「あ、樹生君、どう――え? 璃桜が? わかった。俺も捜すけど、行きそうなところに心当たりはある? そうだよな、ないよな。とにかく、心当たりを当たっていくよ」

 そう言って電話を切るが、すぐにまたコール音が響いた。今度は史乃だ。和眞は慌てて画面をタップした。

「もしもし」

『お忙しいところすみません。璃桜が家を飛び出したようで……あ、樹生が? そうなんです。家でトラブルがあったようで。松阪さんにも協力をお願いしたくて』

「樹生君にも聞いたんですが、どこか行きそうな場所ってありますか?」

『ごめんなさい、家族で出かけることも少なかったし。むしろ松阪さんと出かけた場所のほうが可能性があるんじゃないでしょうか』

 史乃の声が涙交じりになっている。おそらく最悪の状況を想像しているのだろう。だからこそ、彼女は璃桜に一人の行動を禁じ、必ず同行者をつけるよう命じていたのだ。

「必ず見つけ出します」

 そう強く言い、電話を切った。

「と、言ってみたものの、なぁ」

 とりあえず璃桜に電話をかけてみる。コールはするが、まったく取る気配がない。

(警察に届けて携帯会社に位置を特定してもらうか。でもそれだと時間がかかる。いや、むやみに捜しても時間の無駄だ。急がば回れ、正攻法でいくか。くそ、華原さんが璃桜の自殺を懸念しているって思った時に、GPSアプリをインストさせておくべきだった)

 悔やんでも遅い。和眞はメールやチャットアプリに連絡するようメッセージを打ち込んだ。携帯は留守番電話になっていないので、ここにメッセージを入れることはできなかったが。

 それから璃桜が行きそうな場所を想像してみるが、まったく思い浮かばない。

 待ち伏せされた出版社のビル、そこから向かったラブホテル、二度目の関係を結んだホテル、銀座のフランス料理店、三度目のホテル。どう考えても行きそうにない。

(璃桜、どこにいる)

 しばらくすると樹生からまた連絡が入った。最寄り駅の防犯カメラに璃桜が映っているという。電車に乗って移動したので、もう家の周辺にはいないことがわかった。

(考えたくないが、自殺をする場所って……東京湾?)

 璃桜の住んでいる広尾から一番近い海岸と言えば。

(芝公園に出るのが早いか。あるいは汐留? 天王洲アイルって手もあるか。いやいやいや、海って決まったわけじゃない)

 また電話をかける。コール音が響くが取る気配はない。


 四時間近くが経った。

 時計は十時半を過ぎている。これから深夜に至る時間帯なので、さすがに警察に捜索願を出すべきではないかと屋敷内でもめ始めた。

 ガタンと大きな音がして玄関の扉が開くと、血相を変えた史乃が駆け込んできた。

「奥様!」
「奥様、お嬢さまがっ」
「まだ見つからないの!?」
「心当たりは捜したのですが」
「警察に届けましょう」

 使用人たちが集まってくる。史乃はリビングに急いだ。

「ああ、史乃、みなが言うように、警察に捜索願を出そうと思う」
「ええ、そうね。それで、中森さんのほうは?」
「泣いて手がつけられない」

 それを聞くと、史乃はさっと身を翻し、陽子の部屋へと急いだ。そしてノックもせずに扉を開けて中に踏み込む。

 陽子は俊嗣が言うように、ベッドの縁にすがるようにして床に座り込んで泣いていた。

「中森さん」
「……奥様」
「なにを泣いているの。あなたが泣いている場合じゃないでしょう」

「だって、璃桜が、もう知らないって。どうでもいい、好きにすればいい、もう私とお母さんは他人だからって言って出ていったんです。私、どうしたらいいのか……璃桜にまで見捨てられたら、どうしたらいいのか」

 グズグズと泣きながら言う陽子に史乃は歩み寄った。そして衿ぐりを掴み上げ、思い切りひっぱたいた。

「痛い!」

 パンパンと高い音が何度も響く。陽子はさらに痛いと泣き叫んだ。

「奥様、およしください!」

 使用人たちが群がって史乃を引き剥がそうとする。だが、史乃まで泣いていることに気づけば、驚いて手を離した。

「馬鹿者! 痛いのは璃桜のほうでしょう! ずっとあなたの行ったことを自分の罪だと思って苦しんできたのよ! 自分の娘があれほど苦しんでいるのに、どうしてあなたは自分のことしか考えられないの!」

「……ぇ」

「私はね、あなたが夫の子を産んでくれたことを、本当に、本当に感謝しているのよ。跡継ぎを産めない苦しみから解放されたことを感謝しているのよ。だから誰がなんと言おうが、どれほど中傷されようが、あなたと璃桜を守ってきた。あの子は私の気持ちを気遣って、負担をなくそうと、意の沿わない結婚をしてあなたをここから連れ出そうとしていたのよ。私とあなたのために。それなのに、どうしてあの子のために頑張れないの!」

「…………」

「あの子が死んだら私はあなたを許さないから! 絶対、一生許さない、絶対!」
「奥様」

 叫ぶ史乃に陽子は縋るようにしがみついた。そして何度も何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返した。


 和眞はもう警察に連絡すべきだと考えていた。携帯がコールする以上、電源は入っている。警察を通して携帯電話会社に位置情報を提供してもらうしかない。

 チャットアプリは一向に既読にならない。見ていないのだろう。

(璃桜、頼むから連絡してくれ)

 神にすがる思いで最後のメッセージを送ることにした。これを送れば、史乃に連絡して捜索願を出してもらうよう促すつもりだ。

『好きだ。会いたい』

 はあ、と大きな息を吐きだし、チャットアプリを閉じようとしたその時、一気に既読の文字がついた。

「あ!」

 すかさず電話をかける。何度目かのコール音のあと、その音が止まった。

「璃桜!」

 切れていない。通話時間を示す数字がカウントされている。

「璃桜! どこにいる!」

 沈黙。スマートフォンからはまったく音がしない。街の雑踏の音さえしないということは、とても静かな場所にいるということだろう。

「迎えに行く。今、どこにいるんだ? なぁ、璃桜、お前にいろいろ話さないといけないことがあるんだ。でも、聞いてくれ、俺がお前をきっと幸せにする。坂戸淳也との縁談は俺が破談にした。ぶち壊してやった」

 するとかすかに「え」という声が聞こえた。間違いなく璃桜の声だ。これで彼女以外の誰かがスマートフォンを手にして聞いている可能性はなくなった。

 なにより、生きていることが証明された。和眞は安堵に胸を撫で下ろした。

「坂戸さんは明後日、日本を発ってアメリカに行く。その話をするから居場所を教えてくれ」
『アメリカ?』
「ああ。国外逃亡だ。恋人と一緒に。自分たちの幸せのために旅立つんだ。なぁ、俺たちもそうしよう。俺が全部段取るから。お前のために頑張るから」
『……お台場にいます。海を見ていたの』
「お台場のどこだ?」
『ビーチ』
「わかった。そこを動くんじゃないぞ!」

 電話を切ってからの時間――
 向かう者。
 待つ者。
 一秒がとてつもなく長いと感じた。


 お台場のビーチと言っても広い。しかもこの時間だ。照明はあるし街からの光によって歩くには困らないが、一人の人間を捜すとなると骨が折れる。

 和眞は息を切らせて海岸沿いを走った。

「璃桜―――!」

 人目も気にせず名を呼ぶ。注目されるが関係ない。
 やがて和眞の声に反応して、前方で立ち上がった人影に気づいた。

(見つけた!)

 遠いし暗いし誰かなどわからない。それでも璃桜だと確信する。

 必死に走った。息が切れるし、体が悲鳴を上げる。日頃、時間を見つけてはジムで鍛えているものの、こんな全力疾走などしないので心臓は悲鳴を上げている。それでも力の限り足を動かした。

「璃桜!」

 静かにたたずむ人物のもとにようやく到着すれば、ぜえぜえと乱れ切った呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと顔を確認する。

「…………」

 涙に瞳を潤ませた華原璃桜がいた。和眞が一歩近づくと、大粒の涙が一筋流れ落ちた。

「よかった……死んでしまうんじゃないかって思って」
「…………」
「怖かった」

 刹那、璃桜の肩がピクンと跳ねた。

「死ぬつもりでした」
「――――」

「死ぬつもりでした。最後にスマートフォンを見たら……いっぱい、いっぱい、着信やメッセージが入っていて、最後にあなたのメッセージがあって……私……まだたくさん未練があるって、思って……」

「いい。言わなくていい」
「私、こんなに汚らわしい存在なのに、得たいものがいっぱいあって」
「璃桜! もういい。言うな」

 ギュッと息ができないだろうほど、強く強く抱きしめる。璃桜は和眞の胸の中で苦しそうに喘いだ。

「あなたの〝好き〟が、欲しくて……死ねないって思って……」
「好きだ。だから必死だった。璃桜、俺が汚い手を使って坂戸淳也を排除した。もう縁談はない。俺のものになってくれ。お前にためならなんでもするから。俺の全部をお前にやるから。好きだ」
「……私も、好きです」

 璃桜の肩に両腕を置き、そっと少しだけ離して顔を見下ろす。涙でいっぱいの璃桜の顔、その唇にそっと触れ合わせる。ゆっくり、少しずつ。それから圧を強め、貪るように口づけた。

「……は、あ」

 熱い吐息が和眞の顔にかかった。

「あとのことは全部俺に任せて、お前はただ俺を愛してくれたらいい」
「はい……はい」

 なにもかもが、体の外に出ていく感じたした。
 互いに。
 そして新しいなにかが流れ込んでくる気がする。
 互いに。

 目から、耳から、鼻から、口から。
 触れ合う指先から。
 抱きしめ合う体温から。
 璃桜は力を抜き、五感で感じる和眞にすべてを委ねた。