コトンと馬車がゆれて、私は目を覚ました。
どれくらい眠っていたのかしら? なんだか頭がぼうっとしている。
まだ日は暮れていないようだけど、街を通り抜けたのか馬車の窓から見える景色は木々だけになっていた。
「アレク様……あれ?」
向かいの席に座っていたはずのアレク様が、なぜか私の隣にいる。そういえば、何かにもたれかかってスヤスヤと眠っていたような気がする。
もしかして、私、アレク様の肩にもたれかかって熟睡していた!?
あわててアレク様に謝ろうとすると、アレク様の頭がガクッとゆれた。
「えっ!?」
驚いて顔をのぞき込むと、アレク様は目をつぶっていた。かすかに聞こえてくる呼吸はとても規則正しい。
ね、寝ている!
いつもはキリッとしているのに、今のアレク様は私の弟みたいに気の抜けた顔をしていた。
ちょっと可愛いかも……。
馬車のゆれでアレク様の頭がまたガクッとゆれたので、私はあわててアレク様の頬に手をそえた。そして、私にもたれかかるように静かに誘導する。
そのとき私の肩からパサリと布が落ちた。見るとそれはアレク様のマントだった。
アレク様が眠っている私の肩にマントをかけてくれたのね。その優しさに胸が温かくなる。
馬車がゆっくりと止まった。
キリアが馬から降りて馬車に近づいてくる。
「閣下、エステル様。ここで少し休憩を……」
私はキリアに向かって「しー!」と人差し指を立てた。眠っているアレク様を指さすと、キリアの瞳は大きく見開く。
キリアは小声で「休憩はもう少し先でしましょう」と言って馬車の扉を閉めた。
再び動き出した馬車の中で、私とアレク様は肩を寄せ合っていた。
ポカポカ陽気がとても心地いい。
たまには、アレク様もウトウトと居眠りして過ごす、こんなのんびりした日があってもいいよね?
*
日が暮れたころ、フリーベイン領と隣国の境目にある宿にたどりついた。
先に馬車から降りたアレク様が私をエスコートするために手を貸してくれたけど、その視線はそらされている。
私はアレク様の様子を見て、内心でため息をついた。
あのあと、しばらくして目を覚ましたアレク様は、すぐに私に寄りかかって眠っていたことに気がついた。
動揺からか顔を真っ赤にして「すまない!」と謝られたので「いえいえ、お互い様ですよ」と返した。
「公爵になってから居眠りなんてはじめてした。その、あなたの側が心地よすぎて……気が抜けてしまっている」
「言われてみれば、私も居眠りなんて聖女になってからはじめてしました」
私たちは、いつも気をはって過ごしているのかもしれない。
「私もアレク様の側にいたら、安心してしまって」
「エステル……」
赤い顔のアレク様が「重かっただろう? すまない」と謝ってくれた。隣同士に座っているせいで、いつもより距離が近い。
なんだか落ち着かなくて、私はあわてて話題をそらした。
「アレク様の寝顔を見ていると、弟を思い出しました」
その瞬間、目に見えてアレク様の表情が曇った。
「……お、弟」
「あ、すみません! 失礼なことを!」
「……いや、大丈夫だ」
アレク様は立ち上がると向かいの席に戻っていった。距離がいつも通りに戻ってホッとしたけど、アレク様の体温を感じていた左側が少しだけ寂しい気がした。
それから、アレク様がぎこちなくなってしまった。
私はソワソワすることはなくなったけど、すごく後悔している。
はぁ、弟だなんてごまかさずに、ちゃんとアレク様の寝顔が可愛かったですって言えばよかった。
そう思ったけど、よく考えたらそれはそれで失礼だわと気がつき、私はまたため息をついた。
今晩泊まる場所は、小さな村にひとつだけある宿だった。
公爵邸があるフリーベイン領の中心部とは違い、村には家が十軒ほどしかない。村の周りには広大な小麦畑が広がっていた。
豊かに実る垂れた穂を見て、私は改めてフリーベイン領の豊かさに気がついた。
前にアレク様が聖女の報酬として金貨十袋くれようとしたけど、そんなことができるくらい公爵領は豊かなのね。
アレク様にエスコートされながら宿に入ると、若い夫婦が明るく出迎えてくれた。
「ようこそお越しくださいました!」
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
アレク様と私はすぐに部屋へと案内される。
「せまいところですが、どうぞごゆっくり」
部屋の中にはベッドが二つ並んでいた。もう用は済んだとばかりに部屋から去ろうとしていた若夫婦をアレク様が呼び止める。
「亭主、部屋は二つ頼んでおいたはずだが?」
「はい、こちらは領主様ご夫婦のお部屋です! 隣にお付きの人用の部屋を準備させていただきました」
夫婦? 私がアレク様を見ると、アレク様は「すまない手違いがあったようだ」と謝ってくれた。
「俺たちは夫婦ではない。その」
言葉につまったアレク様の代わりに私が「婚約者です」とお伝えする。
宿の若夫婦は首をかしげた。
「どう違うんで?」
「俺たちは、また結婚していないんだ。同じ部屋で寝るわけにはいかない。この部屋にはエステルとその護衛が宿泊させてもらう。俺は別の部屋に案内してくれ」
「は、はい……?」
その顔には貴族さまの考えはよくわからないと書かれている。
そうよね、この国の平民には婚約制度はないものね。
それでも若夫婦は、すぐに笑みを浮かべると「では、領主様はこちらへ」とアレク様を別の部屋に案内しはじめた。
エスコートのためにふれていたアレク様の腕が私から離れていく。
「あっ」
何を思ったのか私はとっさにその腕をつかんでしまった。
振り返ったアレク様の瞳は大きく見開かれている。
「あの、さっきは弟を思い出しましたなんて、失礼なことを言ってすみません!」
「いや」
小さく首をふったアレク様は、後ろに付き従っていた一人の騎士とキリアに視線を送った。
「エステルと少し話してくる。俺の部屋の場所を聞いておいてくれ」
「はい」
「キリアは席をはずしてくれ」
「はい!」
騎士とキリアは素早く動き、その場から去っていく。
「エステル、いいだろうか?」
「は、はい」
立ち話もなんなので部屋の中に入ると、木でできた小さなテーブルと椅子があったので腰をおろした。
「先ほどの話だが、あなたが謝る必要はない」
馬車から降りるときはそらされていた視線が、今は私に向いている。そのことに私はホッと胸をなでおろした。
「でも、アレク様のことを弟と重ねるなんて……」
「正直にいうと、少しだけ落ち込んだ」
「す、すみません!」
怒られても仕方ないのに、アレク様の口元には笑みが浮かんでいる。
「だが、考えてみれば、あなたにとって家族は何よりも大切なものなのだろう? それこそ、自身を犠牲にしても守りたいほどに」
私はコクリとうなずいた。
「ならば、その家族を重ねられることはとても名誉なことなのかもしれない、と馬車の中で考えていたんだ」
「名誉?」
「そうだ。あなたの家族のように、いつか俺にも気をゆるしてほしいと思っていたから」
「アレク様……」
アレク様のそばは居心地がよすぎて困ってしまう。
今だってアレク様の落ち着いた声と、その温かい眼差しが心地よくて仕方ない。
「エステル。今は仲間でも主従関係でも、弟でもかまわない。だがいつか、俺のことを一人の男として見てくれると嬉しい」
アレク様を一人の男性として?
「それって……」
うまく思考がまとまらない私の頭をアレク様の大きな手がなでた。
「急がなくていい。俺もそうだが、エステルもきっとこれまで自分のことを考える余裕がなかったのだと思う。だから、少しずつでいい。あなたの好きなことをしていってほしい」
「私の、好きなことを」
フリーベイン領にいるかぎり、実家のことは心配いらない。そして、私は聖女の仕事も必要最低限しかする必要がない。
そっか、私はもう好きにしていいんだわ。
聖女の祈りは強制ではないし、私が浄化しなくてもフリーベイン領はアレク様や騎士団のみんなに守られている。
ここでは、私は自分の意思で決めたことを、自分のためだけにしてもいいのね。
たしかに聖女に自由はなかったけど、私は自分のことをかわいそうだなんて思わない。だって、今までもやりたいようにやってきたから。
でも、もう一人で頑張らなくていいのだと思うと、ふいに涙がにじんだ。
「アレク様……ありがとうございます」
お礼を言うとボロッと涙がこぼれてしまう。
実家では頼りがいのある姉でいたかったから決して泣かなかった。聖女になってからは、浄化することに必死で涙なんて流すヒマがなかった。
ここでは泣くのも笑うのも、何をするのも自由。
だったら私はやっぱりアレク様のお役に立ちたい。
そう伝えるとアレク様は少し困ったように笑った。
「もう十分だ」
「ぜんぜんですよ!」
アレク様の本当の婚約者が決まるまでは、しっかりと婚約者のふりをしたい。
そう思った私は、アレク様の本当の婚約者の女性を想像してみた。
公爵家にふさわしい家柄で、すごく美人で優しくって……。
そんな理想の女性にアレク様が優しく微笑みかける様子を思い浮かべて私の胸が少しだけ痛んだ。
*
アレク様との馬車の旅は楽しくて、あっという間に隣国カーニャにたどり着いた。
文化が違うせいか風にのって運ばれてくる香辛料の香りに異国を感じる。
私たちは舞踏会が開催される間、カーニャ国側が用意した宿泊施設に滞在することになっていた。
宿泊施設と言っても宿のようなものではなく、邸宅をまるまる貸してくれていた。それだけでも、いかに隣国がフリーベイン領を重要視しているかがわかる。
アレク様にエスコートされながら、煌びやかな邸宅に足を踏み入れた私は「わぁ」と感嘆のため息を漏らした。
「すごいですね!」
「ああ、フリーベインはカーニャと物流のやり取りがあってな」
「なるほど」
カーニャにとってフリーベインは仲良くしておきたい相手なのね。
「公爵様はこちらのお部屋に。婚約者エステル様のお部屋はこちらです」
使用人たちはみんな丁寧に接してくれる。
アレク様と別れて、案内された部屋も煌びやかだった。壁には銀髪家族の大きな絵が飾られている。
「これは?」
案内してくれたメイドに訪ねると「カーニャ王家を描いたものです」と教えてくれた。
「カーニャ王家は、みんな銀髪なのですね」
「はい」
部屋に荷物を運ぶ騎士たちの間をぬって、キリアが速足に近づいてくる。
「エステル様!」
「そんなにあわててどうしたんですか?」
「エステル様にどうしてもお会いしたいという者が訪ねてきています。ついたばかりなので追い返したいのですが、そうもいかず――」
キリアの言葉をさえぎり、優雅な足取りで一人の少年と、その護衛らしき男性が部屋に入ってきた。少年の髪は銀色に輝いていた。
私より背の低い銀髪少年は、やわらかい微笑みを浮かべた。
「はじめまして。僕はフィン・カーニャです。この国の第六王子です」
やっぱり王族だったのね。私があわてて淑女の礼(カーテシー)をとると、王族なのにフィン殿下も頭を下げた。
顔を上げたフィン殿下の目はうるみ、頬は赤く染まっている。
「本物の聖女様に、こうしてお会いできる日が来るなんて! 光栄です」
「あ、でも、今は――」
「わかっています。聖女様は、フリーベイン公爵と婚約されたのですよね? フリーベイン公爵が婚約者と我が国の舞踏会に参加すると聞いて、エステル様にお会いできる日を心待ちにしておりました」
隣国まで私たちの婚約は広まっているのね。婚約者のふりは順調みたい。
「この国に滞在の間、僕があなた達の世話役をさせていただきます」
「王子様がですか?」
「はい、何か困ったことがあればいつでも相談してください、聖女様!」
「あ、ありがとうございます」
お話は終わったはずなのに、キラキラした瞳が私からそらされることはない。
な、なにかしら? まだ何かお話が?
こういうときは、婚約者としてどうしたらいいんですか、アレク様!
心の中でアレク様に助けを求めていると、フィン殿下はハッと我に返ったようなしぐさをする。
「すみません。聖女様を驚かせてしまいましたね。実は僕、聖女様や邪気に関する研究をしていまして。今回の世話役の件も、どうしても聖女様とお会いしたくて無理を通してしまいました」
「あ、それで……」
王族なのに私たちの世話役をかってでてくれたのね。
私としても、この国で邪気について調べるつもりだったのでフィン殿下の存在はありがたい。
「殿下、私の国では邪気についての資料がほとんどないんです。殿下のお話をいろいろ聞かせてもらえませんか?」
「もちろんですよ! その前に殿下ではなく僕のことはフィンと」
フィン殿下は、とても人懐っこそうな笑みを浮かべている。
「では、フィン様と呼ばせていただきますね。私のことはどうぞエステルとお呼びください」
「わかりました。エステル、さっそくですが、明日にでも僕の研究室に来ませんか? 邪気についてなんでもお答えしますよ」
「お招きくださりありがとうございます。でも、アレク様に……フリーベイン公爵様に確認してからでも良いでしょうか?」
アレク様の婚約者としてこの国に来ているのに、勝手なまねはしたくない。
「そうですね、僕としたことが大変失礼しました。聖女様にお会いしたくて、フリーベイン公爵への挨拶を忘れておりました。今から向かいます」
扉付近まで歩いたフィン様はこちらを振りかえった。
「許可がとれたらフリーベイン公爵と一緒に、僕の研究室に来てくださいね!」
「はい」
フィン様と話しているうちに、荷物運びは終わったみたい。室内には私と護衛騎士のキリアしかいない。
心配そうなキリアと視線が合った。
「エステル様、体調はいかがですか? 長旅の疲れは出ていませんか?」
「私は元気ですよ。キリアのほうこそ疲れたのでは?」
私は馬車に乗っていただけだけど、キリアは馬にまたがりずっと馬車を護衛するようにあとをついてきていた。
宿にいるときも、私と相部屋だったせいで、護衛として常に気をはっていたと思う。
それなのにキリアは少しも疲れた顔を見せない。
「私は日々鍛えているので大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
礼儀正しく頭を下げたあとに、キリアは深刻な顔をした。
「エステル様。あなた様は閣下の婚約者です。まぁ、今はまだ婚約者のふり、ですが。私にそのような話し方では、怪しまれてしまいます。どうか敬語はおやめください」
言われてみればアレク様の婚約者がアレク様の騎士に敬語を使っているのはおかしいかもしれない。
「わかりました……。いえ、わかったわ、キリア」
パァと表情を明るくしたキリアは、小さくガッツポーズをしている。
「キリア、さっそくだけどアレク様にフィン様の研究室に行っていいか、おうかがいしたいの。案内してくれる?」
「はい!」
アレク様の部屋は同じ階にあるものの、だいぶ離れていた。
キリアが「この階には、部屋が二つしかないそうです」と教えてくれる。
「え? こんなに広い建物なのに?」
「はい。部屋の中に護衛やメイドが待機するための部屋も作られているようです」
言われてみれば部屋には扉がたくさんあった。その扉の向こうには広い部屋が広がっているのかもしれない。
アレク様の部屋の前で、さっき別れたばかりのフィン殿下とお会いした。
「あっ、エステル! フリーベイン公爵の許可を取りましたよ! 明日はぜひ僕の研究室に」
「はい、おうかがいしますね」
嬉しそうに微笑むフィンを見ていると、私の弟や妹とその姿が重なる。
私達の声が聞こえたのか、アレク様が部屋から出てきた。
「エステル」
「アレク様。許可をくださりありがとうございます!」
「いや、俺も気になることがあったので、殿下の申し出は有難かった」
「では、明日一緒に来てくださるんですか?」
「ああ、もちろんだ」
良かった。一人で行くよりアレク様と一緒のほうが嬉しい。
気がつけばフィン殿下は、私たちをまじまじと見ていた。
「殿下、どうされましたか?」
アレク様の質問に、フィン様はニコッと微笑む。
「あなた達はとてもお似合いですね!」
えっと? こういうときはどうしたら?
困った私がちらっとアレク様を見ると、アレク様は私の肩にそっと手をおいた。
「私にはもったいないくらいの婚約者なので、そういっていただけて光栄です」
「わ、私もアレク様のような素敵な方の婚約者になれて幸せです」
一瞬驚いたアレク様が、ふわっと優しく微笑んだので私はつい見惚れてしまった。
「ふふ、本当にあなた達はお似合いだ。聖女の力は愛する人ができれば強くなると言われていますものね」
初めて聞く話に、私とアレク様は顔を見合わせた。
「殿下!」
「そのお話、くわしくお聞かせ願えないでしょうか!?」
私たちの勢いに一瞬だけ驚いたものの、フィン様はすぐに瞳を輝かせる。
「はい、ぜひ聞いてください! 僕、聖女様についてならいくらでも語れますから!」
そのあとの私たちは、フィン様の案内で同じ建物内の客室へと案内された。
向かいのソファーにフィン様が座り、その後ろには腰に剣を帯びた護衛騎士が佇んでいる。
私もアレク様の左隣に座った。なんだかアレク様の隣に座ると居心地よく感じてしまう。
こちらを見るフィン様の瞳は、相変わらずキラキラと輝いていた。
「それで、何からお話ししましょうか?」
アレク様が私を見て小さくうなずく。私が聞きたいことを聞いて良いみたい。
「では、フィン様。邪気とはなんでしょうか?」
「邪気は、人の負の感情によって生まれたものだと言われています」
「負の感情?」
「はい、例えば怒り、悲しみ、嫉妬や不安などですね。それが長い間かけて溜まり邪気になる」
ということは、邪気に覆われていた私たちの国の王都は、負の感情にあふれていたということになるのね。
フィン様は言葉を続ける。
「さらに邪気が集まれば魔物になります」
「えっ? それは魔物が邪気からできているということでしょうか?」
「はい、そうです」
魔物は邪気を吸うと強くなることは知っていたけど、まさか邪気から魔物ができていたなんて。
「では、聖女ってなんですか?」
「聖女様は邪気を浄化できる者のことをいいます。しかし、聖女が生まれるのはあなた達の国ゼルセラ神聖国のみ。不思議ですよね」
今までそういうものだと思っていたけど、改めて言われるとたしかに不思議だった。
「エステル。聖女様の力は、大聖女様に祈りを捧げたのちに使えるようになるんですよね?」
「はい」
「でしたら、これはあくまで僕の仮説ですが、聖女様とは祈りを介して大聖女様の力を借りられる者のことをいうのではないかと……あっ」
フィン様が申し訳なさそうな顔をする
「すみません、エステルの力が借り物だといいたいわけではないのです」
「大丈夫ですよ、私のことはお気になさらず」
それにフィン様の仮説はすんなりと納得できてしまう。
たしかに言われてみれば聖女は自分の力を使うというより、もっと別の大きな力を借りているような気がしていた。
それが祈る先の大聖女様だと言われたら、それはそうね。としか言えない。
「フィン様。では、大聖女様とはなんなのでしょうか? 私たちの国では、大昔に大聖女様が私たちの国を救ってくれたと言われています。彼女はその偉業から、国の守り神として崇(あが)められることになったと」
「おおむね合っていますが、私が各地の伝承を調べたところでは、大聖女様は大陸中の邪気が集まりあふれ出す場所に、その身を捧げてこの地に平和をもたらしたと言われています」
「その身を捧げて、ですか?」
「はい。その場所で大聖女様が今も邪気を浄化し続けてくださっているから、この大陸ではめったに魔物がでないのだと」
「今も?」
驚く私にフィン様は「もちろん、そういう伝承です。実際に確かめた者はおりません」と教えてくれる。
「だから、僕たちの国では王族が代表して大聖女様への感謝の祈りを毎日捧げています」
「王族が、毎日……」
それは聖女の役目と同じだった。
「フィン様も聖女の力を使えるのですか?」
「そうだと良かったのですが」とフィン様は笑う。
「僕たちはいくら祈っても聖女様の力は使えません」
「では、どうしてカーニャ国の王族は、感謝の祈りを捧げるのですか?」
「それは、国内の邪気を減らすためです。邪気は負の感情によって生まれますが、正(せい)の感情は邪気を減らすことができると言われています」
「正の感情というと、感謝や愛情や思いやりといったことでしょうか?」
「そうです、前向きで明るい気持ちになる心の動き全般のことですね」
「それが真実だとしたら……」
私はためらいながらも思ったことを口にした。
「本当は聖女なんて必要ないのでは?」
フィン様の眉が困ったように下がる。
「聖女様本人を前にして言うのはどうかと思いますが、その通りなのです。実際、ゼルセラ神聖国以外聖女様はいませんし、聖女様がいなくても私たちの国は成り立っていますから」
フィン様がいうには、数年に一度くらいカーニャ国にも魔物は出る。でもその魔物を倒すことで、国にたまった邪気を浄化しているという感覚らしい。
そして、魔物が出るたびに負の感情を抑えて、正の感情で生きていこうと人々は心を新たにしているとのこと。
今まで静かに話を聞いていたアレク様が口を開いた。
「殿下。エステルが言うには、我がフリーベイン領は邪気が少ないらしいのです。それなのに、頻繁に魔物がでている。それはどういうことなのでしょうか?」
「それは興味深いですね」
フィン様は考え込むように自身のあごに手をそえた。
「そういえば聖女に守られているはずの神聖国の王都に、最近になって頻繁に魔物が出ているとウワサを聞いています。しかし、魔物は王城だけを狙っているとか?」
「そうらしいです」
私が「何かわかりますか?」と尋ねると、フィン様はゆるゆると首を左右にふった。
「僕が聖女様について知っている情報は古いものばかりです。新しく起こったことの真実はわかりません。でも、あえて仮説を立てるのなら……。神聖国の王家は、大聖女様の加護を失ったのではないでしょうか?」
アレク様が私だけに聞こえるようにささやいた。
「なるほど、聖女エステルを王都から追い出した罰か」
そんなことで罰がくだるとは思えないけど……。
私はフィン様にさらに質問した。
「もし本当に王家が大聖女様の加護を無くして魔物に襲われているのだとしたら、フリーベイン領が魔物に襲われるのはどうしてですか?」
その質問にはアレク様が答えてくれる。
「初代フリーベイン公爵は、その当時の国王の弟だった。兄である国王を支える為に臣下におりて公爵位を授かったんだ。だから俺も王家の血を引いている」
「そうだったんですか!?」
「ああ、公爵家に代々伝わる剣があると言っただろう? あれは大昔に大聖女様と共に国を救うために旅立った英雄が持っていたとされる剣だ。英雄が亡きあと国宝とされ、フリーベイン公爵に与えられた。フリーベイン公爵家が王家の血筋であることを証明するためのものでもある」
「だとしても、フリーベイン領だけずっと魔物がでているのはおかしくないでしょうか?」
私を王都から追いだす前から、フリーベイン領には頻繁に魔物が出ていたと聞いている。
しばらくの沈黙のあとに、フィン様は難しい顔で話し出した。
「実は、僕は前々から気になっていたことがありまして。ぜひエステル様に試してもらいたいことがあるのです」
「私に?」
「はい、大聖女様は聖女の祈りを受け取りその力を貸してくれます。ならば、祈りだけではなく、聖女の質問も受け取り答えてくれるのではないかと」
「大聖女様に、私が質問を?」
今までそんなこと、一度も考えたことがなかった。
「やってみていただけますか?」
フィン様にうながされて私はいつものように大聖女様に祈りを捧げた。そして、いつもと違い大聖女様にそっと呼びかけてみる。
――大聖女様。私の質問に答えてくださいますか?
「……」
返事はない。
「何も起こりませんね」
フィン様はがっくりと肩を落とした。
「そうですか、残念です。大聖女様のお言葉が聞ければ、それこそ邪気や魔物、聖女様のすべてがわかると思ったのに」
フィン殿下の後ろに控えていた護衛騎士が「殿下、そろそろ」と声をかけた。
「そうですね。今日のところはこれで失礼します。エステル、いつでも僕を訪ねてきてください。聖女様についてまだまだ聞きたいことがたくさんあるので」
「はい、ぜひ! ありがとうございます」
立ち上がったフィン様は、アレク様に微笑みかけた。
「舞踏会は三日後です。それまでのんびりとお過ごしください」
フィン様をお見送りすると、アレク様と二人きりになった。
「のんびりと、か。エステルは何がしたい?」
「そうですね、私はカーニャ国の図書館に行きたいです。あと、フィン様にまたお会いしてお話を聞きたいですね」
今回は、私やアレク様の身体に浮かんでいた黒文様のことを聞くのを忘れてしまっていた。
「わかった。他には?」
他にはといわれても、もう何も思いつかない。
「えっと、のんびり過ごすって難しいですね。アレク様は何かしたいことないんですか?」
「俺は……」
アレク様が私の手にそっとふれた。
「エステル、俺と一緒に街を散策……。その、デートをだな」
「あ、いいですね! 行きましょう!」
パァと明るい表情を浮かべたアレク様。
「私たちが仲の良い婚約者だと周囲にアピールできますものね! 私、婚約者のふり、頑張ります!」
アレク様は優しい笑みを浮かべると「ああ、頼んだぞ。街では、エステルが楽しめることをたくさんしよう」とやさしく私の頭をなでた。
次の日。
私とアレク様は目立たないようにカーニャ国の平民服に着替えて街へと繰り出すことにした。
カーニャ国は、地形の関係で私たちの国より少し気温が高い。なので、平民服も薄着になっている。
予想はしていたけど、軽装のアレク様はすごかった。いつもはビシッと貴族服や騎士服を着ているアレク様が、今はラフな半袖白シャツと長ズボン姿になっている。
アレク様! 胸元についているひもはもっとしっかりしめてください、目のやりどころに困ります。
なんですか、そのたくましい腕は!
心の中で叫んだあとに、私はフゥとため息をついた。薄いシャツ一枚では、アレク様の魅力は隠しきれない。
ただでさえ顔が整っているのに身体まで鍛えたら、それはもう完璧じゃないですか!
私が幸せを噛みしめていると、アレク様は熱に浮かされているような顔で私を見ていた。
「エステル。その服、とても似合っているのだが、腕や足が……その、少し肌が出過ぎではないだろうか?」
たしかに私の来ている平民服も半袖で、スカート丈が膝までしかない。こんなに手足が出る服を着たのははじめてだった。
「でもこれがこの国の一般的な平民服らしいですよ?」
「そ、そうか。ならば仕方あるまい」
コホンと咳払いしたアレク様は「エステル、街では決して俺の側を離れないように」と小さな子どもにするような注意をした。
そういえば、最近、アレク様はよく頭をなでてくれる。もしかして私、子ども扱いされているの!?
嫌じゃないけど、ちょっとドキドキしてしまうので、やめてほしい……。
「さぁ行こう、エステル」
差し出されたアレク様の手に、遠慮がちに自分の手を重ねる。
デートといってももちろん公爵のアレク様と二人きりでお出かけするわけではない。
私たちから少し離れたところには、私服を着た護衛の騎士たちが五人いる。その中にはもちろんキリアも含まれていた。
馬車に乗ってしばらくすると、街の中心部についた。人ごみを避けて朝早くから出かけたけど、街は活気にあふれている。
行きかう人々がみんなアレク様を見ていた。
わかります。美青年は見ているだけで幸せな気分になりますよね。そんな視線をアレク様はまったく気にしていない。
「出店(でみせ)が出ているな。市場(いちば)のようなものか。少し歩こう」
「はい」
歩き出したアレク様の手は、私の手をしっかりと握っている。
そんなにずっと握っていなくても迷子になりませんよ、と言おうとしたけど、予想以上に人が多いのでやめた。もし迷子にでもなったら目も当てられない。
野菜や果物から日用品までいろんな出店が並んでいた。
「わぁすごい……」
果物の出店の前でアレク様は立ち止まった。そこでは、その場で果汁をしぼったいろんな種類のジュースが売られている。
「エステル。りんごジュースがあるぞ。飲むか?」
「はい、飲みます! えっと、でもどうしてリンゴジュース限定なんですか?」
りんごジュースもおいしいけど、他のものもおいしそう。
目を見開いたアレク様は、「エステルは、りんごが好きなのかと思っていた」とつぶやく。
「ほら、前に馬車の中でりんご売りの親子の話をしていたから」
「あっ! そういえば、そんな話をしましたね」
あんなに何気ない私の話を覚えていてくれたなんて……。
アレク様の気遣いに感動してしまう。
「りんご好きですよ!」
アレク様が買ってくれたりんごジュースは、とてもおいしかった。
「アレク様はなんの果物が好きですか?」
「果物は特に」
「じゃあ、好きな食べ物はなんですか?」
少し悩んだアレク様は「肉だな」と答えた。
「いいですね、お肉おいしいですよね!」
お肉を売っている出店を見つけたら、アレク様と一緒に食べようっと。
辺りをキョロキョロしていると、人ごみの向こうに『串』と書かれた看板が見えた。あそこならお肉も売っているかもしれない。
「アレク様、あそこに――」
そのとたんにアレク様が私の手を引いた。飲みかけのりんごジュースが私の手から落ちて、地面にカップが転がる。
「あっ」
私を守るように抱きしめたアレク様は、パンッと何かを叩きおとした。
「え?」
私の視界いっぱいにアレク様の胸板が広がっていて、何がおこっているのかわからない。
アレク様の低く怖い声が聞こえる。
「なんのつもりだ」
アレク様の視線を追うと、フードを深くかぶった男性をにらみつけていた。
「今、彼女にふれようとしたな?」
フードの男はふれようとしたその手をアレク様に叩き落とされたようで、痛そうに押さえている。
キリアや他の騎士達が、フードの男の周りを取り囲んだ。
「帯剣しているぞ。気をぬくな」
「はい!」
フードの男からチッと舌打ちが聞こえる。素早くしゃがみこんだフードの男は、驚く騎士達の隙をついて走り去った。
「待て!」
そのあとを二人の騎士が追いかけていく。
「深追いはするな!」
そう騎士たちに命令するアレク様は、たぶん私の存在を忘れている。
さっきからずっと抱きしめられたままなんですけど!
身動きが取れなくてどうしたらいいのかわからない。
しばらくすると、ようやくアレク様は私のことを思いだしてくれた。
「大丈夫か? エステル」
抱きしめたままなので、顔が近すぎです!
「は、はい、なんとか……」
私はたぶん真っ赤になっていると思う。そこでようやくアレク様も気がついてくれたようで、「あ、すまない」と言って解放してくれた。
「緊急事態で、その。さっきの怪しい男がすれ違いざまに、あなたにふれようとしたんだ」
「そうだったんですね……」
「心当たりはあるか?」
「いえ」
聖女の力を狙って、とかならわかるけど、そもそも聖女である私の顔を知っている人自体が少ない。
なぜなら、聖女になってからは、ほとんど神殿にこもって暮らしていたし、顔に黒文様が出てからはずっと黒ベールで顔を隠していたから。
「私がはしゃいでいたから旅行者だとバレて、スリでもしようと思ったんですかね?」
「……そうだろうか」
しばらくすると、フードの男を追いかけていた二人の騎士が戻ってきた。
「フードの男を見失いました。申し訳ありません、閣下!」
「いや、不慣れな土地だからな。仕方あるまい」
そういったアレク様の顔は険しい。何か考え込むように腕を組んでいる。
「エステル、今日はこれで帰ろ――」
私はそっとアレク様の腕にふれた。
「あの、あそこにアレク様の好きなお肉が売っているかもしれませんよ? 行ってみませんか?」
アレク様は驚いた顔をしたあとに、いつもの優しい雰囲気に戻る。
「ああ、そうだな」
「せっかくのデートですから、楽しみましょう!」
「デート……そ、そうだった」
私たちは、離れてしまっていた手をもう一度つなぎ直した。
フリーベイン領の騎士たちが、私を捕えようと追いかけてきた。
市場の人ごみを使って逃げたことでうまく撒(ま)けたようだ。
エステルを連れ去ってしまいたかったが、今はこの場から離れるしかなかった。
数か月前、私はエステルを連れ戻すために王都から旅立ちフリーベイン領を目指した。
王城から出る際は、「魔物が現れた。退治に行く」と告げると確認もせずにすぐに城外に出してくれた。本当にバカなやつらの集まりだ。だから魔物なんかに殺されるんだ。私の命令が悪かったわけじゃない。
王族から一兵卒に落とされた私では馬車や馬が使えない。仕方がないので歩いて王都から出た。行きかう人にフリーベイン領までの道を聞きながら進むべく方角を決める。
その途中で荷馬車を走らせていた男に声をかけられた。
「あんた、どこに行くんだい?」
「……フリーベインだ」
みすぼらしい姿をしている私が王子だとばれるわけにはいかない。フードを深くかぶって顔を隠していると、男はさらに話しかけてくる。
「あんた、腰の剣は使えるのか?」
「ああ」
男は親指をくいっと背後の荷馬車に向ける。
「よければ乗ってけよ。その代わり護衛をしてくれ。ほら、最近王都では魔物が出て物騒だろう?」
使えるものは使うかと、私は荷馬車に乗り込んだ。中には老婆と子どもが二人、そしてその子どもの母親と思われる女が乗っていた。
私に声をかけた男が御者台から話しかけてくる。
「ちょうど俺たちもフリーベインに向かっているんだ。親戚がフリーベインにいてな。ウワサでは今、聖女様はフリーベインにいるそうだぞ。王都はもうダメだ」
何も答えず私は荷馬車の端に座った。座席なんかない。ガタガタとゆれる荷馬車の乗り心地は最悪だった。
「ねぇねぇおかぁさーん」
耳障りな子どもの声を聞きながら、私は目をつぶった。
**
それから数日後。
何度も休憩をくり返し、ゆっくりと進む荷馬車はなかなかフリーベインにたどり着かない。もう我慢の限界だった。
夜になり皆が荷馬車内で寝静まったころ、私は静かに起き上がった。
荷馬車からおりると、馬と荷馬車を繋いでいる留め具を外す。鞍(くら)はないが手綱はあるので問題ない。乗馬は剣術の次に得意だった。
「何をしている!?」
背後から声をかけられたので、振り向きざまに剣を鞘から抜き馬主の男に突きつけた。
「金を出せ」
「……貴様」
「殺されたいのか?」
殺気を放ち凄むと男はしぶしぶ腰に下げていた袋をこちらに投げ捨てる。
男に剣を突き付けたまま袋を拾い、中を確認するとたしかに金が入っていた。正直、知識では知っていたが実際に持ったことも使ったこともない。だから、この量の金額がどれくらいかはよくわからない。
私の隙をついたつもりなのか、男がこちらに飛びかかってきたがサッとよけた。よろけた男ののど元にもう一度剣をつきつける。
「世話になった礼に殺さないでおいてやる。だが、次はない」
ガタガタとふるえる男をよそに、私は馬にまたがった。私の愛馬とは比べ物にならないくらい粗悪だが、それでもないよりはマシだった。
月明かりを頼りに馬をしばらく走らせた。すぐに馬の体力がつきて息が上がってきたので、道端の木に手綱をくくりつけて野宿で夜を明かした。
どうして高貴な生まれの私がこんな目に……。
そんなことばかりが頭によぎる。でも、この生活には必ず終わりがある。エステルさえ王都に戻ればすべてが元に戻るのだから。
夜が明けると、また馬を走らせた。馬の息が上がると休息を取らせる。それを数回繰り返すと、夕方ごろにようやくフリーベイン領にたどりついた。
近場の宿に泊まり久しぶりの食事を取る。そのあとは気を失うようにベッドで眠った。
目覚めたら、もう昼を過ぎていた。すぐにエステルのことを宿屋の主人に聞きに行く。
「エステル? ああ、公爵様の婚約者、聖女エステル様のことか?」
「は? 婚約者だと?」
主人は上機嫌に語る。
「ああ、そうだ。元は王都で暮らしていた聖女様がフリーベインに来てくださったんだ! すごいだろ?」
そんなことはどうでもいい。
「婚約者とはどういうことだ?」
「どういうことも何も、そのままだ。公爵様とエステル様は婚約されている。そのおかげか、魔物が出る頻度が少なくなっているそうだ。これでフリーベインは安泰だ!」
私は力任せにカウンターテーブルを叩いた。
「くそっ!」
フリーベイン領の若き公爵はそのあまりの醜さに公(おおやけ)の場に現れず、常に顔を隠して生活していると聞いていた。
醜いエステルとお似合いだと思っていたが、まさか二人が婚約していたなんて。醜い者同士気でもあったのか?
いや、フリーベイン領は魔物が頻繁に出るという。ならば公爵もエステルの聖女の力が目当てに違いない。
だとしたら、エステルを返せと言っても、公爵は決して返さないだろう。無理やりにでも奪い取らないと。
私は覚悟を決めて馬にまたがりフリーベインの中心にある公爵邸に向かおうとしたが、その途中でフリーベイン公爵とエステルが隣国カーニャに旅立ったという話を聞いた。
思わず舌打ちが出たが、すぐにこれはチャンスかもしれないと思いなおす。
フリーベインの騎士たちに警護されている公爵邸に忍び込むのは困難だ。だが、旅先なら簡単に接触できるかもしれない。
カーニャ国の王族とは何度か王家主催の夜会で会ったことがある。その際に「我が国から、こちらの国に来る際に、馬車が通れる広い道を使うとだいぶ遠回りになる」と言っていた。
しかし、馬でならもっと早く着くらしい。
私は馬でカーニャ国に向かう道を聞いて先を急いだ。うまくいけば、先にカーニャ国に向かっているエステルに追いつけるかもしれない。
私の予想は大当たりだった。私が野宿をくり返し、馬でカーニャ国にたどり着いたとき、ちょうどフリーベイン公爵とその婚約者がカーニャ国にたどり着いたとウワサになっていた。
二人は王家が用意した豪華な邸宅に宿泊しているらしい。
それに比べて私は街はずれのボロ宿にしか泊まれない。
私がこんなにみじめな生活をしているのにエステルは……。そう思うと腹が立つ。
エステルが宿泊している邸宅の周りをうろついたが、厳重に警備されていて中に入れそうもない。
だが、いつか必ず外出するはず。そのときはすぐに来た。
邸宅内から馬車が出てきた。方角的に市場(いちば)のほうに向かうようだ。
路地を使い先回りして市場に向かう。なんとかそこでエステルを取り戻さなければ。
しかし、予想外のことがおこった。エステルが乗っているはずの馬車から美しい女が降りてきた。
服装はこの国の平民が着る服だったが、立ち居振る舞いが貴族のそれだった。
滑らかなブラウンの髪に、エメラルドのように輝く瞳。顔に醜い黒文様が浮かび、常に黒いベールで顔を隠していたエステルはそこにはいない。
だが、次の瞬間、美しい女をエスコートしていた若い男が「エステル」と女に呼びかけた。エステルと呼ばれた女は嬉しそうに微笑む。
「あれが、エステル……なのか?」
確証が持てない。必死にエステルの顔を思い出そうとしているのに、黒ベールと黒文様しか思い出せない。
ああ、そうか。私は、醜いと遠ざけてエステルの顔すらまともに見ていなかったのだな。
あの美しい女が本当にエステルならば、隣にいる若い男はおそらくフリーベイン公爵だ。
公爵もウワサのように顔を隠していないし醜くもない。
二人のあとを追っていると、エステルが楽しそうに笑った。まるで花がひらくような明るい笑みだった。
悪くない。いや、むしろ良い。
醜かったエステルから黒文様が消えてなぜか美しくなっている。これなら私の婚約者にふさわしい。今のエステルなら、大切にすることができるし心から愛することができる。
エステルは力が強い聖女だから王子である私の妻になるべきだ。ほしい。絶対に彼女がほしい。
吸い寄せられるようにエステルに近づき、その肩にふれようとしたら、手を叩き落とされた。
ハッと我に返ると公爵が私のエステルを抱き寄せ、こちらをにらみつけていた。すぐに二人を護衛していたフリーベインの騎士に取り囲まれる。
「ちっ!」
そのあとは、フリーベインの騎士からうまく逃げ、またボロ宿に戻ってきた。せますぎる部屋には、ヒビが入った鏡がかけられている。
私は顔を隠していたフードを下ろした。鏡に映る私の顔に黒文様はまだない。
そのことに安心して深いため息をついた。
腰あたりに浮かびあがった黒文様は、少しずつ私の身体に広がっている。このままにしておけば、いつか昔のエステルのように顔にまで黒文様が浮かび上がってしまう。
だが、エステルの黒文様は消えていた。きっと彼女は黒文様を消すことができるようになったんだ。
「……まだ間に合う」
エステルは公爵の婚約者になっているが、まだ婚姻したわけじゃない。エステルを王都に連れ戻し、私と婚姻すればいい。
そうすれば、元通り。
いや、今の美しいエステルなら元通りどころか完璧だ。
好都合すぎる展開に私は笑いをこらえることができなかった。
私たちが宿泊している邸宅に戻って来たころには、空は夕焼け色に染まっていた。
それぞれの部屋に戻るために、それまでずっと繋いでいた手をアレク様が離した。
初めはためらっていたのに、いつの間にか手をつなぐことが当たり前のように感じていた。
アレク様の手は大きくて温かい。部屋に戻ってからも、私は繋いでいた右手をジッとみつめてしまっていた。
アレク様の婚約者のふりをするのが私の役目で、そんな私をアレク様は大切に扱ってくれる。
それがとても嬉しい。アレク様はこのままの私で良いと言ってくれる。でも、いつかアレク様のことを一人の男性として見てほしい、とも言っていた。
もしかして、アレク様は私のことを聖女ではなく、一人の女性として見てくれているのかもしれない。
だとしたら、私はどうしたいのかしら?
「エステル様」
キリアに遠慮がちに声をかけられて、私はハッと我に返った。見つめていた右手からあわてて視線を外す。
苦しそうな表情を浮かべたキリアは「大変申し訳ありませんでした」と私に向かって深く頭を下げた。
「急にどうしたの?」
「エステル様をお守りするのが私の役目なのに、エステル様に怪しい男を近づけてしまいました」
「あっ、そんなこともあったわね?」
市場でフードを深くかぶった怪しい人にさわられそうになっていたらしい。私はそのことに気がついてすらいなかったので、よくわからないけど。
そのあとが楽しすぎてすっかり忘れてしまっていた。
「閣下がエステル様を守ってくださらなければ、どうなっていたのか……。護衛騎士として恥じております」
気にしなくていいですよ、と声をかけようとして私はやめた。
キリアは自身の仕事に誇りを持っている。
私だってアレク様の婚約者のふりで失敗したときに『気にしなくていい』と言われても、少しも嬉しくない。
だったら――。
「こんなときもありますよ。次からしっかり守ってね。頼りにしています」
「はい!」
そう答えたキリアの瞳は真剣そのものだった。
でもそっか。護衛対象の私があちらこちらに移動したら、護衛をしてくれている騎士たちが大変なのよね。
明日はアレク様と王立図書館に行こうと思っていた。でももしかすると、どこにも行かずに舞踏会の日まで大人しくしておいたほうがいいのかも?
私がそんなことを考えていると、扉がノックされる。すぐにキリアが対応してくれた。
「エステル様、閣下とカーニャ国の第六王子殿下がいらっしゃいました。入っていただいても良いでしょうか?」
「え? もちろん、いいけど……」
アレク様とフィン殿下がそろって私に会いに来るなんて、何かあったのかしら?
室内に招き入れた二人は、すぐに本題に入った。先に話し始めたのはフィン殿下だった。
「エステル、明日図書館に行くんですよね?」
「はい。その予定なのですが……」
「市場で怪しい男に会ったと聞いたのですが、大丈夫でしたか?」
フィン殿下は、アレク様から話を聞いたようだ。
「大丈夫です。アレク様が守ってくださいましたから」
「なら良かったです。念のため邸宅の警備を強化しました」
なんだか大事(おおごと)になってしまっている。
やっぱり図書館には行かないと言ったほうが良いみたい。
「あの、殿下。図書館には……」
「行きたいんだろう?」
私の言葉をさえぎったのは、予想外にアレク様だった。
「行きたいか行きたくないかと聞かれれば、行ってみたいです。でも、人に迷惑をかけてまでは行きたいとは思えなくて……」
そういうことを伝えると、アレク様はポンポンと私の頭をなでた。
「そのことを今、殿下に相談していたんだ。広い図書館内をまるまる警備するわけにはいかない。あと本棚などの視界を遮るものが多い場所では不審者を見逃がしやすいからな」
「やっぱり……」
行かないほうがいいよね? アレク様もきっとそう思っていると思ったのに。
「そこで、図書館が開く前の早朝に貸し切ることにした」
「……貸し切り?」
予想外の言葉に私はポカンと口を開けてしまう。
「ああ、俺たち以外に人がいなければ警備もしやすいからな」
「えっと、そういうことじゃなくて。そこまでしていただかなくても」
フィン殿下は「実は、僕が良く使っている手でして」と恥ずかしそうに頬を染めた。
「だから、遠慮しなくていいですよ」
「そうだ。エステルはやりたいことをやればいい。図書館には行きたいんだろう?」
私はためらったあとにコクリとうなずく。
「なら行こう」
「はい!」
フィン殿下の後ろで控えていた護衛騎士が、フィン殿下に近づいてきた。
「殿下、そろそろ」
「そうだね」
私を見つめたフィン殿下は「王族は、これから祈りの時間なのです。僕はこれで失礼しますね」とニッコリ微笑み去っていく。
アレク様も「では、俺も部屋に戻る。エステル、また明日」と言って私に背を向けた。でも、扉まで歩いたアレク様は、ピタッと立ち止まりなぜかくるりとこちらを振りかえる。
「明日もあなたと出かけられて嬉しく思う」
そういったアレク様の頬は赤い。つられて私も赤くなってしまう。
「エステルとの図書館デート、楽しみにしている」
「図書館、デート?」
真面目な表情でコクリとうなずくと、アレク様は今度こそ部屋から出ていった。
そっか、明日もデートだったんだ……。
また手をつなぐのかしら? そう思うと、恥ずかしいような嬉しいような不思議な気分になってくる。
視界の端でキリアが小さくガッツポーズしているのが見えた。
「いける! いけますよ、閣下!」
小声でそんな声が聞こえてくる。
何がいけるのかしら……。聞いてはいけないような気がするわ。
私は、さっきよりずっと図書館に行くのが楽しみになっている自分に気がついた。
**
夜も更け、キリアは礼儀正しく私に挨拶したあと部屋から出ていった。
部屋で一人きりになると私はベッドに腰をかける。
フィン様は、カーニャ国の王族は毎日大聖女様に祈っていると言っていた。私もフリーベイン領に行くまでは一日中祈り邪気を浄化する生活を送っていた。だけど、今では朝晩くらいしか祈っていない。
目を閉じ指を組み合わせると、大聖女様に祈りを捧げた。
これまでのように大聖女様に感謝を伝えたあとに、これまでとは違い大聖女様に話しかけてみる。
――大聖女様、わからないことがたくさんあります。どうして王都やフリーベイン領だけが魔物に襲われるんですか? それに、私からあふれ出た光はなんだったのでしょうか?
どれだけ待っても返事はない。私は祈るのをやめて目を開いた。
一日中、市場を歩き回っていたせいか、身体がだるくて仕方ない。ベッドに横になるとすぐにまぶたが重くなる。
「大聖女様……」
まだ起きていたくて、私は思っていることを声に出した。
「……大聖女様は、大陸中の邪気が集まりあふれ出す場所に、その身を捧げてこの地に平和をもたらしたというのは本当ですか?」
睡魔に襲われて意識がとぎれとぎれになっていく。
「もし、それが本当だったら、そんなの……人柱(ひとばしら)じゃないですか……。ねぇ、大聖女様。つらくなかったですか?」
私だったらつらい。だって、そんなことをしたら大好きな家族に二度と会えなくなってしまうから。
キリアやフリーベイン領の皆にだって会えなくなる。
それに、アレク様にも。
そう思うと胸がしめつけられるように痛む。
「大聖女様が今でもその場所で、邪気を浄化し続けてくださっているなんて……そんなの、ウソですよね?」
私は一人きりで王都の邪気を浄化し続けていたころの自分を思い出した。あのころの私は不幸ではなかったけど、決して幸せでもなかった。だから、ウソであってほしい。
まるでベッドに沈んでいくように、私はゆっくりと意識を手放した。
**
どこからか水滴が落ちる音が聞こえてくる。
ピチャン
目覚めると私は薄暗く広い空間に一人で立っていた。
ここは……?
空間内には荘厳な柱が立ち並び、その先には祭壇が見える。
どこかの神殿みたいだわ。
上を見上げるとドーム型の天井の中心部からは淡い光が差し込んでいた。でもその頼りない光だけでは神殿内を明るく照らすことはできない。
よく見ると祭壇の前でだれかが祈っていた。神殿内が薄暗い上に、遠くてここからでは良く見えないけど、たしかに人がいる。
私が祭壇に向かって歩き出すと、途中から床が濡れていることに気がついた。
ピチャン
また水の音がする。どこかから水が漏れて、床に広がり水たまりをつくってしまっているのね。祭壇に近づけば近づくほど、水たまりは深くなっていく。
足首までが水で浸かってしまったころに、私はようやく祭壇にたどり着いた。
淡い光に照らされながら祭壇に向かって女性が祈っている。栗色の髪は床につくほど長く、水面に広がりゆらゆらと浮かんでいた。
祭壇から、どす黒いモヤがあふれ出ていることに気がついた。それは邪気と言われるもので、女性の祈りによってかき消されていく。
ということは、この女性も聖女なのね。
私は神殿内を見回した。こんなに寂しいところで一人、祈りを捧げているなんて……。
祈りの邪魔をしてはいけないとわかっていても、私はどうしても彼女をそのままにできなかった。
「あの……」
声をかけると女性は祈るのをやめた。
「あなたも、聖女ですよね?」
ゆっくりと女性がこちらを振りかえる。
その顔を見て、私は思わず息をのんだ。
なぜなら女性の顔に、びっしりと黒文様が浮かび上がっていたから。私やアレク様よりももっとひどい。地肌が隠れてしまうほど黒文様で埋め尽くされている。
「こんなになるまで祈っていたの!?」
そう叫んで私は女性に駆けよった。
「もういいから! もう祈らなくていいわ!」
女性はうつろな瞳で私を見ていた。彼女を怖がらせてしまわないように両肩にそっと手をおく。
「私、フィン殿下に教えてもらったの! 邪気は負の感情から生まれるんだって! 正の感情で相殺できるって! だったら、本当は聖女なんていらないでしょう!? だから、もういいから!」
女性の瞳から一粒の涙がこぼれた。頬を伝い涙は水溜りに落ちていく。
ピチャン
それは今までずっと聞こえていた水音だった。私は床に広がる大きな水たまりを改めて見渡す。
「……もしかして、この水溜り、あなたの流す涙でできたの?」
女性は口を開かない。代わりに私の頭に直接声が聞こえてきた。
――エステル、もうあまり時間がありません。
「ど、どうして、私の名前を?」
――私はこれまでずっとあなたの祈りに応えてきました。
聖女である私の祈る先は、大聖女様。
「ということは、あなたは……」
私は目の前のうつろな瞳の女性を見つめた。
――これから言うことをよく聞いてください。私たちの国、ゼルセラ神聖国内で、能力が飛びぬけて高く、強靭(きょうじん)な精神を持つ者を三人選びました。エステル、あなたもその一人です。でも、私に選ばれたせいで邪気に侵され黒文様が浮かぶようになってしまいました。
私は左肩に残る黒文様にふれた。これは大聖女様に選ばれた証(あかし)だったの?
――選ばれたあなた達が決めてください。
「何を? 何を決めるんですか?」
――ゼルセラ神聖国の未来を。そして、私が朽(く)ちて消えてしまったあとの世界の理(ことわり)を。
「大聖女様がいなくなってしまうのですか?」
カクッと人形のように大聖女様がうなずいた。
――もうこの身体は長くもちません。私はゼルセラ神聖国を大切に思っています。しかし、ゼルセラ神聖国を恨み、国そのものの消滅を願っている者もいるのです。邪気を操るその邪悪な者を、私では抑えることができません。だからどうか……。
急に後ろに引っ張られる感覚がした。次第に大聖女様の声が遠くなっていく。
「待って! まだ聞きたいことが!」
――心配しないで。また夢の中で会いましょう。誰よりも優しいエステル……私のために胸を痛めてくれてありがとう。
白くなっていく視界の中で、ほんの少しだけ大聖女様の口元がゆるんだような気がした。
「――ル!」
「エステル!」
名前を呼ばれて目を覚ますと至近距離にアレク様の顔があった。澄んだ紫色の瞳が不安そうに私を見つめている。
「……あ、あれ?」
ここは私の部屋で私はベッドに横になっているのに、どうしてアレク様がいるの?
もしかすると、私はまだ夢のつづきを見ているのかもしれない。
「エステル、大丈夫か?」
「えっと、はい……?」
アレク様は、私のベッドをのぞき込むような姿勢になっていた。その後ろにはキリアの姿も見える。
「アレク様、キリア……?」
二人とも怖いくらい真剣な表情をしていた。
「何かあったんですか?」
ベッドから身体を起こした私を見て、アレク様は深いため息をついた。
「良かった。体調が悪いわけではないのだな?」
「はい、元気です」
キリアもアレク様の後ろで胸をなでおろしている。アレク様の手が私の頭を優しくなでた。
「時間になってもエステルが起きてこないので、キリアが起こしに行ったんだ。そうしたら、あなたは真っ青で苦しそうにうめいていたらしい。それに……」
アレク様はそっと私の左手にふれた。その手のひらには黒文様が浮かんでいる。
「えっ!?」
あわてて右手をみると右手にも同じように黒文様が浮かんでいた。
「これって、もしかして……」
私が夢の中で邪気塗れの大聖女様にふれたから?
足にも違和感を覚えてベッドから出ると、私の足は足首あたりまでぐっしょりと濡れていた。
これは大聖女様の涙でできた水たまりを歩いたせい?
「だとしたら、あれは……夢じゃないんだわ」
アレク様は私の黒文様まみれの手を握りしめた。この禍々しい文様が浮き出た私の手にためらいなくふれてくれるのは、たぶんアレク様しかいない。
「何があったのか教えてほしい」
「実は――」
私は夢で見た内容を話した。
どこかの薄暗い神殿で大聖女様が祈りを捧げていたこと。
大聖女様の顔は、私たちよりひどく黒文様塗れだったこと。おそらく顔だけではなく全身に黒文様が浮かび上がっていて、大聖女様にはもうあまり時間がないこと。
そして、私とアレク様が大聖女様に選ばれた者だということ。
「エステルは聖女だから選ばれるのはわかるのだが、俺もなのか?」
「大聖女様は『私に選ばれたせいで邪気に侵され黒文様が浮かぶようになってしまった』と言っていました。だから、黒文様が浮かんでいたアレク様も選ばれています」
「選ばれたものは三人いると言っていたそうだな?」
「はい。だから、私たち以外にあと一人、黒文様が身体に浮かび上がっている者がいるはずです」
「その三人で、何をしろと?」
私はもう一度、大聖女様のお言葉を繰り返した。
「ゼルセラ神聖国の未来と、大聖女様が朽(く)ちて消えてしまったあとの世界の理(ことわり)を決めてほしいと言っていました」
「要領を得ないな」
アレク様の言う通り、私たちが具体的に何をしたらいいのかはわからない。でも、今の段階でもわかっていることはある。
「おそらく大聖女様がいなくなれば、それまで大聖女様が浄化していた邪気が世界中にあふれ出すのではないでしょうか?」
「なるほど、その瞬間に世界の理(ことわり)……これまでの常識が変わってしまうというわけか」
今まで長い時を大聖女様ありきで暮らしていた人々が、これからは大聖女様がいない世界で生きていかないといけない。
「大聖女様がいなくなれば、私は聖女の力が使えなくなるかもしれません。もう二度と私たちの国に聖女が生まれなくなるかも……。カーニャ国だって、王族が祈るだけでは負の感情を相殺しきれず、魔物が頻繁に出るようになってしまう可能性もあります」
私たちは、それだけ大聖女様に頼って暮らしてきたのだと、今さらながらに思い知らされる。
アレク様が口にした「大聖女様は、やはり神なのだろうか?」という言葉に、私は首をふった。
「違います。だって、大聖女様は、泣いていたから」
気が遠くなるような長い年月を、薄暗い神殿でたった一人祈り続けた結果。その足元には大きな水たまりができてしまうくらい涙を流していた。
大聖女様を思うと心がしめつけられるように痛む。私の瞳からあふれた涙は、頬に手をそえるようにアレク様がぬぐってくれた。
「エステル、大丈夫か?」
優しく声をかけれて、私はさらに泣いてしまう。
きっと大聖女様の涙をぬぐってくれる人なんかいない。心配して『大丈夫か?』と聞いてくれる人もいない。それがとても悲しくて、どうしようもなく苦しい。
「アレク様……私、大聖女様を助けたいです」
もう手遅れかもしれないけど、それでも大聖女様の身体に溜まった邪気を浄化すれば黒文様が消えるかもしれない。消えたら、大聖女様はもっと生きられるかも。
「もう大聖女様をひとりにしたくないんです」
アレク様はゆっくりとうなずいた。
「わかった。大聖女様を助けよう」
「……どうやってですか?」
「フィン殿下が言っていただろう?」
――大聖女様は大陸中の邪気が集まりあふれ出す場所に、その身を捧げてこの地に平和をもたらした。その場所で、大聖女様が今も邪気を浄化し続けてくださっているから、この大陸ではめったに魔物がでない。
「ということは、大聖女様が祈っている場所がこの地のどこかにあるはず。そこを探し当てれば、大聖女様に会える」
私はアレク様をまじまじと見つめた。
「アレク様は天才ですか?」
「いや……」
謙遜するアレク様の両手をにぎる。
「天才ですよ! アレク様すごいです!」
「……そ、そうか」
視線をそらして照れるアレク様は、コホンと咳払いをした。
「キリア、フリーベイン領に残っている騎士達宛に『大聖女様の居場所を探れ』と手紙を送ってくれ。自国だけではなく他国の書物や文献も調べるように。混乱を避けるために、エステルが見た夢の話は伏せておいてくれ」
「はい!」
「あとは……もう一人、大聖女様に選ばれた者も探さないといけないな」
アレク様の言葉にキリアが答えた。
「黒文様があることを打ち明けた者に、賞金でも払いますか?」
「それだと、賞金欲しさに自身や他者に、偽物の黒文様を彫って申告する者が出てきてしまうだろう。とにかく一度、フィン殿下にご相談しよう」
私に向き直ったアレク様は「エステルは、今日はゆっくりしてくれ」と指示を出す。
「俺は図書館でカーニャ国の文献を調べる」
「私も行きます!」
「いや、しかし……」
「大丈夫です。本当にすごく元気ですから!」
アレク様やキリアがこんなに頑張ってくれているのに、じっとなんてしていられない。
「わかった。キリア、今日は予定通り図書館へと向かう。護衛のために他の騎士たちを招集しておいてくれ」
「はい!」
返事をしたキリアは礼儀正しく頭を下げると部屋から出ていった。