「和眞、報告書が届いた」

 京の言葉に目を丸くする。調べる、と彼が言ってから八日が経った。十日もかからないだろう、という言葉通りだ。

「潮時だろうと言われた」
「潮時?」
「食いつきがよくなってきたからアテにしかけている。これ以上関わると不要な行動に出かねない。充分聞かせてもらって役に立ち、この件は万事終わった、って思わせるべきだってね」
「それは誰が?」
「興信所のエージェント」

 報酬に目がくらみ、さらに得ようと華原家の周辺を嗅ぎまわったり、まだ情報があると食い込んできたりする可能性がある、ということだろう。

「そうか」

 返事をしつつ、渡された封筒の中身を確認する。そこに書かれている文字を和眞は丁寧に追った。


[中森陽子と当時の周囲の印象]

・中森陽子に悪い人間という印象はない。むしろ深く考えず、思いつきで行動する印象。

・他の使用人も含めてだが、華原家では雇人と使用人という感じよりも施設の延長の感じがあった。

・華原夫妻は仕事には厳しかったけれど、失敗しても感情的に怒ることはなく叱るという感じで、いつも丁寧に説明してくれた。これに関しては雇い主と言うより先生みたいな感じだった。

・中森陽子も華原夫妻を慕っていた。華原俊嗣についても、異性として慕う感じはなく、親兄弟に甘えている風だった。

・同様に、華原史乃についても、母親に叱られる子どもみたいだった。

・中森陽子が華原俊嗣と関係を持った後や妊娠が発覚した時も、華原史乃は怒って責めることはなく、どちらかというと愕然とした様子だった。

・中森陽子が妊娠中も体をとても気遣い、使用人たちは不思議に思っていた。

・華原史乃は結婚四年を過ぎた頃から不妊治療を始めており、結果が出てからしばらくは失意が深くて周囲はとても気を遣った。


[当日の様子]

 その日は華原夫妻ともに、それぞれの用事で帰宅しないとなっていた。しかし華原俊嗣が予定外に帰宅する(九時くらいではないか)。珍しく酔っているようで、数名で部屋まで運んだ。

 華原俊嗣は酒に弱く、基本飲まないが、この日は仕方なく飲んだ模様。しかもけっこうな量だったもようで、華原俊嗣はかなり酔っていたと考えられる。

 早朝、当番が夫妻の部屋から慌てて出てきて走り去る中森陽子を目撃するが、その後、夫妻と中森陽子が部屋にこもってなかなか出てこない時があり、以後中森陽子がしばらく泣いている日が続いた。

 二か月後、中森陽子の妊娠が発覚。誰もが相手は華原俊嗣であり、あの日のことだと察するが、二人はそんな関係ではないはずで中森陽子の行動を不思議がっていた。


「どう思う?」

 京に話しかけられ、和眞は「むう」と呻った。

「酔った華原さんの寝込みを襲った……って感じかな」

「俺もそう思う。酔って前後不覚なところに寝込みを襲われ、てっきり夫人だと思ってそのまま行為になったんだろう。不妊治療中なら、妊娠しやすい時期は外せないだろうから、求められて、この時期が来たか、頑張らなきゃ、とでも思ったのかもしれない。でも引っかかるのは華原社長じゃなく、中森陽子のほうだ。みんなが〝そんな関係ではないはず〟って考え〝異性として慕う感じはなく、親兄弟に甘えている風だった〟って思っているなら、なんでセックスなんて望んだんだろう。夫人に対して対抗心があって、本妻から奪ってやろう、というわけじゃないなら、なおさらだ」

 京の言いたいことはよくわかる。和眞も同じ意見だ。

「〝母親に叱られる子どもみたいだった〟ってあるだろ。中森さんって、もしかして二人をものすごく慕っていて、子どもができない奥様を気の毒に思い、なんとかしようと考えたとか?」

「常々、自分なら〝跡取りを産める〟〝なんとか夫人を助けてあげたい、楽にしてあげたい〟と思っていた。そんな時、夫人がいない、主が酔っているっていう絶好のチャンスに恵まれる。だから寝込みを襲った、と?」

「って、俺は思ったんなけどな」

 和眞は書類に視線を落としながら「はあ」とやたら大きなため息をついた。

「その筋に異論はないけど、だったら余計に始末が悪い」

「妊娠した中森さんを気遣ったり、産んだ後も金を渡しながら追い出したりしないのも、夫人は中森さんの気持ちをわかっているからじゃないかな。結果的に七年後に息子が授かるが、それがなければ実際、璃桜さんが華原社長の血を引く唯一の跡継ぎだ」

「…………」

「跡継ぎを産めない自分に代わって中森陽子が産んでくれた――もしかしたら、感謝すらしているのかもしいれない。アル中の治療も夫人が面倒を見てるんだろ? みなそれを知っている。璃桜さんもわかっている。だが、やっぱりいたたまれない。しかも誰しもいつかは結婚する。これを利用して、華原家に恩返しし、面倒な中森さんを屋敷から連れ出す。一石二鳥だ。華原夫妻だって、本人からそれを望んでいると言われたら反対はできないだろう」

 樹生が、父のことはアクシデントと聞いている、と言った言葉を思い出す。京の推測が正しければ、確かにアクシデントかもしれない。

――人の家庭は他人にはわかりません。

 璃桜はそう言っていた。何度も。あの時はなんとも思わず聞き流したが、璃桜にはとてつもなく重い現実だったのだ。

「……ひとつ屋根の下での本妻と愛人との愛憎劇……どころか、互いを想い合って起こってしまった出来事で、いろいろこじれてしまったって感じか。璃桜さんは辛いな。お前、まるっと背負えるか?」

「むしろ、坂戸淳也のほうが無理だろ」
「まぁな」

 もう一度書類を読む。ある言葉に視線を取られた。

「この施設ってなんだ?」
「ん? あぁ、華原家に住み込みで働いてる人の多くが孤児なんだって」
「孤児?」
「十八歳で施設って出ないといけないだろ? そういう子を雇って住まわせてるんだ。家賃に相当する額を事実上強制的に貯金させ、労働の基礎や礼儀を身に着けさせてから転職させるんだって」
「へぇ」
「でも、それでうまくいく子もいれば、そうじゃない子もいる。しかも、施設でも落ちこぼれ……って言ったら悪いんだけど、そういう子をわざと選んでいるようだから、なかなかうまく軌道に乗らない」
「それだけ聞いたら、ずいぶんな慈善事業だな」
「まぁな。でもさ、家に入れるんだから、感謝して真面目に働いてくれることが第一なんじゃないかな。いくら技術があっても、悪さされたら困るだろ。盗みとか、情報だだ洩れとか」

 金でだだ洩れ状態にしているくせに、と思うが、ここでは言わず、和眞は別の疑問を口にした。

「それ、華原さんの案?」
「夫人みたいだ」

 史乃が施設を卒業させられる子どもを引き取っている、ということになる。と同時に、史乃は長く子どもに恵まれず、不妊治療をしていた。

(樹生君が生まれたのは結婚してから十五年後だ。さぞ苦しんだことだろう。子どもという存在を求めるあまり、恵まれない子をなんとかしてやりたいと思ったのかもしれない)

 璃桜を華原家の娘として大事に育てたのだから、史乃の、子どもへの思いは相当深く強いのだろう。

 ガシガシと頭をかきつつ何度も書類に目を走らせ、それからテーブルに置いた。

「家の中は険悪かと思っていたけど、そうじゃなさそうだな」

 和眞の言葉に京がふっと笑った。同意なのか、それとも嘲笑なのか。

「陰鬱なことは確かだろうな。俺、別にお前をけしかける気はこれっぽっちもないんだけど、でも、頑張って璃桜さん略奪しろ。それがたぶん、万事解決方法だ」
「…………」
「だからみんな……夫人も弟君も、お前に協力的なんだと思う」

――僕は、姉のことは嫌いです。やっぱり父を誑かした女が産んだ子だし、汚らわしいと思っています。そこははっきり言います。だけど、血も涙もある人間だから、不幸になれとは思っていません。僕とは遠く離れた関わり合いのない場所で幸せになってくれたらいいと思っています。

 樹生の言葉が脳裏によみがえる。

 誰にも、どうにもできないがんじがらめになっている関係、五か月後、この関係に前向きではない新たな人物を加えてさらにこじれることだろう。

(なんとかしなければ? ふん、そんなことをまったく思っていない。俺はただ、璃桜が好きなだけだ)