうがな」
「私たちを探しているのなら、門は閉ざされているのでは?」
「そうだろうな。だが、安心しろ。私なら正面突破できる!」
自信満々なオグマートを見て、私は思った。
この人……もしかして、状況を正しく判断したり、深く物事を考えたりすることが苦手なのでは?
ものすごく短絡的な思考なのに、今まで王族だからなんとかなっていたとしか思えない。そして、今はすべてを力技で解決しようとしている。
私の脳裏にこんな言葉がよぎった。
脳筋(のうきん)……。
ちなみに脳筋とは、「脳みそまで筋肉」という意味で、考えるよりも先に体を動かしてしまう人のことをいうらしい。
あまり良い言葉ではないけど、貧乏貴族の私たちは領民とも親しくしていたので、こういう言葉を聞くことがあった。
オグマートを脳筋と仮定すると、今までのすべての行動が説明できてしまう。
急すぎる婚約破棄も、王宮への不法侵入も、騎士を切りつけたのも、勝手すぎる再婚約の提案も。
この人、自分が行動した結果、どうなるのか、相手がどう思うのかとか、何も考えていないんだわ……。深く考える前に、思いついた時点で実行してしまっている。
「行くぞ、エステル!」
はりきるオグマートに手を引かれながら、今までオグマートに感じていた底知れない恐怖が、私の中であきれへと変わっていくのを感じた。
攫(さら)われたエステルを見つけられないまま夜が明けてしまった。
カーニャ国の第四王子ギル殿下も探してくれているが、これ以上の兵の動員は見込めない。
それもそのはず、王宮主催の舞踏会で他国の聖女が攫われたなど公(おおやけ)にできるはずがない。
ひとつ間違えれば、カーニャ国とゼルセラ神聖国は戦争になりかねない。だが、その聖女を誘拐した犯人がゼルセラ神聖国の第三王子オグマートである可能性が高いことが事態をよりややこしくしている。
俺はカーニャ国の王族の許可を得て、ゼルセラ神聖国側に出る門を封鎖しながら昨晩のことを激しく後悔していた。
エステルと別れてオグマートと思われる人物に会いに行ったときのこと。
『罪人を貴賓(きひん)が集まる舞踏会会場に入れるわけにはいかない』ということで、だいぶ離れた場所まで歩かされた。
別室に残して来たエステルが心配だったが、罪人に会わせるほうがもっと心配だったので仕方ない。
そんな私を見てギル殿下は笑う。
「そう心配するな、公爵。聖女の見張りは、腕が立つ者をつけている。安心してくれ」
「そうですか……」
フィン殿下も「大丈夫ですよ。カーニャ国にも優秀な騎士はたくさんいますから!」と励ましてくれた。
でも、それでも心配なのだから仕方ない。さっさと終わらせてエステルの元に戻ろう。そんなことを考えていると、ようやく目的の場所についた。
そこは牢獄ではなく、王宮内の普通の部屋だった。
ギル殿下が「おかしいな、部屋の前に配置した騎士がいない」と言ったので、俺は急いで部屋の扉を開けた。
部屋の中では、血を流した騎士が四人倒れていた。そのうちの一人に駆け寄り声をかける。
「大丈夫か!?」
「……うっ」
まだ息はある。騎士は正面から切られていた。背後からの不意打ちではないので、ここに閉じ込められていた罪人は、一度に騎士を四人相手にして倒したということになる。
そうとうな手練(てだ)れのようだ。
ギル殿下は、「バカな、武器は取り上げていたのにどうやって!?」と叫んでいるが、武器なんてなければ敵から奪うなり、代わりのものを代用して武器にするなりと、どうにでもなる。
「罪人はどこに?」
俺の問いに傷ついた騎士は、窓のほうを指さす。部屋の窓は開け放たれて、カーテンがゆらゆらとゆれていた。
逃げたのか? いや、逃げるだけだったら、どうしてわざわざ王宮に忍び込んだ?
何が目的なんだと思ったと同時に、俺の脳裏にエステルの顔が浮かんだ。
もし、ここに捕えられていたのが、本当にオグマートだった場合、目的はエステルの可能性が高い。
なぜなら、自らエステルと婚約破棄をしてフリーベイン領に送ったのに、その後、手紙で何度もエステルに王都に戻るようにと指示が来ていた。
その手紙の内容があまりに自分勝手だったので、オグマートからの手紙はエステルには見せずにすべて燃やした。一度も返事などしていないのに、それでも手紙は届き続けたが、ある日、パタリと手紙は途絶えた。だから、ようやくエステルのことをあきらめたと思っていた。
嫌な予感がする。心配性でも過保護でもなんでもいい。とにかく今すぐエステルの無事を確認したい。
「エステルの元に戻ります!」
俺が勢いよく立ち上がると、ギル殿下は俺たちの後ろを付いてきていた騎士に命令した。
「公爵を急ぎ聖女様の元に案内しろ!」
「はっ!」
騎士の案内でエステルの元へと走っていると、王宮内が騒がしくなってきた。近くにいたメイドを捕まえて話を聞く。
「何があった!?」
「そ、それが……聖女様のお部屋から悲鳴が」
一瞬で血の気が引いた。エステル、どうか無事でいてくれ!
神に祈る気持ちでエステルがいるはずの部屋に飛び込むと、そこにエステルはいなかった。代わりに扉の前で護衛をしていた騎士たちが倒れている。
窓が開いていた。バルコニーに出ると、黒い人影が城門のほうへ駆けていくのが見える。明かりの横を通るときに、たしかに真っ赤なドレスが見えた。
「エステル!」
俺はそのままバルコニーから飛び降りた。近くにあった木の枝を足場にして、もう一度飛び上がる。
地面に着地すると、人影を見失っていた。王宮庭園内は、あまりにも広く暗すぎる。
俺はフリーベイン領の騎士たちが控えている馬車置き場まで走った。
いち早く俺の姿を見つけたキリアが「閣下? エステル様は?」と駆け寄ってくる。
「エステルが攫(さら)われた! 犯人は我が国の第三王子オグマートの可能性が高い! 馬を持て!」
騎士の一人が馬を引いて俺に手綱を渡す。
「キリア、フィン殿下に街から出る門を封鎖する許可をもらえ!」
「はいっ!」
「俺は門へ向かう! 後の者は俺に続け!」
「はっ!」
一斉にフリーベインの騎士たちは馬にまたがる。
エステル、どうか無事でいてくれ。
祈りながら王宮の門を駆け抜けていく。
いつもは固く閉ざされた城門も、今日ばかりは開け放たれていた。念のため門番も立っているが、飾りのようなもの。
「くそっ! 俺がエステルの側を離れたから……」
自責と後悔で押しつぶされそうになる。
街の外に出る門までたどりついた。
驚く門番たちにここ数時間で、外に出た者はいないか聞くと「いない」という返事が返ってくる。
カーニャ国から外に出るには、必ずこの門を通らないといけない。だから、エステルはまだ国外に連れ出されていない。
最悪の事態は免れたようだ。
俺はフリーベイン領の騎士たちに命じて情報を集めさせた。
「金ならいくら払ってもいい! 赤いドレスを着た女性を連れた不審者の情報を集めろ!」
「はっ!」
瞬時に散っていく騎士たちの背中を見送り、俺はようやく息を吐いた。
夜が明け空が白くなりだしても、エステルは見つからない。
ギル殿下が門までやってきた。
「聖女は?」
「まだ見つかっていません」
「私兵を貸そう。好きに使ってくれ」
「では、殿下の名のもとに宿内を調べる許可をください。私兵にも、赤いドレスを着た女性を連れた客がいないか徹底的に探すようにご指示を。宿にいなければ空き家や廃墟も」
「いいだろう」
ギル殿下が右手をふると、私兵たちはそれぞれ街中に消えていく。
どれくらい時間がたったのだろうか。
キリアが俺の元に駆け込んできた。
「閣下!」
顔面蒼白のキリアが差し出したものは、深紅のドレスだった。それはエステルが着ていたもので……。
「宿の主(あるじ)が客が出ていったあとに、これが残っていたと!」
「客の特徴は?」
「フードを深くかぶっていて顔はわからないけど、若い男だったそうです。一人で泊っていたのに、宿から出るときはとても綺麗な女性を連れていたと」
キリアから手渡されたドレスは無残にも刃物で切り裂かれていた。両手がふるえ、吐き気が込みあがる。胸がひどく痛んだ。
「……オグマート、殺してやる」
「か、閣下……お顔が……」
キリアに言われて自分の顔にふれると、ふれた手に黒いモヤがまとわりつく。
「き、消えたはずの黒文様が、どうして閣下のお顔に?」
「そんなことはどうでもいい。今重要なことは、エステルが生きているということだ。キリア、よくやった! エステルを必ず見つけ出すぞ!」
「は、はい!」
何がなんでも見つけ出す、そう意気込んだところで、フードを被った男がまっすぐ門に向かって歩いてきた。
門番が「とまれ! この門は封鎖されている!」と叫んでも立ち止まらない。
門番が剣をぬいて男に突きつけると、男はようやく立ち止まった。かと思うと、あっという間に門番を組み伏して剣を奪う。
あれは市場でエステルにふれようとしたフードの男だ。かなり腕が立つ。おそらくオグマートだ。
門番たちでは相手にならず足止めすらできない。
俺はキリアに耳打ちした。
「周囲にエステルがいないか探せ」
「はい!」
かけていくキリア。俺は腰の剣を抜き放った。
「止まれ」
「嫌だと言ったら?」
切りかかってきたフードの男の剣を弾く。
よろめいた男の首元を切りつけた。フードが切れて男の顔がさらされる。
金色の髪に青い瞳。オグマートの顔なんて知らないが、この男はとてもじゃないが平民には見えない。
「オグマートだな?」
「そういうお前は、フリーベイン公爵か?」
「エステルはどこだ」
オグマートはフッと鼻で笑う。
「ちょうど良かった。エステルはもうお前の婚約者ではない。私の妻になる女だ」
「エステルはどこだ」
「うるさい! お前ごときに、この私が倒せるとでも……」
俺はもう一度、オグマートの首元を切りつけた。
薄く切れた首元から血がにじむ。
「は?」
「エステルはどこだ」
「ちょっと、待て」
今度はオグマートの手の甲を柄(つか)で激しく打った。
「いっ!?」
剣を取り落としたオグマートに、剣先を突きつける。
「エステルはどこだと聞いている」
「あ、あれ?」
「早く答えろ。死にたいのか?」
「いや、私は強いのに? 魔物だって余裕で倒せるのに? な、なんなんだお前、強すぎだろ!?」
わけのわからないことを言い、いつまでたっても問いに答えないオグマート。
「そうか、わかった。死にたいんだな」
俺がオグマートの頭上に剣を掲げた瞬間。
「ダ、ダメですよ、アレク様! お気持ちはわかりますけど、こんなんでも、この人は大聖女様に選ばれた……」
目の前に、何をしてでも、会いたかった人がいる。
「エス、テル?」
「あ、はい。あれ? アレク様、お顔に黒文様が――」
俺は剣を投げ捨ててエステルを抱きしめた。
……良かった。
エステルが生きてて良かった。
胸が詰まって言葉にならない。
声の代わりに涙がにじんだ。
「……すまない、守ってやれなくて」
「アレク様……」
ハッと我に返った俺は、腕の中のエステルの顔を覗き込む。
「大丈夫か? ケガは?」
「私は大丈夫です!」
エステルは、「しばらく待ってろって言われて、縛られて閉じ込められていたんですけど、キリアが助けてくれました」とニコリと微笑む。
オグマートを見ると、俺の剣を拾ったが、その重さによろめいていたので、とりあえず殴って気を失わせておいた。
オグマートをギル殿下に任せるとまた逃げられる可能性があるので、フリーベイン領の騎士たちに拘束させて連れていく。
「ギル殿下、ご協力感謝します」
「いや、こちらの失態でもある。この件は……」
「わかっています。我らこそ、我が国の者が申し訳ありませんでした」
お互いに視線を交わし、これ以上問題にしないことにする。
大事(おおごと)にしてしまうと、攫(さら)われたエステルまで何を言われるかわかったものではない。
俺はエステルさえ無事ならばそれでいい。
「戻ろう」
馬にまたがると、エステルの腕をひいて馬上に引き上げる。
疲れた表情のエステルは俺に身を預けてきた。
「エステル、本当に大丈夫なのか?」
「はい、私は大丈夫ですよ、だいじょうぶ……」
エステルの声がふるえた。
「ほ、本当は……怖かった、です。も、もうアレク様や皆に会えないのかと」
静かに涙を流すエステルを俺は強く抱きしめた。
一度流した涙は、なかなか止まらず私はアレク様の腕の中で小さな子どものように泣き続けた。
滞在先の邸宅に戻ってきても、涙はとまらない。
そんな私をアレク様は、まるでお姫様を抱きかかえるように運んでくれた。
驚きかけよってくるカーニャ国のメイドたち。
「エステルを休ませたい」
アレク様がそう伝えると、メイドたちは先回りして扉を開けてくれる。
その様子を見て私はようやく冷静になった。そして、冷静になると同時に今の状況が恥ずかしくなってくる。
「あの、アレク様……」
下ろしてくださいという前に、私の寝室にたどり着いてベッドの上に下ろされた。ベッドの端に腰をかける私の前に、アレク様はひざまずく。
アレク様の右手が私の左手をそっとつかんだ。
「本当に、すまなかった」
後悔をにじませるアレク様。
「や、やめてください! どうしてアレク様が謝るんですか?」
アレク様はまるで許しを請うように私の手の甲に額を当てる。
「……守れなかった」
その声はかすれていた。
「怖い思いをさせてすまない」
「謝らないでください。アレク様は私を助けてくれたじゃないですか」
私はなぜかアレク様の顔に再び現れた黒文様にそっとふれた。祈りを込めて浄化する。黒文様はキラキラと輝きながら消えていった。
頬にふれた私の手に、アレク様の手が重なる。
「俺は愛する人を守れなかった」
「愛する、人?」
顔を上げたアレク様は、まっすぐ私を見つめる。
「エステル、愛している」
アレク様が、私を愛している?
「え?」
「あなたは気がついていなかっただろうが、俺はあなたに初めて会ったときから、ずっとあなたのことを想っていた」
「ええっ!?」
私は驚きと共に、胸がいっぱいになってしまった。
「俺はあなたをだれよりも幸せにしたい」
アレク様の言葉は夢のようで、素直に嬉しいと思ってしまっている自分がいる。
「わ、私もアレク様の幸せをだれよりも願っています」
だから、私でいいの? とも思う。こんなに素敵な人の側にいるのが私で……。
「俺の幸せはあなたの隣にいることだ。だから、俺の幸せを願うなら、どうかずっと側にいてほしい」
「ずっと……?」
それは舞踏会が終わって、婚約者のふりをする必要がなくなっても?
私はこれからも、ずっとアレク様の側にいていいってこと?
じわじわと喜びが押し寄せてくる。
ああ、そっか、私もアレク様のことが……。
今さらながらに顔が熱くなった。
「エステル、返事を聞かせてほしい。俺ではダメだろうか?」
アレク様の懇願に私は必死に首をふる。
「わ、私もっ私もです!」
「私も? 私もなんだ?」
ど、どうして伝わらないの!?
急にアレク様の理解度が下がっているのはなぜ!?
すぐ近くにアレク様の整った顔がある。私に向けられた紫色の瞳は期待と不安が入り混じっていた。
「私も、アレク様のこと……あ、愛しています!」
とたんに抱きしめられて、視界いっぱいにアレク様が着ている衣装が広がり、アレク様の香りに包まれる。
やっぱりぜんぜん違う。オグマートにふれられたとき、本当に怖くて気持ち悪かった。そして、アレク様じゃないと嫌だと思った。
私はいつからアレク様のことが好きなのかしら?
はっきりと気がつくのは遅かったけど、もしかしたら、もうずっと前から……。
抱きしめる腕をゆるめたアレク様の手が私の頬にふれる。
「エステル……」
私の名をささやきながら、アレク様の顔が近づいてきた。
どうしたらいいかわからずぎゅっと目を閉じると、唇にやわらかいものが押しあてられる。
驚いて目を開くと、目を閉じたアレク様にキスされていた。
わ、わー!?
あわててぎゅっと目をつぶると、唇が離れていく。
「エステル、ゆっくり休んでくれ。体調が良くなったらフリーベインに帰ろう」
「は、はい」
アレク様は私の頭を優しくなでた。その優しい手つきにホッとする。
「帰ったら結婚式の準備だな」
真剣な顔でそうつぶやくアレク様。
それを聞いた私は『あ、そっか、私達、結婚するのね』とまた驚いてしまった。
いろんなことがありすぎたせいか、そのあとの私は高熱を出してしまった。
朦朧(もうろう)とする意識の中で、アレク様がかいがいしくお世話してくれる様子を見ていた。
おでこを冷やしてくれたり、スープをあーんで食べさせてくれたり。寝るときは私が眠りにつくまでずっと手を握ってくれていた。
私の父も母のことを大切にしているけど、さすがにここまではしていなかったわ。アレク様には迷惑をかけて申し訳ないと思いつつ、その想いがくすぐったくて嬉しい。
もし、アレク様が体調を崩したときは、私も同じようにお世話しようと心に決めた。
アレク様のお世話のかいもあり、二日ほどベッドの上ですごしたら元気になった。
ホッと胸をなでおろしているアレク様に、私はどうしても伝えなければいけないことがある。
「アレク様、大聖女様のことでお話があります。実は……」
優しい表情を浮かべていたアレク様の顔が深刻なものに変わる。
私は大聖女様に選ばれた三人は、いなくなってしまう大聖女様の代わりをできること、そして、大聖女様はフリーベイン領ではなく、ゼルセラ神聖国の地下深くにある神殿にいることを告げる。
「フリーベイン領に魔物が頻繁に出るのは、英雄の剣を奪いたい存在がいるせいだそうです」
それまで黙って私の話を聞いていたアレク様は、両手で私の手を包み込んだ。
「エステル。お願いだから、自分が犠牲になるなんて言わないでくれ」
怖いくらい真剣なアレク様に、私はうなずく。
「はい、もちろんです」
本当は『アレク様が苦しむくらいなら私が』と思ってしまったこともあった。でも、私がアレク様のそばにいられて幸せを感じているように、アレク様が幸せになるには私が必要だと言ってくれた。
だからもう、私は大切な人を守るために、自分だけが犠牲になればいいなんて思わない。
大切な人たちは、私のことも大切に思ってくれているのだから。
安堵のため息をつくアレク様に「アレク様こそ、絶対に自分を犠牲にしないでくださいね?」と釘をさしておく。
「ああ、もちろんだ。だが、だとしたらどうする?」
アレク様の問いに私はきっぱりと答えた。
「だれかを犠牲にしない方法を考えましょう。大聖女様は私達三人で決めてくださいと言っていましたけど、他の人に相談してはいけませんとは言っていませんでしたから」
*
手始めに私は聖女の研究をしているフィン様に相談することにした。
訪ねて来たフィン様は、私とアレク様を見るなりボロボロと涙を流す。
「エステルが無事で良かったです……。すみません、王宮の警備が甘かったせいで……」
「フィン様のせいではありませんよ」
「でも……」
肩をおとすフィン様に、私は微笑みかけた。
「フィン様。でしたら、私に力を貸していただけませんか?」
顔をあげたフィン様は「もちろんです! なんでも言ってください!」と頼もしい返事をくれる。
「実は……」
私は大聖女様から聞いた話をもう一度話した。
大聖女様はもうすぐいなくなってしまうこと。
私、アレク様、オグマートの三人は大聖女様の後を継げる者たちだということ。
大聖女様はフリーベイン領ではなく、ゼルセラ神聖国の地下深くにある神殿にいること。
話を聞いているうちに、フィン様の顔から血の気が引いていった。
「そ、そんな……それって絶対にだれかが大聖女様の後を継がないといけないんですか? そんなことをしたら、その人は……」
私はゆっくりとうなずいた。
「これから何十年、何百年とたった一人で邪気を浄化し続けることになってしまいます」
自分で口にしながら、あまりの恐ろしさにゾクッと寒気がする。
うつむいたフィン様は、両手をぎゅっと握りしめた。
「だったら……だったら、オグマートが犠牲になるべきでは? 幸い我が国の騎士達に死者はでませんでしたが、聖女様を攫(さら)った彼はゼルセラ神聖国でも我が国でも罪人です」
「それは賛成できません」
「どうしてですか?」
今までオグマートにされたことを思うと、私が彼をかばうのはおかしいのかもしれない。でも……。
「私、大聖女様と約束したんです。『皆が幸せになれる方法を必ず見つけてみせます。そして、大聖女様に会いに行きますね!』って。だから、だれかを犠牲にしなくて良い方法を探したいんです」
フィン様は困ったように微笑んだ。
「エステル。やはりあなたは聖女様なのですね」
「え? はい。いちおう……」
クスッと笑ったフィン様の涙はもう乾いていた。
「わかりました、探しましょう。そして、だれも犠牲にならなくて良い方法を必ず見つけましょう」
「はい!」
それからの私たちはアレク様を含めた三人でいろいろ話し合った。話し合いでは解決できず、次の日の朝、図書館に向かいたくさんの本や資料を漁った。
それでも結論はでない。
疲れた顔で滞在先の邸宅に戻って来た私たちは、人払いをしてまた話し合いを始めた。
アレク様に「大聖女様がいなくなった世界には魔物があふれるのだな?」と尋ねられたので、私は「はい」と答える。
「それを阻止するには、だれかが大聖女様の代わりをしないといけない。それはできない……だとしたら、もう魔物のあふれている世界を受け入れるしかないのでは?」
「で、でも、アレク様。そうなったら、人々はどうなるんですか?」
「エステルが来てくれるまでフリーベイン領には頻繁に魔物が出ていた。しかし、魔物を退治することで領民の安全は守られていたんだ」
フリーベイン領の人たちは、決して不幸ではない。むしろ、皆フリーベイン領を誇りに思って暮らしている。
アレク様の言葉を受けて、フィン様は「たしかに」とつぶやいた。
「大聖女様がもたらしてくださった長き平和の間、人は数を増やして繁栄し続けてきました。大聖女様の時代より、国も文化も戦力も比べ物にならないほど発展しています。もし、今、魔物があふれだしても、大きな被害を出さずフリーベイン領のようにうまく対処できるかも」
フィン殿下は「でも……」とうなだれた。
「それは、公爵のように強い戦力を持っている者に限ります。我が国は頻繁に魔物退治ができるほどの戦力は持っていません。他国もそうでしょう。騎士たちの中にも、喜んで危ない魔物退治をする人たちなんかいませんよ」
フィン様の言葉に私は何かが引っかかった。
私も本当は聖女なんかしたくなかったけど、私は聖女になることを選んだ。
それはなぜか?
「……あっ、お金」
私のつぶやきを聞いたアレク様が、すぐに察して「なるほど」と同意する。
「どういうことですか?」と不思議そうなフィン様。
「お金ですよ。お金! 魔物を退治した者たちに国から報酬を与えればいいんですよ! それだけじゃなくて、名誉もあれば最高です!」
フィン様は理解できないようで首をかしげている。
お金がなければ生きていけない。お金を稼ぐためなら、なんだってする人たちがいることを、王族として生まれたフィン様はわからないんだわ。
私だって、本当は家族と離れて聖女になんかなりたくなかった。でも、貧乏貴族の私が家族を養えるくらい多額のお金を稼ぐ方法は、身売りをするくらいしか思いつかない。それなら、聖女になるほうがはるかにましだったから、私は迷わず聖女になった。
聖女ならお金と共に名誉もついてくる。
「ゼルセラ神聖国の聖女と同じですよ! 聖女になればお金ももらえて名誉も与えられる。それなら、大変な仕事でもやりたい人が必ずいるはず!」
フィン様がポンッと手を打った。
「それって大昔にあったけど、平和な今はなくなってしまった職業。えっと……たしか、冒険者?」
私とアレク様は初めて聞く言葉に顔を見合わせる。
フィン様がいうには、冒険者とは、大聖女様が現れる前の時代に、魔物があふれている土地を勇敢に旅していた者たちのことをいうらしい。彼らは村と村を渡り歩き物資を運搬したり、雇われて魔物退治をしたりすることもあったとのこと。
「魔物退治をする者たちのことを冒険者と呼び、そういう職業を作ってしまえばいいのでは?」
フィン様の言葉にアレク様もうなずく。
「なるほど。殿下、それならば、国をまたいで冒険者たちを支援するのはどうでしょうか?」
「いいですね! 各国が支援する職業ならば、自然と名誉も付いてくる」
フィン様は「とまぁ、そんなことを言ったとしても、しょせんは机上の空論。そう上手くはいかないと思いますが、魔物があふれだしたら各国も真剣に対策を考えるしかなくなりますものね。そのときにこの案はとても役立ちそうです」とため息をついた。
「ひとまず、私はこの件を内密に父様……国王陛下に進言します。その際に、大聖女様の代わりができる者がいることは隠します。このことは決して他の者たちに知られてはいけません」
「わかりました。俺たちもゼルセラ神聖国に帰り、国王陛下に進言します」
「公爵、エステル。くれぐれも気をつけてくださいね。僕はあなたたちの味方ですが……。だれか一人が犠牲になって今の平和が保たれるとわかったら、多くの人は一人の犠牲者を出すことを選ぶはずですから」
フィン様の言葉に、私たちは静かにうなずいた。
それからの私たちは、カーニャ国に別れを告げて、フリーベイン領に帰ることにした。
来た道を同じように馬車で戻っていく。
私とアレク様は同じ馬車に乗りこんでいた。その後ろをものものしい護送用の馬車が付いてくる。
窓がないその馬車は、内側にはカギがなく外からのみカギがかけられるようになっていた。
オグマートを連れていくために、カーニャ国から借りたらしい。中にいるオグマートは手枷をかけられ、馬車の周りは騎乗したフリーベイン領の騎士で囲まれている。
さすがにここまでされたら、オグマートも逃げられないわよね?
私がホッと胸をなでおろしていると、隣に座っているアレク様の表情が暗いことに気がついた。
「アレク様?」
声をかけるとアレク様はハッと我に返ったようなしぐさをした。
「どうかされましたか?」
「あ、いや……」
視線をそらしたアレク様の顔をのぞき込む。
「私には言いづらいことですか?」
だとしたら無理に聞こうとは思わない。
「私に言えることなら、なんでも相談してくださいね! だって……私たちは、その、夫婦になるんですから」
自分で言っていて照れてしまったけど、私よりアレク様のほうが赤くなっている。
「そうだな」
優しく微笑んだアレク様は、側に置いていた剣にふれた。
「この剣のせいで、フリーベイン領が魔物に襲われ続けていたと知って複雑な思いでいた」
「アレク様のせいでは……」
「わかっている」
アレク様の顔にはあきらめを含んだような笑みが浮かんでいた。こういうときに、アレク様の心を軽くできる言葉がすぐに思いつかない自分が情けない。
「えっと、大聖女様がおっしゃるには、この剣は切ったものを浄化できるらしいですよ」
「そうなのか」
魔物が頻繁に現れるにもかかわらず、フリーベイン領の邪気が王都よりはるかに少なかったのは、この剣のおかげだったのね。
切って浄化する剣だから、アレク様は自分自身を浄化することができなかったんだわ。いろんな謎がすこしずつ解けていく。でも、まだわからないこともたくさんあった。
「大聖女様は、ゼルセラ神聖国の消滅を願う邪悪な者がいるって言っていたんですけど、邪悪な者ってなんなんでしょう?」
「さぁ……魔物の頭領(とうりょう)みたいなものなのだろうか?」
「アレク様の剣で、その魔物の頭領みたいなのも浄化できるそうですよ」
アレク様は剣の柄を握りしめた。
「エステルやフリーベイン領を守るためなら、俺はなんだってする」
「危ないことはしないでくださいね」
「もちろんだ。エステルも」
「はい」
微笑み合ったあと、アレク様はいつものように私の頭をなでてくれた。アレク様になでられるととても嬉しくなってしまう。
だから私はアレク様にも喜んでもらいたくて同じことをした。アレク様の黒髪をヨシヨシとなでてみる。
「えらいえらい」
アレク様がこれでもかと目を見開いている。
あっこれじゃあ、また弟扱いしていると思われてしまったかも!?
「ごめんなさ――」
あわてて引っ込めようとした私の腕はアレク様につかまれてしまった。
「エステル」
私の手のひらに口づけされて、今度は私が目を見開く番だった。
ゆっくりと近づいてくるアレク様の瞳には熱がこもっている。ぎゅっと目をつぶると唇が重なった。心臓が壊れてしまいそうなほどドキドキしている。
唇が離れたので目を開けると、アレク様の顔がすぐそばにあった。二人同時に笑みを浮かべる。
私たちは馬車内でまた並んで座っていたけど、その手はしっかりと繋がれていた。
**
カーニャ国を出て数日後。私たちはようやくフリーベイン領にたどり着いた。
私たちの馬車を見かけた領民たちは、「おかえりなさーい」と嬉しそうに手をふってくれている。
馬車が公爵邸にたどりつくと、騎士たちとメイドたちに出迎えられた。
みんな満面の笑みで私たちが無事に帰って来たことを喜んでくれている。
長旅が終わり私はホッと安堵した。
良かったわ。無事に家に帰ってこれた。
……家?
私はいつの間にか、ここが私の帰る場所だと思っていたみたい。
馬車から降りても、私とアレク様はしっかりと手を繋いだままだったので、みんな驚いている。
何か聞きたそうにしていたけど、今は遠慮してくれたみたい。私たちがメイドたちの前を通り過ぎたあと、ふと後ろを振り返ると護衛騎士のキリアがメイドたちに取り囲まれて質問攻めにあっていた。
**
フリーベイン領に戻ってから三日後。
アレク様は私に「オグマートを見てほしい」と言ってきた。
「会ってほしい、ではなく?」
私が首をかしげるとアレク様は「会ってほしくはない」ときっぱり言い切る。
長旅の間、アレク様と騎士たちは、私をオグマートに会わせないように徹底してくれていた。だから、カーニャ国を出てから、一度もオグマートに会っていない。
「国王陛下にはオグマートがカーニャ国でしたことをすべて報告している。その結果、オグマートを連れて王都まで来いとの指示を受けた。だから、王都に向かう前にオグマートに気がつかれないように見てほしいんだ。様子がおかしくてな」
「は、はい」
アレク様のあとにつづいて、私はオグマートを捕らえている牢屋へ向かった。
今まで牢屋を見たことがなかった私のイメージでは、牢屋は地下とかにあって不衛生で臭くて……なんてものを想像していたけど、フリーベイン領の牢屋は清潔だった。
簡素な部屋といった感じだけど、扉にはしっかりと鉄格子がついている。
アレク様のあとにつづいて歩いていると、手で立ち止まるように制止された。
人差し指で『静かに』と合図したアレク様の指さすほうをみて、私は驚きの声をあげそうになってしまい、あわてて両手で自分の口を押さえた。
オグマートの両手は黒文様でうめつくされていた。よくみると顔にまで黒文様が浮かび上がっている。
その姿は、まるで黒文様に埋め尽くされた大聖女さまのようだった。