捨てられた邪気食い聖女は、血まみれ公爵様に溺愛される~婚約破棄はいいけれど、お金がないと困ります~【書籍化+コミカライズ準備中】

 フィン殿下の後ろで控えていた護衛騎士が、フィン殿下に近づいてきた。

「殿下、そろそろ」
「そうだね」

 私を見つめたフィン殿下は「王族は、これから祈りの時間なのです。僕はこれで失礼しますね」とニッコリ微笑み去っていく。

 アレク様も「では、俺も部屋に戻る。エステル、また明日」と言って私に背を向けた。でも、扉まで歩いたアレク様は、ピタッと立ち止まりなぜかくるりとこちらを振りかえる。

「明日もあなたと出かけられて嬉しく思う」

 そういったアレク様の頬は赤い。つられて私も赤くなってしまう。

「エステルとの図書館デート、楽しみにしている」
「図書館、デート?」

 真面目な表情でコクリとうなずくと、アレク様は今度こそ部屋から出ていった。

 そっか、明日もデートだったんだ……。

 また手をつなぐのかしら? そう思うと、恥ずかしいような嬉しいような不思議な気分になってくる。

 視界の端でキリアが小さくガッツポーズしているのが見えた。

「いける! いけますよ、閣下!」

 小声でそんな声が聞こえてくる。

 何がいけるのかしら……。聞いてはいけないような気がするわ。

 私は、さっきよりずっと図書館に行くのが楽しみになっている自分に気がついた。

 **

 夜も更け、キリアは礼儀正しく私に挨拶したあと部屋から出ていった。

 部屋で一人きりになると私はベッドに腰をかける。

 フィン様は、カーニャ国の王族は毎日大聖女様に祈っていると言っていた。私もフリーベイン領に行くまでは一日中祈り邪気を浄化する生活を送っていた。だけど、今では朝晩くらいしか祈っていない。

 目を閉じ指を組み合わせると、大聖女様に祈りを捧げた。

 これまでのように大聖女様に感謝を伝えたあとに、これまでとは違い大聖女様に話しかけてみる。

 ――大聖女様、わからないことがたくさんあります。どうして王都やフリーベイン領だけが魔物に襲われるんですか? それに、私からあふれ出た光はなんだったのでしょうか?

 どれだけ待っても返事はない。私は祈るのをやめて目を開いた。

 一日中、市場を歩き回っていたせいか、身体がだるくて仕方ない。ベッドに横になるとすぐにまぶたが重くなる。

「大聖女様……」

 まだ起きていたくて、私は思っていることを声に出した。

「……大聖女様は、大陸中の邪気が集まりあふれ出す場所に、その身を捧げてこの地に平和をもたらしたというのは本当ですか?」

 睡魔に襲われて意識がとぎれとぎれになっていく。

「もし、それが本当だったら、そんなの……人柱(ひとばしら)じゃないですか……。ねぇ、大聖女様。つらくなかったですか?」

 私だったらつらい。だって、そんなことをしたら大好きな家族に二度と会えなくなってしまうから。

 キリアやフリーベイン領の皆にだって会えなくなる。

 それに、アレク様にも。

 そう思うと胸がしめつけられるように痛む。

「大聖女様が今でもその場所で、邪気を浄化し続けてくださっているなんて……そんなの、ウソですよね?」

 私は一人きりで王都の邪気を浄化し続けていたころの自分を思い出した。あのころの私は不幸ではなかったけど、決して幸せでもなかった。だから、ウソであってほしい。

 まるでベッドに沈んでいくように、私はゆっくりと意識を手放した。

 **

 どこからか水滴が落ちる音が聞こえてくる。

 ピチャン

 目覚めると私は薄暗く広い空間に一人で立っていた。

 ここは……?

 空間内には荘厳な柱が立ち並び、その先には祭壇が見える。

 どこかの神殿みたいだわ。

 上を見上げるとドーム型の天井の中心部からは淡い光が差し込んでいた。でもその頼りない光だけでは神殿内を明るく照らすことはできない。

 よく見ると祭壇の前でだれかが祈っていた。神殿内が薄暗い上に、遠くてここからでは良く見えないけど、たしかに人がいる。

 私が祭壇に向かって歩き出すと、途中から床が濡れていることに気がついた。

 ピチャン

 また水の音がする。どこかから水が漏れて、床に広がり水たまりをつくってしまっているのね。祭壇に近づけば近づくほど、水たまりは深くなっていく。

 足首までが水で浸かってしまったころに、私はようやく祭壇にたどり着いた。

 淡い光に照らされながら祭壇に向かって女性が祈っている。栗色の髪は床につくほど長く、水面に広がりゆらゆらと浮かんでいた。

 祭壇から、どす黒いモヤがあふれ出ていることに気がついた。それは邪気と言われるもので、女性の祈りによってかき消されていく。

 ということは、この女性も聖女なのね。

 私は神殿内を見回した。こんなに寂しいところで一人、祈りを捧げているなんて……。

 祈りの邪魔をしてはいけないとわかっていても、私はどうしても彼女をそのままにできなかった。

「あの……」

 声をかけると女性は祈るのをやめた。

「あなたも、聖女ですよね?」

 ゆっくりと女性がこちらを振りかえる。

 その顔を見て、私は思わず息をのんだ。

 なぜなら女性の顔に、びっしりと黒文様が浮かび上がっていたから。私やアレク様よりももっとひどい。地肌が隠れてしまうほど黒文様で埋め尽くされている。

「こんなになるまで祈っていたの!?」

 そう叫んで私は女性に駆けよった。

「もういいから! もう祈らなくていいわ!」

 女性はうつろな瞳で私を見ていた。彼女を怖がらせてしまわないように両肩にそっと手をおく。

「私、フィン殿下に教えてもらったの! 邪気は負の感情から生まれるんだって! 正の感情で相殺できるって! だったら、本当は聖女なんていらないでしょう!? だから、もういいから!」

 女性の瞳から一粒の涙がこぼれた。頬を伝い涙は水溜りに落ちていく。

 ピチャン

 それは今までずっと聞こえていた水音だった。私は床に広がる大きな水たまりを改めて見渡す。

「……もしかして、この水溜り、あなたの流す涙でできたの?」

 女性は口を開かない。代わりに私の頭に直接声が聞こえてきた。

 ――エステル、もうあまり時間がありません。

「ど、どうして、私の名前を?」

 ――私はこれまでずっとあなたの祈りに応えてきました。

 聖女である私の祈る先は、大聖女様。

「ということは、あなたは……」

 私は目の前のうつろな瞳の女性を見つめた。

 ――これから言うことをよく聞いてください。私たちの国、ゼルセラ神聖国内で、能力が飛びぬけて高く、強靭(きょうじん)な精神を持つ者を三人選びました。エステル、あなたもその一人です。でも、私に選ばれたせいで邪気に侵され黒文様が浮かぶようになってしまいました。

 私は左肩に残る黒文様にふれた。これは大聖女様に選ばれた証(あかし)だったの?

 ――選ばれたあなた達が決めてください。

「何を? 何を決めるんですか?」

 ――ゼルセラ神聖国の未来を。そして、私が朽(く)ちて消えてしまったあとの世界の理(ことわり)を。

「大聖女様がいなくなってしまうのですか?」

 カクッと人形のように大聖女様がうなずいた。

 ――もうこの身体は長くもちません。私はゼルセラ神聖国を大切に思っています。しかし、ゼルセラ神聖国を恨み、国そのものの消滅を願っている者もいるのです。邪気を操るその邪悪な者を、私では抑えることができません。だからどうか……。

 急に後ろに引っ張られる感覚がした。次第に大聖女様の声が遠くなっていく。

「待って! まだ聞きたいことが!」

――心配しないで。また夢の中で会いましょう。誰よりも優しいエステル……私のために胸を痛めてくれてありがとう。

 白くなっていく視界の中で、ほんの少しだけ大聖女様の口元がゆるんだような気がした。
「――ル!」

「エステル!」

 名前を呼ばれて目を覚ますと至近距離にアレク様の顔があった。澄んだ紫色の瞳が不安そうに私を見つめている。

「……あ、あれ?」

 ここは私の部屋で私はベッドに横になっているのに、どうしてアレク様がいるの?

 もしかすると、私はまだ夢のつづきを見ているのかもしれない。

「エステル、大丈夫か?」
「えっと、はい……?」

 アレク様は、私のベッドをのぞき込むような姿勢になっていた。その後ろにはキリアの姿も見える。

「アレク様、キリア……?」

 二人とも怖いくらい真剣な表情をしていた。

「何かあったんですか?」

 ベッドから身体を起こした私を見て、アレク様は深いため息をついた。

「良かった。体調が悪いわけではないのだな?」
「はい、元気です」

 キリアもアレク様の後ろで胸をなでおろしている。アレク様の手が私の頭を優しくなでた。

「時間になってもエステルが起きてこないので、キリアが起こしに行ったんだ。そうしたら、あなたは真っ青で苦しそうにうめいていたらしい。それに……」

 アレク様はそっと私の左手にふれた。その手のひらには黒文様が浮かんでいる。

「えっ!?」

 あわてて右手をみると右手にも同じように黒文様が浮かんでいた。

「これって、もしかして……」

 私が夢の中で邪気塗れの大聖女様にふれたから?

 足にも違和感を覚えてベッドから出ると、私の足は足首あたりまでぐっしょりと濡れていた。

 これは大聖女様の涙でできた水たまりを歩いたせい?

「だとしたら、あれは……夢じゃないんだわ」

 アレク様は私の黒文様まみれの手を握りしめた。この禍々しい文様が浮き出た私の手にためらいなくふれてくれるのは、たぶんアレク様しかいない。

「何があったのか教えてほしい」
「実は――」

 私は夢で見た内容を話した。

 どこかの薄暗い神殿で大聖女様が祈りを捧げていたこと。

 大聖女様の顔は、私たちよりひどく黒文様塗れだったこと。おそらく顔だけではなく全身に黒文様が浮かび上がっていて、大聖女様にはもうあまり時間がないこと。

 そして、私とアレク様が大聖女様に選ばれた者だということ。

「エステルは聖女だから選ばれるのはわかるのだが、俺もなのか?」
「大聖女様は『私に選ばれたせいで邪気に侵され黒文様が浮かぶようになってしまった』と言っていました。だから、黒文様が浮かんでいたアレク様も選ばれています」

「選ばれたものは三人いると言っていたそうだな?」
「はい。だから、私たち以外にあと一人、黒文様が身体に浮かび上がっている者がいるはずです」
「その三人で、何をしろと?」

 私はもう一度、大聖女様のお言葉を繰り返した。

「ゼルセラ神聖国の未来と、大聖女様が朽(く)ちて消えてしまったあとの世界の理(ことわり)を決めてほしいと言っていました」
「要領を得ないな」

 アレク様の言う通り、私たちが具体的に何をしたらいいのかはわからない。でも、今の段階でもわかっていることはある。

「おそらく大聖女様がいなくなれば、それまで大聖女様が浄化していた邪気が世界中にあふれ出すのではないでしょうか?」
「なるほど、その瞬間に世界の理(ことわり)……これまでの常識が変わってしまうというわけか」

 今まで長い時を大聖女様ありきで暮らしていた人々が、これからは大聖女様がいない世界で生きていかないといけない。

「大聖女様がいなくなれば、私は聖女の力が使えなくなるかもしれません。もう二度と私たちの国に聖女が生まれなくなるかも……。カーニャ国だって、王族が祈るだけでは負の感情を相殺しきれず、魔物が頻繁に出るようになってしまう可能性もあります」

 私たちは、それだけ大聖女様に頼って暮らしてきたのだと、今さらながらに思い知らされる。

 アレク様が口にした「大聖女様は、やはり神なのだろうか?」という言葉に、私は首をふった。

「違います。だって、大聖女様は、泣いていたから」

 気が遠くなるような長い年月を、薄暗い神殿でたった一人祈り続けた結果。その足元には大きな水たまりができてしまうくらい涙を流していた。

 大聖女様を思うと心がしめつけられるように痛む。私の瞳からあふれた涙は、頬に手をそえるようにアレク様がぬぐってくれた。

「エステル、大丈夫か?」

 優しく声をかけれて、私はさらに泣いてしまう。

 きっと大聖女様の涙をぬぐってくれる人なんかいない。心配して『大丈夫か?』と聞いてくれる人もいない。それがとても悲しくて、どうしようもなく苦しい。

「アレク様……私、大聖女様を助けたいです」

 もう手遅れかもしれないけど、それでも大聖女様の身体に溜まった邪気を浄化すれば黒文様が消えるかもしれない。消えたら、大聖女様はもっと生きられるかも。

「もう大聖女様をひとりにしたくないんです」

 アレク様はゆっくりとうなずいた。

「わかった。大聖女様を助けよう」
「……どうやってですか?」

「フィン殿下が言っていただろう?」

 ――大聖女様は大陸中の邪気が集まりあふれ出す場所に、その身を捧げてこの地に平和をもたらした。その場所で、大聖女様が今も邪気を浄化し続けてくださっているから、この大陸ではめったに魔物がでない。

「ということは、大聖女様が祈っている場所がこの地のどこかにあるはず。そこを探し当てれば、大聖女様に会える」

 私はアレク様をまじまじと見つめた。

「アレク様は天才ですか?」
「いや……」

 謙遜するアレク様の両手をにぎる。

「天才ですよ! アレク様すごいです!」
「……そ、そうか」

 視線をそらして照れるアレク様は、コホンと咳払いをした。

「キリア、フリーベイン領に残っている騎士達宛に『大聖女様の居場所を探れ』と手紙を送ってくれ。自国だけではなく他国の書物や文献も調べるように。混乱を避けるために、エステルが見た夢の話は伏せておいてくれ」
「はい!」

「あとは……もう一人、大聖女様に選ばれた者も探さないといけないな」

 アレク様の言葉にキリアが答えた。

「黒文様があることを打ち明けた者に、賞金でも払いますか?」
「それだと、賞金欲しさに自身や他者に、偽物の黒文様を彫って申告する者が出てきてしまうだろう。とにかく一度、フィン殿下にご相談しよう」

 私に向き直ったアレク様は「エステルは、今日はゆっくりしてくれ」と指示を出す。

「俺は図書館でカーニャ国の文献を調べる」
「私も行きます!」
「いや、しかし……」
「大丈夫です。本当にすごく元気ですから!」

 アレク様やキリアがこんなに頑張ってくれているのに、じっとなんてしていられない。

「わかった。キリア、今日は予定通り図書館へと向かう。護衛のために他の騎士たちを招集しておいてくれ」
「はい!」

 返事をしたキリアは礼儀正しく頭を下げると部屋から出ていった。
 当初の予定通り図書館に向かった私たちの馬車は、なぜか修道院の前で止まった。白壁の建物の入り口には重厚な扉があり、ステンドグラスがはめ込まれている。

「ここが図書館?」

 私がつぶやくと扉が開いて中からフィン様が顔を出した。

「ようこそ、エステル。フリーベイン公爵も!」

 明るい笑みを浮かべるフィン様。その美しい銀髪は朝日を浴びてキラキラと輝いている。

「さぁ中へどうぞ」

 案内されて中に入るとやっぱりそこは修道院だった。

 不思議そうな私に気がついたのか、フィン様はクスッと笑う。

「この建物は、元修道院なのですが、今は図書館として利用されているんですよ。こちらです」

 案内された先では壁一面に本棚が整然と並んでいた。天井には絵画が描かれていて、図書館というよりは美術館とでも言いたくなるような美しさだった。

「ここには歴史関係の本が集められています。聖女様信仰に関する本は、また別の場所に」
「すごい本の数ですね」
「はい、カーニャ国の自慢です。これだけ本があれば僕は一生飽きずに暮らせます」

 ごきげんのフィン様からは本への愛が伝わってくる。

「フィン様、実は聞いていただきたいお話がありまして……」

 小首をかしげたフィン様は、私とアレク様に椅子にかけるようにすすめた。テーブルをはさみ、フィン様も席につく。その背後にいつもの護衛騎士が姿勢よく立った。

 キリアを含めた護衛騎士たちは、少し離れた場所からこちらをうかがっている。

 私が先ほどアレク様に話した夢の話を伝えている間、フィン様は一言も口をはさまなかった。すべてを聞き終えると「大聖女様が……」とだけつぶやく。

 両手で顔をおおったフィン様は、深いため息をついた。

「本来ならカーニャの王族として、その話を疑わないといけません。ですが、僕はエステルのことを全面的に信じたいと思います」

 フィン様は、その理由として大聖女様に守られているはずのゼルセラ神聖国が魔物に襲われていることを挙げた。

「それに、大聖女様はゼルセラ神聖国では守り神とされていますが、文献によれば元はただの村人だったとされています」
「村人?」

 私の問いにフィン様はコクリとうなずく。

「はい。大昔、まだ大きな国がなく村が点在していたころ、魔物被害は甚大でした。それを哀れに思った神が、魔物と対抗すべく信心深い一組の若い夫婦に魔物を退(しりぞ)ける力を授けたといわれています」

 その夫婦の妻がのちの大聖女様で、夫は大聖女様と共に旅立ちのちに英雄になったらしい。その英雄が使っていたとされる剣は、今はアレク様が所有している。

「だから、もし今もどこかで大聖女様が浄化し続けてくださっているのであれば、必ず終わりもあると思うのです。それこそ、神から授けられた力が失われたら、大聖女様はただの村人に戻ってしまうのではないかと……」

 ただの村人に戻ってしまった大聖女様は、身体を維持することができなくなり朽(く)ちて消えてしまう。

 あんなに寂しい神殿の中、たったひとりで……。

 私は、またあふれてきそうになる涙をぐっとこらえた。

「フィン様は、大聖女様はどこにいらっしゃるかわかりますか?」

 フィン様は困った顔でゆるゆると首をふる。

「わかりません。大聖女様がいる場所は『大陸中の邪気が集まりあふれ出す場所』としか文献に書かれていないのです」

「私は大聖女様にお会いしたいのです。フィン様、協力していただけませんか?」
「もちろんですよ! 邪気が集まる場所はすなわち、魔物が頻繁に出る場所です。そこを調べたら、おおよその見当がつくかもしれません」

 そのあとの私たちは、図書館内でこれまでに魔物が多く出た場所を調べ始めた。

 あっという間に時間がすぎて、図書館が開く時間になってしまった。フィン様の提案で明日も図書館に集まることを決めた。

 次の日も早朝の図書館に集まり、必死に情報を集めた結果。フィン様は手元の資料に視線を落とした。

「フリーベイン領、ですね」

 そう。調べた結果、大陸中で一番頻繁に魔物が現れるのは、アレク様が治めるフリーベイン領だった。

 たしかに今までフリーベイン領以上に、魔物が頻繁に現れる土地なんて私も聞いたことがない。アレク様の顔はどことなく青ざめて見えた。

「まさかフリーベイン領内に大聖女様が?」

 アレク様の言葉にフィン様は首をふる。

「わかりません。これは、ただ魔物が多く出るというだけの情報なので」

 資料を横に置いたフィン様は、パンッと手を鳴らした。深刻な顔をしていたアレク様も私もビクッと肩をふるわす。

「今日はここまでです。図書館ももう開きますからね。それに明日は王宮主催の舞踏会です。どうぞ楽しんでください。舞踏会が終わったあとにまた調べましょう」

 立ちあがったフィン様を、アレク様が呼び止めた。

「殿下、もう一つご相談があります」
「はい、なんでしょうか?」

「実は、肌に黒文様が浮かんでいる者を探しています」
「黒文様ですか?」

 アレク様は「失礼します」と断ってから上着を脱いだ。みごとに鍛えあげられた腹部には黒文様が少しだけ残っている。

「これです。邪気の影響で現れるものですが、大聖女様に選ばれた者にしか浮き出ないそうなのです」

 興味深そうに黒文様を見つめるフィン様。

「これって……」
「殿下、ご存じなのですか?」

「いえ、実際に見たわけではありません。ですが、昨日、兄上を訪ねて来た者があまりに怪しかったので捕えて身体検査をしたところ、身体に黒いアザがあったそうです。兄上が『何かの病持ちかもしれない』と言っていたことを思いだしました」

 私とアレク様は顔を見合わせる。

「殿下、その者に会わせていただけませんか?」
「兄上に聞いてみます」
「お願いします」

 フィン様と別れた私たちは馬車に乗り込んだ。私の向かいの席にはアレク様が難しい顔をして座っている。

「何か気になることがあるんですか?」
「ああ。エステルの話では、大聖女様はゼルセラ神聖国内から三人選んだと言っていた。それなのに、黒文様が浮かぶ者が都合よくカーニャ国にいるなんておかしくないだろうか?」

 言われてみれば、フィン様は『怪しかったので捕えられた』と言っていた。

「怖い人じゃなければいいんですが……」
「そうだな。だが、どんな者であれ、俺がエステルを守るから心配しなくていい」
「アレク様……」

 そういう女性がときめいてしまうようなセリフを真顔でサラリと言ってしまうアレク様ってなんだかすごい。

 つい顔が赤くなってしまったので、私はあわてて話題を変えた。

「アレク様、明日はいよいよ舞踏会ですね」
「そうだな」

 いろいろありすぎてすっかり忘れてしまっていたけど、この日のために私たちはたくさんダンスレッスンをしてきた。

 だから、明日だけは舞踏会を心から楽しもうと思う。

「私、舞踏会で立派にアレク様の婚約者のふりをやりとげてみせます!」

 アレク様は「ああ、頼んだぞ」と言いながら優しい笑みを浮かべた。
 アレク様と共に図書館から戻った私は、なぜか数人のメイド達に囲まれた。

 彼女たちは、カーニャ国の王宮に使えているメイドだと私に告げる。みんな、顔を強張らせていたので、何事かと思っていると一番年上のメイドが代表して口を開いた。

「せ、せ、聖女様にお会いできて光栄です!」

 手が小刻みにふるえているのは、怖がっているというより緊張しているみたい。

「わ、私たちは、第六王子殿下より、聖女様の舞踏会の準備を手伝うように申し付かっております」
「フィン様が……それは助かります!」

 フリーベイン領のメイドたちは、アレク様の指示でカーニャ国には連れてきていない。移動が馬での長距離になることと、道中に魔物が出た場合、戦えないと足手まといになるという理由からだった。

 だから、舞踏会前にカーニャ国でメイドを雇う手はずになっていたけど、身支度を手伝ってくれるのが、王宮メイドならこちらの国のしきたりに詳しいので心強い。

 私は自分の両手をグッと握りしめた。

「よろしくお願いします!」

 メイドたちはポカーンとそろって口を開けている。

「私、ずっと神殿にこもりきりで、おしゃれも流行も何もわからないんです。だから、あなた達の力で、私をアレク様の婚約者として恥ずかしくないように着飾らせてくださいね!」

 必死にお願いすると、メイドたちは視線を交わし合いながら何度もうなずきあった。

「そういうことでしたらお任せください、聖女様!」

 力強い返事をもらいながら、私と代表のメイドはガッチリと握手を交わした。

 それからは、何をされているのかよくわからないけど、私はとにかくメイドたちの指示に従った。

「聖女様、こちらでうつぶせになって寝転んでください!」
「はい!」

 数人がかりで全身をもみほぐしてもらったあとに、「身体の歪みを整えます。少しだけ痛いかもしれません」と言いながら一人のメイドが私の腕を持つ。

 何をするのかしらと思っていると、私の腕がひねり上げられゴキゴキッと鈍い音を出した。

「いっ!」
「聖女様、痛いですか!?」

 あわてるメイドに私は首をふる。

 本当はすごく痛かったけど、これできれいになれるのなら我慢するわ!

「いえ、続けてください!」
「はい!」

 きれいになるって大変なのね……。

 私は体中をゴキゴキされながら、神殿内で見かけた美しく優雅な貴族令嬢たちを思い浮かべた。きっと彼女達も見えないところで努力し続けているんだわ。

 そういえば、元婚約者のオグマート殿下が、新しい聖女が現れたっていっていたっけ。
 たしか、侯爵令嬢のマリア様だと言われたような?

 王都に魔物が出ているそうだけど、マリア様は大丈夫かしら……。

 そんなことを考えているうちに歪み矯正(きょうせい)が終わり、次は顔に冷たい液体が塗られていく。

 これを塗ったらどうなるのかしら?

 少しもわからないけど、王宮メイドたちは自分の仕事に誇りを持っているはず。だから、私は彼女たちの仕事を信じて身を任せた。

 その結果。
 太陽が傾き、空が夕焼け色に染まるころ、メイドたちはようやく作業の手を止めた。

「聖女様、ご覧ください!」

 メイドたちが私の前に全身鏡を運んでくる。鏡にうつる私の髪はサラサラ、肌はつるつるで、全身がいつもよりスッキリしているように見えた。

「す、すごいです! 別人みたい!」
「聖女様は元からお美しいですわ!」

 これだけ磨いてもらったら美青年アレク様の隣に立っても後ろ指をさされないかもしれない。私がホッと胸をなでおろしていると、メイドたちはおそろしいことを口にする。

「今日の下準備はここまでにしておきましょう。明日の昼にまた参ります!」
「昼に!?」

 舞踏会は夜に開かれるのに?

 気合の入り方が違うわ。社交界に参加している貴族令嬢って本当に大変なのね。

 でも、ここまでしてもらったら、さすがに私も自信がついた。

 部屋のすみには、フリーベイン領の服飾士が丁寧に仕上げてくれた最高のドレスが飾ってある。

 いろんな人の協力を得て、私は舞踏会の準備を進めていった。
 その日の夜。

 夕食が終わりホッと一息ついたころに、アレク様が訪ねて来た。

「エステル、少しいいだろうか?」
「はい、もちろんです」

 室内に招き入れようとすると、アレク様は「少しだけ俺に付き合ってほしい」と私に右手を差し出す。不思議に思いながらもその手をとった私は、アレク様にエスコートされながら庭園まで歩いた。

 夜の庭園では月明かりに照らされた噴水がキラキラと輝いている。

 アレク様はその前で立ち止まり私に向き直った。

「エステル、これを」

 そう言いながら小箱を私に手渡す。

「これは?」
「開けてみてくれ」

 言われるままに箱を開けると、そこには美しい宝石が入っていた。
 深紅の宝石は見たこともないようなきらめきを放っている。

 こ、これは絶対に高いやつだわ。落としたら大変ね。

「ネックレス、ですか?」

 それにしては短いような気がする。

「チョーカーというらしい。王都で流行っているそうだ」
「へぇ、とっても素敵ですね!」

 アレク様と私の間に妙な沈黙が降りた。噴水から流れでる水音だけが聞こえてくる。

「その、気に入ってもらえただろうか?」
「え?」
「エステルのドレスに合わせて作らせたんだ」
「ということは、これは私のためのもの?」
「そうだ。俺からあなたへの贈り物だ」

 私はたっぷり間を開けたあとに「ええー!?」と叫んでしまった。

「こんな高そうなものを私に!? いいんですか?」
「エステルにもらってほしい。できれば、明日の舞踏会で身につけてほしいのだが」
「もちろんです! 必ず身に付けますね。すごく嬉しいです!」
「良かった……」

 胸をなでおろすアレク様。

「断られたらどうしようかと思っていた」

 そうつぶやくアレク様を見て、私はとんでもないことを思ってしまった。

「アレク様って、もしかして――」

 そこまで言葉にして私は口を閉じた。

 今、私、何を言おうとしたの? 何を期待してしまったの?

 アレク様が不思議そうな顔でこちらを見ている。言葉のつづきを言えずに視線をそらすと、私の手にアレク様が優しくふれた。

「エステル。舞踏会が終わったら、あなたに伝えたいことがある」

 私に向けられる瞳があまりに真剣で目をそらせない。

「予想外のことであなたは戸惑うかもしれない。あなたを困らせてしまうかもしれないが、どうか聞いてほしい」

 私がなんとかコクリとうなずくと、アレク様は微笑んだ。その嬉しそうな笑みを見て、私の鼓動はどうしようもなく早くなる。

「戻ろうか、エステル」

 何も言わずに手を取り合って並んで歩くこの時間が、ずっと続けばいいのに。

 そう思った。

 *

 次の日。

 約束通り、昼から来たメイド達に、私は舞踏会の準備の仕上げをしてもらった。

 その中のメイドの一人は、私の髪をブラシでときながらずっと真剣な表情をしている。

「優雅に流す……? 豪華に盛る……? いえ、ここは聖女様の美しさを引き立てるために、少しだけ編んで髪飾りを……」

 ブツブツと言いながら髪を編むメイドは、しばらくすると「はい、できました!」と顔を上げた。

 鏡には、いつもの髪型を元にしながらも舞踏会にふさわしい華やかさを足したような私が映っている。

「すてき……」

 私のつぶやきを聞いたメイドは、嬉しそうにうなずいた。

「聖女様、とってもお美しいですわ」
「ありがとうございます。これなら私も貴族令嬢に見えますね! あっいえ、元から私も貴族ですけど」

 実家が貧乏男爵家だったので貴族らしい生活をしてこなかったけど……。

 髪のセットが終わると今度はドレスの着用だった。メイドが二人がかりでドレスを広げている。このドレスは背中部分が開くようになっているので、そこをめいいっぱい開けてそこから着用する。

「聖女様、ここに足を入れて立っていただけますか?」
「はい」

 言われるままにドレススカートをまたぎドレスの中心に立つと、メイドたちはドレスを上に上げた。スカートがふわりと広がる。

 手伝ってもらいながら私はドレスのそでに腕を通した。

 最近まで知らなかったけど、舞踏会用のドレスを着るのはすごく大変なのよね。一人でなんか着れないわ。

 貴族令嬢にメイドが必要な理由がよくわかる。

 着用したドレスは、私の身体にピッタリと合っていた。どこもたるんだり、余ったりしていない。本当にわたしのために作られたドレスだった。

 肌ざわりもいいし、着ているだけでスタイルが良く見える。

 全身鏡を見つめながら、私は自信に満ちたフリーベイン領の服飾士の瞳を思い出した。

 約束通り、彼女は最高の仕事をしてくれたのね。

 私の肩にある黒文様は、予定通り可愛らしい花飾りで隠した。

 それまで部屋の隅で控えていた護衛騎士のキリアが、小箱を持って近づいてくる。

「エステル様、これを」
「ありがとう、キリア」

 これは昨晩、アレク様がくれたアクセサリーだった。メイドの一人がキリアから、うやうやしく小箱を受け取る。

 小箱から取り出されたチョーカーを私の首につけたメイドは、感嘆するようなため息をもらした。

「とてもお似合いですわ」

 鏡に映る自分自身を見て、私も「本当に」とつぶやく。

 アレク様は『ドレスに合わせて作らせた』と言っていたけど、元からこのドレスの一部だったのではないかと思いたくなるくらい調和がとれている。

 全身鏡にうつる姿を見て、私はメイドたちとうなずきあった。

「素敵に着飾ってくれて、ありがとうございます!」

 メイドたちは、一斉に頭を下げた。

「光栄です、聖女様!」

 その後ろでは、キリアが「お美しいです、エステル様!」と手放してほめてくれている。

 いける。これなら美青年の隣に立ち、かつ、堂々と公爵様の婚約者を名乗れるわ!

 キリアが「先ほどから扉前で閣下がお待ちです」と教えてくれた。

「今、行きます!」

 足取り軽く部屋から出ると、そこには舞踏会用に着飾ったアレク様が立っていた。

「!?」

 そのあまりの眩しさに、私はつい目をつぶってしまう。

 そうだったわ、私が着飾るんだから、アレク様だって着飾るんだわ!

 なんとか目を開けてアレク様を見ると、今まで見た騎士服とも平民服とも違う格好をしていた。

 男性の服のことはよくわからないので、くわしく説明できないけど、なんというか、もはやこれは王子様服。そう、王子様のようなアレク様がそこにいた。

 美形って何を着ても似合うのね。

 感心していると、アレク様の首元に輝く宝石に気がついた。深紅のその宝石は、私の首元を飾るものと同じで……。

 私の視線に気がついたのか、アレク様は「エステルと揃いなんだ」と教えてくれる。

「なんというか私達、とても婚約者っぽいですね」
「ぽいじゃなくて俺たちは婚約者だ」

 そういうアレク様は、いつものように優しい笑みを浮かべている。

「エステルはいつも美しいが、今日は一段と輝いているな」

 サラリとこんなことを言えるなんてアレク様って本当にすごいわ。理想の王子様ってこういう人のことを言うのかもしれない。

 そういえば、アレク様は公爵で王族の血を引いているんだった。

 私、頑張って着飾ったけど、今のアレク様の隣に立って大丈夫かしら?

 少しだけ不安になりながら、差し出されたアレク様の手を取り隣に並ぶ。ふと見上げたアレク様の耳は真っ赤に染まっていた。

 それを見た私は、なんだかホッとして嬉しくなってしまった。
 馬車にゆられてたどり着いたカーニャ国の王宮はとても広く、その豪華さに目を奪われる。月明かりに照らされた王宮は、まるで夜空に浮かんでいるように見えてとても幻想的だった。

 アレク様にエスコートされて会場入りすると、入口に立っていた係の者が声を張り上げる。

「フリーベイン公爵様、その婚約者エステル様のご入場です」

 会場にいた貴族たちの視線が一斉に集まった。

 その場から逃げ出したい気持ちをグッとこらえて、私は必死に微笑みを顔に貼り付ける。

 一度だけ自国で参加した舞踏会会場より、さらに華やかですべてが輝いているわ。

 チラリとアレク様を見ると、堂々としていて少しも気後れしていない。

 さすがアレク様。頼もしいわ。私も堂々としておかないと。

 背筋を伸ばしていると、会場にファンファーレが鳴り響いた。

 先ほど私たちを紹介してくれた係の者が、「国王陛下、王妃殿下のご入場です」と声を張り上げた。

 その場にいた貴族たちは、一斉にうやうやしく首(こうべ)を垂れる。

「つづきまして、王太子殿下と王太子妃殿下、並びに第二王子殿下とその婚約者様。さらに――」

 恐ろしいことに係の者の読み上げは、第六王子殿下のフィン様まで続いた。

 その間、ずっと同じ姿勢で頭を下げているので、私は全身がプルプルしてしまった。王族が多いとこういう苦労もあるのね。
 カーニャ国では側室制度があるから王家の血を引く方が多いんだわ。

 その点、自国のゼルセラ神聖国には側室制度はない。国王陛下と王妃殿下の間に三人の王子がいるのみ。

 カーニャ国の国王陛下のありがたい挨拶が終わると、楽団が演奏を始めて会場内は和やかな空気になった。

 それぞれがパートナーと手を取り合って、会場の中心へと向かう。

 あっダンスをするのね。

 私がアレク様を見るとアレク様はニコリと微笑み、私に右手を差し出した。

「俺と踊っていただけますか?」
「はい!」

 手を取り合いダンスの輪の中に入っていく。

 何度も何度もくり返し練習したおかげで、身体がステップを覚えている。アレク様のリードはとてもうまく、私たちの呼吸はぴったりと合っていた。

 紫色の優しい瞳が私だけを見つめてくれている。

「楽しいな」
「はい、とっても楽しいです」

 煌びやかな王宮で、王子様のように素敵な男性とダンスを踊る。それは乙女ならだれもが夢見る出来事。

 でも、アレク様とならどこでダンスをしたって楽しい。もし、二人とも泥だらけだったとしても、アレク様とだったらきっと楽しく微笑み合える。

 ダンスを踊り終えた私たちは、ウェイターからグラスを受け取りのどを潤した。果実の甘みが口に広がっていく。

「なんだかよくわからないけど、おいしいですね」
「ああ、よくわからないがおいしいな。……少し甘すぎるが」

 小声でヒソヒソとそんな会話をする。

 私もそうだけど、アレク様も同じくらい貴族らしいことに興味がないみたい。だから、舞踏会で出される飲み物の名前なんて二人ともさっぱりわからない。

 無事にダンスが終わってホッとしたのもつかの間、ワッと人が寄ってきて私とアレク様は取り囲まれてしまった。集まってきた人たちから私を庇うように、アレク様が一歩前に出た。

 その結果。

「フリーベイン公爵様、お初にお目にかかります! 私は――」
「婚約者様は、ゼルセラ神聖国の聖女様だとか!? ぜひご挨拶を――」
「私はこの国で絹織物の生産をしておりまして、ぜひフリーベイン領と取引を――」

 次々に話しかけてこようとする人たちに向かってアレク様は片手をあげる。すると、シンッと辺りが静まり返った。

「光栄だが、その話はまたの機会に」

 アレク様は私の肩を抱き寄せると、サッサとその場をあとにした。

「いいんですか?」
「いいんだ。エステルも、私が血まみれ公爵と呼ばれていることを知っているだろう?」
「はい……」

 事実無根のウワサだけど、たしかに王都でもそう言われていた。

「そのウワサを信じずに、私の元にやって来た者とはすでに取引している。だから、今さら取引先を増やそうとは思わない」
「なるほど……」

 アレク様に黒文様が浮かんでいても、それを恐れずに訪ねていった人たちがいたのね。その人たちとの交流を大切にしているアレク様の気持ちはよくわかる。

 人々の視線から逃げるように、私たちはバルコニーへと出た。

 ダンスで火照った身体に、ひんやりとした夜風が心地いい。

「あっ」と声が聞こえたかと思うと、アレク様の手が私の肩から離れていった。

 アレク様の頬は赤く染まっている。

 もしかして、さっき飲んだのお酒だったのかしら?

「大丈夫ですか? 顔が赤くなっていますよ」

 私はそっとアレク様の頬に手をのばした。

「もしかしてアレク様、お酒に弱い……とか?」

 もしそうだったら意外だわ。お酒に弱いアレク様を想像すると、ちょっと可愛いかもしれない。

 アレク様から返事はない。ただ、ぼぅと私を見つめている。

「えっと、アレク様?」
「あ、ああ。いや、酔っていない」

「でもお顔が」
「それは……あなたに見惚れていたから」

 赤い顔のアレク様の隣で、今度は私が顔を赤くした。
 バルコニーでアレク様と一緒に赤くなる私に背後から声をかけられた。

「あ、ここにいたんですね!」

 振りかえると、バルコニーの入り口でフィン様とフィン様によく似た銀髪の青年がにこやかに微笑んでいる。

 たしか、この方はさっき第四王子殿下と紹介されていた方だわ。

「ようこそ、エステル! やっと見つけましたよ」

 私に駆けよるフィン様を見て、背の高い銀髪青年が眉をひそめた。

「こらフィン。お前が聖女様に会えて嬉しいのはわかるが、それではフリーベイン公爵に失礼だぞ」
「あっ、公爵もようこそ!」

 あわててアレク様にも挨拶をしたフィン様は、隣の青年を紹介してくれた。

「こちらは僕の兄でこの国の第四王子です」
「ギルだ」

 アレク様が「カーニャ国の第四王子ギル殿下、第六王子フィン殿下にご挨拶を申し上げます」と頭を下げたので、私も淑女の礼(カーテシー)をとる。

 たくさん練習したおかげで、ふらつかずにできたわ。

 ギル殿下は「弟が迷惑をかけていないだろうか?」とアレク様に尋ねた。

「フィン殿下には、とてもよくしていただいています」

 その言葉にフィン様は「ね? 僕はきちんと役目を果たしていますよ」と胸を張る。

「本当かぁ?」
「もう兄様、信じてよ!」

 ハハハと笑うギル殿下と、不満そうな顔をしているフィン様はとても仲が良さそうだった。

 いつもはしっかりしている印象のフィン様なのに、ギル殿下の前では年相応に見えてなんだか可愛い。

 フィン様の頭をポンポンとなでてからギル殿下はアレク様を振り返った。

「ところで、公爵は肌に黒いアザがある者を探しているとか?」
「兄様、アザじゃなくて黒文様です」
「そうそう、その黒文様を持つ者だが、先日捕らえた不審者の身体にあってな」

 フィン様は「兄様は、カーニャ国の防衛を任されているんですよ」と得意げに教えてくれた。

 アレク様が「その者に会わせていただけますか?」と尋ねるとギル殿下はうなずく。

「そういうと思ってな。今日、別室に連れてきている。私としても少し気になることがある」
「気になること、とは?」

 ギル殿下は腕を組んで思案するような表情を浮かべた。

「その不審者が、自分はゼルセラ神聖国の第三王子だと言っていてな。第三王子と言えばオグマート殿だろう?」

 私とアレク様は予想外な名前を聞いて、思わず顔を見合わせた。

 ギル殿下の話では、ゼルセラ神聖国を訪問したときにオグマート殿下には会ったことがあるが、顔まで覚えていないらしい。

「不審者のたわごとだと思うが、黒文様のこともある。念のため公爵にはその者に会ってほしい」
「わかりました」

 フィン様が「エステルも一緒に来ますよね?」と笑顔で話しかけてくれる。私が何か言う前にアレク様が答えた。

「エステルは行きません。大切な婚約者を不審者に会わせたくないです」
「そっか、そうですね! では、エステルには別室を用意しますね。一人でここに残ったら大変なことになると思いますので」

 先ほどから遠巻きに見ている貴族たちから痛いほど視線が刺さっている。それだけではなく、「聖女様だ」「本物の聖女様よ」というささやきがずっと聞こえてきていた。

 フィン様の言う通り、ここに一人で残ると大変なことになりそう。

「お言葉に甘えます」

 別室に案内してもらった私をアレク様はとても心配してくれた。

「エステル、一人で大丈夫か?」
「はい、フィン様が扉の前に二人も護衛をつけてくださったから大丈夫ですよ」

 室内を見回すアレク様。

「カーテンが開いている。閉めておいたほうがいいのでは?」

 その言葉にはギル殿下が答えた。

「ああ、そうだな。今日は舞踏会だから客が外から王宮を見たときに、王宮全体が明るく見えるようにわざとすべての部屋のカーテンを開けているんだ」

 なるほど。だから、王宮が闇夜に浮かび上がるように見えたのね。

 ギル殿下の指示で、護衛騎士がカーテンを閉めた。

「公爵、これで安心したか?」
「はい。……エステル、できるだけ早く戻る」

 心配そうなアレク様に笑顔で手を振ると、私はその場に残った二人の護衛騎士に「よろしくお願いします」と声をかけた。

 いつものように、護衛騎士のキリアが側にいてくれたら安心だったんだけど……。

 王宮内には、武器の持ち込みや護衛騎士を伴うことを禁止されている。なので、キリアは王宮内に入れない。

 私は広い部屋の中で一人、ソファーに座って時間を潰した。

 室内の装飾品に見惚れていると、どこからかコツンと音がする。私がキョロキョロしていると、またコツン。

 窓のほうから? 

 カーテンを閉めているので外は見えない。

 私はソファーから立ち上がると、念のため護衛騎士が控えている扉のほうにあとずさった。

 ドアノブに手をかけた瞬間、ガシャンと窓が割れる音がする。

 訳がわからず悲鳴を上げると部屋にあわてて護衛騎士たちが入ってきた。

「聖女様、どうされましたか!?」
「きゅ、急に窓が割れて!」

 護衛騎士たちはそろって腰の剣を抜いた。一人は窓に近づき、もう一人は私を背後に隠す。

「だれかいるのか!?」

 返事はない。護衛騎士はカーテンをつかむと勢いよく開けた。そこにはだれもいない。でも、割れた窓の破片が室内側へ落ちている。

「外から割られています。まだ近くにいるかもしれません」

 護衛騎士が窓を開け放ちバルコニーに出た瞬間、その護衛騎士に黒い影が飛びかかった。

「うわっ!?」

 あっという間に護衛騎士は、自分が持っていたはずの剣を不審者に奪われて、首元に突きつけられている。

 私を背後に隠すように守ってくれていた護衛騎士が「聖女様、お逃げください!」と叫んだ。弾かれるように部屋から出ようとした私を冷たい声が呼び止める。

「エステル。逃げたらコイツを殺すぞ」

 思わず足を止めた私に、剣を突き付けられた護衛騎士は「お逃げください!」と叫ぶ。

 その様子をフンッと鼻で笑った不審者は、ためらいもなく護衛騎士を切りつけた。切りつけられた個所を押さえながら護衛騎士は苦痛に顔を歪めている。

 もう一人の護衛騎士が不審者に切りかかったが、剣で弾かれて逆に切り捨てられた。

 その場にうずくまった護衛騎士を、フードを深くかぶった不審者が見下ろしている。

「仲間を助けようとでも思ったのか? そんな腕前で?」

 不審者は護衛騎士のマントで刃についた血をふき取ったあと、私に向き直った。

「私と一緒に来るんだ。お前が逃げたら、こいつらを殺す」

 フードで顔は見えない。そういえば、アレク様と街に言ったときに、フードを被った人が私にふれようとしていたと言っていた。

 もしかして、目の前の人物があのときの人なの?

 不審者の足元でうずくまる護衛騎士たちは、まだ息がある。早く手当てをしなければ。でも、どうやって?

 私は聖女と言われているけど、邪気の浄化はできても治癒の力は持っていない。聖女はあくまで邪気や魔物に対抗できる存在だから。

「そうおびえるな。エステル」

 私に近づいて来た不審者はフードを下ろした。

 金髪に青い瞳、そして驚くほど整った顔立ち。肌は日に焼けて雰囲気は変わっているけど、私はこの顔に見覚えがあった。

 ――醜い姿だな。

 嫌悪を隠さない瞳に、吐き捨てるような侮蔑の言葉が脳裏をよぎる。

「……オグマート、殿下?」

 おそるおそるその名前を呼ぶと、オグマート殿下の口元がニヤリと上がる。

「ようやく会えたな、エステル」
 オグマート殿下は、急にうっとりとした表情を浮かべた。

 その顔は、過去に私に婚約破棄を突き付けて、新しい婚約者がマリア様だと教えてくれたときのことを思いださせる。

「ああっ、なんて美しいんだ……」

 この人はこんな状況下で何を言っているの?

 ゼルセラ神聖国の第三王子が王宮に忍び込み、カーニャ国の騎士を切りつけた時点で両国の友好関係は崩れ去った。

 目の前の男は、もう王子ではなくただの罪人だ。

 オグマートの手が私の髪にふれそうになったので、あわてて避けた。その様子を見てオグマートはフッと笑う。

「恥ずかしがらなくていい。今のお前なら私にふさわしい」
「ふさわしい? さっきから何を言って……?」

 部屋の外が騒がしくなった。バタバタと複数の足音が近づいてくる。

 それに気がついたオグマートが舌打ちをしながら、剣先を足元でうずくまる騎士たちに向けた。

「エステル。着いてこないと……わかっているな?」

 切りつけられた騎士達は、今ならまだ助かるかもしれない。私は覚悟を決めた。

「わかりました。着いていきます。だから、これ以上彼らを傷つけないという証拠に、その剣を捨ててください」

 オグマートは「やはり聖女は、そうでなくてはな」と嬉しそうに剣をその場に投げ捨てた。

「さぁ行くぞ」

 手首をつかまれ強引にバルコニーまで連れ出される。ふれられた箇所が気持ち悪くてゾワッと鳥肌が立った。

「落とさないから安心しろ」

 私が何かを言う前に、オグマートは私を横抱きに抱きかかえた。そして、バルコニーの柵に足をかけたかと思うと、そのまま飛び降りる。

 わずかな浮遊感のあとに、身体が落下していく。驚きすぎて悲鳴すらあげられない。

 オグマートは、左手で私を抱きかかえたまま、落下途中に右手で木の枝をつかみ、落下の勢いを殺してから地面に着地した。

 それでもかなりの衝撃があったのに、ふらつくことも立ち止まることもなく、私を抱きかかえたまま走り出す。

 私はすぐ近くにあるオグマートの冷たい横顔を呆然と見つめていた。

 大聖女様は『ゼルセラ神聖国内で能力が飛びぬけて高く、強靭(きょうじん)な精神を持つ者を三人選びました』と言っていた。

 たしかに、オグマートはすごい。大聖女様に選ばれるほどの能力を持っているのかもしれない。

 でも、ためらいもなく人を切りつけて殺そうとするような人でもある。

 大聖女様は、どうしてそんな人を選んだの?

 どれだけ祈っても大聖女様には、あれから会えていない。

 お願いだから、もう一度会って話を聞かせてほしい。私が両手を合わせて大聖女様に祈っているとオグマートの手が私の髪をなでた。

「エステル、心配しなくていい」

 どこか甘い響きを含むオグマートの言葉に吐き気を覚える。オグマートの腕の中で、少しずつ自分の意識が遠のいていくのがわかった。

 **

 ピチャン

 水滴が落ちる音で目が覚めた。

 私はいつの間にか、冷たい石の床に倒れこんでいた。舞踏会用のドレスを着ていたはずなのに、なぜか寝るときに着ているナイトドレスに着替えている。

 ドーム型の天井の中心部からは淡い光が差し込んでいた。

 あ、ここは大聖女様がいる薄暗い神殿……。

 ――エステル。

 落ち着いた静かな声を聞いて、私はあわてて身を起こした。

 側には、栗色の髪の女性がたたずんでいる。

「大聖女様!」

 大聖女様の顔には、以前見たときと同じようにびっしりと黒文様が浮かんでいた。そして、以前とは違い、彼女の周りには邪気が漂っている。

「大変! すぐに浄化します!」

 私の言葉を聞いた大聖女様は、うつろな瞳で『もういいのです』とささやいた。

「でも!」

 ――私はもう、手遅れです。

「で、でも……」

 大聖女様は困ったように小さく微笑む。

 ――エステル。私に聞きたいことがあってここに来たのでは?

 私はその言葉にハッとなった。

「大聖女様が選んだ三人目を見つけました。でも、どうしてオグマートなんですか? 彼は……とてもひどいことを平気でするような人ですよ?」

 ――それは、善悪関係なく能力のみで、私のあとを継げる者を選んだからです。

「大聖女様の、あとを継ぐ?」

 頭が真っ白になり、すぐには言葉がでてこない。私はなんとか言葉を絞り出した。

「……それは、大聖女様の代わりに、この薄暗い神殿で祈り続けるということですか?」

 大聖女様は、ゆっくりとうなずいた。

 ――はい。その責務に耐えられる者を選びました。

「で、でも、私以外聖女ではないのに、どうやって……?」

 ――聖女でない者は、邪気が具現化した魔物を、ここで倒し続けることになります。

 だとしたら、もしアレク様があとを継いだら、ここで気が遠くなるほどの年月、たった一人で魔物を退治し続けるの? そんなこと絶対にさせたくない。

「大聖女様……もし、だれもあとを継がなかったらどうなるんですか?」

 ――邪気があふれ出し、大陸中に魔物が現れます。

 やっぱり……。そうなってしまうと今の平和は失われてしまう。

 両親や妹や弟。フリーベイン領で出会った大切な人たちの顔が脳裏に浮かんでは消えていく。

 最後にアレク様の優しい笑みを思い出して、私は痛いくらい胸がしめつけられた。

「アレク様がつらい目に遭(あ)うくらいなら、私が……」

 私の唇に大聖女様の指がそっとふれた。指の先まで黒文様が現れている。

 ――エステル、この件は一人で決めてはなりません。選ばれた者達で決めてください。一人で決めないことに意味があるのです。

「どうして?」

 ――これは……私の、最後のわがままです。

 大聖女様は、悲しそうに瞳をふせた。

 ――今のこの状況は、過去に私の身に起こったことをまねています。神の力を得た私たちのだれかが犠牲になることで世界に平和が訪れる。大昔に、私たち夫婦は今のエステルと同じ選択を迫られました。

 邪気があふれだす、この場所を、だれがどうするのか?

 ――神の力を得たと同時に、世界を平和にもたらすという使命を与えられていた私たちは、すぐに結論を出せませんでした。でも、長い沈黙のあとで夫が『俺がここに残る』と言ったので私は結界を張り、夫をこの場所から追い出しました。大切な人が苦しむくらいなら、自分だけが犠牲になればいいと思ったのです。

 それは、ついさっき私も考えたことだった。

 ――結界の外で、夫は暴れて怒鳴り散らしたあとに、しくしくと泣きはじめました。そんな夫に私は『幸せになってね』と伝えました。長い間、結界の前に立ち尽くしていた夫は、ある日フラッとどこかへ消えてしまいました。私はあのときの選択を後悔していませんでした。でも……。

 大聖女様の瞳から、また涙が一粒こぼれた。

 ――長い月日を一人きりですごしているうちに、私はあのときの選択が本当に正しかったのか、わからなくなってしまったのです。

 その話を聞きながら、私はどうしようもなく泣きたくなった。

 天井から降り注ぐ淡い光を大聖女様が見上げる。その姿は黒文様まみれでも神々しい。

 ――ここには大陸中の祈りと願いが届きます。小さな願いから、醜悪な欲望まで。私がここで邪気を浄化しつづけても、人々はこんなにも苦しんでいます。いったい何が正解だったのでしょうか? もうすぐ朽(く)ちて消えゆく私は、最後にどうしても、私以外の人の選択を知りたくなったのです。

『エステル、あなたたちを巻き込んでしまってごめんなさい』と大聖女様はささやく。

 私は真相を聞いても、大聖女様を恨むことができなかった。神殿で大切な人達のために一人祈る姿は、過去の私そのものだったから。

 大聖女様は私。フリーベイン領に行かず、アレク様に出会えなかった私。だから私はどうしても彼女を助けたい。

 ボロボロと涙を流しながら、私は大聖女様に尋ねた。

「だ、大聖女様はどこにいるんですか? この神殿はどこにあるんですか? 魔物がたくさん現れるフリーベイン領にいるんですか?」

 ゆるゆると大聖女様は首をふる。

 ――フリーベイン領に魔物が頻繁に現れつづけるのは、夫の剣がそこにあるからです。

 そういえば、アレク様が持っている剣は、英雄が使っていたものだと言っていた。

 ――あの剣には神の力が宿っていて、切ることで邪悪なものを浄化することができます。前にも話しましたが、ゼルセラ神聖国を恨み、国そのものの消滅を願っている者がいます。邪気を操るその邪悪な者が、自分を浄化できる剣を奪おうとしているのです。

「では、大聖女様はどこに?」

 ――私は……。私はゼルセラ神聖国の地下深く、閉ざされた神殿内にいます。

 信じられない言葉に耳を疑っていると、大聖女様は言葉を続ける。

 ――ゼルセラ神聖国は、数年後に戻って来た夫が、地下で祈り続ける私を見守るために興(おこ)した国なのです。
 ――ゼルセラ神聖国は、数年後に戻って来た夫が、地下で祈り続ける私を見守るために興(おこ)した国なのです。

 大聖女様の言葉を聞いて、私は思い当たることがあった。

 王都の神殿で私が聖女をしていたとき、毎日祈って邪気を浄化しても王都の邪気は増えていく一方だった。

「そう、そうだったのね……。王都は元から邪気が集まる場所だったんだわ」

 今まで大聖女様が地下の神殿で浄化してくれていたから問題なく暮らせていたけど、大聖女様の力が衰えた今、少しずつ王都に邪気があふれでてしまっているのかもしれない。

「では、ゼルセラ神聖国の王族は、英雄の子孫……?」

 私のつぶやきに大聖女様は『いいえ』と答えた。

 ――夫は国を興(おこ)し英雄と称えられましたが、王位は別の者に譲りました。でも、私はゼルセラ神聖国の民を、私たちの子だと思い見守ってきましたよ。

 大聖女様は私の頭をなでてくれた。黒文様まみれのその手はとても温かい。

 やっぱり大聖女様をこのままにしておけない。そして、アレク様だって不幸にしたくない。

 大聖女様のお話を聞いてようやくわかった。だれかが犠牲にならないと保てない平和なんて間違っているわ。必ずもっといい解決方法があるはず。私だけでは思いつかなくても、他の人たちの意見を聞いたら何か思つくかもしれない。

「……わかりました。皆が幸せになれる方法を必ず見つけてみせます。そして、大聖女様に会いに行きますね! だから、それまで待っていてください!」

 私はとびっきりの笑みを浮かべた。

 ――エステル……。

 ほんの少しだけ大聖女様は微笑んでくれたように見えた。

 **

 目が覚めると私は簡素なベッドの上で横になっていた。薄汚れたカーテンの隙間から光が漏れている。

 私が気を失っている間に夜が明け、朝になってしまったみたい。

 この部屋は、王都で聖女をしていたときに神殿内で私に与えられていた部屋によく似ていた。だから一瞬、今までのことはすべて夢だったのでは?と思ったけど、私が身にまとっている鮮やかな赤いドレスが夢ではないと教えてくれる。

「……ここは?」

 部屋の中にはだれもいない。家具もほとんどなくヒビ割れた鏡が壁にかかっていた。

 部屋の扉が乱暴に開いた。そこにはオグマートが立っていて、私を見るなり目を鋭くする。

「エステル、どういうことだ!?」

 オグマートはヒビ割れた鏡を壁から取ると、私の顔に突きつけた。

 鏡に映る私の唇に、黒文様が浮かんでいる。

 これは……夢の中で大聖女様がふれた個所に、また黒文様が浮かんでいるんだわ。自分自身を浄化するとすぐに消えるけど、オグマートはそのことを知らない。

「せっかく美しくなったのに! もちろん消せるよな!?」

 なんて答えるのが正解なの? 戸惑う私にオグマートは冷たく言い放つ。

「……消せないのなら、お前の扱いを変えないとな」

 残忍そうな声に背筋がこおる。このままじゃ何をされるかわからない。オグマートが私を攫(さら)った目的がわかるまでは、言うことを聞いておいたほうがいい。

「……消せます」
「やってみろ」

 言われるままに大聖女様に祈りを捧げ自分自身を浄化する。

 私をにらみつけていたオグマートの表情がほころんだ。

「すごいぞ、さすが本物の聖女! 偽物の聖女マリアとは大違いだ!」
「マリア様が偽物……?」
「ああ、そうだ! あの女は聖女を名乗りながら、大した力を持っていなかった。しかも、地位と外見だけの心が醜い女だった」

 吐き捨てるようにそう言ったオグマートは、私の左手首をつかんだ。

「だが、エステルは違う! 強い聖女の力を持ち、なにより心が美しい! それだけでも良かったのに……」

 オグマートの表情がうっとりとする。

「こんなに美しくなるなんて完璧だ」

 ほめられているのに、少しも嬉しくない。

「オグマート……殿下は、マリア様と婚約されているのでは?」
「だれがあんな女と! 私の婚約者はエステルだけだ」

 私は信じられない気持ちでオグマートを見つめた。

「殿下と私の婚約は破棄されています。殿下がはっきりと婚約破棄だとおっしゃったではないですか!」
「あれは取り消す」

 そういうオグマートは少しも悪びれた様子がない。

「私はアレク様……フリーベイン公爵様の婚約者です!」

「だが、また婚姻はしていない。公爵との婚約を白紙に戻して、私とまた婚約すればいい。そうすれば、すべてが元通りだ」

 自分勝手な言い分に開いた口がふさがらない。

「エステル……」

 そうささやきながら髪をなでられた。アレク様になでられたときとぜんぜん違う。怖いし気持ち悪くて仕方ない。

「そんなにおびえるな。王族の花嫁は清らかな身体でないといけないからな。式を挙げるまでは決して手出ししない」
「花嫁? では、殿下は私を殿下の妻にするためにここまで連れて来たとでも言うんですか?」
「さっきからずっとそう言っているではないか」

 ウソをついているような顔じゃない。全身から力が抜けて、私の口から深いため息が出た。

 そんなことのために、カーニャ国の王宮に忍び込み、騎士たちを切りつけたなんて信じられない。でも、私に危害を加えるつもりはないと聞いて安心した。

 ようするに、オグマートは私の聖女の力を手に入れるのが目的なのね。黒文様が消えてるから、ついでに嫁にしてやるってところかしら? だったら、殺されることもないわね。

「……殿下、いろいろ言いたいことはありますが、今はそれどころではありません。殿下の身体にも黒文様が現れていますね?」
「ああ、なぜ知っている?」

 オグマートは、着ているシャツを脱いだ。その身体は日に焼けて鍛えられている。

 あれ? オグマートってこんな感じだったかしら?

 前はもっとヒョロヒョロしていたし、肌も真っ白でお上品で偉そうな王子様という感じだったような?

 混乱しながらも私はオグマートの腰あたりに広がる黒文様を確認した。

 やっぱりオグマートが大聖女様に選ばれた三人目なのね。わかっていたけど納得できない。

「エステル、これも消せるのか?」
「あ、はい」

 私は祈りを捧げてオグマートを浄化した。アレク様ほどひどくなかったので、黒文様はすぐに薄れて消えていく。でも、私やアレク様と同じように一か所だけ黒文様が残った。

「素晴らしい! だが、まだすべて消えていないぞ」
「これは消せません」
「どうしてだ?」
「わかりません、私にも残っていますから」

 私はドレスの飾りを外して黒文様を見せた。これを見せることで、やっぱり嫁にはしないで聖女の力だけほしいとか言わないかな。

 オグマートに愛をささやかれても少しも嬉しくない。

 私の肩をじっと見つめたオグマートは、「まぁそれくらいなら」と黒文様を許容した。

「私にも残るのなら、それくらいは許してやろう」

 いや、許してくれなくていいから!?

 その言葉をグッと飲み込んだ私に、オグマートは「着替えろ」と女性ものの服と靴を投げつけた。そういえば、前に黒いベールも投げつけられたことがあったわね。

 あのときは、そんな扱いをされても仕方がないと思っていた。でも、フリーベイン領で大切にしてもらった私は、この扱いがひどいものなのだと今ならわかる。

 こんな扱いをしてくる人の妻になるなんて絶対に嫌だった。でも、ドレスとヒールの高い靴のままではオグマートから逃げることもできないので、大人しく着替えることにした。

 でも、ドレスってどうやって脱ぐの?

 数人がかりで着させてもらったものを、一人でぬげるものなのかしら?

 というか、オグマートはどうして部屋の外に出ないの? 私が着替えている間、そこにいるつもりなの?

 さっさと着替えない私に腹が立ったのか、オグマートが近づいてきた。

「後ろを向け」

 言われるままに後ろを向くと、布が引き裂かれる音がする。

「な、何を!?」

 オグマートはナイフを手に持っていた。

「一人で脱げないのだろう? 手伝ってやる」

 抵抗する間もなく私は壁に押し付けられ、ドレスの背中が切り裂かれていく。

「や、やめて!」

 このドレスは、とても大切なものなのに。

 フリーベイン領のメイド達が選んでくれて、服飾士が私のために丁寧に仕上げてくれた。とても、とても大切なドレスだった。

「ほら、脱げたぞ。さっさと着替えろ」

 無残に切り裂かれたドレスを見て涙があふれる。

「ひどい……」

 私の言葉を鼻で笑ったオグマートは、「そんなものより、もっと良いドレスをこれからいくらでも贈ってやる」と少しも悪びれない。

 大聖女様は、選んだ三人で世界の理(ことわり)を決めてほしいと言っていたけど、こんな人と話し合いなんてできる気がしない。

 とにかく、ここから逃げてアレク様と合流しないと。

 涙をふいた私は急いで着替えた。飾り気のないワンピースに歩きやすそうなブーツを履く。これなら走って逃げることだってできる。

「……着替えました。これからどうするんですか?」

 オグマートはナイフをポケットにしまい、部屋の隅に置いていた荷物を抱えた。

「国に帰る」
「ゼルセラ神聖国に?」
「そうだ。それ以外どこがある?」
「でも……。王宮に忍び込んで私を攫(さら)ったのだから、今ごろ国中大騒ぎになっているのでは?」

 クッとオグマートは笑った。

「カーニャ国の王族が、王宮主催の舞踏会で聖女が誘拐されたなんて失態を公言するわけないだろう? まぁ今ごろ血眼になって探しているだろうがな」

「私たちを探しているのなら、門は閉ざされているのでは?」
「そうだろうな。だが、安心しろ。私なら正面突破できる!」

 自信満々なオグマートを見て、私は思った。

 この人……もしかして、状況を正しく判断したり、深く物事を考えたりすることが苦手なのでは?

 ものすごく短絡的な思考なのに、今まで王族だからなんとかなっていたとしか思えない。そして、今はすべてを力技で解決しようとしている。

 私の脳裏にこんな言葉がよぎった。

 脳筋(のうきん)……。

 ちなみに脳筋とは、「脳みそまで筋肉」という意味で、考えるよりも先に体を動かしてしまう人のことをいうらしい。

 あまり良い言葉ではないけど、貧乏貴族の私たちは領民とも親しくしていたので、こういう言葉を聞くことがあった。

 オグマートを脳筋と仮定すると、今までのすべての行動が説明できてしまう。

 急すぎる婚約破棄も、王宮への不法侵入も、騎士を切りつけたのも、勝手すぎる再婚約の提案も。

 この人、自分が行動した結果、どうなるのか、相手がどう思うのかとか、何も考えていないんだわ……。深く考える前に、思いついた時点で実行してしまっている。

「行くぞ、エステル!」

 はりきるオグマートに手を引かれながら、今までオグマートに感じていた底知れない恐怖が、私の中であきれへと変わっていくのを感じた。