なにごともなく、日常は過ぎていく。
三瀬くんはあれからも普通に私を教育係として敬ってくれるし、あいも変わらず部長はこわいし、女たちは三瀬くんをねらってギスギスしている。


「よし、あとは先方にメール送るだけだね三瀬くん。資料ありがとう」


「こちらこそ、資料のチェック手抜かずやってくれてありがとうございます」


キュン。は、いかんいかん仕事中だ。


「このままメールは私の方から送るから」

「はい、お願いします」


パソコンに打ち込んだ文面をもう一度確認して、私は送信ボタンにカーソルを合わせた。


「おい、川北、三瀬、少し話せるかー!」


送信が押される前に部長に呼ばれ、即座に「はい」と返事をして立ち上がった。何か怒られるのではという緊張感からか上司に呼ばれると運動部並みのはやさで返事をしてすぐさま向かうのが日常だ。

「何もやらかしていませんように」そう願いながら部長のところへ向かう私と、何にも動じず冷静に立ち上がって部長のもとへ近づく三瀬くん。

どちらが新人か分かったもんじゃない。私も彼のようにもう少しだけ余裕さを身につけたいものだ。


「じゃ、頼んだぞ」


怒られるようなことはなかった。

外回りを手伝って欲しいとのことだったので、三瀬くんと外へ出る準備を始める。

部長から渡された資料のコピーの準備をしながら私は、自分のデスクへ戻った三瀬くんへと声をかけた。


「三瀬くん、悪いけど私のパソコンからさっきのメールの送信しといてくれない?あと送信ボタンおすだけだから」


「分かりました」


三瀬くんは、私のデスクへと移動したあと手際よくエンターキーをおす。そして私の方へと顔を向けた。
コピー機の機械音とともに、三瀬くんの声が私の鼓膜を揺らした。


「星子さん」

「んー?」

「今日香水つけてたりします?」


香水?と首を傾げる。


「つけてないよ」


「そうですか」


質問の意図が分からず、一瞬感じた彼の表情の違和感に私は気づかないふりをしてリズムよく出てくる紙を見つめた。








「おい、11日に見積書と発注日時諸々送ったのだれだ!?」


ものすごい剣幕で怒鳴り散らした部長にその場が静まり返ったその日。

11日、資料。そのワードで私は一気に体中から汗が吹き出る。
三瀬くんの方を見れば、彼はすぐに私たちのそれだと気づいたらしく眉を顰めた。彼が手をあげようとする。


「わ、わたしです!」


正直に言えば楽になるなんてことはなく、これから起こる地獄を考えるといっそのこと土下座でもして部長をドン引きさせるかというところまで考えた。

手をあげた私の方へズカズカと部長が歩いてくる。


「発注の日程が間違えてんだよ!なにやってんだ!」


あれだけ確認したのにそんなはずありません!とは言い返せず、私は頭を下げた。早く終われ早く終われ。
周りの目もいたいし、もうこのまま死んでしまいたかった。


「このミスで先方が大変になることくらいお前の脳でも分かるだろ、なあ、川北あ!」


資料を頭に何度もぶつけられる。痛くはないけれど屈辱的ではあった。

だけど「はい」と返事をする。分かっている、分かっていたから何度も確認をしたのに。
頭を下げたまま唇を噛み締めた。

と、

「資料を作ったの僕です」


冷静な声がして、顔をあげる。
何を考えているか分からないその瞳が、私たちを視界に入れた。
ゆっくりとこちらに歩いてきた三瀬くん。


「メールを送ったのも僕です」


「み、みつせくん」


私の横に並んだ三瀬くんが、幾分か自分より低い位置にいる部長を見下ろした。


「送った資料、みてもいいですか」


質問をしたものの、すでに部長の手から資料は奪い取られ三瀬くんはそれに瞳を落とす。

そしてしばらくして静かに口を開いた。


「星子さんと俺は何度も確認作業をしています」


「だからなんだってんだ、ミスはミスだろう」


「はい。あの日メールを送る前に部長に呼ばれてデスクを離れたのは確かにミスです」


「どういうことだ」


三瀬くんの言葉を脳内でもう一度再生させる。「部長に呼ばれてデスクを離れた」確かにそうだ。
もしかして、三瀬くん何かに気づいているのだろうか。
どうしよう、全然分かんない。
頭の上にはてなマークが浮かんでいる部長同様、私も半泣き状態で首を傾げる。


「僕たちがデスクを離れて部長と話した時間は10分程度。
その時間に資料を書き換えることが可能だと言っているんです」