この町で最も尊いもの
小さなツバメの骸と王子様の鉛の心臓

幼い頃読んだ「幸福な王子」。私はあの物語が大好きで、何度も読み返し、ツバメと王子に思いを馳せた。
オスカー・ワイルドの書き上げたこの物語では、儚く切ない2人の最期が、ラストで神様の行動と言葉により救われる。
私は、ツバメのように純粋に、王子のように深々と、誰かを愛してみたかった。

時は過ぎ、私は成人し、そんな少女時代の夢も忘れて社会人になった。日々仕事に追われ、一人暮らしのアパートに帰るのは日付が変わる頃。帰宅するとベッドに倒れ込む毎日だった。
それでも身なりには気を遣った。朝どんなに眠くてもきちんと化粧をし、服装も雑誌を見て努力した。

「山﨑さんはおしゃれだね」

そう私に言ってくれたのは、勤め先の上司だった。「こんなこと言ったらセクハラになるのかな」と焦る姿が、なんだか可愛らしいと思った。彼は、以前から皆に優しく、仕事も出来る人で、尊敬できる上司だ。そして私は、皆に優しい上司の言葉でも、日々の身なりへの努力を認めてもらえたことが、自分でも驚くほど嬉しかった。たった一言、「おしゃれだね」と言われただけだというのに。
その日から彼を目で追ってしまうようになり、一言二言の挨拶を交わしただけで嬉しさでいっぱいになった。
その感情の正体が何かを理解するのに、時間は掛からなかった。自覚するとなおさら意識してしまい、彼の前では自然体でいられなかった。まるで初恋のようだ。

「山﨑さん、今日仕事終わりに食事に付き合って貰えないかな」

私の挙動が心配だったのか、彼からの最初のお誘いだった。私はもちろん快諾し、残業で少し遅くなったものの、メイクや髪型を直して待ち合わせ場所に向かった。街中で私を待つ彼は、とても素敵だった。彼はものすごく整った顔という訳では無いが、これが恋の効果なのかと感心してしまうくらいだ。
私を見つけると微笑んで手を挙げる。恋人でもなんでもないのに、嬉しさで胸がくすぐったかった。こんなに目まぐるしく変わる感情は、果たして本当に自分なのだろうか。

「今日も山﨑さんはおしゃれだね」
嬉しくてたまらないのに、どう反応していいのか分からない。咄嗟に出た言葉は、
「狭山課長の方が素敵ですよ」
内心ひやりとした。気持ちが露呈してしまうではないか。そんな私の心配をよそに、彼ははにかむように笑って答えた。
「山﨑さんにそんな風に言ってもらえると嬉しいなあ」
ああ、私は本当にこの人が好きだと思った。こんな何でもない会話で、それを実感する。
その夜、私は彼に身体を許した。幸せな夜の中、ふと脳裏にあの物語のツバメと王子がよぎった。でも、すぐに忘れてしまった。

それから1ヶ月が過ぎた。彼とは順調にお付き合いを続けている。でも、彼は頑なに周りに言わなかった。私にも、仲のいい同僚であっても言わないでほしいとお願いするほどだ。冷やかされるのが嫌なのかもしれない、と私の思考は逃げた。本当のことを、本当は薄々分かっていたのに。
社内の給湯室で、同じ課の先輩に話しかけられた。
「山﨑さん、狭山課長と何かあった?」
どきりとした。でも、平静を装って、声を絞り出した。
「何も、ないですよ。」
すると先輩は頭を掻きながらため息をつき、言った。
「何も無いならいいけどさ、あの人、既婚者なのに女性社員にすぐ手を出すからさ。」


時間は確かにあの時止まったと思う。動くことができず、声も出せず、でも薄々分かっていたことだからと自分の脳内で何度も言い聞かせ、必死で全部の感情に蓋をした。そうしないと、きっと泣いてしまう。
私は顔を上げて先輩に言った。
「知ってましたよ。気をつけますね。」

その後どうやって仕事をして、どうやって帰宅したのか分からない。でも、ようやく泣いていい場所に着いたのに、涙は出てこなかった。
スマートフォンの通知音が鳴った。びくりと身体を震わせ、横目で画面を見た。彼からのメッセージだ。

『今日様子がおかしかったけど、何かあったの?僕で良ければ聞くから相談してね』

優しい、優しい彼。嘘が分かっても、金メッキのような優しさでも、こんなに愛している。誰から責められようが、決して離れたくない。
私はツバメのように彼を愛してる。金箔が剥がれた彼の姿を知っても、なお愛しているのだ。
でも私たちは尊いものにはなれない。神様も救ってくれない。彼に本当に愛されているかも分からない。なんて滑稽なんだろう。自嘲しながら迎える朝は、悲しいくらい眩しかった。