「……悪い」

 浅尾が、目を伏せてポツリと言った。
 
「少し……自慢っぽかったかも」
「あ、いや、違うんだ。なんだかすごいエピソードだなと思って、ビックリしていただけだよ」

 俺がポカンとしてしまったから、自慢話に引いたと感じたのか。周りのことをなにも気にしないタイプかと思いきや、やっぱり浅尾には繊細な部分があるんだろうな。

「……あんまり得意じゃねぇから。なに話すのかとか……よく、分かんねぇ」

 そうか。コミュニケーションが苦手なのに、俺と会話するために浅尾は一生懸命なんだ。
 おそらくとても頭がよくて回転も速いから、さっきみたいにとても早口になることがあるのかな。だけど、全然不快ではなかった。

 よし、いまなら訊けるかもしれない。

「あの……浅尾って、どこに住んでいるの?」

 人のプライベートを訊ねるのは、俺にとって勇気のいることだ。でも、浅尾のことをもっと知りたい。自分のことも知ってもらいたい。素直に、そう思った。

「結構ゆっくり起きても間に合う距離みたいだから、気になって。俺の家は世田谷区の端で、多摩川の近くなんだ。ほとんど川崎市って感じ」
「オレは……港区の、白金」
「へぇ、いいところに住んでいるね」
「白金高輪駅のすぐ近くのマンションに……ひとりで住んでいる」

 え、ひとり暮らし?
 うちの学校は私立だし校則では禁止されていないと思うけれど、高校生でひとり暮らしって、なかなか珍しいな。しかも白金って。

「姉が、いて」
「あ、お姉さんいるんだ」
「いねぇけど」

 うん? ど、どっち?

「一緒に住んでねぇの」
「……同居はしていないけど、保護者として、お姉さんが近くにいるってこと?」

 こくりと頷く浅尾。意味が合っていてよかった。
 喋り方や間が独特ではあるけれど、浅尾と話すのが、なんだか楽しくなってきたな。

「そのお姉さんって」
「次ー! 長岡ー!」
「は、はい!」

 いまから会話が盛り上がりそうなところだったのに、もう自分の番になってしまった。
 ああ、嫌だな。短距離は苦手なんだけど。

「頭の先からくるぶしまで軸をまっすぐにして地面からの反発力を活かすのがコツ」

 また早口で、浅尾がつぶやいた。俺が嫌そうな顔をしていたのに、気がついたのかな。
 
「あ、ありがとう。頑張ってみる」

 重たい気分が、ふと軽くなった。
 浅尾のアドバイスを繰り返し頭の中でイメージして、スタート位置につく。軸をまっすぐ、軸をまっすぐ。そう念じながら走ると、いままでよりも足がスムーズに出る感覚があった。

「長岡、7秒7!」

 ゴールラインを越えたあとに聞こえてきた先生の言葉に、思わず耳を疑う。
 
「えっ、7秒台ですか?」
「なかなか綺麗なフォームだったぞ!」

 嬉しい。すごく嬉しい。いつもクラスの中で足が遅いグループに入れられていた俺が、7秒台だなんて。
 
「浅尾、自己ベストが出たよ!」

 駆け寄ると、浅尾が座ったまま無言で左手を上げる。その意味を考えるまでもなく、俺はその手にハイタッチをした。