フレンチは確かにおいしかった。しかしながら、目の前に座っている和眞の顔を見ていると、食べるたびに喉に詰まる感じがして仕方がなかった。

(でも……)

 いたたまれない気持ちに苛まれているくせに、和眞と二人きりの時間に幸せを感じている。彼を独り占めしていることに満足を抱いている。

 和眞のことを考えれば考えるほど、苦しくて泣きそうになる。

 だが、なぜ特定の女性とは交際しない、自ら女性を追うことはしないと公言している和眞が、こんなにも強引に誘ってくるのか、それが聞きたいという気持ちが高まる。なのだが、同時に聞く必要もない、と断罪する自分もいる。

(だって、答えはわかりきってる。私には婚約者がいる。セフレ以上の関係に発展することのない安全な存在だから遊ぶには丁度いい。それだけのことよ。聞くだけ傷つくから)

 はぁ、と和眞に気づかれないよう小さく息を吐きだす。

 それでも二時間はあっという間だった。この二時間、和眞は会社の話や、IFSS起業のための苦労話をしていた。それからアメリカでの生活も。特に副社長の池谷京との出会いと、なぜ彼と信頼関係を築くに至ったのか、など。この話題のチョイスは、璃桜がIFSSを選んで就活し、入社したから会社に愛着を持っていると思ってのことのようだった。

「ごちそうさまでした」

 精算を終えて璃桜のもとにやってきた和眞に向けて礼をする。礼儀正しい璃桜に和眞はやんわり微笑んだ。

「どういたしまして。さて、次、行こうか」
「次?」

 小首をかしげて問うと、和眞はまた微笑みを深めた。

「まだ八時過ぎだし」
「ですが」
「華原さんにどう言い訳するか、だろ? それは俺が考える」
「そういう問題じゃありません。ここで失礼します」
「じゃあ、今日は叱られてもらおうかな」

 どういう意味か問う前に和眞は歩き始めた。ここで背を見送り、すぐ傍にある地下鉄の階段を下りれば済むだけの話なのに、璃桜はつい追いかけてしまった。

(あ!)

 ヒールの音で気づいたのか、和眞が立ち止まって振り返り、手を差し伸べる。そんな姿に璃桜はぎょっとなったが、おずおずと重ねた。きゅっと握られ、鼓動が跳ねる。

 そこから向かったのは高級ホテルだった。予約していたようで、チェックインのサインをすればすぐに部屋へ行く。

「今夜は俺一人で泊まるから安心していいよ。でも、家までちゃんと送る」

 エレベーターに乗り込めば和眞が話を始めた。

「いえ、タクシーで帰りますから」
「下の駐車場に車を止めている。そのつもりで酒も飲んでない。送らせてよ」

 璃桜は和眞を見上げた。

「しっかし、今日はホント、まいったよ。五時に約束してるってのに、急なアポが入って遅れるんだから」
「仕方ありません。トラブルなら対応しないと」
「そうなんだけど、貴重な一時間を無駄にした」
「…………」

 エレベーターが目的の階に到着し、静かな音とともに扉が開いた。毛足の長い絨毯を踏みしめながらキーに打ち込まれている部屋へと向かう。

 部屋に入ると、和眞は璃桜をソファに座らせ、自らも正面に腰を下ろした。

「いろいろ聞きたいことがあるんだ。華原夫人は君を監視しているみたいだけど、そこまでされてどうして抵抗しないんだ?」
「…………」
「いくらいろいろ事情があるって言っても、腹立つだろ?」
「いいえ」
「母親の病気の面倒を見てくれているから言えない?」

 璃桜は和眞の顔をしばらく凝視してから顔を背けた。

「社長に答える義務はありません。むしろプライバシーの侵害で訴えますよ?」
「俺と一緒に背徳街道まっしぐらなのに、言える?」
「――――」
「坂戸淳也との婚約も破棄になるかもな」

 璃桜は「はあ」と大きな吐息をついた。それからまた和眞に視線を合わせる。

「誤解がないように申し上げますけど、私は奥様を憎んでもないし、ひどい目に遭わされているとも思っていません。むしろ、感謝しています。実の母を案じて屋敷にとどめてくださっているし、私は華原家の娘として恵まれた生活を送っています。淳也さんとの結婚は華原グループのためになることですが、母は屋敷から出る理由なんです」
「そりゃあ、愛人の顔なんて見たくないだろ?」
「違います!」

 璃桜は激しくかぶりを振った。

「その逆です。母の顔が見たくなければ、とっくに追い出されています。野垂れ死にしようが惨めな生活を送ろうが関係ないでしょう? あの方は私と母をずっと面倒見てくださっているんです。私は奥様から母への負担を取り去りたいんです」

 驚く和眞の顔は二重三重に見える。頬を水分が伝っていく感触がする。

「辛い思いをさせているのに、母はなにも考えずに……本来の家政婦の仕事もせず、お酒もやめずにいて、迷惑ばっかりかけて」
「待って。依存症は病気だ。本人の意志云々じゃない」
「わかっています。だから専門医もつけてもらっているし、屋敷のみんなで注意しているんです。それなのに、早く屋敷を出て一人暮らしをしたいとか言うんです。できるわけないのに」
「璃桜」

 璃桜の顔はもう涙でぐしょぐしょだ。和眞はポケットからハンカチを取り出して、璃桜の前に膝立ちし、そっとその涙をぬぐった。

「璃桜、落ち着いて」
「結婚して、屋敷を出て、私が母を見るんです。だから、お願い。波風を立てないで」
「君は、お母さんのために結婚するのか」
「……半分は。でももう半分は大事に育ててもらったご恩返しです」
「華原夫妻への?」

 問いつつ、和眞は別の言葉を胸中で言っていた。
 華原史乃への――

「華原家の娘として育てられました。私も華原グループの役に立ちたいんです」
「だから一石二鳥だって?」
「ええ。良縁だと思っています。淳也さんには恋人がいるから私のことはきっとノータッチのはずです。私が母の面倒にどっぷり浸かっていても怒ったりはしないでしょうから」

 グズグズと鼻を鳴らしながらしゃべる璃桜はもう見ていられないほど顔色をなくしている。和眞は璃桜をそっと抱きしめた。

「すまない。ありがとう。もういいよ。よくわかった」
「……私も、聞いていいですか?」
「なに?」

 和眞の声が璃桜の耳元でそっと響く。璃桜は目を閉じ、息を吸い込んだ。

「どうして、私を誘うんです? 拗れないから?」

 聞く気がない問いが口を衝いて出てしまった。しまったと思ったが、言ってしまったのだからもう仕方がない。

 璃桜の背に回されていた手が、今度は顎に置かれて顔を固定される。額にキスが落とされた。

「ごめん。自分でもよくわからないんだ。でも、ずっと君のことを考えている」
「――――」

「確かに今までの俺だったら、拗れない相手は大歓迎だ。交際を迫られたらそこでおしまい。特定の相手とはつきあわない。そもそも俺は結婚しないと考えていた。理由は、女を信用していない。俺に迫ってくる女は、松阪グループの後継者だから、IFSSの社長だから、スペックがいいから、横に並ばせれば見栄えがいいから、そんな奴らばっかりでうんざりだ」

 璃桜は顔を固定されている状態で頷いた。

「わかります。私も似たようなものだから」

「だろうな。時々、本当に良さそうな子もいたけど、俺と親しくしているといじめに遭うとか言って泣かれたこともある。そんなことを言われたらさすがに萎えるし。会社のことを考えても、俺には妹がいるからその子が継げばいい。その頃には血族が会社を継ぐなんてことはなくなっているかもしれない。だからもうパートナーはいらないと思い至ったんだ。けど、今回は……璃桜はどうにも違って、俺自身が戸惑ってる」

 互いに互いを見つめていて、逸れることがなかった。見つめ合って恥ずかしいという感情も湧いてこない。むしろよくわからない炎でジリジリと焼かれているような気さえする。

「俺のエゴだ。認める。だけど、なにをしていても璃桜のことが気になる。自分がおかしいって思えば思うほど無性に会いたくなる」
「…………ん」

 唇が重なった。覚えのある感触。璃桜は抵抗できなかった。
 無性に愛しくて、失い難いから。

「婚約、破棄しないか?」
「え?」
「好きじゃないんだろ? やめちまえよ、そんな結婚」
「そんな――できません。それに、仮に破談になったからって、社長には関係ないでしょう」
「璃桜、名前で呼ぶって約束、忘れてるぞ」
「話を逸らさないで」

 和眞の顔にうっすら笑みが受かんだ。

「坂戸淳也は〝淳也さん〟なのに、俺はいつまでたっても〝社長〟だもんな。それとも、ベッドの中じゃ名前で呼んでもらえるのかな」
「からかわないでください」
「俺がプロポーズしたら、受けてくれるか?」
「――――」
「あの男と結婚するっての、ムカついて我慢できない。あいつを振って、俺のものになれ」

 お断りします――そう言おうとした時、璃桜の鞄の中からスマートフォンの音が聞こえてきた。マナーモードになっているのでメロディではなく、バイブ音がする。和眞が身を離すと、璃桜はスマートフォンを手に取った。

「お母さま」
『璃桜さん、今どこにいるの?』
「あ、えっと」

 動揺に視線を泳がせれば、和眞は名刺を取り出して『IFSS』の文字部分を指さしている。それから人差し指と中指をV字に立てて何度が振った。

「会社、会社の人と、に、二次会に来ていまして」

 そう答えれば、和眞が二度三度頷いた。回答の仕方は正解のようだ。

『お店の中? ずいぶん静かね』
「それは……」

 鋭い指摘に璃桜は返す言葉もなくきょろきょろと視線を彷徨わせる。

『いいわ。それより、その店の近くでホテルを探して泊まりなさい。チェックインしたらホテルの名前かサイトをメールして。明日の朝、十一時くらいに迎えをやります』
「え、でも」

『でも、じゃありません。お酒が入っているのでしょう? 遅い時間に酔って電車に乗るより、近くのホテルで休んだほうがよほどいいわ。それにあなた、あまり家から出ないから、たまには息抜きしていらっしゃい。同じ、部屋に一人でも家とホテルではぜんぜん違うでしょう』

「……お母さま」
『わかったわね?』
「はい。ありがとうございます」

 電話が切れた。璃桜は緊張から解放され、肩を大きく上下に揺らして息を吐く。

「バレてんのかなぁ」

 ぼそりと呟いた和眞の言葉に璃桜は飛び上がった。顔色が悪い。

「そんな恐ろしいこと言わないでください」
「タイミング良すぎだろう? でもまぁいいや。ちょっと待って」

 言いつつ、和眞もスマートフォンを取り出し、電話をかける。すぐにつながって話し始めた。

「京? 頼んでた件だけど、不用なった。そ、かけなくていい。詳しいことは明日話す。今夜は戻らないから。じゃ」

 じっとこちらを見つめている璃桜にニマッと微笑むと、スマートフォンをテーブルに置いた。

「二次会もそろそろお開きかなって時間になったら、京から華原家に電話するよう頼んでいたんだ。俺じゃマズいと思って。さて、と。神様がすばらしい時間をプレゼントしてくれたから、ありがたく受けようと思う。出ていけなんて無粋なこと、言わないだろ?」

 和眞から顔を背けている璃桜の頬が見る見る璃桜の顔が朱色に染まったが、沈黙するばかりで否定の言葉は出てこない。

「なんか高校生になった気分。ガッツいて恥ずかしいけど、すげぇうれしい」

 璃桜は顔を上げ、キスを施そうとする和眞の顔を見つめ、そっと瞼を閉じた。