同時刻、和眞は樹生と電話中だった。広いリビングのソファに腰かけて会話をしているが、傍には音量を極限まで落としたテレビを見ている京がいる。

 電話をかけてきたのは樹生で、陽子が勝手に坂戸事務所へ出向いたことで騒ぎになったことの報告だった。

 取り乱しているのは璃桜だけで両親はいつも通りだったし、陽子もおとなしいが反省しているようには見えなかったとのこと。

『中森さんは、おそらく自分が仕出かしたことの重大さに気づいていないと思うし、そういうことがわかる人ではないと思います。ただ、今回の件は、ちょっと今までとは中身が違いまして、それが原因で姉は取り乱しているんだと思います』

「今までと違う?」

『ええ。中森さん、人の話を聞く感じではないんですが、それでも大それたというか、思い切ったことができない内弁慶タイプだと思うんです。そういう意味では臆病者的で、こっちも深刻な心配はしてないんですが、それが今回、思い切ったことをやらかしました。そうなると、もうおとなしくているとは思えなくて、いつ大きなことを仕出かすかわかりません。姉はそれを恐れているようです』

「娘が結婚し、家庭を築いて社会的にも独立する。それに併せて自分も華原家を出て自立する。ってことで気が大きくなったか……」

『かもしれません。ウチにいる者はみな敵だけど、坂戸家の者は味方だと思っているのかも。婿だし。でもそれは危険です。ますます姉を追い詰めます。中森さんの決定的にダメなところは、なぜ娘が華原夫妻に気を遣っているのか、それが理解できていないことです』

 それは和眞も同意だし、ずっとひとつ屋根の下で暮らしている樹生のほうが正確に把握していることは明らかだ。

 となると、璃桜が心配だ。

(少しの間でも璃桜と中森さんを引き離したほうがいいのかもしれない。どこか安心できる施設にあずかってもらって、気を休めるほうが……)

 和眞は右手の人差し指と中指を揃えて眉間にやり、グリグリした。

「情報ありがとう。助かるよ」
『…………』
「? 樹生君?」

 急に沈黙した樹生を呼びかければ、電話の向こう側で大きな呼気がした。

『僕は、姉のことは嫌いです。やっぱり父を誑かした女が産んだ子だし、汚らわしいと思っています。そこははっきり言います。だけど、血も涙もある人間だから、不幸になれとは思っていません。僕とは遠く離れた関わり合いのない場所で幸せになってくれたらいいと思っています』

 いきなりの告白に和眞は面食らって言葉を失うものの、わざわざ本音を伝えてきたことに彼の苦悩が見て取れる。それでも問題を解決するために協力しようとするところに、彼の人となりがわかる。

「そうか。じゃあ、俺は君と離れた場所で璃桜を幸せにするって約束するよ。いろいろありがとう。引き続きよろしく」
『失礼します』

 スマートフォンを切ってテーブルに置く。和眞は「はあ」と大きく息を吐き出した。

(華原夫妻といい樹生君といい……だから璃桜はなんとか彼らに報いようと必死なんだろう。自分が恵まれていると誰よりもわかっているからか。でも、きっとみんなが望んでいることとはちょっと違う気がする。少しずつズレて……)

 そこまで考え、和眞はふと疑問が湧いた。そして今までなぜそのことに気づかなかったのだろうと思った。

 再びスマートフォンを手に取って電話をかけた。

「あ、もしもし、樹生くん、切った矢先にすまない。聞きたいことがあるんだ。不愉快な話題だろうから申し訳ないんだけど、華原さん、お父さんと中森さんがどういう経緯でそういう関係になったか君は聞いてる?」

 わずかな沈黙のあと、樹生は淡々と話しだした。

『アクシデントだって聞いています。二人がやましい関係にあったなんて誰も気づかなかったし、そんなことはなかったって思っているので、中森さんがなぜだかいきなり迫ったとか……ただ、僕に、父が進んで浮気をしたとは言いにくいだろうから、聞いたことを鵜呑みにはしていません』

「……まぁ、そうだろうね」

『でも、僕が言うのも恥ずかしいですが、両親の関係は良好です。まぁ、若干、父が母に気を遣っている感じもしますが、それを差し引いても、結婚して三十年以上ですが仲がいいと思いますよ』

 なるほど、と思う。確かにそうでもなければ、こんな状態が続くわけがない。二人が関係を持つことになった経緯は、史乃にすれば事故のような状況で夫に同情している、とでもない限り考えにくいからだ。普通の感覚なら、さっさと家から追い出すだろう。いかに陽子が病身であったとしても。そうでなければ、あとはもう当事者以外想像もつかない〝なにか〟があるのか。

「そうか、すまない、こんなことを聞いて」

『いいえ、父がどう思っているのか気になるのはわかります。中森さんに関しては母に一任して、関わらないというのが絶対の決まり事です。だから家政婦のみんなも二人が顔を合わさないよう、最大限気をつけています』

「それでも璃桜と接するのはいいんだよな?」

「ええ」という同意の言葉が耳に届く。

『赤ん坊の時は中森さんの部屋をメインにして育てていたそうですが、歩き回るようになる頃から両親が面倒を見るようになったそうです。両親が外出している間は自由だったそうで。でも、十歳くらいって言ってたかな、姉が自分の置かれている状況を教えられてからは、中森さんに近づかなくなったそうです。その頃からなのかな、中森さんがアルコールに手を出すようになったのは。すみません、ちょっと正確ではないんですが』

「いいよ、ありがとう」

 それから二言三言、言葉を交わして電話を切る。スマートフォンをテーブルに置けば、京がリモコンを操作しながら話しかけてきた。テレビの音量が上がって、アナウンサーの声がしっかり聞こえるようになる。

「確かに、華原社長がどう思ってるのか気になるよな」
「ん?」
「華原さんも針の筵なら、華原社長だって針の筵だろ。住み込み家政婦に手を出すって、世間じゃよくある話だけど、その後がここは変すぎる。二十六年前、実際になにがあったのか調べてみるか」

 事も無げに言う京を和眞は呆れたよう顔で凝視する。それを見て京が得意げに笑った。

「和眞が金持ちのぼっちゃんってのが大きいけどさ、金、じゃぶじゃぶだから。弁護士と興信所と雑誌記者、この辺とうまくつるむとけっこう楽に情報って入ってくるよ。この前の続きってことで依頼かけたら、十日もかからないんじゃないかな。当時、勤めていた家政婦を数名掴んでいるらしいから。でもって、けっこう生活が大変らしい」

「金を積めば軽くゲロってくれるって? お前、IT企業の財務責任者なんてやめて、調査会社とか起ち上げたら? そのほうがよほど成功するんじゃないか?」

「そうかもなーー。けど、興味ないな。俺は経営者松阪和眞に賭けて日本に来たんだから。それにお前が実家の会社に行けば、IFSSは俺が守らなないとさ」

 確かにそうだ。が、和眞は松阪グループに転職する気は毛頭ないものの、ここでそれを京に言っても仕方がないし、面倒だった。京は和眞が実家の家業を継ぐと思い込んでいる。そして継がないと言ったら怒るのだ。「お前だったらデカい会社だってしっかり背負えるから運命に逆らうな」と。

(買ってくれるのはありがたいが、京は少々過大評価の傾向があるから)

 隣で「それにしても」と言っている。

「華原さんのお母さん、急にどういうつもりで行動したんだろうな」
「言葉通り、娘の結婚式に出たかったんだろ?」

「……そうかな。どうもお前から聞くその中森さんっての? 娘の幸せをあんまり考えてないように思うんだよなぁ。それに、そもそも、弟君が言うように華原社長を誘惑したんだとしたら、なんのためだったんだろう」

 和眞は首を傾げた。京の言いたいことがよくわからない。

「子どもが欲しかったから、って割にはその子どもに迷惑をかけて大事にしている感じがしない。金が目的だったら、成功して大金貰ってんだからとっくに出ていってると思う。本妻のいる居心地の悪い屋敷に住み続けている意味がわからん」

「確かにな」
「ちょっと思ったのは、精神面でのパラサイト系かなって」
「娘に頼り切っているって?」

「ああ。いくら金があっても、一人で暮らすのは不安だから居心地が悪くても華原家にパラサイトして住み続け、今回娘が屋敷を出るから今度は娘にパラサイトして脱出しよう。その娘には新たに夫ができるので、夫にも媚びておこう、みたいな」

 そう言われらそんな気もする。しかしながら、会ったこともない人間のことを、いかに身近くにいる者の言葉でも、鵜呑みにして論ずるのはどうかと思う。

「まぁ、ちょっと待っててくれ。そうかからないと思うから」

 自信ありげな京を止めることもないと思い、頷いておく。最悪、俊嗣本人に直接聞けばいいことだ。璃桜と淳也を破談に追い込み、自分が璃桜と交際し、陽子の面倒を見ることになれば。

(まずは坂戸淳也だ。こいつを攻略しないことには、なにも始まらない。もうしばらく待って、動きがなければ第二弾だな)