運転中にスマホが鳴り、和眞は赤信号の間に内容を確認した。相手はこれから会う女からだ。

『冷えたスパークリングワイン買ってきて』

 飲んでしまったことを忘れ、補充し損ねたのだろう。

(仕方がねぇなぁ)

 胸中で愚痴り、ハザードランプを点灯させて路肩に寄せた。

 マップアプリを立ち上げ、この周辺にある冷えた酒を売っていそうな店を探す。だが、ピンとくるものがないので、遠回りになるが百貨店に寄ることにした。

 地下駐車場の前まで来ると幸いにもあいていると電光掲示板が示している。和眞がそのまま侵入すると、その掲示板が青から赤へと変わった。

「ラッキーだった」

 空いているのは一か所だ。地下へのスロープを進んで場所を探す。

「あそこか、ちょい面倒だな」

 狭い駐車場の上に角だが出口へのアプローチが角度的に悪い。入れるのはまだいいだろうが、出すには何度か切り返す必要がありそうだ。

 それでもとにかくここしか空いていないので仕方がない。和眞は愛車を止めると食料品売り場に向かった。

 酒類を置いているエリアに向かう。所狭しと多くの商品が陳列されているが、和眞の目的は冷蔵庫で冷やされているスパークリングワインだ。

(あったあった)

 大型の冷蔵庫の前に行き、スパークリングワインを眺めると、五〇〇〇円くらいのシャンパンがあった。

(これくらいかな)

 シャンパンにもいろいろ種類があるが、言い出したらキリがない。記念日でもないのだから、シャンパンで値段も手ごろなら文句は言われないだろう。

 扉を開けて商品を手に取り、レジに向かう。それから車に戻った。

(割れないようにしないとな)

 トランクに空箱を置いているのでそこに仕舞い、運転席に乗り込む。エンジンをかけて車を動かすが、切り返さないと出られないのでまずは右にハンドルを切り、そこから左に流そうとした矢先、ライトが目に飛び込んできた。と同時にキキキーー! という高い音と、続いてガシャンという大きな音が響いた。

「!」

 眩しくて目がくらみながらもブレーキを踏み込み、慌てて見渡せばバイクが転倒しているのが見える。和眞は血の気が引くのを感じながらも急いでエンジンを切ってサイドブレーキ引き、車から飛び出した。そしてバイクの傍に座り込んでいる男に駆け寄った。

「大丈夫かっ!?」
「ええ」

 ライダーはそう返事をしてヘルメットを取ると、高校生くらいの若い顔を和眞に向けて「大丈夫です」と続けた。

「本当に? どこか痛いところとかないか? あ、いや、念のため病院に行ったほうがいい」
「いえ、本当に大丈夫です。それにあなたの車にぶつかって転倒したわけじゃないんです。むしろ僕のほうが飛び出してきたなにかにびっくりして急に進路を変えたから、ライトがそっちに向いてしまって……僕が悪んいです」

 その言葉に状況が見えてくる。だが、やはりバイクが転倒して地面に投げつけられたら心配だ。頭などはあとから症状が出て、取り返しのつかない状況を引き起こしかねない。

「やっぱり心配だ。診てもらったほうがいい」
「でも、今日、土曜だし。もし不調を感じたら病院に行きますんで、あなたは心配しないでください。僕、この先用事があるんで、すみませんが、もう行かせてください」

 そうか、と思わず言いそうなったが、彼の顔を見て和眞は気が変わった。とはいえ今は名刺はもちろん紙もペンも持っていない。思案しかけて閃いた。

「スマホ持ってる?」
「え? ええ」
「出してくれる? 画面開いて」

 彼は変な顔をしつつ、和眞に従った。差し出されたスマートフォンからメモアプリを立ち上げ、自分の名前と携帯電話を打ち込んだ。

「もしなにかあったらここに電話してくれ。それから病院には、今日でなくても行ってほしい。頭だけでも調べておいたほうがいいから。診察料が俺は出す」
「でも」
「いいから」

 強く言うと、彼は困惑げな表情のまま頷いた。このまま拒否っても互いに譲らず平行線だと思ったのだろう。

「ありがとうございます。けど、重ねていいますが、僕が飛び出してきたなにかに驚いただけで、転倒にあなたは関係ありませんから」
「わかった」
「じゃあ」

 そう言うと、ヘルメットとかぶり、横倒しのバイクを起こして去っていった。

(マジかよ。肝が冷えたっての。でもまぁ、あの様子じゃ大丈夫そうだろうけど)

 ほっと胸をなで下ろし、車に向かう。それから発進するが、なんだかもすっかり気が萎えてしまった。

(断ろうか)

 などと思ったものの、家にはおそらく京のカノジョが来ているだろうし、高くはないがシャンパンも購入した。これを持ってどこかのホテルに泊まるもの面倒な話だ。和眞は気を取り直して初志貫徹とすることにした。

 豊洲に向けて出発するが、ここ銀座からでは目と鼻の先だ。

 道路事情はよく、二〇分もかからず到着した。すでに来客用の駐車スペースを確保していると連絡をもらっているのでそこに止め、部屋へと向かった。

「いらっしゃい」
「ほら」

 購入したシャンパンを渡すと、靴を脱いで無遠慮に上がり込む。そしてダイニングキッチンに入って、テーブルについた。

 そのテーブルには酒に合いそうな肴が並んでいる。もちろん、百貨店かどこかの総菜であることは聞かなくてもわかっている。この家の主は料理をしないからだ。今も彼女の爪にはきれいなネイルが施されていて、宝石の装飾が付いているのかキラキラと輝いている。

 ひたすら自分を美しく見せることに徹している女だが、和眞としてはまったくどうでもいいことだった。なぜなら彼女とは時間が合った時だけ会う関係で、本人に深く関わる気はないからだ。

 互いにそれが同意事項でもある。この女だって和眞とどうこうなろうとは思っていない――はずだ。

「で、手に入ったA5ランクの肉はどうなった?」
「あら私、そんなこと言ったかしら?」
「お前なぁ」

 和眞が持参したシャンパンを開けてグラスに注げば、氷の入ったワインクーラーに差し込む。

「冗談よ。私だってお肉くらい切れるって」
「焼くんじゃなく?」
「もらったのはローストビーフよ。それもけっこうおっきな。あとで出すわ。まずは乾杯しましょ」
「おう」

 グラスを掲げて軽く交わす。

「お、なかなかイケるな、これ。テキトーに選んだのに」
「愛想がないわね。私のために一生懸命選んだって言いなさいよ」
「嘘だとわかっていてもうれしいのかよ」
「当たり前じゃない」

 ふふふと微笑む笑顔が嘘っぽい。

(そういえば……)

 華原璃桜の表情も嘘っぽい。だが、同じ嘘っぽくても受ける印象はぜんぜん違う。

(楽しんでる嘘と、苦しんでる嘘の違いか。こいつは俺に惚れてるかもしれないが、あいつは俺を利用しただけ。俺に引き止められることが苦痛だからな)

 思わずため息をつきかけて踏みとどまる。目の前にはこの場を楽しんでいる女がいるのだ。陰気なムードはよろしくんない。

「仕事の調子はどうなの?」
「順調だよ。俺には超優秀な相棒がいるから」
「京さん? イイ男よね」
「ああ、だから今もカノジョに愛されて幸せなんじゃないかな」

 え? という小さな声が彼女の口からもれた。

「どうかした?」
「えーー、カノジョいるの? マジ? 狙ってたのに」
「嘘こけ」
「あーー、狙ってはないけど、お近づきにはなりたっかった」
「そーかよ。残念だったな」

 ぷっと頬を膨らませ、口を尖らせている。こんな顔もするのか、と思った瞬間、物憂げな璃桜の顔を思い出す。

(ああ、こいつは案外表情豊かだったな。美人だから無表情イメージ強いけど。でも彼女はいつもなんだか沈み込んだ感じだ。そりゃそうか、家が大変だもんな。正妻と実母が同じ家にいて、愛人の娘として針の筵だから)

 考えればこちらまで暗くなってくる。そしていったいどんな生活を送っているのだろうと考えてしまう。もちろん気の毒だという思いを含んだそれだ。

 二度目の夜は泣かれた。ずっと押し殺したような感じの璃桜が和眞の前で初めて感情を見せた。驚いたと同時になにかが揺さぶられた気がした。

「でね、ムカついて言い返してやったら、慌てて謝ってきて。ふふふ、いい気味だわ」

 楽しげに笑う面前の女に、沈んだ表情の璃桜の顔が重なる。

(俺、璃桜のことばっかり考えてるよな。いや、彼女をどうこうしようと思っているわけじゃないんだけど……せめて俺と一緒の時くらいは笑ってほしいだけなんだけど。いや、そういう態度じゃないな、俺。自分の欲求を押しつけてる)

 なんだか罪悪感が湧いてきて、無性に苛立ってきた。

「和眞? どうかした?」
「え?」
「口に合わない?」
「……いや、うまいよ。どっかの高級店の総菜だろ?」
「ええ。今、大人気のカヌーボのオードブルセットよ。ローストビーフもそこのなんだけど。あ、もう出しちゃうわ。それとも食事はやめて、ベッドに行く?」
「まだ五時だろ。早いよ」

 小首をかしげる姿にベッドの中での彼女の表情が重なり、和眞は大きく息を吸い込んだ。

「ちょっとトイレ行ってくる」
「ええ」

 逃げるように席を立ち、トイレに駆け込んだ。立ったまま壁に凭れて大きく深呼吸をする。
 脳内では、これから食事の続きをし、寝室に移動してベッドでの行為の一連が流れる。

 なんだか胸が痛い。
 いや、息苦しい。

 流れたイメージは消え、璃桜の泣き顔に変わる。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、メールアプリを立ち上げた。ダミーのメールアドレスから会社宛にメールを送る。ほとんど同時にスマートフォンが音を発した。本メールから着信を示すライトとメッセージが入る。展開すれば会社のメールアドレスから転送という形で今打ったメールが展開された。

 面倒くさいが、その場から去りたい時のための手段だった。急ぎの、あるいは大事なメールが入った、と。

「……悪い」

 一言呟き、トイレから出る。

 その数分後、和眞は来客用駐車スペースに置いている愛車に乗り込んでいた。