華原家は東京郊外に豪邸を構えている。銀座をはじめとする大型商業施設を関東圏中心に展開する家柄だ。璃桜は創業家の娘であるが、出生のことは詮索されたくない身の上だった。

 璃桜の母は華原家の夫人の史乃(ふみの)ではない。中森(なかもり)陽子(ようこ)という華原家の住み込み家政婦だ。璃桜は俊嗣(としつぐ)と陽子の間に生まれた。つまり『愛人の子』なのだ。だが、『子の氏の変更許可申立』を行い、俊嗣の戸籍に入れられた。

 これは結婚して長く子どもに恵まれなかった史乃がうるさく言い、行った手続きである。今後も子どもができなければ、璃桜が華原家を継ぐことになる。その際、陽子の戸籍に入っていては困るからだ。

 だが、七年後、史乃は長男の樹生(たつき)を出産し、跡継ぎの問題は解決されたのだが。

「お嬢さま、奥さまがお呼びで、自室でお待ちになっておられます」

 住み込み家政婦の田中(たなか)が玄関で待っており、帰宅した璃桜に言葉をかけた。

「そう。ありがとう」

 田中はここにやってきてようやく半年で、年も十九歳と若い。この屋敷のことを今一つ理解していない。心配そうなまなざしを向ける様子から、誰かに璃桜が史乃の娘ではないことを聞いたのだろう。だから『継母にいじめられている』と考えているのだ。

 璃桜は屋敷内にあるそういう意識を否定する気はない。愛人の産んだ子を正妻がいじめるという構図は世間ではよくあることで、璃桜がいかに違うと言っても信じないだろう。ならば黙っているほうが表面上波風立たないだろうと思うからだ。

(同情されるのも不要なんだけど)

 そう胸中で呟き、廊下を進んだ。

「璃桜」

 すると脇からそっと声をかけてくる者がいた。声から誰かわかる。

「ただいま」
「おかえりなさい。奥さまがお呼びなんでしょ? 気をつけてね」
「大丈夫よ、お母さん。心配しないで」

 低めた声でそう答え、璃桜は顔を上げて再び歩き出す。そして史乃の部屋の扉をノックした。

「璃桜です。ただ今帰りました」
「どうぞ」
「失礼します」

 ゆっくりと扉を開けて中に踏み込んだ。史乃は窓際に置かれているソファにゆったりと座り、ワインを傾けていた。白い皿にはチョコレートとレーズンの房が盛られている。

「お座りなさい」
「はい」

 言われて腰を下ろすと、伏し目がちに史乃を見遣った。今日の史乃の機嫌は悪くなさそうだ。いや、直観だが。

「最後の出勤はどうでした?」
「……特にどうも。片づけや挨拶をしただけでしたので」
「そう。なにも辞めることはないのに。先方は続けていいとおっしゃっていたわ」
「今回の件が理由で辞めたのではありません。三年との約束でしたので」

「それがそもそも問題だったわね。まぁいいわ、過ぎたことを言っても始まらないから。あなたもこれからお夕食だから手短に話すわね。来週の金曜日、ベリーベビー本舗が新作披露パーティを開くの。斎藤社長よ。知っているでしょ?」

 璃桜が小声で「はい」と言いながらうなずいた。それを見て史乃もうなずく。

「そこに淳也(じゅんや)さんと一緒に出席するのよ」
「お父さまやお母さまは?」
「もちろん行くわよ。だけど先方のご両親は出席されないわ。あぁいう場に政治家はちょっとふさわしくないのでね」

 璃桜はうなずいて同意した。

「その場ではあなたたちが婚約したことをわざわざ語る必要はないけど、周りに察してもらうためにね。そういうわけだから準備しておいてちょうだい。一週間あるから大丈夫でしょ?」
「わかりました」
「要件は以上よ」

 璃桜はさっと立ち上がり、礼をして歩き始める。

「璃桜さん」

 背に声をかけられた。

「はい」

 振り返れば、史乃がじっとこちらを見つめている。まっすぐの強い視線はそれだけで周囲を圧倒するほどの迫力があった。

「あなた……本当にいいの?」
「いいの、とは、どういう意味でしょうか?」
「………………」

 史乃は目を閉じ、ゆっくりとかぶりを振った。それから目を開き、顔を背けたまま右手を目元にやった。

「いいえ、なんでもないわ。行ってちょうだい」
「失礼します」

 璃桜はそのまま史乃の部屋をあとにした。

「はあ」

 と大きく肩を揺らして深呼吸をする。

 史乃を前にすれば否応なしに緊張する。自分でも肩が張るのがわかるほどだ。
 もともとは華族の流れを汲む家の出だと聞いている。当の本人からは直接、

「辿ればそうでしょうけど、会ったこともない遠い本家筋の方々なんて他人も同然」

 と、言われたことがあったが。それでもそういう家の出の者は、身にまとう空気が少し違う気がする璃桜だ。なんというか、凛とした感じがするのだが、それは璃桜の考えすぎなのだろうか。

「璃桜」

 自分の部屋に入ろうとしてまた呼び止められた。実母の陽子だ。

「どうかした?」
「いいえ、なにを言われたのかと思って」
「心配してくれたのね。ありがとう。でも大丈夫よ。奥さまはつまらない嫌がらせなんてしないから」
「うぅん、そうじゃなくて、それもあるけど、話の内容よ」

 璃桜はかぶりを振った。

「来週の金曜日、パーティがあるから参加するようにって言われただけよ。心配しないで」
「パーティ?」

 陽子に目がぱっと明るくなった。いかに璃桜の実母でも、陽子はそういう場には出られない。だから華やかな場に憧れを抱いているのだ。

 だが、陽子は璃桜に必要以上に近づくことは許されていず、人前では華原家の令嬢と使用人という関係でいなければならない。

「お母さん、ダメよ。誰が見ているかわからないんだから。あんまり頻々と声をかけないで」
「……そうね。でも」
「でもじゃない。約束を破ったら追い出されるわよ」
「………………」
「二人で必死で働いて暮らす? できないでしょう?」

 陽子はしぶしぶといった感じでうなずいて身を翻して去っていった。それをため息交じりに見送り、部屋に入る。

 服を着替えてラフなかっこうになると、璃桜はベッドの端に腰を下ろした。両手で顔を覆う。頭の痛いことが多すぎる。

「ここを出て、お母さんと二人で暮らす、か。無理よね」

 陽子は孤児だった。だからここを追い出されたら本当に頼る当てがない。勉強が得意ではなく、なんとか高校を卒業すれば、施設を出てこの華原家にやってきたのだ。

 璃桜の父である俊嗣は屋敷で人員に補充が必要になれば、年齢に達して施設を出なければならない子どもを引き取り住み込み使用人として雇っていた。陽子もその一人だった。けっしてこき使ってはいないので、救済の意識もあって行っているのだろう。

 ここでの生活は過ごしやすいのだ。たいした高校も出ていず、そこですらろくな成績でもなかった陽子など、追い出されたらとてもやっていけないだろう。

 璃桜とて同じだ。きちんと学び、しっかりと躾られて育った、華原家の娘として。華道、茶道、書道、香道などの日本の伝統的な作法もそうだし、ピアノやバレイも仕込まれた。勉強もそうだ。だがそれは華原家の力あってのことだ。

 生まれた時の事情とは異なり、無事に跡取りである樹生がいるのだから愛人の娘など不要だと言ってここから追い出されたら、たちまち困窮するだろう。だから史乃の怒りを買うようなことはせず、従順に暮らしていくのが最善なのだ。

(奥さまはよくできた人よ。無意味にいじめたりはしない。だから、お母さん、従っていればいいの)

 はあ、と大きく息を吐きだし、立ち上がる。夕食だ。そう思ってダイニングルームに向かおうとして壁にかけているカレンダーが目に入った。

(来週の金曜、か。それはいいけど、淳也さんと一緒に動かなければいけないのは嫌だわ。私、あの人に好かれていないし、それに淳也さんっだって……うぅん、ダメよ、言っちゃ。婚約者がいるのに、行きずりみたいに社長と関係を持って……抵抗することはしたんだから、もう、おとなしく従うの)

 璃桜はカレンダーに近づくと、机の上にあるペンを手に取って『パーティ』と書き込んだ。

(私は半年後、坂戸(さかど)璃桜になるのよ。わかってるから、大丈夫)

 自分に言い聞かせた。カレンダーの文字が滲むが無視する。拭えば負けたような気がするからだ。

(一生背負うのよ。これは運命。挫けていられない。そのために会社も辞めたんだから)

 IFSSに受かりたくて就活し、内定をもぎ取ったというのに。せっかく入社できたというのに。和眞に近づけたというのに。

 脳裏に和眞の姿が蘇る。同時に岡田の顔も。昨夜、本名を名乗れないので岡田の名を使わせてもらった。

 退職日の前夜に和眞が取材の仕事が入っていることはラッキーだった。しかも午前中ではなく、夕方という。それを聞いた瞬間、璃桜はこの日に和眞を誘惑することを即決した。これ以上ない最高の条件だったからだ。

 この三か月、ずっとチャンスを狙い、秘書を買収して情報を得ていたのだ。IFSSはそれほど大きな会社ではないので秘書は一人しかない。役員もみな若いし、ITを使って自己管理を行い、スケジュールアプリにすべての情報があるので困らないからだ。和眞とて同様で、秘書はついているが基本自分のことは自分で行っている。

 自分を誘惑した女であるはずの『総務課の岡田』を見てどう思っただろうか。

(岡田さん、目を丸くしていたって言ってたわね。ふふ、そうよね。社長は女と遊ぶのはお好きで特定の相手とは交際しない、私は好きな人にバージンを散らしてほしくて一回限りの関係を望んでいた。神様の思し召しかって思うくらい、素晴らしくぴったりだわ。これでいいのよ)

 今度こそ、指で流れる雫をぬぐった。