「は、はい。もういいですよ、浅尾君。ちゃんと授業を聞いていたんですね」
「すみません、聞いてはいません。ただ、この教科書に書いてある内容は、すべて知っています」

 あ、あまりにも、堂々としている。ちゃんと謝ってはいるし、素直……なのかな。

 それにしても、教科書の内容をすべて知っているだなんて。ハッタリを言うようには見えないし、生物学者でも目指している……わけないよな。このクラスは、芸術高校美術科の日本画専攻なんだから。

 そのあとも浅尾は前を向いたまま眠り続けていたけれど、先生が浅尾のほうに視線を向けることはなかった。

「浅尾。次、体育だよ」

 生物の授業が終わっても動かない浅尾の肩を、軽く揺さぶった。

「ああ……ありがとう……」
「体、動かせる?」

 まだ目が開ききっていないけれど、浅尾はこくりと頷く。
 大丈夫かな。確か今日は、スポーツテストの50m走とシャトルランがあるはずなんだけど……この状態で、走れるのか?

 のろのろとジャージに着替える浅尾。やっぱり、まだ目は開ききっていない。そのまま一緒に体育館へと向かったけれど、虚ろな表情のまま、ひと言も発しない。

 だけど授業が始まって準備運動をしていると、少しずつ浅尾の目が開いてきた。

「50m走の測定をやるぞー! しっかり走れよ! まずは出席番号1番……浅尾から!」

 どうして体育の先生って、こういう喋り方なんだろう……と思いながら、浅尾がスタート位置につくのを眺める。とりあえず、ちゃんと覚醒しているみたいだ。
 
 浅尾は肩と足首を軽く回して、クラウチングスタートの姿勢をとった。そして先生の合図とともに飛び出すと、想像以上の速さで、ゴールラインを超える。

「おお、6秒4!」

 え、6秒台前半って……クラスメイトたちも、意外な数字に驚いている。手動計測は少し速いタイムになりがちだと聞くけれど、その誤差を考えても、結構速い方なんじゃないか?

「浅尾は、なにかスポーツをやっていたのか?」
「別に」
「陸上部に入れば、もっとタイムは伸びると思うぞ! 一度、ちゃんと計測してみないか?」
「嫌です」

 先生の言葉をあっさり却下して、浅尾は少し離れたところに、ひとりで座る。俺の順番はまだ少し先だから、遠慮がちに近づいてみると、浅尾は少し横に避けて俺が座るスペースを空けてくれた。なんだか嬉しい。

「浅尾って、足が速いんだね」
「さっきのは遅いほう」
「そうなの?」
「午前中だし」
「な、なるほど」

 そこでまた、沈黙。そして数秒後に、再び浅尾が口を開いた。

「バルセロナのカタルーニャ広場から港まで続くランブラス通りでスリに財布を盗られたときにダッシュで逃げる犯人を全速力で追いかけて取り返したことがある」

 やっぱり早口。だけど、ちゃんと聞き取れる。
 海外でスリ被害に遭って、自分で取り返すなんて……なんだか、すごいな。