「迎えにきてもらえるかな? 仕事中で時間がなくて送ってあげられないもんだから。それともタクシー手配したほうがいいかな」
『いえ! すぐに迎えにまいります。どこかに押し込んでおいてください』
「押し込むって」
『目を離したら、またろくでもないことを仕出かすんで。すみません! すぐに行きます』

 璃桜から電話を切ってしまった。呆れた笑いがこみ上げてくるが、淳也はそれを噛み潰した。それから陽子に顔を向ける。付け上がらないようにわざと、眉間にしわを刻んで難しい顔をする。

「璃桜さんに迎えにきてもらいました。到着するまで少し時間がかかると思います。ここで待っていてもらえますか?」
「淳也さん、さっきの話のことですが」
「この近くにおいしいケーキショップがあるんです。すぐに手配しますのでおかけになっていてください」
「あの、話」
「僕はこの後、大事なアポイントメントがあるので、失礼します」
「あっ」

 振り切るようにして応接室を出ると、足早に事務員たちがいる執務室に行き、事情を説明する。急ぐように指示すれば、年配の女性が慌てたように事務所から飛び出していった。同時に陽子が勝手に出ていかないよう見張っているようにも告げ、淳也は自分の執務室に向かった。

 イライラする。ただでさえ松阪和眞にムカつく話をされたというのに。

(今日は厄日かよ)

 陽子に言ったアポイントメントは嘘も方便だが、やることが山積なのは事実だ。幸い選挙風は吹いていないので慌ただしくはないのだが、政治家に会いたい者は後を絶たないし、嘆願書はあっという間に増えていく。だからいつも雑務用事に追われている。

 はあ、とため息をつき、プリントアウトされた書類を見るが、目は文字を追うだけで頭に入ってこない。それでもいくつかの案件を解決していくうちに、中年のスタッフが扉越しに声を掛けてきた。

「華原さんがお見えです」
「あ、はい。今行きます」

 部屋を出て事務所フロアへ行くと、璃桜が青ざめた顔をして立っていた。

「すみません!」

 淳也の顔を見るなり大きな声で謝り、大げさと思うほどの動きで頭を下げる。こんなに感情的な姿は初めてだった。

「あの、中森はなにを言ってきたんですか!?」
「なにを……」

 きょろきょろと事務所を見渡せば、スタッフ全員が注目している。この状況が気になるのは確かだが、それよりもここにいる者たちは淳也の婚約者を初めて見る。璃桜に興味津々なのだ。

「こっちに」

 璃桜の背に手をまわして押すように導く。璃桜は素直に従った。そして応接室の少し手前で立ち止まり、人差し指を口元に持ってきた状態で話を始めた。

「僕たちの結婚式に出たいらしくて、それを僕から華原さんに言ってほしいと頼まれた」
「――――――」
「娘のウエディングドレス姿を見たいって。でも、事情は聞いてるから、断ったんだ」
「当然です。そんなこと――」

 声が震えている。それだけではなく、唇も同様だ。璃桜は真っ青になって落ち着きなく視線を漂わせている。

「気持ちはわからなくもないけど、僕も華原さんたちの不興を買いたくないし。でも、納得できないみたいで。申し訳ないけど、璃桜さんのほうかた説得してもらえないかな」
「もちろんですっ。申し訳ありません! 本当に、本当にすみません」
「いいって。そんなに謝られたらこっちが困ってしまうよ」

 頭を下げ続ける璃桜が憐れに見えるが、それを口にするのは逆に失礼だろう。そう思い、淳也は笑みを浮かべて怒っていないことをアピールしたが。

「応接室で待ってもらってる」

 璃桜は弾かれたように歩き出し、応接室のドアノブを掴んで開けた。奥のソファに陽子が座っている。それを見た瞬間、璃桜が息をのむのがわかった。ひゅっと悲鳴のような音が喉から漏れ出たのだ。そして陽子に駆け寄った。

「なんてことするの!」

 璃桜の怒声が響く。

「どうして迷惑ばっかりかけるのよ。どうしておとなしく言われたことに従えないの!?」
「だって……」
「だってじゃない! みんなの気持ち、どうしてわからないの。どうしてもっと深く考えられないの」
「だって、璃桜の結婚式の様子が、見たいから」

 璃桜は信じられないものを見るように両眼をこれでもかというほど見開いている。異様な形相だ。そのことは陽子もわかっているのか、次第に言葉がしどろもどろになっていく。

「ここは坂戸さんの事務所で、坂戸さんはまだ身内でもなんでもないのよ。他人に迷惑をかけてるの、わかってる!?」
「……それは……でも、もうすぐ璃桜の旦那さんになるじゃない。そうしたら、私の息子ということでしょ? だったら、お願いしてもいいかなって」
「バカ! いいわけないじゃない! もういいっ。ここにいたら迷惑だから、帰るわよっ」

 璃桜は陽子の手首を掴むと引っ張った。

「痛いわよ、璃桜、引っ張らないで」
「黙って! あ、あの、淳也さん。本当にすみませんでした。もうここには来ないようにきつく言いますので。本当にすみません」
「……うん」
「すみません、すみません」

 璃桜は膝に顔がつくのではないかと思うほど深く頭を下げて何度も謝り、陽子を強引に引っ張って歩き始める。当の陽子は淳也になんとも言えないまなざしを向けながら、璃桜に引きずられて事務所を出ていった。

(不愉快だ)

 陽子の言動もそうだが、璃桜の様子も、である。

 同情する部分もある。あれが実の母で、本妻との間に挟まれた生活はさぞ息苦しいだろう。金の保証はされていると聞いているので、家を出ようと思えば出られるはずだ。いや、普通ならいたくないだろう。それを金があるのに住み続けるのだから、感覚がズレているとしか思えない。となると、毎日の生活もきっと平安ではないはずだ。

 そうは思うが、いつもとまったく違う、見たことのない璃桜の様子を目の当たりにして、淳也は強い嫌悪を覚えた。その嫌悪感が衝動を起こさせる。淳也はこらえきれずポケットからスマートフォンを取りだし、電話帳をタップしていた。