和眞と二度目の夜を過ごしたあの日から二週間が経った。会社に行かなくなってそろそろひと月になろうかという感じで、ずっと家にいるという生活にも慣れてきた。
ちょっとした買い物であっても一人で出かけることは許されない。必ず誰かを同行させないといけない。それが面倒で結婚式に関する用事以外、家からほとんど出なくなっていた。いや、一人になれる場所は自分の部屋だけなので、自分の部屋からほとんど出ない、と言ったほうがいいのかもしれない。
だが、璃桜はもともと社交的な性格ではないのでそれほど苦痛でもなく、ネットの記事や好きな本を読んだり、あるいはIFSSや和眞の活躍を調べて眺めているだけでけっこう満足していた。
(結婚したらウサギか猫でも買おうかなぁ)
パソコンの画面を見ながら、ぼんやりそんなことを考える。一人でいるのは苦痛ではないものの、コミュニケーションが取れる相手は欲しいと思う。淳也とはうまくいかないと思うし、階下に住む予定の陽子はストレスの塊になるだろうことは想像するに易い。
RRRRRRRR……
スマートフォンが鳴っている。璃桜は首を傾げながら手に取った。人づきあいをほとんどしない璃桜なので、彼女のスマートフォンが鳴るのは珍しいのだ。
「あ」
IFSSの名が表示されている。登録しているのは在籍していた総務課だから元同僚がかけてきたのだろう。
「もしもし」
『これからかけ直すから、次の着信を取って』
「え?」
電話はすぐに切れた。声で電話の主が誰かわかったものの、またかけてくるみたいだ。と、思案する間もなくスマートフォンが再び鳴り始めた。画面には数字が並んでいる。
(いきなりかけたら取らないと思ったわけ?)
この番号が和眞の携帯電話番号なのだと思うと、なにかがせり上がってくるような気がする。どうしようか悩むが、璃桜はスマートフォンを手に取っていた。
「はい」
『あぁ、よかった。無視されるかと思った』
「辞めた会社の電話番号なんて登録していないんじゃないかって思わなかったんですか?」
耳元で「はははっ」という軽快な笑い声がする。それはただの笑い声なのに璃桜の内部をじんわり温める。
『思ったけど仕方ないだろ、手段が少ないんだから。アレで取らなかったら、また別の手を考えたよ。それで本題なんだが、食事でもどうかな。いろいろあったので詫びも含めてご馳走させてもらいたいんだけど』
鼻の奥にツンと痛みが走った。
「お断りします」
『おいおい、ちょっとは悩めよ』
「あなたとは一夜限りの関係と申し上げました」
『二夜の間違いじゃない?』
璃桜は一瞬息をのみ、それからゆっくりと吸い込む。
「どちらでも同じです。もうかけてこないでください」
『つれないねぇ』
「当然です。私には婚約者がいるんです。男性と二人きりの食事なんてできません」
耳元「ふっ」という呼気が聞こえた。たったそれだけのことなのに、なぜだか背中がゾクゾクする。
『三人ならいいんだ。じゃあ、京も同席する。それならいいだろ? 社長と副社長が退職した元スタッフに労いの場を設けるって設定、どう?』
この男はなにを考えているのだろう? という疑問が湧いてくる。特定の女とはつきあわないのではなかったのか? それとも自分は不特定の女だから誘われているのだろうか。
璃桜は言葉なくスマートフォンを握りしめた。
『話があるのは本当だ。けど』
「行けないんです。わかってください」
次第に大きくなってくる苦しみに耐えきれず、璃桜は和眞を遮るようにして言い放った。
「私、一人で外を出歩けないんです。誰か必ず同行者をつけるように言われています」
スマートフォンの向こうで戸惑うような微かな息遣いが聞こえる。それがなぜだか切ない。
「社長と副社長だと言っても、もう辞めている会社のトップの方々だと逆に怪しまれますし、なにより社長は迷惑をかけた方ということで認識されています。無理です」
『どうして……』
どうしてそんな目に遭っているんだ――とでも言いたいのだろう。そんなこと、こちらが知りたいことだ。両親が、いや、史乃がなにかを疑っていることは間違いないだろうが、聞けやしない。聞いたところで本当のことなど教えてくれないだろう。それでも想像はできる。
(お母さんのことでなにか仕出かすんじゃないかって思われているのかもしれない。なんにしても、監視されていることは確か)
昂る感情が無意識にスマートフォンを握る手に力を込めさせた。
あきらめて――祈るような思いが突き上げてくる。
『理由なんていくらでも考えらえるだろう』
「は?」
『今頃になって会社に私物が残っていたことがわかったから取りにくるように言われたが、せっかくなのでみんなで食事にいこうと同僚に誘われたと言えばいい』
「あの」
『で、実際には偶然現れた社長に連行されて食事にいったとすれば、疑われたって後の祭りだ。久しぶりだから元同僚たちに会いたいって頼めばさすがに了承してくれるだろ?』
確かに、そうかもしれないが。
『だったらあんまり先の予定はダメだな。来週って思ってたけど、今週にしよう。えーっと、ちょっと待って、今週だったら……あ、明後日だったらスケ調整できる。明後日どう? 五時に銀座で』
強引だ。そう思うが、言葉が喉に引っかかって出てこない。
『璃桜』
(ダメ)
『璃桜、聞いてる? 返事しろ』
(どうして――)
どうしてこの男はこうも強引なのだろう。
どうして私はこの男にこんな言われ方をしなければいけないのだろう。
どうして命令されないといけない?
そう思うのに、否定の言葉が出てこない。どこかでよろこんでいる自分がいる。
(ウソ)
よろこんでなどいない。
困っているだけだ。
だが、間違いなく、自分の一部がこの強引な男に〝なにか〟を求めている。
その〝なにか〟に気づきたくない。
とてつもなく怖い。
「どうして?」
たった今、胸中で発した声が口からこぼれ落ちた。
『なに? 聞こえなかった』
「どうして誘うんですか? 私には」
『会いたいから。それだけ』
「――――――」
『五時、会社のエントランスで待ってる。じゃあ、明後日』
電話が切れた。沈黙が耳を侵食していく。
「――――――」
ズルい――
そう言いたいのに、言葉はやはり出てこない。
スルい。
――会いたいから。
(会いたいから)
視界がじんわり滲んでくる。
愛してもいなければ、好かれてもない婚約者がいる自分に、いったいなにができるのだろう。
それなのに心は行きたいと思っている。自分も和眞に会いたいと思っている。
璃桜はスマートフォンを握りしめたまま呆然と座り込んでいた。
華原樹生は高校三年だが、通っている私立高は大学の付属校なので大学受験をしなくていい。学内で行われる内部試験を受けるだけだ。進学したい学部で合格点は異なるものの、通期の定期試験の結果で内定が出るので、よほどヘマをしない限り影響はない。よって空いている時間は経営学や経済学、またマーケティングや財務に関することを学んでいた。
将来、華原グループを背負っていくためには仕方がないことだ。しかしながら、持論は同族会社否定派で、優秀な人材が正当な評価を受けて重責を担っていくべきだと考えている。
そういうわけで、高校三年生であっても受験に縛られないので、今も学校帰りに映画を鑑賞し、続けて大型書店やらバイクショップやらをめぐっていた。
(あれ)
有楽町をブラブラ歩いていた樹生は、少し先にある高級フレンチ店の前に璃桜が立っていることに気づいた。
(一人? なんで?)
史乃は璃桜を一人で出歩かせない。なぜだかわからないが徹底している。驚くのはそれだけではない。目の前を歩いているならまだしも、店の前に立っているのも不思議だ。
(誰かを待ってる?)
璃桜はスマートフォンに視線を落とし、なにかを確認しているみたいだ。着信なのか、メールなのか、はたまた時間なのか。
しばらく観察していると、タクシーが止まり背の高い男が降りてきた。そして迷うことなく璃桜の前に進む。樹生はその男の顔に覚えがあった。
(あの時の車の――)
樹生のスマートフォンのメモアプリに名前と携帯電話を保存した男だ。
名前は、松阪和眞、とあった。
二人は並んで立って親しげに会話している。するとフランス料理店からタキシード姿の男が現れて二人に声をかければ、案内されて店内に入っていった。
(どういうこと?)
その〝どういうこと〟には複数の疑問が含まれている。最大の疑問は、坂戸淳也と婚約中の璃桜が男と二人で飲食店に入っていったことである。
(浮気してる? それとも、もともとつきあってる男がいたのに、持ち込まれた縁談を受けたってこと?)
樹生はなんだかイヤな気分になってきて、身を翻し、来た道を戻る形で歩き始めた。
ちょっとした買い物であっても一人で出かけることは許されない。必ず誰かを同行させないといけない。それが面倒で結婚式に関する用事以外、家からほとんど出なくなっていた。いや、一人になれる場所は自分の部屋だけなので、自分の部屋からほとんど出ない、と言ったほうがいいのかもしれない。
だが、璃桜はもともと社交的な性格ではないのでそれほど苦痛でもなく、ネットの記事や好きな本を読んだり、あるいはIFSSや和眞の活躍を調べて眺めているだけでけっこう満足していた。
(結婚したらウサギか猫でも買おうかなぁ)
パソコンの画面を見ながら、ぼんやりそんなことを考える。一人でいるのは苦痛ではないものの、コミュニケーションが取れる相手は欲しいと思う。淳也とはうまくいかないと思うし、階下に住む予定の陽子はストレスの塊になるだろうことは想像するに易い。
RRRRRRRR……
スマートフォンが鳴っている。璃桜は首を傾げながら手に取った。人づきあいをほとんどしない璃桜なので、彼女のスマートフォンが鳴るのは珍しいのだ。
「あ」
IFSSの名が表示されている。登録しているのは在籍していた総務課だから元同僚がかけてきたのだろう。
「もしもし」
『これからかけ直すから、次の着信を取って』
「え?」
電話はすぐに切れた。声で電話の主が誰かわかったものの、またかけてくるみたいだ。と、思案する間もなくスマートフォンが再び鳴り始めた。画面には数字が並んでいる。
(いきなりかけたら取らないと思ったわけ?)
この番号が和眞の携帯電話番号なのだと思うと、なにかがせり上がってくるような気がする。どうしようか悩むが、璃桜はスマートフォンを手に取っていた。
「はい」
『あぁ、よかった。無視されるかと思った』
「辞めた会社の電話番号なんて登録していないんじゃないかって思わなかったんですか?」
耳元で「はははっ」という軽快な笑い声がする。それはただの笑い声なのに璃桜の内部をじんわり温める。
『思ったけど仕方ないだろ、手段が少ないんだから。アレで取らなかったら、また別の手を考えたよ。それで本題なんだが、食事でもどうかな。いろいろあったので詫びも含めてご馳走させてもらいたいんだけど』
鼻の奥にツンと痛みが走った。
「お断りします」
『おいおい、ちょっとは悩めよ』
「あなたとは一夜限りの関係と申し上げました」
『二夜の間違いじゃない?』
璃桜は一瞬息をのみ、それからゆっくりと吸い込む。
「どちらでも同じです。もうかけてこないでください」
『つれないねぇ』
「当然です。私には婚約者がいるんです。男性と二人きりの食事なんてできません」
耳元「ふっ」という呼気が聞こえた。たったそれだけのことなのに、なぜだか背中がゾクゾクする。
『三人ならいいんだ。じゃあ、京も同席する。それならいいだろ? 社長と副社長が退職した元スタッフに労いの場を設けるって設定、どう?』
この男はなにを考えているのだろう? という疑問が湧いてくる。特定の女とはつきあわないのではなかったのか? それとも自分は不特定の女だから誘われているのだろうか。
璃桜は言葉なくスマートフォンを握りしめた。
『話があるのは本当だ。けど』
「行けないんです。わかってください」
次第に大きくなってくる苦しみに耐えきれず、璃桜は和眞を遮るようにして言い放った。
「私、一人で外を出歩けないんです。誰か必ず同行者をつけるように言われています」
スマートフォンの向こうで戸惑うような微かな息遣いが聞こえる。それがなぜだか切ない。
「社長と副社長だと言っても、もう辞めている会社のトップの方々だと逆に怪しまれますし、なにより社長は迷惑をかけた方ということで認識されています。無理です」
『どうして……』
どうしてそんな目に遭っているんだ――とでも言いたいのだろう。そんなこと、こちらが知りたいことだ。両親が、いや、史乃がなにかを疑っていることは間違いないだろうが、聞けやしない。聞いたところで本当のことなど教えてくれないだろう。それでも想像はできる。
(お母さんのことでなにか仕出かすんじゃないかって思われているのかもしれない。なんにしても、監視されていることは確か)
昂る感情が無意識にスマートフォンを握る手に力を込めさせた。
あきらめて――祈るような思いが突き上げてくる。
『理由なんていくらでも考えらえるだろう』
「は?」
『今頃になって会社に私物が残っていたことがわかったから取りにくるように言われたが、せっかくなのでみんなで食事にいこうと同僚に誘われたと言えばいい』
「あの」
『で、実際には偶然現れた社長に連行されて食事にいったとすれば、疑われたって後の祭りだ。久しぶりだから元同僚たちに会いたいって頼めばさすがに了承してくれるだろ?』
確かに、そうかもしれないが。
『だったらあんまり先の予定はダメだな。来週って思ってたけど、今週にしよう。えーっと、ちょっと待って、今週だったら……あ、明後日だったらスケ調整できる。明後日どう? 五時に銀座で』
強引だ。そう思うが、言葉が喉に引っかかって出てこない。
『璃桜』
(ダメ)
『璃桜、聞いてる? 返事しろ』
(どうして――)
どうしてこの男はこうも強引なのだろう。
どうして私はこの男にこんな言われ方をしなければいけないのだろう。
どうして命令されないといけない?
そう思うのに、否定の言葉が出てこない。どこかでよろこんでいる自分がいる。
(ウソ)
よろこんでなどいない。
困っているだけだ。
だが、間違いなく、自分の一部がこの強引な男に〝なにか〟を求めている。
その〝なにか〟に気づきたくない。
とてつもなく怖い。
「どうして?」
たった今、胸中で発した声が口からこぼれ落ちた。
『なに? 聞こえなかった』
「どうして誘うんですか? 私には」
『会いたいから。それだけ』
「――――――」
『五時、会社のエントランスで待ってる。じゃあ、明後日』
電話が切れた。沈黙が耳を侵食していく。
「――――――」
ズルい――
そう言いたいのに、言葉はやはり出てこない。
スルい。
――会いたいから。
(会いたいから)
視界がじんわり滲んでくる。
愛してもいなければ、好かれてもない婚約者がいる自分に、いったいなにができるのだろう。
それなのに心は行きたいと思っている。自分も和眞に会いたいと思っている。
璃桜はスマートフォンを握りしめたまま呆然と座り込んでいた。
華原樹生は高校三年だが、通っている私立高は大学の付属校なので大学受験をしなくていい。学内で行われる内部試験を受けるだけだ。進学したい学部で合格点は異なるものの、通期の定期試験の結果で内定が出るので、よほどヘマをしない限り影響はない。よって空いている時間は経営学や経済学、またマーケティングや財務に関することを学んでいた。
将来、華原グループを背負っていくためには仕方がないことだ。しかしながら、持論は同族会社否定派で、優秀な人材が正当な評価を受けて重責を担っていくべきだと考えている。
そういうわけで、高校三年生であっても受験に縛られないので、今も学校帰りに映画を鑑賞し、続けて大型書店やらバイクショップやらをめぐっていた。
(あれ)
有楽町をブラブラ歩いていた樹生は、少し先にある高級フレンチ店の前に璃桜が立っていることに気づいた。
(一人? なんで?)
史乃は璃桜を一人で出歩かせない。なぜだかわからないが徹底している。驚くのはそれだけではない。目の前を歩いているならまだしも、店の前に立っているのも不思議だ。
(誰かを待ってる?)
璃桜はスマートフォンに視線を落とし、なにかを確認しているみたいだ。着信なのか、メールなのか、はたまた時間なのか。
しばらく観察していると、タクシーが止まり背の高い男が降りてきた。そして迷うことなく璃桜の前に進む。樹生はその男の顔に覚えがあった。
(あの時の車の――)
樹生のスマートフォンのメモアプリに名前と携帯電話を保存した男だ。
名前は、松阪和眞、とあった。
二人は並んで立って親しげに会話している。するとフランス料理店からタキシード姿の男が現れて二人に声をかければ、案内されて店内に入っていった。
(どういうこと?)
その〝どういうこと〟には複数の疑問が含まれている。最大の疑問は、坂戸淳也と婚約中の璃桜が男と二人で飲食店に入っていったことである。
(浮気してる? それとも、もともとつきあってる男がいたのに、持ち込まれた縁談を受けたってこと?)
樹生はなんだかイヤな気分になってきて、身を翻し、来た道を戻る形で歩き始めた。