「水の中、見てると安心する」

彼女がそう僕に言ったのは、2人で初めて訪れたとある水族館でのことだった。
そうなんだね、と僕は返し、2人で大水槽を見つめた。泳げない僕からしたら、安心というより羨望だな、と心の内で考えていた。

彼女は大学のサークルの先輩で、僕の恋人だ。小柄で可愛らしいが、僕が何より惹かれたのはその声だった。
あの日サークル見学中、部室に遅れて現れた彼女。『遅れてすみません』、その凛として、かつ愛らしい響きの第一声に、僕は一目惚れならぬ一耳惚れをしてしまったのだ。

再三のアタックの末、ようやく恋人宣言できたのはそれから5ヶ月後のことだ。

彼女は水族館に目がなく、デートは毎回行く場所に迷うことがなかった。今日は池袋へ、次は品川、スカイツリー、江ノ島、八景島…日帰りで行ける所はほとんど行き尽くし、夏休みには沖縄に行きたいね、なんて盛り上がった。
水槽を泳ぎ回る魚たちは、時に滑稽で、時に神秘的で、僕らもこの紺碧の中に漂っていたくなるような、懐かしさを持ち合わせた生き物だった。
「懐かしさ」という言葉を使ったのは、彼女からの引用だ。何回目かのデート、訪れた水族館で、彼女は水槽の前に佇んでいた。そしてぽつりと呟いたのだ。
「どうして水槽を見てる時って、こんなに懐かしいのかな」
僕はわかる気がした。例えるなら、母なる海、そのジオラマにいる様な、そんな感覚。
でもあの凛とした声に、寂しさが滲むように聞こえた気がした。その横顔は、薄暗い館内で見えなかったけれど。

月並みな表現だけれど、僕は本当に彼女が大好きだった。声も、輪郭も、よく笑うところも、別れ際見せる寂しそうな表情も、甘えたがりなところも、ちょっと間の抜けたところも、何もかも、全部が。僕は、恋をする実感を、あの日々に、確かめていた。

夏休みに入る直前だった。
彼女は突然大学を辞め、地元に帰ったらしい、とサークル内で聞かされた。
僕は知る由もなかった。青天の霹靂だった。昨日も電話をして、次のデートの計画を、あんなに嬉しそうに話していたのに。
彼女に連絡をとったが、それから1年経つ頃になっても返信が来ることはなかった。

僕は塞ぎ込んだ後、荒れた。大学の単位も、かなり落としていた。どうなってもいい、なんて甘えていた。

「留年して、親御さんに迷惑をかけたいのか」
学科の担任にそう諭された。そういうわけではない、そうぶっきらぼうに答える僕に、教授は笑った。
「当たり前だよな、わかってたよ。お前さんも心の中ではわかってるんだ、素直に生きなさい」
彼女が隣に居なくなって、駄々をこねていた自分が恥ずかしくなった。目が醒めた僕は、一心不乱に授業を受け、無我夢中で課題をこなした。留年を免れた時は、友人たちが焼肉を奢ってくれた。

そして僕は、あんなに好きだった彼女を、少しずつ忘れていった。思い出すことがあっても、時間が偉大な特効薬となっていた。忘れることに、慣れていく自分に、悲しくなることも減っていった。

それから数年後の深夜、着信音で目が覚めた。
ソファでうたた寝していた僕は、気だるい声で電話に出た。寝ぼけて画面も見ずに。

「…私のこと、わかる?」

時間って、何のためにあったんだろう。嫌でも僕をあの頃に引き戻す、凛とした、声音。
涙が、ぽたりと落ちた。

「わかんない、よね。ごめんね、こんな遅くに」

それじゃあと彼女が言いかけて、僕の静かな声がそれを防ぐ。

「わからないわけ、ないよ」

彼女は少し沈黙した。

「あの頃、私突然いなくなって、連絡も返さなくて。
でも、ずっと君のことしか頭になくて」

勝手は承知の上です、と断り、彼女は続けた。

「言い訳はできないけど、謝ることだけは、何年掛かってでもしたかったの」

「何年掛かってでもって、どういうこと?」

「…私、病気なんだ。あの頃は打ち明ける勇気が持てなくて、みんなの前から逃げ出したの」

僕は怒ってもいい立場だったと思う。それでも、まず聞かずにいられなかった。

「なんの病気だったの?身体は?今は元気なの?」

彼女が安堵したように柔らかく笑う声がした。

「大丈夫だよ、精神面の病気なんだ。身体は、健康だよ」

僕は息を大きく吐いた。それまでしばらく息を止めていたくらい緊張していたことに気づく。

「なんだ、よかった…死んじゃう病気かと思って、泣くとこだったよ」

そう言いながら、すでに泣いていたが。

「やっぱり君は優しいね。そんなふうに安心してくれた人、初めてだよ」

彼女は嬉しそうな声音で、またいつか会いたいね、と小さな声で呟いた。



水族館巡りは、今でも続けている。
いつの間にか、僕の趣味になった。
…あの水槽の前、紺碧に溶けそうな彼女を、僕は抱きしめていればよかったのかもしれない。今でも水槽の前、立ち尽くして考える。
その問いに答えがないことも、うっすらと分かっていた。