「お疲れさまでした。」 「じゃあまた明日。」
 社員が挨拶を交わしながら帰っていく。 夕日が社屋をほんのりと宵闇に染めていく。
ここは菅原町の片隅に在るビル管理会社。 私は総務課長の小森孝弘。
もうこの会社に勤めて何年になるだろう? 気付いたら50も過ぎていておじさんになってしまった。
 総務部の部屋を出ると3階の廊下を歩いていく。 エレベーターの前の壁には【火の用心】と書かれたステッカーが貼られている。
それを毎朝、毎晩、見詰めながらエレベーターに乗り込む。 ちょうど5階から下りてきたところらしい。
 ドアが開くと一人の女性が乗っていた。 (こんな人、居たかな?)
 顔を見ても思い出せないので私は壁を見詰めたまま黙っている。 女性も同じくで黙ったままだ。

 やがて一階に着いたエレベーターのドアが開いた。 私たちは黙ったままエレベーターを出て玄関へ向かった。
 玄関を出て街路樹を眺めながらバス通りへ向かう。 交差点で立ち止まって振り向いた私は驚いた。
ずっと女性も私と同じ方向へ歩いてきていたのである。 「あなたは何処の部署?」
「私ですか? 私は秘書室の木村沙織です。」 「秘書室?」
「そうです。 3年前に入りました。」 「そうだったんだ。」
 話を聞きながらあれこれと思い出してみる。 3年前と言えば私はまだ管理部長だった。
 あの当時は各地のビルに出掛けて管理状況のチェックをしていたんだ。 それで会社にはほとんど居なかった。
今年、総務部へ移ってやっと少しはゆっくり出来るようになったばかり。 信号が青になった。
 交差点を渡ると彼女は向かい側へ渡るために信号の前に立った。
私はというとバス停で我が家の方へ向かうバスを待っている。 今は4月。
 風はまだ肌寒い。 冬の寒さがようやく抜けてきたかという感じである。
(あんな人が居たなんて、、、。) 私はまだまだ半信半疑のままである。
 セミロングの髪に微香のコロン、そして遠くを見詰めているような眼、、、。 (まだ若いんだろうか?)
初めて会った女性のことをあれこれと推測してみる。 30代なのは間違いないだろう。
 これまで私はビル管理会社で働いてきた。 時にはエレベーター事故に遭遇し、時には売れ残ったビルの処分に頭を悩ませながら、、、。
荒波も立ったし、沈みかけたことも有る。 押し流されそうになったことだって、、、。
それでもなんとかここまで凌いできたんだ。 もう少しで退職する所まで来た。
 社長は4人代わった。 そのたびに一喜一憂したもんだ。
最初は事務員だったんだ。 でもさ、対応能力が有るからって営業に回された。
 営業で20年近く走り回ってから管理部に回されたんだ。 ビルのことは詳しくなっていたから任されたんだね。
それが今や、総務部だ。 おかげで外へ出ることは無くなってしまった。

 我が家へ向かうバスがやってきた。 今日もけっこうに混んでいるらしい。
家に帰ったからと言って誰かが出迎えるわけも無い。 私はずっと独身だった。
 もちろん、好きな人が居なかったわけではない。 結ばれなかっただけである。
30分ほど走ると南横山町、我が家の傍にバスが停まる。
 バスを降りた私はいつものようにいつもの道を歩いていく。 空き地が広がっている静かな町である。
15分も歩くと少し坂を上った所に私の家が在る。 親父の知り合いから借りた一軒家である。
 もう、この家に住んで何年くらいになるだろう? 親父も老人ホームの厄介になっている。
元気だった頃は鉄工所の親分でずいぶんと羽振りが良かったんだ。 議員の後援会にも入っててさ、毎年何やかやと世話を焼いてたっけ。
 その議員も死んでしまって鉄工所も人手に渡ってしまった。 以来、親父はしょんぼりしちまって見る影も無かった。

 家の脇には親父が大切にしていた自転車が今も置いてある。 ちゃんと車輪も磨き上げて今でも走れるんだよ。
なんでも好きだった競輪選手から贈られたんだそうだ。

 さてさて、玄関を開けて中へ入る。 廊下を挟んで居間が在る。
居間に入ると床の間にバッグを預けて背伸びをする。 時計はもう6時半を過ぎている。
妻が居れば今頃は飯を炊いて夕食の準備に忙しい頃だろう。
とはいえ、私には妻と呼べる女性も居ない。 今夜も一人である。
 薄暗い台所に立つ。 飯は炊いてあるからおかずを作るだけ。
音が無いのはあまりに寂しいからYouTubeで拾った音楽を聴いている。 昔はテレビを見ていたのに。
 煮物を作るとテーブルに落ち着いてコップ酒を飲む。 唯一の楽しみだと言ってもいい。
この辺りは夜になると本当に車も通らなくなる。 上に上がっても何も無いのだから。
たまに心霊マニアが散策している。 この辺りに心霊スポットが有るのだそうだ。
 しかし、ここに長く住んでいるがそのような場所に行き当たったことは無い。 上の方に祠が在るような話は聞いたことが有るけれど。
 煮物を食べながら酒を飲む。 毎晩こうして酒を飲む。
一人酒もいいもんだね。