『今夜は月が綺麗ですね』
その言葉を言ってくれたのは、あなただった。

あなたは憶えているだろうか。よく2人で夜の散歩をしたことを。2人で並んで、ゆっくりとした歩幅で、たくさんの話をしたことを。私はあの時間が終わらなければいいのにといつも願っていたことを、あなたはきっと知らない。私があなたの想いに、気づかずに過ごしたように。

あの日もあなたは、『満月が見たいから』と私を誘ってくれた。私は急ぎ身支度をし、あなたの手を取って夜道を歩いた。
『嬉しそうだね』とあなたは微笑っていた。
大好きなあなたと、こうして歩けるのだから、わたしとしては当然だった。
月を見上げ、あなたは少し溜息を漏らす。美しい満月だった。そして、あなたは月ではなく私を見下ろして言った。
『今夜は月が綺麗ですね』
月明かりの逆光で、表情がよく見えなかったけれど、あなたが泣いてしまう気がした。どうしてかは分からない。ただ繋いだ手をキュッと強く握り、『本当ね』と微笑むことしか私には出来なかった。
…あの頃私があなたの想いを知るには、私があまりに幼稚だったのだと、後になって思う。
私の想いすら、無邪気そのもので、想うだけで良かったのだ。
私の返答に、あなたはがっかりしていたのだろうか。私らしいと思ってくれただろうか。今となっては、知る術がない。


満月の散歩の翌週、あなたはいなくなってしまった。詳しいことは知らされていない。私はただの友人でしかなかったから。ただ、あなたが事故にあったのだと、そして、一命は取り留めたが、眠ったままなのだと、あなたの親族から後になって聞かされた。
『あなたはあの姿を見ないでやってほしい』
そうも言われた。

会いたかった。眠っていてもいいから、そばに居たかった。想いを伝えたいと、初めて思った。それがどれだけ今さらなのか、考えると後悔で心がズタズタに傷ついて、それはやがて私を諦めさせた。あなたを探すことも、せずに。

それから2年ほど経った日、私はあなたのあの日の想いを知ることになった。テレビ番組で、文豪のドキュメンタリーを特集していた。その中で、夏目漱石が取り上げられた。彼の美しい翻訳に、あの言葉が映っていた。

『今夜は月が綺麗ですね』

画面を食い入るように見つめ、私は泣いていた。
後悔と、愛しさで、気が狂いそうだった。
私があの日あの言葉の意味を知っていれば。あの日、会わないで欲しいと言われても、あなたを探していれば。それなのに、こんなに愛していると、この想いが愛だったと、今になって、どうして気づくの。
嗚咽を堪えきれず、私は子どものように泣いた。

外は雨で、風もなくただ降りしきっていた。
満月は、確か今夜だった。あなたも残念だと思っているだろうか。この世界のどこかであなたにはそう思っていて欲しかった。