「――あ、そういえば。俺さぁ」

「……?」


3年A組の教室のドアを出ると、数歩先でこちらへと振り返った櫂が、またも悪巧みするような顔をして再び口を開く。


「帰国した日に、車ですれ違ったんだよなぁ。知らない男と歩いてる、黒髪のキレーな女の人とさ」

「……!」


櫂が何を言おうとしているかはすぐに察しがついた。

僕は不本意にも感情のまま素直にリアクションを示してしまい、手応えを得たヤツはさぞかし満足そうに厭らしく微笑む。


「あの方、伊波のご令嬢だったかもなぁ。いや、“元”ご令嬢か~?」

「……お前」

「ま、俺が言わなくともお前のことだ。とうに調べはついてんだろ?円さんの居場所くらいさ」

「……」


伊波円(いなみ まどか)――

その名前の響きに、僕の心臓が不快な音を立てて沸き立つ。

両腕の薄い体毛が逆立ち、顕著なまでに鳥肌を立てて反応した。正直すぎる体のそれに、自分でも呆れて苦笑する。


――昔の、話だ。


「帰る」

「おう♪とにかく例の件、頼むぜー。期待してるからな?」

「……」


酔狂で悪趣味な男の顔をけん制するように軽く睨んで、僕は何も言わずに立ち止まったヤツの体を追い越し、どこを目指すでもなく歩き出した。

離れていく櫂の気配を背中で感じながら、気付けば空中回廊を抜け、誰もいない別棟の校舎を進んで行く。


伊波、円。

繰り返されるその名前に、長く忘れていた――忘れさせていた、遥か昔の記憶が呼び戻される。


彼女の顔を最後に見たのは、そう、確か――僕が5歳を迎える11年前の誕生日、12月24日からさらに3日ほど、遡った頃。


――じゃあ今日も、良い子にして待ってるのよ。可愛い白亜。

キラキラと輝く宝石を散りばめたジュエリーと、相反する安価な布で織られた深紅のワンピース。鼻につく女性特有の香水と、化粧品のにおい。

自身を当時の最大限、煌びやかに飾り立てた目の前の女は、不自然なほどに真っ赤な口紅で彩った口角を吊り上げてから、絵に描いたような三日月目で美しく笑って、まだ小さな僕を見ていた。


長く目の光を失っていた母親が、その頃になってまた生きる活力を見出し、嬉々とした表情で厚化粧を施す背中を僕は何度も眺めていた。

上品で気高かった令嬢の面影はなく、夜な夜なホストに狂い堕ち、さらに歪さを滲ませていく母親の惨めな姿は、僕から純粋な感情を奪っていく過程としては十分だった。