「え」


予想だにしなかった言葉に声が裏返った。
資料を書き換えるって、何のために?


「そんなことをするわけがないだろう!なんの得があって書き換えるなんてことをするんだ!」


「それは僕にも分かりません」


「誰がやったんだ!はやく名乗りでろ!」


静まり返る社内。
全員が困惑の表情を浮かべているなか、三瀬くんは達観したように冷静だ。
三瀬くんの考えていることが全く理解できない。だって、私が悪いということにして謝ればすぐに終わったことなのに。
こうやって、小さな悔しいを積み重ねて生きてきた。慣れたものだ。だから、いいのに。


「犯人探し、するならしてもいいですよ」


三瀬くんの言葉が社内に静かに響いた。
ひらひらと紙を揺らしながら、ゆっくりと歩きはじめる三瀬くん。


「僕と星子さんがデスクを離れたのが15時30分から15時40分頃の間です。社内にいた人はだれですか」


「みんな覚えてないだろ、そんなこと」


部長の言葉にみんなが小さく頷く。
確かに特定された1日の10分程度の時間何をしていたかなんて覚えていない。
私はあの日あの時間部長に呼ばれて外回りを頼まれたあと、コピー機で印刷をしながら三瀬くんに資料の送信を頼んだ。
ーーー「星子さん」

ーーー「んー?」

ーーー「今日香水つけてたりします?」


「三瀬くん、もしかしてもう何か分かってたりする?」


三瀬くんは私の方を見て、不敵に笑ってみせた。
そして小さく息をはいたあと、手に持っている資料をくしゃりと握りつぶした。


「まあ、みなさんの1日の動きなんて今の世の中調べようと思えば片っ端から調べられますが、もういいです」


三瀬くんの人差し指がある人へと向く。


「木下さん、書き換えた理由、教えてもらえませんか」


名前を呼ばれたその人の方に一斉に皆が目を向けた。
木下さんは青ざめた表情で瞳を泳がせた。
小さな声で「ち、ちがう、ちがう」と何度も呟いている。
その動揺さ加減は誰がみても木下さんが意図的にやったことだと理解できるものであった。
私だけではなく、そこにいる全員が察した。


「わ、私は何も知らない!!」


木下さんは、そう言って飛び出していく。
部長が「おい!木下!!」と耳をつんざくような怒号を響かせ追いかけようとするがそれは三瀬くんがとめた。今の状況で部長がいくと逆効果だ、じゃあ誰がいく。


「私行ってきますね」


気づけば、自分の口からこぼれたそれ。
そして木下さんのあとを追うように走った。

木下さんからぶつけられる嫉妬心のようなものに気づかなかったといえば嘘になる。
気にしないふりをした。女の醜い嫉妬に巻き込まれたくないと思った。


「木下さん!」

ヒールの彼女と、スニーカーの私。追いつくのは簡単だった。
会社の人通りの少ない廊下。名前を呼べば木下さんの足が止まった。
数メートルの距離をゆっくりと縮めていく。私に背を向けていた木下さんが振り向いた。瞳に涙を溜めて私を睨みつけている。


「…川北さんも三瀬くんのことが好きなんでしょ」

「え?」

「教育係なのをいいことに彼に近づいていい気になって、ずっとあんたのこと嫌いだったの私」


「そんなことで、資料の書き換えをしたの?」


「そんなことじゃない!!」


憎しみを存分に含んだ金切り声がそこに響き渡る。


「私はね、自分が好きになった人からもう裏切られたくないの」


「っ、木下さん」


飲み会の時、同期が言っていた元カレの話と何か関係があるのだろうか。
そう脳内で考えたあと、後悔が募った。

あの時なんで私はあの話を聞いてしまったのだろうか。何も知らなければ彼女にたいして少しの同情もなかっただろう。
だから、「知る」ということは苦手だ。いやでも人間関係に変化ができてしまう。

何も知らず、平凡に生きていきたい。


「邪魔なの、川北さんが。はやく会社辞めてよ」


ぐっ、と拳を握る。
少しだけ昔のことを思い出したような気がした。
昔から巻き込まれ体質だった。
平凡に生きていきたいのにいつも何かの渦に巻き込まれている。
もがくことはマイナスに作用すると学んだあと、私は愛想笑いという仮面を貼り付けることで平凡に強制軌道修正したのだ。

感情が爆発したのは、いつぶりだろうか。

振りかざした手を相手の頬にぶつけた。

いとも簡単に地面に倒れ込んだ彼女が驚いたように私を見上げる。


「グーでいく?普通」


木下さんの少し掠れた声が私に届いた。
そうだね、グーはやりすぎました。すみません。


「私個人にたいして恨みをぶつけるならかまわないけど、今回のは見逃せないよ木下さん」


「っ、」


「ここの社員だけじゃない、先方の会社にまで迷惑かけたんだよ?私は今それにめっちゃ怒ってます、グーでぶん殴るぐらい」


「ごめんなさい」と消えいる声で放った言葉とは裏腹に解せない思いもあるのだろう。憎しみを含んだ瞳は私に向いたままだ。


「立てる?木下さん」


手を差し伸べれば、それは振り払われた。


「部長や、先方には謝るからそれでいいでしょ」


「うん、まあ、そうだね」


ついでに私と三瀬くんにも陳謝してほしいところだけれど、という言葉はこらえた。
しばらくの沈黙が流れたあと、私はまたへらっと笑った。


「ほっぺ、冷やした方がいいね、冷たい飲み物買ってくるから待ってて」




そう言って彼女のもとを離れた。