捨てられた邪気食い聖女は、血まみれ公爵様に溺愛される~婚約破棄はいいけれど、お金がないと困ります~【書籍化+コミカライズ準備中】

「キリアです。入ってもよろしいでしょうか?」
「入れ」

 公爵様の許可を得てから執務室に入ってきたキリアは神妙な面持ちだった。その後ろには、私をここまで案内して手鏡を持ってきてくれたメイドの姿もある。

 何かあったのかしら?

 公爵様もそう思ったようで「何かあったのか?」と尋ねている。

「いえ、エステル様の帰りが遅いのでお迎えにあがりました」

 チラッとこちらを見たキリア。その顔は何か言いたそう。

 あっなるほど、キリアも公爵様の黒文様がどうなったのか知りたいのね!

 メイドに手鏡を持ってきてもらったし、公爵様と一緒になって喜んでいたので騒がしかったのかもしれない。

「キリア、浄化は大成功でしたよ。公爵様のお顔の黒文様が少し薄れました。これを続けると綺麗になくなると思います」
「そうなのですね!? すごいです、エステル様!」

 ここの人たちは、すぐにほめてくれるので、なんだかくすぐったい。

「公爵様のお役に立ててうれしいです」
「エステル」

 私の名前を呼んだ公爵様は、銀色のカギを私の手のひらに置いた。

「公爵邸内にある図書館のカギだ。あなたが持っていてくれ。いつでも入っていいし、どの本を読んでもいい」
「ありがとうございます!」

 キリアは、さっそく私を図書館まで連れて行ってくれた。公爵邸内の図書館は、とても広い。その広い壁一面に本がずらりと並んでいる。

「二階にも本があるのね」

 本棚の前で本の整理をしていた女性が「何をお探しですか?」と聞いてくれた。

「あなたは?」
「この図書館で働く司書です」

 図書館司書に「邪気関連の本を読みたいです」と伝えると、すぐに五冊持ってきてくれた。

「五冊だけ?」
「はい、ここにあるものは、これですべてです」

 五冊とも借りて部屋に戻った私は、キリアやメイドにさがってもらい一人で本を読んだ。

 どの本にも、『邪気は聖女が浄化するもの』としか書かれていない。それに邪気の本というより、聖女の奇跡をつづった本ばかり。

 そっか、聖女がいるこの国では、邪気の研究をする必要がないのね。だって、邪気は聖女が浄化してくれるものだから。

 もしかすると聖女がいない国でなら、もっと邪気の研究がされているのかもしれない。

「これ以上、邪気を調べても仕方ないわね」

 私は本を閉じてため息をついた。

「とにかく、ここで私ができることをしましょう」
 
*

 それから、数か月の月日が経った。

 私は公爵様の元で、聖女の仕事をしながらのびのびと暮らしている。

 いつもそばにいてくれる護衛騎士のキリアがニコリと私に微笑みかけた。

「エステル様、今日は外でお茶にしましょう」
「あれ? 昨日も外でお茶をしませんでしたか?」

「あ、その、今日もどうでしょうか?」
「そうですね。天気も良いですし、そうしましょうか」

 キリアと並んで公爵邸の庭園に向かう。そこには心地好い風が吹いていた。

 木漏(こも)れ日の下では、すでにお茶の準備が整えられていた。白いテーブルの上においしそうなお菓子が並び、ピンク色の可愛い花が飾られている。

 キリアが椅子を引いて私を座らせてくれた。彼女は未だに私のことを丁寧に扱ってくれている。

「いつもありがとうございます」

 私がお礼を伝えると、キリアは困った顔をした。

「エステル様。そろそろ我らに敬語をおやめください。あなたは公爵夫人になるお方……」

 その言葉を聞いて、今度は私が困った顔をする番だった。

 数か月たった今でも、公爵邸の人たちは、私を公爵様の婚約者だと誤解している。

 たしかに、公爵様は私にとても良くしてくれているけど……。

 たくさん贈り物をくれたり、『俺のことは、アレクと呼んでくれ』と言ったりしてくれる。でも、それは黒文様仲間としてで、そこに恋愛感情はない。

 私はもう一度、キリアの説得をこころみた。

「キリア。何度もいいますけど、公爵様にははっきりと『この婚約はなかったことに』と言われています。だから、そもそも私を護衛する必要はないんですよ?」
「くっ! 閣下はいつになったらエステル様を落とせるんだ……」
「あの、キリア? 私の話を聞いていますか?」

 たぶん聞いていない。今回も誤解を解くのに失敗してしまったわ。

 私がハァとため息をつくと、偶然にも公爵様が通りかかった。

「エステル」
「あ、公爵様」

 左手に剣を持っているので鍛錬のあとに通りかかったのかもしれない。

「あなたの姿が見えたので」

 キリアが「せっかくなので、閣下もご一緒してはいかがでしょうか?」と公爵様に進めている。

 そういえば、昨日もバッタリ出会って一緒にお茶をしたような?
 キリアのすすめでお茶の席についた公爵様の元に、すぐに淹(い)れたてのお茶が運ばれてくる。

「もしかして、公爵様も休憩時間ですか?」
「俺のことはアレクと呼んでくれと……。いや、まぁそんな感じだ」

 そう答えた公爵様の顔に浮かび上がっていた黒文様はきれいに消えていた。浄化を続けることによって、体中にあった黒文様もどんどん薄れてきている。

 今思えば、元婚約者のオグマート殿下が公爵様のことを『醜い男』と言っていたのは、私と同じ黒文様があったからなのね。

 公爵様は黒文様があっても整った顔をしていたのに、黒文様がなくなった今は、だれが見ても美しい青年だった。日々鍛えているせいか、体つきもたくましい。

 ああ、美青年を眺めながら過ごせるって幸せ~。

 私は、おいしいお茶を飲みながら、サクサクのクッキーを食べた。フリーベイン公爵領の食事はどれもおいしい。公爵様もカップを口元に運んでいる。

「そういえば、私たち、最近よく会いますね」

 お茶を飲んでいた公爵様がゴフッと小さくむせた。なんだか急に顔色が悪くなったような気がする。

「……迷惑だったか?」
「いえ、そういうわけではなく! ご一緒できて楽しいです!」
「……なら、よかった」

 どこかホッとした様子の公爵様。王都では公爵様は残虐非道(ざんぎゃくひどう)なんてウワサがあったけど、そんな事実は少しもなかった。

 私が公爵様を見つめると、「な、なんだ?」となぜかあせっている。

「私の聖女の力、少しはお役にたっていますか?」

 フリーベイン領は王都より邪気が少ないのよね。だから、聖女の仕事も多くない。そのおかげか私の体にも再び黒文様は現れていない。でも、今でも左肩にだけは黒文様が残っている。

 公爵様が少しだけ口元をゆるめた。

「ああ、もちろん役にたっている。あなたが来てからは、魔物がめったに現れなくなったからな」
「それは良かったです」

 公爵様からは、私が聖女の仕事をするかわりにたくさんの報酬をいただいていた。そのおかげで実家に仕送りができている。

 この前家族から届いた手紙には、弟が無事にアカデミーに入学できたと書かれていた。

 ふと公爵様の視線を感じて、私は公爵様を見つめた。こころなしか公爵様の顔が赤いような気がする。

「公爵様、どうかしましたか?」
「いや、ベールはもうつけないのだなと思い……」
「あ、つけたほうが良いですか?」

 顔の黒文様が消えたので、もう顔は隠していない。

「いや、つけていないほうがいい。その、あなたはとても綺麗だから」
「……きれい? だれが?」
「あなたが」
「あなたって?」
「エステル、あなただ」

 公爵様の言葉を理解するのにたっぷり五秒かかってから、私は叫んだ。

「え、えー!? そんなこと初めて言ってもらいました! 嬉しいです! ありがとうございます」

 お世辞でもなんでも嬉しくて仕方ない。

「あなたの元婚約者……オグマートは褒めてくれなかったのか?」
「はい、醜い姿だって言われていました」

 パキンッと公爵様が持っていたカップの取っ手が割れた。

「公爵様!? 大丈夫ですか!?」
「……大丈夫だ。あなたに仕える神殿の者たちは?」

 私は神官たちの冷たい視線を思い出して、うつむいてしまう。

「私は汚らわしい邪気食いなので、なんというかその……遠巻きにされていました、ね」

 えへへと私が笑うと、公爵様の顔が急にこわくなった。

「あ、すみません! このような情けないお話をしてしまい」
「いや、聞いて良かった」

 公爵様は、控えていたキリアに「今後は、オグマートと神殿から来た手紙は、私にまわさず全て燃やせ」と指示している。

「はい!」

 フゥとため息をついた公爵様は、私に向き直った。透き通るような紫色の瞳が私を見つめている。

「俺は、あなたがいつか王都に帰りたいのではないかと思っていた」
「そんな!? ありえません! お願いですからここに置いてください!」

 王都に戻っても私の居場所なんてどこにもない。ここでは公爵様もキリアも、みんな優しくしてくれる。

 公爵様の手が私の指にそっとふれた。

「あなたが王都に戻る気がないのなら……あなたさえよければ、その……俺と婚約を……。そして今度、隣国の舞踏会にあなたと一緒に参加したい」

 語尾がだんだんと小さくなっていく公爵様の横で、キリアが『頑張れ』と言いたそうに両手をにぎりしめている。

 私が公爵様と……婚約?

 ふいにオグマート殿下の声が聞こえた。

 ――あいかわらず、醜い姿だな。

 胸がチクッと痛む。

 公爵様の言葉で混乱してしまっていたけど、おかげで冷静になれたわ。

 たしか隣国の舞踏会は、パートナーなしでは参加できなかったはず。ということは、つまり……。

「わかりました! 舞踏会で私が婚約者のふりをすればいいのですね?」
「!? いや、その、ちが……」

「お役にたてて、とても嬉しいです!」
「うっ……」

 長い沈黙のあとに公爵様は「……ああ、そういうことだ」と硬い表情で告げる。

「任せてください! 私、立派に婚約者のふりをしてみせます!」
「うむ、頼んだぞ」

 そういった公爵様は、どこか遠い目をしていた。もしかしたら、私が婚約者役をうまくできるのか不安なのかもしれない。だったら、ちゃんとできることを証明しないと!

「これからは、アレク様と呼ばせていただきますね!」
「あ、ああ!」

 パァと表情を輝かせるアレク様。

 なぜか、キリアや周りにいるメイドたちから、何か言いたそうな視線を感じた。

 やっぱりみんな、私がうまくできるか不安よね。

 よく考えたら、私は社交界デビューをしていない。実家にそんな余裕がなかったからこそ、聖女になるために神殿の門をくぐった。

 聖女の私とオグマート殿下の婚約が正式に結ばれたとき、婚約発表をかねて、一度だけ殿下と一緒に舞踏会に参加したことがある。

 あのときは、黒文様がまだ私の顔にまで出ていなかった。だから手足をすべて隠すようなドレスを着て参加した。

 覚えているのは私をエスコートするオグマート殿下の嫌そうな顔。

 小声で何度も「必要以上に俺に近づくな!」と、きつく注意を受けた。ダンスは踊らなかった。

 あれ以来、舞踏会には一度も参加していない。

 ダンスは聖女になる前は大好きだったけど、今はもう自信がない。

「あの、アレク様。ダンスはお好きですか?」
「いや」

 私はホッと胸をなでおろした。

「私、ダンスに自信がなかったので良かったです。もしアレク様がダンスがお好きなら、一緒に練習させていただこうかと思っていました」
「……」

 しばらく何かを考えこんでいたアレク様は咳ばらいをした。

「いや、だが一曲くらいは踊らないといけない……はず」

 なぜか視線が合わない。

「そうなんですか!? では、ダンスの練習に付き合っていただけませんか?」
「ああ、喜んで!」

 ようやく視線があった。

 アレク様はいつもとても優しい目をしている。そんなアレク様と一緒なら舞踏会も楽しいかもしれない。
 魔物の襲撃後すぐに、フリーベイン領に私名義で何度も手紙を送らせた。だが、いまだにエステルからの返事はない。

「くそっ!」

 私は手に持っていたグラスを床に叩きつけた。

 ガシャンとグラスが割れる音とともに、ワインのシミが床に広がっていく。

「エステルは、まだ戻らないのか!?」

 怒鳴りつけると、侍従はおびえながら首をふった。

 魔物被害の報告に来ていた騎士団長のため息が聞こえ、私をさらにいら立たせる。

「オグマート殿下、落ち着いてください」
「落ち着いていられるか! エステルがいなくなってから、もう五回も魔物の襲撃を受けているんだぞ!?」

 エステルがいなくなったあの日、出現した一匹の魔物は城下町には目もくれず、まっすぐ城を目指してきた。

 遠目で見た魔物は、巨大なオオカミのように見えた。しかし、尻尾は炎のように燃え盛り、黒いモヤでおおわれるその姿は普通の動物ではない。

 血のように赤い目が三つもあり、思い出すだけでゾッとする。

 王都中の騎士を集めてなんとか討伐したものの、こちらの被害は甚大(じんだい)だった。

 騎士達の三分の一は死傷した。その責任を取らされて、私は軍の総指揮から降ろされた。今は兄である第二王子が総指揮にあたり、王子であるこの私が騎士団長の下につけられている。

 魔物の襲撃後、多くの貴族が王都に構えていた邸宅を捨て、逃げるように自分たちの領地に帰っていった。

 住む者がいなくなった貴族街は廃墟のようになっている。

「なんとしてでも、エステルを王都に呼び戻さないと……」
「聖女エステル様は、大丈夫でしょうか? ご無事なら良いのですが」

 騎士団長を含む多くの者は、私がエステルを追い出し、フリーベイン領に行かせたことを知らない。

 聖女の不在は、魔物が多く出没するフリーベイン領を哀れに思ったエステルが、勝手に向かったことになっている。

 真実を知っているのは、私と新しい聖女マリア、そして、エステルをフリーベイン領まで送った神殿で働く馬車の御者だけだった。

 御者には大金を渡して口止めし他国に行かせた。だから、エステルが王都に戻ってくるまで、マリアさえ黙っていれば、なんの問題もなかったものを!

 あろうことかマリアは、私がエステルを王都から追いだしたことを国王陛下である父に告げ口した。

 なんとか黙らせようとしたが、侯爵令嬢というマリアの地位が邪魔をして思うようにできなかった。

 魔物の襲撃が、私が聖女を追い出したせいだと知られると王家の威信(いしん)は失われる。だから、父の判断でその事実を伏せることになった。

 マリアも「今は混乱を避けるべきだ」と陛下に言われ、しぶしぶだが従う。

 父が私に向ける視線は冷ややかだった。

「オグマート、お前が、これほどまでに愚かだったとは……」

 あのときの父に向けられた目を思いだすと、今でも腹が立つ。

 くそっマリアめ! あの女、高貴な生まれで麗しい外見だったから優しくしてやったのに、あんなに心が醜(みにく)かったなんて。

 こんなことになるのなら、外見が醜いエステルのほうがまだマシだった。

 エステルは従順だし、聖女の力は役に立つ。

「エステルを引きずってでも、私の元に連れ戻してやる!」

 そうすれば、すべて元通りだ。

 私の言葉を聞いた騎士団長が「殿下、聖女様になんてことを……」と言ってくる。本当に不愉快なやつだ。

「うるさい! 用が済んだらさっさと部屋から出ていけ!」
「まだ伝言が終わっていません」
「私が出て行けといえば出ていくんだ!」

 襟首をつかみ脅しても、騎士団長は顔色ひとつ変えなかった。

「上官への暴力は禁止されている。今すぐ手を放すんだ」
「私は王子だぞ!? だれに物を言っている!?」
「……お前にだよ、オグマート」

 騎士団長に手を払われたと思ったら、気がつけば私が襟首をつかまれていた。

「お前は、王族の権限をすべて剥奪(はくだつ)された。これは陛下のご指示だ」
「なっ!?」

 騎士団長がパッと手を離したので、私は無様に床に尻もちをつく。

「国王陛下より伝言だ。今後は一兵卒として戦場の最前線で戦い、一体でも多く魔物を倒すこと。そして、その命が尽きるまで戦い続けること」
「そんなの、死ねと言っているようなものではないか!?」

 私を見下ろす騎士団長の目は、おそろしく冷たい。

「言っているようなものではない。王家のために死ねと言われているんだ。そんなこともわからないのか?」
「父に抗議してくる!」

 立ち上がろうとした私の肩を、騎士団長は強く押さえつけた。

「聞こえなかったか? お前は王族の権限を失っている。もう陛下に謁見(えっけん)できるような身分ではない。早く荷物をまとめて一兵卒用の兵舎へ向かえ」
「ふざけるな!」

 私の肩に騎士団長の指がめり込んだ。

「痛っ!?」
「ふざけているのはお前のほうだ。俺の意見を無視してクソみたいな命令を出し、よくも大事な部下たちを殺してくれたな」

 その声は殺気に満ちていた。

「お前がこの場で殺されないのは温情ではない。よりお前を苦しませるためだ」

 騎士団長の言葉通り、それからの生活は地獄だった。

 一兵卒用の兵舎で、私にあてがわれた部屋は臭くてせまい。まるでブタ小屋のようだった。食事もまずくて食べられたものではない。だがこれは嫌がらせではなく、普通の一兵卒の暮らしだと言われた。

 訓練は朝から晩までつづき、部屋に戻ると固いベッドで泥のように眠った。それを繰り返しているうちに、次第に剣の扱い方や体の動かし方を思い出していく。

 そういえば、私は剣の腕前だけは、優秀な兄たちに勝(まさ)っていた。でも平和すぎる世の中では、剣術が強くても評価されることはなかった。

 私がほめられるのは、この整った外見くらいだ。

 軍の総指揮を任されたときも、陰では貴族たちに『ただの名誉職だ』とあざ笑われていたことを私は知っている。

 騎士団長の言っていたとおり、魔物が現れたら最前線に立たされ命がけで戦わされた。

 そのたびに己の剣術がさえていくのがわかる。

 周囲のやつらは、犯罪者を見るような目で私を見ていた。しかし、私が魔物を倒すたびに、それが少しずつ変わっていくのがわかる。なんとも言えない気分だったが、まぁ悪くはなかった。

 せまい自室に戻り、魔物の返り血を浴びた服を脱ぎ捨てる。

 そのとき、何かおかしなものが見えた。

 あってはならないものが、なぜか私の体にあったような気がする。

 おそるおそる自身の腰あたりを見ると、そこにはエステルにあった醜い黒文様が浮き上がっていた。

「う、うわぁああああ!?」

 ゴシゴシと手のひらでこすっても取れない。

「なぜ私に!?」

 同じように魔物と戦っている者達の中で、体に黒文様が浮き上がったなんて聞いたことがない。

 エステルは、会うたびに体を蝕(むしば)む黒文様が広がっていた。

「たしか、エステルに最後に会ったときは、顔にまで浮き上がっていたぞ……私もああなるのか?」

 この私が、あんなにおぞましい、醜い姿に?

 想像するだけで血の気が引くような思いだった。

「い、嫌だ……エ、エステル。そうだ、エステルを呼び戻さないと……」

 王都や神殿からフリーベイン領にエステルを迎えにいったが、すべてフリーベイン公爵に追い返され、聖女に会わせてもらえなかったというウワサ話を聞いていた。

 だから、エステルはまだフリーベイン領にいる。

 エステルが王都に戻り邪気を浄化すれば魔物は現れない。そうすれば、私の黒文様はきっと消えるはず。

 聖女を連れ戻した功績で、また王子にだって戻れるかもしれない。

「醜いのは、エステルだけで十分だ」

 私は部屋の中にあったわずかな荷物を袋に詰め込むと、真夜中の兵舎をあとにした。
 ダンスの練習をしたいと言ったエステルのために、ダンスの講師を公爵邸に呼び寄せた。

「お久しぶりです。閣下」

 俺の記憶よりいくぶんか年を取ったベレッタが、優雅に淑女の礼(カーテシー)を取る。

「久しいなベレッタ」

 ベレッタは母の友人であり、俺のダンスの先生でもあった。優しくときには厳しい良い先生だったように思う。

 両親が亡くなり、まだ子どもだった俺が公爵位を継ぐと、ダンスの練習などする暇がなくなった。

 父に代わり騎士団を率いて魔物退治をつづけているうちに、体に不気味な黒文様が浮き上がってきた。それからは、人前に出ることをさけていたので、ダンスなんてエステルに言われるまで存在自体を忘れていた。

 ベレッタに会うのは、両親の葬式以来だ。

「ご立派になられて……」

 そういったベレッタの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。

「ベレッタ、またダンスを教えてほしいのだが」
「もちろんです! 婚約者様と三か月後に開催される舞踏会に参加するのだとうかがっております」
「ああ、婚約者はエステルという。それで――」
「エステル様ですね! 王都の神殿にお仕えしていた聖女様だとお聞きしております! エステル様はどちらに?」

 瞳を輝かせるベレッタから、俺はそっと視線をそらした。

「その件だが、ダンスは別々に教えてくれないだろうか?」

 不思議そうなベレッタ。

 ダンスなんてもう何年も踊っていない。まともに踊れる気がしない。

「その……エステルに情けないところを見せたくなくて、だな」

 恥を忍んで頼むと、ベレッタの瞳から涙がボロボロとこぼれた。

「べ、ベレッタ!?」

 ふ、ふふ、と笑ったベレッタは人差し指で涙をぬぐう。

「閣下は素敵な方に出会えたのですね」
「ああ、俺にはもったいないくらいの婚約者なんだ」

 正確には、エステルは婚約者のふりをしてくれているのだが。そのことを思いだすと、自分の情けなさに気が滅入るのであまり考えないようにしている。

 今思えば、エステルに初めて会ったあの夜、エステルに『私たち、一緒ですね!』と微笑みかけられた瞬間、俺はエステルに心を奪われていた。

 そのあともエステルを知れば知るほど彼女に惹かれていくのがわかった。

 でも、わかったものの、どうしたらいいのかはわからなかった。

 この数年間、魔物退治と公爵の仕事のくり返しで、まさか自分が女性に好意を持つ日がくるなんて考えたこともない。

 使用人達のすすめで、エステルにいろんな贈り物をしたが、喜んでもらえているのだろうか?

 エステルの護衛キリアからは、「エステル様は、閣下のことを黒文様仲間のお友達だと思われているようです」と報告が上がっている。

 周囲の協力もあり、なんとか告白したが、それもうまく伝わらず、エステルは婚約者のふりをしてくれることになってしまった。

 一緒に舞踏会にいってくれるそうだ。ならば、せめてダンスくらいまともに踊れるようになって、エステルに良いところを見せたい。

 そうベレッタに伝えると、なんだか生温かい目を向けられてしまう。最近、俺の周りにいる人たちは、みんなこんな目をしている。

「閣下の事情はわかりました。優雅なダンス、完璧なリードでエステル様に振り向いていただきましょう!」
「ああ、頼んだぞ」

 *

 そうして、エステルと別々のダンスレッスンを受けた一か月後。

 なんとか俺のダンスが形になり、エステルと一緒にダンスレッスンをすることになった。

 ダンスホールに現れたエステルの足取りは軽い。彼女が歩くたびに、黄色のスカートがフワフワとゆれる。

 そのドレスは、エステルのブラウンの髪に良く似合うと思って贈ったドレスだった。

「あっ、アレク様」

 俺の名前を呼びながら、まるでひまわりのように明るい笑みを浮かべる。

「……美しい」

 ボソッとつぶやいた俺を、ベレッタが肘でつついた。

 そうだった。女性をほめるときは、相手の目を見て大きな声で伝えるのですよ、と言われていた。

 俺はエステルの側に行くと、その瞳をまっすぐ見つめる。

 初夏のみずみずしい若葉のような瞳がキラキラと輝いている。

「とても美しい」

 エステルの白いほほに、少しだけ赤みがさした。

「嬉しいです。アレク様もとっても素敵ですね!」
「あ、ああ」

 使用人たちに、朝からあーだこーだ言われながら、服を選んだかいがあった。

 それ以上何を話していいのかわからず困っていると、ベレッタがパンパンと手を叩く。

「では、さっそくお二人で合わせて踊ってみましょう」
「はい!」

 元気なお返事をするエステル。

 ダンスのために手を取り合うと、それだけで心臓が高鳴った。

 エステルは小声で「緊張しますね」とささやき微笑む。

「ああ」

 俺よりは緊張していなさそうに見えるが。

 曲の演奏が始まると、エステルの表情が変わる。

 いつもにこにこしているエステルが真剣なまなざしになる。見たことのない表情に見惚れていると、ベレッタに「ダンスに集中!」と怒られた。

 そうだった、エステルに良いところを見せないと。

 体に叩きこんだステップは、もう無意識に再現できる。練習を繰り返すうちにリードもベレッタにほめてもらえた。

 ふと、エステルと視線があった。

 真剣だった表情がゆるみ、愛らしい笑みが浮かぶ。

「アレク様、私、楽しいです」
「ああ、俺も楽しい」

 楽しそうに笑ってくれるエステルを見ているうちに、俺のほほも自然とゆるんでいた。

 楽しい。

 最近、生きることが、楽しくて仕方ない。

 公爵位の重圧と、命がけの魔物との戦いの中で心がすり減り、楽しいだなんて感情を長い間忘れていた。

 エステル、あなたをだれよりも幸せにしたい。

 それが最近できた、俺の願いだった。
 アレク様とのダンス、楽しかった……。

 先日のダンスレッスンのことを思いだして、ニコニコしてしまっている自分に気がつき、私はあわてて表情を引き締めた。

 今の私は、全身鏡の前でメイドたちに囲まれている。

「エステル様、こちらのドレスはどうでしょうか? このレース部分が素敵ですよ」
「いえ、こちらのドレスのほうがお似合いかと」

 楽しそうにドレスを選んでくれるメイドたちの後ろで、護衛騎士のキリアは申し訳なさそうな顔をした。

「ドレスはオーダーメイドにしたかったのですが、舞踏会までの日数が足りず既製品を改良することになってしまいましたね」
「それで充分ですよ」

 既製品といってもどのドレスもきれいだった。しかも、わざわざドレスを改良するためだけに、アレク様は公爵邸に服飾士までまねいてくれた。

 服飾士が来ると聞いたときは、王都での嫌な思い出に少しかまえてしまったけど、フリーベイン領の服飾士は、とても優しいお姉さんだった。

 彼女は私の左肩に残る黒文様を見ても、嫌な顔ひとつしない。むしろ、瞳を輝かせながら「聖女様にお会いできて光栄です」なんて言ってくれた。

 戸惑う私に「聖女様はどんなドレスがお好きですか?」と微笑みかけてくれる。

「あの、えっと、ドレスのことは良くわからなくて……」
「オーダーメイドドレスは、初めてですか?」
「いえ」

 王都でオグマート殿下との婚約発表のときに、一度だけ王家の指示でドレスをオーダーメイドしたことがあった。
 そのときの服飾士は、手足に浮き上がる私の黒文様を不気味がり、私に近づくのもためらっていた。

 ドレスも、とにかく手足の黒文様を隠せればいいといったデザイン。

 サイズもきちんと測っていなかったようで、できあがったドレスは私には大きかった。
 それは、流行にうとい私でも「これはちょっとどうかな?」と思ってしまうほどの出来で。

 そのドレスを着た私を見たときのオグマート殿下の冷たい目を思い出すと、今でも胃の当たりが痛くなる。

 「お前のようなヤツを連れて舞踏会に参加するのは恥だ」と言う殿下に、私は小声で「すみません」と謝ることしかできなかった。

 本当に舞踏会には良い思い出がない。

 でも、アレク様と一緒にダンスレッスンをしたあとから、私の気持ちは大きく変わった。

 ダンスを踊る前はとても緊張した。でも、アレク様と手を取り合い曲に合わせてステップを踏むとすぐに楽しくなった。

 そういえば、私、父以外の男性とダンスを踊るのがはじめてだわ。

 実家では、父がダンスレッスンの相手役をしてくれていた。そのときも楽しかったけど、アレク様とのダンスは楽しいだけじゃない。

 なんというか、その、少しドキドキしてしまう。

 ダンス中にチラリとアレク様を見ると、優しい笑みを向けられた。

 それだけで身体だけでなく心も弾む。アレク様にも「楽しい」と言ってもらえたことが何よりも嬉しかった。

 ダンスのときに重ねたアレク様の手は、私の手より大きく手袋の上からでもわかるほど固かった。

 この手で剣をふるって、今まで大切なものを守ってきたのね。

 神殿で祈りを捧げ邪気を浄化するだけの私とは、比べ物にならない苦労をしてきたのだと思う。

 私もキリアや他のみんなのように、アレク様のお役に立ちたい。

 心の底からそう思える。

「エステル様、もう少し背筋を伸ばして、胸を張っていただけますか?」
「あ、はい!」

 服飾士の声で、私は我に返った。

 そうそう、今はドレスの制作に集中しないと。

 何着かドレスを着たあとに、服飾士は「これですね。このドレスが一番お似合いです」とつぶやく。その後ろでは、メイドたちが大きくうなずいている。

「エステル様の美しいブラウンの髪には、黄色や緑、白や黒も似合いますが、私は断然、赤が良いと思います」
「赤、ですか?」

 そんなにきれいな色が私に似合っているのかしら?

 それに服飾士が似合うと言ってくれたドレスは、とても華やかな作りだった。
 きめ細かい刺繡がほどこされていて、鎖骨や肩が見えてしまっている。

 私はそっと、左肩に残る黒文様にふれた。

 私がためらっている理由に気がついたのか、服飾士は可愛らしい花飾りを私の左肩に当てる。

「肩が気になるようでしたら、これで隠しましょう」

 飾りひとつで黒文様は綺麗に隠れてしまった。

「でも、こんなに高そうで綺麗なドレスを、私が着ても大丈夫でしょうか?」
「もちろんですわ」

 服飾士は、私が着ているドレスの腰の部分を指でつまむ。

「エステル様には少し大きいので、今からサイズを合わせますね。特別なものになるようにレースや飾りも足しましょう。私にお任せください。必ずあなた様に似合う最高のドレスをご用意いたします」

 自信に満ちた服飾士の瞳を見て、私は大切なことに気がついた。

 そうだわ、私に自信がなくても、私はこの服飾士の仕事を信じればいいんだわ。

 それなら簡単にできる。

「お願いします。私をアレク様の婚約者として恥ずかしくないようにしてください」
「お任せください」
「ドレス、楽しみです」

 服飾士が私に向けた笑みは、とても温かかった。

 隣国の舞踏会まであと二ケ月。

 その間にダンスだけでなく貴族のマナーも学び直さないと。

 隣国の文化についても知っておいたほうがいいわよね?

 毎日とても忙しいけれど、神殿で一人祈っていたときより今のほうがずっと楽しい。

 アレク様やキリア、フリーベイン領のみんなのためならなんでもできるわ。

 そう思ったとき、私の体からまばゆい光があふれ出した。
 私からあふれ出した光は、大きく膨れあがると空に昇っていった。

 上空でパンッとはじけ飛んだかと思うと、空からヒラヒラと淡い光が降りそそぐ。

「エステル様、これは!?」

 側にいたキリアが驚いているけど私にもわからない。

「わかりません、こんなことは初めてで……」

 そのときは、何が起こったのか、誰もわからなかった。

 *

 それから、ひと月後。

 一緒にお茶をしていたアレク様は難しい顔をしていた。

「前にフリーベイン領の上空に上がった光の正体だが」
「わかったのですか!?」
「わかった、というよりは……あれからフリーベイン領に、魔物が一度も出ていないんだ」

 フリーベイン領は、それまで頻繁に魔物が出ていたと聞いている。でも私が来てからはめったに出なくなったと言っていた。

 その魔物が今度は、まったく出なくなったらしい。

「ということは……」
「おそらく、何かしらの聖女の力でフリーベイン領全域が守られているのではないだろうか?」
「そんなことが可能なのでしょうか?」

 歴代聖女の中でそんな力を持っている人がいたなんて聞いたことがない。

「できないのか? 王都では、聖女の力で魔物は長年出ていないと聞いている」
「たしかに王都では魔物はでませんでした。でもそれは歴代聖女が邪気を浄化し続けていたからであって、浄化をやめると魔物がでたと思います」

 フリーベイン領では邪気が少ないので、私はほとんど浄化をしていない。だから、この土地は邪気が多くて魔物が出ているのではない。

 それなのに、急に魔物がでなくなったというなら、それは浄化ではなく大聖女様だけが使えたと伝えられている魔物を寄せ付けない結界を張る力に近い気がする。

 そう伝えると、アレク様は「結界……」とつぶやいた。

「舞踏会が開催される隣国カーニャでは、邪気や聖女について積極的に研究しているらしい。そこで何かわかればいいのだが」
「そうですね……」

 もし本当に私が結界を張ることができたのなら、偶然ではなくいつでもその力を使えるようになりたい。そうすれば、聖女がいない国で魔物におびえて暮らす人達の恐怖を取り除けるかも?

 アレク様の手が、そっと私の手にふれた。

「まだわからないことだらけだが、フリーベイン領にとってこれほど嬉しいことはない。ありがとう、エステル」

 澄んだ紫色の瞳が優しく細められる。アレク様に微笑みかけられると、私はとても嬉しくなる。

「お役にたてて光栄です!」

 この勢いで、婚約者のふりも立派に果たしたい。

 アレク様とのダンスレッスンは順調で、ダンスを教えてくれるベレッタ先生にも「お二人とも、うまくなりましたね」とほめてもらえた。

 貴族のマナーも学び直したし、隣国の文化も調べて準備は完璧……だと思う。

「エステル。以前から伝えていたが、フリーベイン領から隣国カーニャの王都まで馬車移動で数日はかかる。もうそろそろ出発する予定だったが、魔物が出ないなら安心して旅立てるな」
「そうですね」
「道中はこまめに休息するし、宿も手配しているので心配しなくていい」
「はい!」

 はじめて他国に向かうけど不安は少しもなかった。
 キリアと一緒に荷物も詰めたし、あとは出発するだけ。

 *

 出発の当日。

 空は青く晴れ渡り、ポカポカ陽気が気持ち良い。まさにお出かけ日和だった。

 動きやすいワンピースを着て、旅用のブーツを履いている私に、キリアはフード付きのマントを手渡す。

「朝晩冷えることもあるでしょう。エステル様、こちらをお持ちください」
「ありがとうございます」

 受け取ったマントの手触りのよさに、ついうっとりしてしまう。

「エステル様、こちらに馬車を準備しております」

 キリアに案内された先で、私はポカンと口を開けた。

 頑丈そうな大きな馬車の周りを騎乗した騎士達が取り囲んでいる。その後ろには荷物を積んだ荷馬車も見えた。

「こんなにたくさんで隣国に行くんですか?」

 私の質問には、キリアが答えた。

「騎士の半数以上は、フリーベイン領を守るために置いて行きます。道中不安かもしれませんが、必ず我らがエステル様をお守りします」
「いえ、不安とかじゃないんです」

 ひとりぼっちで王都から出発した日とは、比べ物にならないくらいにぎやかだったので少し驚いてしまっただけで。

「エステル様、先に馬車にお乗りください」

 キリアのエスコートを受けて私は馬車に乗り込んだ。馬車内は、あと五人くらい乗っても平気そうなくらい広い。もしかすると、宿がない場所ではこの中で寝ることもあるのかもしれない。

 しばらくすると、周囲が騒がしくなった。

 馬車の窓から外を見るとアレク様がこちらに向かって歩いてきている。黒い騎士服の上にマントを羽織り、颯爽と歩くアレク様から目が離せない。

「わぁ、かっこいい」

 美青年とのおでかけって幸せよね。

 馬車に乗り込んできたアレク様と視線があった。私が小さく手をふると、アレク様はなぜか固まる。

「エステル?」
「はい?」
「ど、どうして同じ馬車に?」

 その問いは私ではなく、馬車の外にいたキリアに投げかけられた。

「どうしても何も、婚約者が別々の馬車で隣国に向かったら、仲が悪いのかと疑われてしまいます」
「いや、しかしっ!」
「ごゆっくり」

 キリアは良い笑みを浮かべたまま馬車の扉を閉めた。

 アレク様は、なんだか難しい顔をして固まってしまっている。

「あの、アレク様。この馬車、とても広いから二人で乗っても大丈夫ですよ!」

 少しの沈黙のあとで「……あ、ああ、そうだな」と小さな声が返ってきた。
 ガタゴトとゆれる馬車の中で、俺はエステルと向かい合って座っていた。

 先ほどは予想外のことで動揺してしまったが、よく考えるとこれは誤解を解く良い機会だ。

 婚約者のふりではなく、正式に婚約者になってもらうにはどうしたらいいのか?

 わからないが、有難いことにこれから二人きりの時間が十分ある。

 エステルに視線を向けると、彼女は窓の外を見ながら口元に笑みを浮かべていた。楽しそうな彼女の横顔に見惚れてしまう。

「アレク様、あそこでりんごを売っていますよ!」

 そう言いながらライトグリーンの瞳を嬉しそうに細めた。

「エステルはりんごが食べたいのか? ならすぐに馬車をとめて買いに――」

 立ち上がろうとする俺を、エステルはあわてて止める。

「あっいえ、そうではなく! お子さんがお店のお手伝いをしていてえらいなって思ったんです」

 言われて窓の外を見てみると、通りすぎてもう小さくなっていたが、りんご売りの親子がいた。

「子どもが好きなのか?」

 俺の質問にエステルは、「好きですよ」と微笑む。

「私、妹と弟がいるんです。だから小さな子の面倒を見るのは得意なんです」
「そうなのか。妹と弟は可愛いか?」
「はい! 生意気なときもありますけど、すごく可愛いです。私が神殿に行って聖女になると決めたとき、二人とも行かないでって……すごく、泣いちゃって……」

 そういったエステルの瞳に、一瞬、寂しさがよぎりすぐに消える。

「兄弟仲が良いんです。今でもずっと手紙のやりとりをしていますよ。二人とも大きくなっただろうなぁ」
「やりとりは手紙だけなのか? それは、聖女になってから家族には会っていないということか?」

 エステルは大きく目を見開いた。

「あっはい、聖女は許可なく神殿から出ることを許されていなかったので」
「……は? それは神殿に閉じ込められていたということか?」
「閉じ込め? いえ、そういうわけではないです。ただ、毎日休まず祈らないといけなかったので、自由な時間が取れなくて」
「なんだ、それは」

 それが事実なら、王都の安全をたった一人の聖女に任せきりにしていたことになる。しかも、聖女からすべての自由を奪って。

「前に聞いた話では、あなたは神殿で邪気食いと呼ばれ遠巻きにされていたと言っていたな?」
「はい」
「俺は、聖女は神殿の最重要人物であり、王族のように丁重に扱われていると聞いていたのだが」
「えっと……」

 エステルの神殿での暮らしぶりを聞くと、俺はさらに驚いた。

「聖女の自室がベッドと簡易クローゼットが置かれただけの部屋だったと?」
「はい。でも、寝るだけなので特に問題ありませんでしたよ」

 その口ぶりでは、寝るくらいしかできないような部屋だったらしい。

「それは、今の部屋よりせまかったのか?」

 エステルには、公爵邸の中でも格別に良い部屋を使ってもらっているが、国を支える聖女ならそれ以上の暮らしをしていて当然だ。

「今の部屋って、公爵邸のお部屋ですか?」
「そうだ」
「ぜんぜん違いますよ! 今のお部屋は、すっごく広いですし、お姫様が住むところみたいにきれいだし、ベッドがフカフカでびっくりしました!」

 神殿の部屋はせまくベッドは硬かったようだ。

 エステルは、そんな暮らしを強(し)いられながら国のために働かされていたのか。さらに、オグマートに不当な理由で婚約破棄され王都を追い出されて今ここにいる。

 グツグツと腸(はらわた)が煮えくり返るような怒りを感じる。俺は横に置いていた剣の柄(つか)を握りしめた。この剣は代々フリーベイン公爵家の当主に受け継がれてきたもので、魔物の切れ味が抜群だ。

「あの、アレク様……聖女らしくなくてガッカリしましたか?」

 エステルの瞳が不安そうにゆれている。俺は冷静になるために息をはいた。

「ガッカリなどしないが怒っている。でも、それはあなたにではなく、あなたを不当に扱っていた神殿や王族にだ。あなたはもっと尊重されるべきだ」
「アレク様……」

 やはりエステルを王都に帰すわけにはいかない。今さらながらに聖女の力を頼ろうと王族や神殿から使者が来たが、すべて追い返して正解だった。

 王都は今、頻繁に魔物に襲われているが不思議なことに民に被害が出ていないそうだ。魔物たちは執拗(しつよう)に城だけを狙っているらしい。

 聖女を追い出した天罰だと言いたいが、この件についても隣国で何かわかればいいのだが。

「エステル。あなたをもう二度とそんな目にはあわせない。だから……ずっと俺の側にいてほしい」

 ニッコリと微笑んだエステルは「はい」と言ってくれた。そして、少しだけ頬を赤らめる。

「嬉しいです。実は、私もキリアや他のみんなのように、アレク様のお役に立ちたいって思っていたんです!」
「俺の役に?」

 なんだか嫌な予感がする。

「エステル。念のために確認するが、それは俺の配下になりたいという意味か?」
「はい、そうです!」

 ものすごく良いお返事をされてしまった。

 いつの間にか俺たちの関係が黒文様仲間から、主従関係になってしまっている。仲間から主従って距離が遠ざかってないか?

 そういう意味ではないとすぐに否定しようとしたが、エステルが小さくあくびをかみ殺したので俺は言葉を飲み込んだ。

「眠いのか?」
「すみません! 実は、昨晩緊張してあまり眠れなくて……」
「なら眠るといい」
「でも!」
「目的地まで遠い。眠れるときに眠って体力を温存することも大切だ」
「そうですね。ではお言葉に甘えて……ありがとうございます」

 本当に眠かったようで目を閉じたエステルからは、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。

 女性の寝顔を見るのは失礼なことのような気がして、あまり見ないようにしていたが、ガタッと馬車がゆれた拍子にエステルの身体が傾いた。あわてて右腕をのばしてエステルの顔を支える。

 これだけゆれたのに、エステルは起きる気配がない。

 俺の右手を支えにして器用に眠っている。その無防備な寝顔に見惚れつつも俺はあせった。

 ど、どうすればいいんだ?

 このままずっと右手でエステルの顔だけを支え続けるわけにもいかない。かといって眠っているエステルを起こしたくもない。

 悩んだ結果、俺はエステルを起こしてしまわないように慎重に向かいの席に移動した。そして、エステルの顔を俺の肩に寄りかからせる。

 頭をぶつけては危ないからな。

 そう自分に言い聞かせながら、俺はつかの間の幸せをかみしめた。
 コトンと馬車がゆれて、私は目を覚ました。

 どれくらい眠っていたのかしら? なんだか頭がぼうっとしている。

 まだ日は暮れていないようだけど、街を通り抜けたのか馬車の窓から見える景色は木々だけになっていた。

「アレク様……あれ?」

 向かいの席に座っていたはずのアレク様が、なぜか私の隣にいる。そういえば、何かにもたれかかってスヤスヤと眠っていたような気がする。

 もしかして、私、アレク様の肩にもたれかかって熟睡していた!?

 あわててアレク様に謝ろうとすると、アレク様の頭がガクッとゆれた。

「えっ!?」

 驚いて顔をのぞき込むと、アレク様は目をつぶっていた。かすかに聞こえてくる呼吸はとても規則正しい。

 ね、寝ている!

 いつもはキリッとしているのに、今のアレク様は私の弟みたいに気の抜けた顔をしていた。

 ちょっと可愛いかも……。

 馬車のゆれでアレク様の頭がまたガクッとゆれたので、私はあわててアレク様の頬に手をそえた。そして、私にもたれかかるように静かに誘導する。

 そのとき私の肩からパサリと布が落ちた。見るとそれはアレク様のマントだった。

 アレク様が眠っている私の肩にマントをかけてくれたのね。その優しさに胸が温かくなる。

 馬車がゆっくりと止まった。

 キリアが馬から降りて馬車に近づいてくる。

「閣下、エステル様。ここで少し休憩を……」

 私はキリアに向かって「しー!」と人差し指を立てた。眠っているアレク様を指さすと、キリアの瞳は大きく見開く。

 キリアは小声で「休憩はもう少し先でしましょう」と言って馬車の扉を閉めた。

 再び動き出した馬車の中で、私とアレク様は肩を寄せ合っていた。

 ポカポカ陽気がとても心地いい。

 たまには、アレク様もウトウトと居眠りして過ごす、こんなのんびりした日があってもいいよね?

 *

 日が暮れたころ、フリーベイン領と隣国の境目にある宿にたどりついた。

 先に馬車から降りたアレク様が私をエスコートするために手を貸してくれたけど、その視線はそらされている。

 私はアレク様の様子を見て、内心でため息をついた。

 あのあと、しばらくして目を覚ましたアレク様は、すぐに私に寄りかかって眠っていたことに気がついた。

 動揺からか顔を真っ赤にして「すまない!」と謝られたので「いえいえ、お互い様ですよ」と返した。

「公爵になってから居眠りなんてはじめてした。その、あなたの側が心地よすぎて……気が抜けてしまっている」
「言われてみれば、私も居眠りなんて聖女になってからはじめてしました」

 私たちは、いつも気をはって過ごしているのかもしれない。

「私もアレク様の側にいたら、安心してしまって」
「エステル……」

 赤い顔のアレク様が「重かっただろう? すまない」と謝ってくれた。隣同士に座っているせいで、いつもより距離が近い。

 なんだか落ち着かなくて、私はあわてて話題をそらした。

「アレク様の寝顔を見ていると、弟を思い出しました」

 その瞬間、目に見えてアレク様の表情が曇った。

「……お、弟」
「あ、すみません! 失礼なことを!」
「……いや、大丈夫だ」

 アレク様は立ち上がると向かいの席に戻っていった。距離がいつも通りに戻ってホッとしたけど、アレク様の体温を感じていた左側が少しだけ寂しい気がした。

 それから、アレク様がぎこちなくなってしまった。

 私はソワソワすることはなくなったけど、すごく後悔している。

 はぁ、弟だなんてごまかさずに、ちゃんとアレク様の寝顔が可愛かったですって言えばよかった。

 そう思ったけど、よく考えたらそれはそれで失礼だわと気がつき、私はまたため息をついた。
 今晩泊まる場所は、小さな村にひとつだけある宿だった。

 公爵邸があるフリーベイン領の中心部とは違い、村には家が十軒ほどしかない。村の周りには広大な小麦畑が広がっていた。

 豊かに実る垂れた穂を見て、私は改めてフリーベイン領の豊かさに気がついた。

 前にアレク様が聖女の報酬として金貨十袋くれようとしたけど、そんなことができるくらい公爵領は豊かなのね。

 アレク様にエスコートされながら宿に入ると、若い夫婦が明るく出迎えてくれた。

「ようこそお越しくださいました!」
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

 アレク様と私はすぐに部屋へと案内される。

「せまいところですが、どうぞごゆっくり」

 部屋の中にはベッドが二つ並んでいた。もう用は済んだとばかりに部屋から去ろうとしていた若夫婦をアレク様が呼び止める。

「亭主、部屋は二つ頼んでおいたはずだが?」
「はい、こちらは領主様ご夫婦のお部屋です! 隣にお付きの人用の部屋を準備させていただきました」

 夫婦? 私がアレク様を見ると、アレク様は「すまない手違いがあったようだ」と謝ってくれた。

「俺たちは夫婦ではない。その」

 言葉につまったアレク様の代わりに私が「婚約者です」とお伝えする。

 宿の若夫婦は首をかしげた。

「どう違うんで?」
「俺たちは、また結婚していないんだ。同じ部屋で寝るわけにはいかない。この部屋にはエステルとその護衛が宿泊させてもらう。俺は別の部屋に案内してくれ」

「は、はい……?」

 その顔には貴族さまの考えはよくわからないと書かれている。

 そうよね、この国の平民には婚約制度はないものね。

 それでも若夫婦は、すぐに笑みを浮かべると「では、領主様はこちらへ」とアレク様を別の部屋に案内しはじめた。

 エスコートのためにふれていたアレク様の腕が私から離れていく。

「あっ」

 何を思ったのか私はとっさにその腕をつかんでしまった。

 振り返ったアレク様の瞳は大きく見開かれている。

「あの、さっきは弟を思い出しましたなんて、失礼なことを言ってすみません!」
「いや」

 小さく首をふったアレク様は、後ろに付き従っていた一人の騎士とキリアに視線を送った。

「エステルと少し話してくる。俺の部屋の場所を聞いておいてくれ」
「はい」
「キリアは席をはずしてくれ」
「はい!」

 騎士とキリアは素早く動き、その場から去っていく。

「エステル、いいだろうか?」
「は、はい」

 立ち話もなんなので部屋の中に入ると、木でできた小さなテーブルと椅子があったので腰をおろした。

「先ほどの話だが、あなたが謝る必要はない」

 馬車から降りるときはそらされていた視線が、今は私に向いている。そのことに私はホッと胸をなでおろした。

「でも、アレク様のことを弟と重ねるなんて……」
「正直にいうと、少しだけ落ち込んだ」
「す、すみません!」

 怒られても仕方ないのに、アレク様の口元には笑みが浮かんでいる。

「だが、考えてみれば、あなたにとって家族は何よりも大切なものなのだろう? それこそ、自身を犠牲にしても守りたいほどに」

 私はコクリとうなずいた。

「ならば、その家族を重ねられることはとても名誉なことなのかもしれない、と馬車の中で考えていたんだ」
「名誉?」

「そうだ。あなたの家族のように、いつか俺にも気をゆるしてほしいと思っていたから」
「アレク様……」

 アレク様のそばは居心地がよすぎて困ってしまう。

 今だってアレク様の落ち着いた声と、その温かい眼差しが心地よくて仕方ない。

「エステル。今は仲間でも主従関係でも、弟でもかまわない。だがいつか、俺のことを一人の男として見てくれると嬉しい」

 アレク様を一人の男性として?

「それって……」

 うまく思考がまとまらない私の頭をアレク様の大きな手がなでた。

「急がなくていい。俺もそうだが、エステルもきっとこれまで自分のことを考える余裕がなかったのだと思う。だから、少しずつでいい。あなたの好きなことをしていってほしい」

「私の、好きなことを」

 フリーベイン領にいるかぎり、実家のことは心配いらない。そして、私は聖女の仕事も必要最低限しかする必要がない。

 そっか、私はもう好きにしていいんだわ。

 聖女の祈りは強制ではないし、私が浄化しなくてもフリーベイン領はアレク様や騎士団のみんなに守られている。

 ここでは、私は自分の意思で決めたことを、自分のためだけにしてもいいのね。

 たしかに聖女に自由はなかったけど、私は自分のことをかわいそうだなんて思わない。だって、今までもやりたいようにやってきたから。

 でも、もう一人で頑張らなくていいのだと思うと、ふいに涙がにじんだ。

「アレク様……ありがとうございます」

 お礼を言うとボロッと涙がこぼれてしまう。

 実家では頼りがいのある姉でいたかったから決して泣かなかった。聖女になってからは、浄化することに必死で涙なんて流すヒマがなかった。

 ここでは泣くのも笑うのも、何をするのも自由。

 だったら私はやっぱりアレク様のお役に立ちたい。

 そう伝えるとアレク様は少し困ったように笑った。

「もう十分だ」
「ぜんぜんですよ!」

 アレク様の本当の婚約者が決まるまでは、しっかりと婚約者のふりをしたい。

 そう思った私は、アレク様の本当の婚約者の女性を想像してみた。

 公爵家にふさわしい家柄で、すごく美人で優しくって……。

 そんな理想の女性にアレク様が優しく微笑みかける様子を思い浮かべて私の胸が少しだけ痛んだ。

 *

 アレク様との馬車の旅は楽しくて、あっという間に隣国カーニャにたどり着いた。

 文化が違うせいか風にのって運ばれてくる香辛料の香りに異国を感じる。

 私たちは舞踏会が開催される間、カーニャ国側が用意した宿泊施設に滞在することになっていた。

 宿泊施設と言っても宿のようなものではなく、邸宅をまるまる貸してくれていた。それだけでも、いかに隣国がフリーベイン領を重要視しているかがわかる。

 アレク様にエスコートされながら、煌びやかな邸宅に足を踏み入れた私は「わぁ」と感嘆のため息を漏らした。

「すごいですね!」
「ああ、フリーベインはカーニャと物流のやり取りがあってな」
「なるほど」

 カーニャにとってフリーベインは仲良くしておきたい相手なのね。

「公爵様はこちらのお部屋に。婚約者エステル様のお部屋はこちらです」

 使用人たちはみんな丁寧に接してくれる。

 アレク様と別れて、案内された部屋も煌びやかだった。壁には銀髪家族の大きな絵が飾られている。

「これは?」

 案内してくれたメイドに訪ねると「カーニャ王家を描いたものです」と教えてくれた。

「カーニャ王家は、みんな銀髪なのですね」
「はい」

 部屋に荷物を運ぶ騎士たちの間をぬって、キリアが速足に近づいてくる。

「エステル様!」
「そんなにあわててどうしたんですか?」

「エステル様にどうしてもお会いしたいという者が訪ねてきています。ついたばかりなので追い返したいのですが、そうもいかず――」

 キリアの言葉をさえぎり、優雅な足取りで一人の少年と、その護衛らしき男性が部屋に入ってきた。少年の髪は銀色に輝いていた。