小さな体は冷え切っておりボロボロで、今にもその命の灯が消えてしまいそうな状態だった。
「――何してんだよ」
「あ……」
私を追いかけてきたのか、私の腕に横たわる傷だらけの子猫に目線を落とす背後の黒芭くんに、何となく言葉が続かず言い淀む。
私の言葉を黙って待っている彼から目を逸らして、子猫の傷に触れないように気を付けながらそっと立ち上がった。
「事故か何かに遭ったみたいなの」
「それで」
「まだ生きてる。助けてあげたい」
「……」
こうして話している間にも、子猫の生命力はどんどん失われている気がして、私は大通りへ抜けて、辺りをキョロキョロと見回した。
「この近くに動物病院はねーよ。もう少し進んだ道の途中に一軒、あったと思うけど」
「え!本当!?」
「アンタさ、その猫を助けるって意味、わかってる?助ける側にも責任はついてくる」
「わかってる。勝手に連れ帰るわけにはいかないけど……でも、このまま放っておいたらこの子は死んでしまう」
私が怯まずに強い眼差しでそう答えると、やれやれと言わんばかりの態度で、彼は「こっち」小さく声を出して、人通りの少ない路地裏へと進んで行った。
その背中を追いかけてしばらく走ると、視界に犬と猫の絵が描かれた看板が見えて来る。
私は子猫を抱えたまま急いで院内に駆け込み、受付のスタッフと、偶然すぐ傍で会話をしていた獣医らしき男性に声をかけた。
「すみません!この子、道で怪我して倒れてたんです。助けてあげられませんか?」
「……! すぐに処置室へ運んで」
獣医の先生は、衰弱した子猫の具合を見るやすぐに診察の準備を進めてくれた。
しばらく待合室で待っていると、いつの間にか姿を消していた黒芭くんが院内にふらりと現れる。
どうやら、先ほど路上に一時的に停めていた自転車を取りに行っていたらしい。
「その制服、東蘭高校の学生さんだよね?」
「は、はい」
そのタイミングで近付いて来た受付スタッフの女性が私たちを一瞥して声をかけて来た。
待合室のソファから立ち上がって答えると、ガラス越しに獣医の先生の処置を受ける子猫の様子が窺えた。
「あの子、野良の猫ちゃんなのよね?周りに親猫や飼い主らしき人もいなかった?」
「はい、見ませんでした」
「そう……。状態は正直あまり良くはないみたい。どうにか先生が診てくれているけど……。それにね、ちゃんと治療しようにもお金がかかるのよ。動物病院はボランティアではないから、例え善意で助けてあげた猫ちゃんだとしても、それは連れてきた人に負担してもらうしかないの。その辺り、お家の人には話してる?」
心配そうな面持ちでそう話すスタッフの女性に「大丈夫です」お金ならあるという意味で頷き返す。
念のため、所持金を確認しようと財布を取り出すが、それは自分が思った以上に軽く心許なくて不安が走った。
そういえば、聖さんと凛々子さんに渡すためにほとんどのお金を別の封筒に入れたまま、部屋に置いてきてしまっていた。
そうなると、一度家に帰らなければ、今日の治療費すら儘ならない。
「大丈夫そう?」
「あ、えっと……」
何かを察したのか私を覗き込むように見るスタッフにどう答えるか考えあぐねていると、その思考を遮るように、隣の彼が口を開いた。
「大丈夫です。金なら俺が持ってます」
私が目を瞬かせて振り返っても、当の黒芭くんはそれを気に留める素振りもなく冷静に続ける。
「このまま治療をお願いしてもいいですか」
彼の落ち着いた物言いに、スタッフの方も一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐに理解して何度か頷き、獣医の先生の元へ戻って行った。
再び二人きりとなった待合室で、私が彼に詰め寄るように視線を向けると、彼は無言のまま、処置室の子猫を無表情で見つめていた。
その後、懸命な治療の甲斐もあり、子猫はなんとか一命をとりとめた。
しばらくは入院となったため、私たちは必要な書類を記入してから動物病院を後にする。
「黒芭くん、今日の治療費、立て替えてくれてありがとう。家に帰ったらお金返すね」
「別にいい。それより、あの猫、うちでは飼えねーからな」
「わ、わかってるよ……」
再び自転車の荷台に揺られながら、そんな会話を交わして帰路に就く。
40分で帰り着くはずの道のりが、家に着く頃には随分と日が落ち、空にはオレンジ色の夕日が射していた。
黒芭くんの姿を捉えて、家の敷地内に張り巡らされたセキュリティが解除される。
門扉とオートロックの玄関のドアが解錠された音がして、私は先を行く彼に続いて中に入った。
「なーちゃん!クロ!おかえりなさーい!!遅かったのねえ!」
「凛々子さん、ただいま、です」
家に入るやいな、エプロン姿の凛々子さんがオタマを片手に玄関まで駆け込んできて、盛大な笑顔で私たちを出迎えてくれた。
それをスルーして、そそくさと2階へ上がって行く黒芭くんに、凛々子さんは「まずは手洗いうがいしなさーい!」なんて、小学生の子供に向けるようなお小言を叫んでいる。
「あらあら?シロは一緒じゃなかったのぉ?」
「白亜くんは学校の後に用事があったみたいで……」
「そうなの?もしかしてアルバイトかしら?今日ご飯いらないなんて聞いてないんだけど~」
困ったように腰に手をやって唇を尖らせる凛々子さんのその言葉に思わず首を傾げる。
「白亜くんってアルバイトしてるんですか?」
「ええ、そうよー?若いうちから社会経験をしっかり積んで、欲しいものは自分の力で手に入れるっていうのが、神代家の教えですからね♪」
実業家として会社経営をしているという聖さんらしく、神代家はこれだけ裕福な暮らしぶりの割りに、教育方針は厳しめだ。
私はそれとなく相槌を打ってから凛々子さんに一声かけると、着替えるべく自分の部屋へ向かった。
――
―――
最低限の家具だけを配置して、モノトーンで統一した殺風景な部屋の天井をじっと見つめる。
「……クソ」
目の前を両腕で覆い視界を遮っても、あの時の光景は、俺の脳裏に鮮明に蘇っては頭から離れてくれない。
こんなに時が経ったというのに。それでも俺は未だに、当時の深い後悔の渦の中にいる。
だってそれは、俺が殺してしまった命だから。
*
「ね、ねえ、は、白亜!」
「――なに?」
目の前に立つ小さな少年は、5歳という年齢に到底見合わない、光のない暗い瞳をして、無感情に俺を見据えていた。
「ぼ、ボクのお兄ちゃん、ならさ、一緒に遊んでくれる?」
「――なにして?」
「それは、えーと……かくれんぼ、とか」
突然現れた“双子の兄弟”とかいう存在に、当時の俺はそれはもう妙に浮足立っていて、ヤツと対峙する時は大抵いつも空回りしていたような憶えがある。
それでもやっぱり兄貴の存在は、それまで一人きりだった俺にとってはめちゃくちゃ嬉しくて、どうにかこの笑わない少年と仲良くなりたい、その一心に焦がれて、アイツの笑顔を引き出そうと毎日必死だったっけ。
「かくれんぼ?キミって、子供みたいな遊びが好きなんだね」
「子供みたいって……。だってボクたち、子供じゃん……」
「……まあ、別にいいけど。どっちが鬼をするの?」
白亜は当時から、子供ながらに見惚れるくらい綺麗な顔をしていて、纏っている雰囲気もどこか異質だった。
と言っても、俺の双子の兄弟なのだから、顔の造り自体はそう変わらないはずなのだが、それでも俺とはどこか違っていて。
周りの大人たちもそんな白亜の不思議な空気感を、一歩引いた目で見ていて、その辺を走り回っているようなありふれた5歳児とは明らかに一線を画す存在だった。
「じゃあその……ボクが、隠れてもいい?ボク、かくれんぼ結構得意だし」
「ふーん……。それじゃ、僕が鬼ってことね」
白亜は了承すると、「いーち……にい……さん……」何の前触れもなく突然カウントをコールし始めて。
「ちょ、ちょっと!早いよ、白亜!も、もうっ」
俺は慌てて駆け出して、隠れる場所を探して公園内を走り回った。
そして、子供ひとりが入り込めるくらいの隙間を開花前のツツジの奥に見つけて、身を屈めながら潜り込む。
その矢先だった。
「ミャー」
1匹の小さな可愛らしい子猫が、怪我をしたのか地面に伏せっていて、まるで俺に助けを求めるように潤んだ瞳を向けていた。
俺はかくれんぼのことなど忘れて、咄嗟にその猫に駆け寄り、そっとその小さな体を抱きかかえる。
記憶の限りでは、まだ生後1か月くらいだったと思う。怪我の具合は、決して死にかけるような重傷ではなかったものの、放っておけば、いずれは力尽きて死んでしまうかもしれないと思った。
「あ、白亜!」
「?どうしたの。かくれんぼなのに隠れてないじゃ……って、何それ」
「猫だよ!向こうの奥で怪我してたんだ!助けてあげなきゃ!」
「……」
白亜は俺の手元に目線を落として、しばらく口を閉ざす。
そして慌てふためく俺とは対称的な、冷静で冷ややかな眼差しを向けて言った。
「どうしてキミが助ける必要があるの?」
「ど、どうしてって……。怪我してるんだよ!放っておいたら可哀そうだよ」
「でも、キミには関係ないのに。猫の命がそんなに大事?それで懐かれて、キミは面倒を見れるの?」
そんな白亜の心ない言葉は、当時の俺の浅はかな怒りを買うには十分だった。
俺はどうしたって、この猫を助けてあげたかった。
「もういいよ!ボクがなんとかするから!!」
「面倒なことになるからやめた方がいい」そう言って俺の震える肩に手を伸ばす白亜を振り払って、俺は駆け出した。
「――うわっ」
左右確認もまともにせずに公園から飛び出した俺は、突如現れた誰かの体に衝突しかけて、急ブレーキをかける。
「わあ!びっくりした!ちょっとキミ。突然突っ込んできたら危ないでしょう?」
それは、中型犬の散歩をしていた20代半ばくらいの女性だった。
「公園はあなたひとりの場所じゃないのよ?色々な人が利用するところなんだからちゃんと周りへの迷惑を考えて……って、ちょっと!?どうしたの?なんで泣いてるの!?」
眼鏡をかけたその女性は、俺が急にわんわんと泣き出したものだから、それは驚いたことだろう。
注意するのも忘れて俺に背丈を合わせると、その手元に抱えた小さな存在に視線が移る。
「この子……どうしたの?」
「こ、公園で、倒れてたんだ……。怪我してて……ボク、どうしたらいいか、わからなくて……」
嗚咽交じりに泣きじゃくる俺の背中をさすりながら、
「わかった!わかったから落ち着いて!」
女性はとにかくまずは俺を落ち着かせようと必死に苦笑いする。
「私も家に猫がいるの。この近くだし、よかったら私の家で手当てをしてあげるわ。一緒に来てくれる?」
「え!本当!?うん、ボクも行くよ!」
女性に力強く頷くと、彼女は泣き止んだ俺に安心したのか、笑って公園から踵を返そうとする。
それを追って、出入り口にある車止めを避けようと立ち上がった、その時。
「黒芭。どこに行くの?よく知らない人について行ったら危ないよ」
「あ、白亜……。大丈夫だよ。この人は猫を助けてくれるんだから」
俺の跡を追ってきたのか、いつもよりも少し強めに警戒心をあらわにした白亜が後ろに立って俺と女性を睨むように見ていた。
それまでなかなか俺のことを名前で呼ばなかった白亜が、珍しくちゃんと俺の名を呼んで行動を制止する。
俺とそっくりな顔立ちの白亜を見て、すぐに双子だと理解したのだろう。
女性は一瞬困ったような表情をしたが、すぐにやわらかい笑顔になって、俺の頭を優しく撫でる。
「彼はキミのお兄ちゃん?」
「う、うん。白亜はボクの……お兄ちゃんだよ」
「そっかそっか。それじゃあ二人とも一緒においで。私の家を教えるから、この子の傷が治るまで一緒にお見舞いに来るといいよ」
女性の連れていた中型犬が、俺にじゃれつくように顔を摺り寄せてきた。
元から動物が好きだった俺は、それに応えて犬を抱きしめる。
「白亜、早く行こう」
「……。もしあなたが変なことをしたら、僕がすぐに通報しますよ。110番通報」
「110番通報を理解してるとは、本当にしっかりしたお兄ちゃんね~」
その時の女性も、白亜の大人びた物言いにすごくびっくりしていたような気がする。
俺には“110番通報”なんて用語も全然ピンときてなくて、とにかく白亜がその女性――というか、見ず知らずの大人のことをすごく警戒していたことだけは伝わってきた。
その後、本当にすぐ近くだった女性の家に着くと、彼女はペット用の救急箱を取り出して、慣れた手つきで子猫の手当をしてくれた。
猫はその後1週間も経った頃には普通に歩いてご飯を食べられるまでに回復していて、俺はその間、何度もその家に足しげく通ったものだった。
*
「黒芭くん、今日はね、キミに大切なお知らせがあります」
1か月くらい経った頃だろうか。
俺がいつものようにその女性――ユキさんの家に行って、少し大きくなった子猫を撫でていた時だった。
ほぼ毎日世話を焼きに来ている俺に猫はすっかり懐いていて、気を許した顔でその日も俺の膝の上で丸くなっていた。
見慣れたお茶とお菓子を持って縁側にやって来たユキさんが、おぼんごとそれを床に置いて、俺の隣に座った。
「なに?ユキお姉ちゃん」
「その猫ちゃん――マニラはね、新しい家族が決まったの」
いつも遊びに来るたびにユキさんが出してくれたミルクキャンディの名前、マニラ。
マニラをもらうたびに、その飴玉の袋をクンクンと嗅いで興味を示す猫のことを、俺はいつしかそう呼ぶようになっていた。
「新しい、家族……?でも、マニラはユキお姉ちゃんの家のペットなんでしょ?」
「残念ながら、うちにはすでにベッキーとスモモがいるから、これ以上は飼えないのよ」
ベッキーは、ユキさんの家で飼われていた先住猫で、スモモは犬の名前だった。
俺はてっきり、マニラもずっとこの家で暮らしていくものだと思っていたから、ユキさんの言葉を聞いてもすぐに納得ができず、「どうして?」「イヤだ」次第に涙で揺れ始める視界を指で拭いながら、何度も彼女に詰め寄った。
――ごめんね、ユキさんはひたすら俺を慰するように、謝っていた。
結局、俺が何度首を振っても、涙を流しても、それは仕方なかったんだと思う。
動物、特に猫には相性がある。
ユキさんの飼っていた先住猫のベッキーは、生まれた頃から一緒だったスモモ以外の動物には警戒心が強く、マニラを保護していたその1か月の間だけでも、ストレスを身に受けて何度か体調を崩しているようだった。
なるべく2匹を一緒にしないように、ベッキーの行動圏が狭まり、彼女は窮屈そうな生活を強いられているようだった。
マニラが元気になったら、ユキさんは本来の家族であるベッキーを守るため、マニラを里親に出す決意をしていたのだと思う。
「どこの家に行くの……?マニラ、遠くに行っちゃうの……?」
「私の知り合いに、長く飼っていた猫ちゃんが少し前に亡くなって寂しがっている人がいるの。その人は猫のお世話にも慣れているし、その人にお願いしようと思うんだ。残念ながらお仕事の都合でもうすぐ遠くに行っちゃう人だから、なかなか会えなくはなっちゃうんだけど……」
ユキさんの知り合いの女性は、1週間後に遠方へ引越す予定があるらしく、その転居当日にユキさんが彼女の今の家までマニラを送り届ける約束らしい。
猫は環境の変化を嫌がる傾向がある。だからこそ、移動の回数を最小限に抑えて、早めに新居と新しい飼い主に慣れてもらいたい、そういった配慮によるものだった。
俺はひとしきり泣いた後、マニラの幸せのためならと自分に言い聞かせて、せめて最後にマニラの見送りに行きたいと申し出た。
これが――
最悪の決断になるとは、知りもせず。