一ヶ月後、結月の部屋は入居したての頃のようにすっきりと片付いていた。
 午後八時半。結月は二〇一号室のドアの前に立っていた。
 インターホンを鳴らすと、間もなくドアが開けられた。
「こんばんは」
「結月ちゃん、久しぶりだね。ほんとに来てくれると思わなかったよ。どうぞ」
 虎仁郎が笑顔で迎えてくれた。
「あ、違うんです」
「え?」
「私、引っ越すんです」
「えっ!? いつ?」
 虎仁郎の柔らかい表情が一変した。
「明後日です」
「明後日!? もしかしてこの前のことで管理会社の人に何か言われた?」
「いえ、そうじゃなくて」
「じゃあ、仕事の都合で?」
「いえ、そうでもなくて……」
 結月は苦笑いしながら「実は彼氏と別れたんです」と答えた。
「ああ、そういうこと。彼氏と一緒に住んでたんだ」
「いえ、そうじゃないんですけど」
「違うんだ?」
「じゃあ……彼氏と別れて男手が足りないから、俺に引っ越しを手伝ってくれないかっていうお願いをしに来たってこと?」
「やだ、違いますよ!」
 虎仁郎は口元だけで笑い、声のトーンを少し落として「別れの挨拶しに来てくれたってことだよね」と続けた。 
「……はい」
「俺でよければ、引っ越し手伝うよ」
「え?」
「まあでも、引っ越し先を知られるっていうデメリットはあるけど」
 言ったあと、虎仁郎は探るような目を向けた。
「ああ、大丈夫です。荷物は少ないんで」
「そっか」
 探るような目は、期待が外れたというような表情に変わった。
「あの、そういう意味じゃなくて、ほんとに荷物が少ないんです。家電はちょうど買い換え時期で処分したんで、持っていく物はローテーブルと、衣類と食器とか小物だけで、段ボール三つってとこです」
 聞かれてもいないことを、結月は事細かに説明した。
 誕生日に雅人からプレゼントと称して結月の部屋に運び込まれた一際存在感を放っていた大きなソファーベッドも、雅人の了承を得て処分した。照明やエアコンなどの家電は引っ越し先のマンションに備え付けられていて、新たに購入する必要もない。

 結月にとっての引っ越しは、恋人との別れを意味し、新しい生活と、新たな出会いを迎えるための儀式のようなものだった。

「へえ、もしかして結月ちゃん、ミニマリスト?」
 虎仁郎が驚いた表情で尋ねる。
「まあ、そこまでガチガチではないですけど」
「今、部屋行ってもいい?」
「え、それは無理です」
「だっ、だよね、ごめん。どさくさに紛れてこんなこという男、最低だよね」
 虎仁郎のテンパりようが可笑しくて、結月は思わず吹き出した。
「虎仁郎さんがそんな人じゃないのはわかってますよ」
 結月がそう言った途端、虎仁郎が真顔になった。
「そんな言い方されたら、引くに引けないんだけど」
「え?」
「もしも、君が家に入れてくれるって言ったら、俺は嫌われてはいないだろうって判断するつもりだったんだ」
 結月は言葉に詰まった。
「だけど、君にはっきりと断られて為す術がなくなった」
 それは、つまり――