和眞は品川にある高級ホテルの前に到着し、見上げた。この街は再開発が進み、ただでさえ高いビルが多いのに、世界的人気のショップやレストラン、最先端のテクノロジーを売りにしたアミューズメント施設が新たに軒を連ね、近未来的なムードを深めている。

 フッと小さく息を吐くと、ロビーを通ってカフェラウンジに向かった。

 樹生の訪問から二週間が過ぎた。

 その間、特になにかをしたわけではないので進展はなかったが、和眞の手元には一通の報告書が届けられていた。京が手配したものだ。調査は簡単であったようで、数日で終わったのだが、仕事が忙しくてそれどころではなかったのだ。

 ようやく少し落ち着き、報告書に目を通し、行動に移すことになった。

 約束した相手はまだ来ていない。スタッフに案内されてテラス窓の傍のテーブルに着席し、手入れされた中庭を眺める

(ネイリスト、か)

 元キャバ嬢。坂戸淳也とつきあい始めてネイリストの学校に通い、現在ショップに勤務。

 周囲にも交際相手がいることを話し、結婚のために節約生活を送って貯金しているとのこと。

(そのカレシに婚約者がいるってわかったらどう思うんだろうな。まぁ、ずっとキャバ嬢もできないんだから、早めに路線変更できたことはいいだろうけど)

 キャバ嬢の仕事を見下げるつもりはないものの、やはり水商売は敬遠される。たとえ足を洗ったとしても、一度背負った看板が致命的になる世界もある。彼女はまさしく、その一度が許されない相手と恋に落ちたということだ。淳也の身内はもちろんだが、なによりも後援会の連中が許しはしないだろう。

(可哀相だが愛人止まりだ。まぁ、坂戸はそのつもりなんだろうけど。あいつがどれだけこの女に入れ込んでるか、今日、わかればいいが……バカじゃなければ、女のために将来を捨てるとは思えない)

 期待薄だが、説得するしかない。時間は待ってくれない。もう二人の結婚式の日取りは五か月後に迫っている。

(問題はどう振り出すか、だ。話が流れ出したら顔色を見ながら臨機応変にすればいい。が、振り出し方を誤ったら軌道修正は難しいだろう。主導権は握られたくないから下手には出られない。かといって他にオンナがいるだろうと攻めては態度を硬化させるだけだし、こっちもヤっちまってるだけにバレたら一気に形勢逆転してしまう。難しいよなぁ)

 報告書に添付されていた栗原明理なる女の写真に思い浮かべる。キャバ嬢だっただけに確かに可愛い女だった。クリッとした大きな目に鼻筋が通っているし、唇は小さめでぽてっとしていて、吸いつきたくなる感じだ。淳也が入れ込んで足しげく通ったというのもわかる。

 さらに報告書には奢った感じのない素直で明るく、一生懸命な性格で客にもスタッフにも好かれていると書かれていた。二人を応援したい、というモードで進めるしかないだろう。

(俺がキューピット役? 必死だな。フン、笑える)

 口元が嘲笑で緩む。指をやって口元を隠すが、笑みまでうまく誤魔化せているかどうか不明だ。

 和眞はふと気配を感じて顔を上げた。そして今度は明確に口角を上げ、立ち上がった。

「すみません、ご足労いただいて」
「いえ、こちらこそ」

 坂戸淳也は不信感を面いっぱいに浮かべつつ、軽く会釈をした。

「どうぞおかけください。なににされますか?」
「ホットコーヒーで」

 和眞が軽く手を挙げるとスタッフがやってくる。彼に「ホットコーヒー二つ」と告げれば、淳也に向き直り、座ったままでもう一度丁寧に頭を下げた。

「それで、お話とは?」
「ええ、そうなんですが」

 語尾を濁せば、ちょうど先ほどのスタッフが戻ってきた。テーブルにカップを起き、そこにコーヒーを注ぎ入れた。さらにクリームを置くと、もともとテーブルに設置されているシュガーポットの蓋を開けてセッティングし、去っていく。それを見送れば、淳也に視線を合わせて微笑んだ。

「華原璃桜さんのことで、ご相談がありまして」
「僕の婚約者がなにか?」

 いきなりけん制されて少々驚いたものの、和眞は彼もそう言わざるを得ないのかと思い直した。

「大変失礼だと承知しています。ですが、そこをお許しいただき、聞かせてほしいのですが、彼女のこと、想っていらっしゃいますか?」
「どういう意味ですか?」
「破談にしてほしいと僕が言ったら、呑んでもらえるかなって思いまして」
「彼女があなたにそれを頼んだのですか?」
「いえ」
「松阪さんは元上司ですよね。平と社長でしょうけど。彼女、自分から言い出せないから、会社の上司に頼んだってことなんでしょうか?」
「いえ、違います。そういうことは家族に相談すると思います」
「じゃあ、どうしてあなたが僕に話をするんです?」

 苛立ったように噛みついてくるところを見ると、己のやましさに動揺しているのだろう。和眞は一度視線を逸らして中庭にやり、二拍ほど時間を取ってからまた戻した。

「彼女、立場上ノーが言えないみたいで、僕としては非常にまだるいんです。失礼ながらこの縁談、両家のお家の事情からでしょう? 想い合ってのことではないと察しています」
「そんなことは――」
「ないんですか?」
「…………」

 淳也が顔を逸らした。

「重ね重ね恐縮ですが、坂戸さん、おつきあいされている女性がいらっしゃるでしょう?」

 淳也の肩があからさまにビクリと跳ねた。手元を見れば微かに震えているようにも取れるが、視線を感じたのか刹那にギュッと拳を握り込んだ。

「調べさせていただきました。どうしても彼女を解放してあげたくて。ですが、彼女に頼まれたわけでは決してありません。僕の横恋慕です」
「――――え?」

 緯線が合い、ぶつかる。和眞は眉間にしわが寄らないよう、穏やかさをキープしようと努める。

「彼女の働きぶりを見ていて惹かれていました。退職の理由は自己都合でしたが、ひょんなことから結婚すると言われて、さすがにあきらめないとな、と思いました。でも、彼女の表情がなんだか浮かないので……すみません、追及したら見合いとのことで、虫の知らせというか、居ても立ってもいられなくなったんです」

 うれしそうでないのは見合いからもしやと思った――と言外に匂わせれば、淳也は情けないほどわかりやすい表情になっていた。

「彼女は自分からはとても嫌だとは言えない立場なんです。助けてもらえないでしょうか。そのかわり、僕にできることはなんでもします」

「できること? なんでも?」
「はい」

 すると淳也がギリッと唇を噛み、声を殺しながらも吐き捨てるように言い始めた。

「よく言う。あんたになにができるんだよ。その言い方だったら、明理のことはしっかり調べたんだろ? どう足掻いても、明理と結婚はできないんだ」
「元キャバ嬢だから?」
「――――」
「それで婚約したことを黙ってつきあい続けて、結婚したら、お前は今日から愛人に降格だが面倒はみるから一緒にいてくれって言うのか?」

 淳也の素の反論に、和眞もかぶっていた猫を脱ぎ捨てた。最後まで丁寧にいこうと考えてはいたものの、第一印象で抱いた嫌悪はそれを許してはくれなかった。和眞はずっと、煮え切らない淳也にムカついていたのだ。

 それでも今までは抑えていたものだが、本人を目の前にし、本人の生の態度を目の当たりにすれば、我慢ができなかった。

「そうだと言ったら?」
「決めるのは愛人だから俺には関係ない。けど、可哀相だろ。惚れたカレシのためにまっとうに生きようとネイリストになったんだろうが。それをあんたは家のせいにして裏切るのか?」
「――――ウチは普通の家じゃないんだ」

「政治家先生だもんなぁ。親父と同じ道を進みたいんだ。へぇ。俺だったらイヤだね。ここ日本は、人権と結婚と職業選択の自由が保障された法治国家なんだ。あんたの兄貴はその権利をしっかり謳歌してるじゃないか。どうしてあんたにそれができない?」

 黙れ、と消えそうな言葉が聞こえたが、和眞は無視した。

「父親と後援会から手を切ったらやっていけないってのか? それは東京でか? それとも日本でか? だったらアメリカに行けよ。俺のツテで向こうで働けるようにしてやる」
「アメリカ?」

「さすがに手が届かないだろ? カノジョだって技術があれば向こうで店を出せばいいんだ。それも手伝う。俺は大学時代を向こうで過ごしたし、相棒はそもそもあっちで生まれ育ったアメリカ国籍だ。なんとでもできる。あんたの覚悟次第の話だ」

 淳也は「でも」ともらしたが、それも無視する。

「璃桜をあきらめてくれたら最大限バックアップする」
「……彼女はあんたのこと?」
「さぁ……それはなんとも」

 微妙な空気が流れるが、和眞は苦笑で遣り過ごした。

 淳也は逡巡しているかのように唇を噛みしめている。うまくいったか? と思った矢先、真っ直ぐこちらを凝視してきた。

「断る」
「――――」
「好きとか嫌いとか、そういう次元の話じゃない。俺の一存でなんとかなるなら、もうとっくにしている。華原璃桜は坂戸家に貢献してもらう」

 淳也は憎々しげに言えば、すっと立ち上がった。

「俺たちに関わらないでもらおう」

 言い捨て、歩き去ってしまった。
 その背を見送る。

 失敗した――とは思うものの、なぜだか敗北感はなかった。

(キレたのはマズかったが、今日は水面に石を投げるのが目的だ。今のあいつの心は波紋が起こって揺れてる状態だろう。思い直す余地はこれから生まれる)

 コーヒーカップに手を伸ばし、一口二口、口にする。ふと見れば、淳也の前に置かれたコーヒーはまったく減っていなかった。

(勝負は結果がすべてだ。けど、俺って青いなぁ。最後まで冷静でいられないなんてさ。それに……)

 口元にふと笑みが浮かんだ。嘲笑だ。

(ここに京がいなくてよかった。また窘められてバカにされるところだった)