ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜


 ――エリスは気付けばそんな風に、ユリウスのことを過去として受け入れられるようになっていた。

 ときおり不意にユリウスの顔を思い出すことはあっても、それによって胸が痛むことはない。
 ユリウスを恋しく思うことも、恨みを思い出すこともない。

 それはきっと、今の生活に満足しているからだろう。

 侍女たちは相変わらず親切だし、マリアンヌのおかげで令嬢たちとも馴染めてきている。シオンとの手紙も再開できた。

 アレクシスとの関係も悪くない。
 不愛想なところは相変わらずだけれど、会話は目に見えて増えきているし、それにアレクシスはここのところ、毎週のように花を贈ってくれるのだ。

 最初はアスチルベ、次は赤い薔薇、それからブルースターと、昨日はストロベリーキャンドルを。

 エリスは受け取った花を思い出し、頬を赤く染める。
 なぜなら、贈られた花の花言葉には、すべて『愛』や『恋』といったメッセージが含まれていたからだ。

(まさか殿下が花言葉を知っていらっしゃるとは思わないけれど……)

 アスチルベは『恋の訪れ』、赤い薔薇は『愛情』、ブルースターは『幸福な愛』、そしてストロベリーキャンドルは『人知れぬ恋』。

 花言葉はもともと愛や恋にまるわるものが多いとはいえ、偶然にしては少々できすぎな気がする。

 まさかアレクシスは自分のことが好きで、それを花言葉で伝えようとしているのでは――エリスはもう何度目かわからないその考えに思い至り、けれど否定するように、小さく首を振った。

(いいえ。それだけはあり得ないわ。だって殿下は、女性がお嫌いなんだもの)

 現にアレクシスは今も、公務以外では一定以上の距離を詰めてこない。
 それに何より、『好き』や『愛してる』と言った類の言葉は、一度だって言われたことはないのだから。


(そうよ。贈り物はただ、夫の義務として……それだけよ。殿下は本来、お優しい方だったというだけ)

 エリスは次々に湧き上がってくる雑念を振り払い、目当ての本棚を探すことに集中する。
 F607の本棚は――あった、あそこだ。

 無事に本棚を見つけたエリスは、侍女に「あなたも好きなものを借りていいわよ」と伝える。
 すると侍女は嬉しそうに目を輝かせ、隣の通路へと入っていった。

 エリスも自分の目当ての本を探し始める。
 本の並びは、出版社、レーベル、そして作家順になっているようで、目当ての作家の作品はすぐに見つかった。

(沢山あるのね。シリーズものもあるし……これはとても悩むわね)

 エリスはしばらく、背表紙と一人睨めっこをする。
 すると今度は、昨夜読み終えたばかりの小説の内容が思い出された。

(そう言えば、マリアンヌ様にお借りした小説のヒーローって、殿下に似ていたような気がするわ)

 花売りの貧しい娘と、若くして爵位を継いだ伯爵の恋物語。

 伯爵は過去に女に騙されたことから女性不信に陥っていて、けれど家のために妻を娶らなければならず、契約結婚という方法を思いつく。とは言え貴族令嬢を相手にするのは難しい。ならば、平民の女を妻に仕立て上げればいいじゃないか――というところから始まる物語で、伯爵の不愛想で無口なところがアレクシスと重なった。

(女性不信の伯爵がだんだんと花売りの娘に惹かれていって、でも素直に思いを伝えることもできなくて……というところが、とてももどかしいのよね。でも、最後は真っすぐに気持ちを伝えて……)
 
 小説ラストの甘いシーンを思い出したエリスは、咄嗟に両手で顔を覆う。
 うっかり、――そう。ほんの少しだけ、唇がにやけてしまいそうになったからだ。


 すると、そのときだった。


 突然、「レディ? どこかお加減でも?」と斜め後ろから声が聞こえ、エリスはハッと顔を上げた。
 声のした方を振り向くと、見知らぬ男性が心配そうにこちらを見下ろしている。

 歳はアレクシスと同じくらいだろうか。
 一目で上位貴族とわかる洗練された佇まい。魅惑的なラベンダーブラウンの髪と瞳。
 いかにも女性が好みそうな、眉目秀麗(びもくしゅうれい)な顔立ちをしている。

 男は驚きに硬直するエリスを見て何を思ったか、形のいい眉を少しばかり下げ、エリスの顔を覗き込んだ。

「私はリアム・ルクレールと申します。もしご気分が優れないようでしたら、奥の休憩スペースにお連れしようと思ってお声がけしたのですが」
「……っ」

 そう言われ、エリスはようやく理解した。
 目の前のこの相手は、自分の体調を心配してくれているのだ、と。

 エリスは慌てて言葉を返す。

「いえ……あの、大丈夫です。心配はいりませんわ。少し考え事をしていただけですから」
「そうですか? ですが、やはり顔が赤いようにお見受けしますが。侍女をお連れでないのでしたら、我が家の侍女をお貸ししますので――」
「本当に大丈夫です。それに、侍女なら連れておりますので」

 顔が赤いのは、恋愛小説のラストを思い出していたからですよ――などと言えるはずがない。
 エリスは更に赤面し、目の前の男――リアムからパッと顔を逸らした。

 するとリアムはますます心配そうに顔を曇らせたが、次の瞬間、どこかから聞こえてきた「お兄さま」という呼び声を聞き、表情を変える。

「……ああ、どうやら妹が私を探しているようです」

 そう呟くように言ったリアムの顔は、何かを思い詰めているように見えた。
 エリスはそんなリアムに、初対面ながら違和感を抱いたが、それも一瞬のこと。

 リアムはエリスが何か言うより早く、「申し訳ありませんが、これにて」とだけ告げ、あっと言う間に去ってしまったからだ。


 結果、ひとり残されたエリスは、リアムの消えた先の通路を見つめ、ただただ茫然と呟いた。


「いったい、何だったのかしら……」と。

 その夜、夕食を終えた時間帯。
 巨大な絵画や重厚な家具を配したリビングで、エリスはお茶を入れていた。

 疲れた様子を見せるアレクシスの、せめてもの気分転換になればと思ったからである。


(セドリック様は気にしなくていいと仰っていたけれど……)

 ティーワゴンでお茶を用意するエリスの向こうには、ソファで項垂れるアレクシスの姿。
 その、いつになく物憂げな様子のアレクシスを、エリスはどうしても放っておけなかった。

(食事も残されていたのよね。こんなこと、初めてだわ)


 ――エリスは、夕方のことを思い出す。

 図書館から帰宅したエリスがさっそく本を読んでいると、アレクシスがセドリックを伴って、いつもより一時間も早く帰宅した。

 侍女からその知らせを聞いたエリスは、心の底から驚いた。
 なぜなら今まで一度だって、アレクシスが仕事を途中で切り上げて帰ってきたことはなかったからだ。

 エリスは急いで身支度を整え、出迎えに走った。
 すると、アレクシスの様子がどうもおかしい。朝と比べ、明らかに顔色が悪いのだ。

 もしや身体の具合が良くないのだろうか――心配になって尋ねてみるが、そんなことはないと言う。
 セドリックに聞いても「身体は全くもって健康ですから、ご心配なさらず」と答えるだけだった。

 けれど実際に、アレクシスの様子がおかしいのは事実である。

 夕食中はずっと上の空で、いつもなら決して残さない夕食を残し、最近は必ず聞いてくる「今日は何をして過ごしていたんだ?」という問いかけすらしてこない。
 
 そんな状態のアレクシスを、放っておけるわけがない。――そう思うくらいには、エリスはアレクシスに情を抱いていた。


(きっとお仕事のことでお悩みなんだわ。だとしたら、わたしにできることは限られているけれど……)

 悩んだ末に、エリスはアレクシスをお茶に誘うことにした。断られることを覚悟して。
 だがアレクシスは一瞬ためらう様子を見せたものの、すぐに誘いを受けたのである。


「殿下、こちらカモミールティーですわ。リラックス効果や安眠効果がありますの。少しは気分が安らぐかと」
「ああ、……いただこう」

 エリスが声をかけると、アレクシスはどこか緊張した面持ちで、テーブルの上のカップを持ち上げる。
 そして一口含むと、ほっと息を吐いた。どうやら口に合ったようだ。

 エリスは安堵しながら、反対側のソファに腰を下ろし、目の前のアレクシスを見つめる。

「あの、殿下。差し出がましいことを申しますが……」
「……?」
「もし、もしわたくしにできることがあるなら、何でも仰ってください。こうしてお茶を入れるでも、お話を聞くでも……殿下の憂いを取り除くお手伝いを、させていただきたく存じます」
「――っ!」

 刹那、アレクシスはハッと息を呑んだ。
 相変わらず表情は読めなかったが、少なくとも、驚いているのは確かだった。

(殿下は、どうしてこんなに驚いているのかしら)

 エリスからしたら、悩んでいる者に手を差し伸べるのは当然のこと。
 だから、アレクシスがこれほどまでに驚く理由がわからなかった。

 けれど言われた方のアレクシスは、『嫌いな男に茶を振る舞うだけでなく、そんなに優しい言葉をかけるなんて、君は女神か何かなのか』などと思っていた。


 そんなアレクシスの考えなど露知らず、エリスはアレクシスに微笑みかける。

 その温かな眼差しに、アレクシスは決意した。

「ならば、一つだけ尋ねていいか?」――と。

 エリスが頷くと、アレクシスは瞳に不安の色を滲ませながら、こう問いかける。

「君は、どうして俺に優しくする? 俺のことを恐れているんじゃないのか?」

「……え?」

 エリスはとても驚いた。
 まさかそんなことを聞かれるとは思ってもみなかったからだ。

 そもそもエリスは、女性嫌いのアレクシスが自分に興味を持つなど有り得ないと考えていた。
 当然、アレクシスが今の様な――自分のことを気に掛けた――問いをしてくることなど、想像もしていなかった。


(いったいどうして、そんなことをお聞きになるのかしら)

 エリスにはわからなかった。
 アレクシスの質問の意味も、意図も。アレクシスが自分をどう思って、そんなことを聞いてくるのかも。

 けれど、質問に対する答えだけは決まっている。

「確かに殿下の仰る通り、わたくしは最初、殿下のことを恐ろしい方だと思っておりました。でも、今は少しも怖くありませんわ」
「……! だが……俺は君に酷いことを……。それを君は許すというのか?」
「許す許さないということなら、もうとっくに許しております。だって、殿下にも事情がおありになったのでしょう? それに今は、こんなに良くしていただいておりますもの」
「……それが、君の本心だと……?」
「はい、紛れもなく本心にございます。それにわたくしは、別に殿下にだけ特別優しくしているつもりはありませんのよ。だって、困っている方がいたら力になって差し上げたいと思うのは、人として当然のことですもの」
「……っ」

 するとその言葉が何か気に障ったのか、アレクシスの瞼がぴくりと震えた。――流石に言い過ぎただろうか。

「あの、申し訳ございません、出過ぎたことを……」
「いや、いい。君の言うことは正しい。……俺の方こそ、いつまでも過去に囚われて逃げてばかりだ」
「……?」

 本当に、今日のアレクシスはどうしたのだろうか。
 どんな強敵にも怯まず立ち向かっていく男の言葉とは、とても思えない。

 ますます心配になったエリスを尻目に、アレクシスは残りのお茶を一気に飲み干し、最後に――と言った風に口を開いた。

「今度の建国祭のあと、君に話したいことがある。時間を取ってもらいたい」
「お話ですか? わたくしでしたら、別に今からでも……」
「いや。今夜はもう遅い。――それに、俺にも心の準備が……」
「?」

(そんなに大事なお話なのかしら……)

 いよいよ困惑を極めるエリスを一瞥し、アレクシスは立ち上がる。

 そしてお茶の礼を言い残すと、そのまま部屋から出ていったのだった。

 季節は初夏。
 建国祭当日を迎えた日の朝、ようやく使用人たちが起き出す時間帯。

 式典前に警備の最終確認をするため、アレクシスはいつもより二時間早く起床し、寝室にて身支度を整えていた。
 
 侍従に用意させた桶の水で顔を洗い、髭を剃って、頭髪用のクリームで髪を整える。
 式典時の髪型はオールバックと決まっているので、いつもよりも念入りに。

 服装は黒の軍服だ。
 本来ならば皇族は祭事の際、皇族用の礼服を身に着けるのが慣わしだが、将官以上であれば軍服を身に着けてもよいこととされている。
 そのためアレクシスは、皇族用の華美な衣装を好まないということもあり、常に軍服を纏っていた。

 なお、黒は陸軍の将官クラス以上にのみ許された至高の色で、現在帝国内でこの軍服を着られるのは全兵力百万人のうち、アレクシスを含めて五十名のみである。


 身支度を終えたアレクシスが部屋を出ると、廊下はしんと静まり返っていた。
 窓からは朝日が眩しいばかりに注ぎ込んでいるが、時刻はまだ六時を回った頃。本館の、しかも二階の廊下を通る使用人はいない。今日は朝食も不要だとあらかじめ伝えてあるので、尚更だ。

 アレクシスは一階に下り、真っすぐ玄関ホールに向かった。
 そろそろセドリックが迎えに来る頃合いだ――と思っていたら、ホールにはセドリックだけでなく、エリスの姿もある。

(エリス? なぜここに……)

 今日は見送りはいらないと伝えてあったはずだが――。

 そう思いながら玄関ホールに入ると、アレクシスに気付いたエリスがいつものように挨拶をしてくれる。
「おはようございます、殿下。今日は絶好の祭典日和ですね」と。

 そのどこまでも清らかな声と笑顔に、アレクシスはごくりと喉を鳴らした。

 理由はもちろん、エリスの笑顔に愛しさが込み上げたから――というのもあるが、それ以上に、緊張していたからである。


 アレクシスは今日、建国祭のパレードが終わったら、エリスに気持ちを打ち明けようと決めていた。
「君を好きになってしまった」「君のことをもっと知りたい」と。

 そしてできれば、『エリスに触れない』というあの日の約束を、撤回したいと考えていた。

 だが当然のことながら、その気持ちを受け入れてもらえるかはわからない。
 エリスは、『自分を許す』と言いはしたが、『好意を持っている』とは言っていないからである。

 つまり思いを伝えたところで、上手くいく可能性は低いということで――。

 とは言え、このまま思いを秘めておくというのは現実的に難しい。
 シオンが帝国に留学してくることが決まった今、たとえ玉砕しようとも、自分の気持ちをエリスに伝えておく必要があった。

 そうでなければ、あのシオンには太刀打ちできない。
「僕の方が姉さんを愛しているのに」と気迫のこもった目で睨みつけてきたあの男に、言葉一つ言い返せない状況でいることは、自身のプライドが許さなかった。

 さりとて、上手くいかなかったときのことを考えると気が滅入るのもまた事実。
 だからアレクシスはその可能性を考慮して、告白の日取りを今日に決めたのだ。

 建国祭の間の三日間は、国民の祝日。

 稼ぎ時の接客業や、医療、警察関係者その他一部の業種を除き、全国民の仕事は休み。当然宮廷も閉まるわけで、今日の式典を終えれば完全にフリー。
 よって、玉砕しても精神を立て直す時間は十分に取れるはず――と。

 それにアレクシスにはもう一つ、どうしても片付けておかなければならない問題があった。
 エリスに思いを伝える前に、清算しておかなければならない、セドリックにも知られていない大きな問題が。

 それを片付けるために、アレクシスは今日、とある人物(・・・・・)と会うことになっている。
 エリスに気持ちを伝えると心に決めた翌日、アレクシスの方から「建国祭中ならば時間が取れる」と手紙を送ったところ、向こうは今日を指定してきた。

 時間はパレードの後、帝都中央広場での第二皇子(クロヴィス)のスピーチが終わってすぐ。エリスとの待ち合わせの一時間前だ。
 指定場所は広場から近いので、まあ問題はないだろう。


(エリス……待っていてくれ。俺は今日、必ず君に気持ちを伝える。君が望もうと、望むまいと)


 アレクシスは心の中で思考を整理した末、ようやくエリスに答える。

「ああ、そうだな。良い天気だ。君と祭りを回るのが楽しみだ」と。

 するとエリスは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑みを零した。

「はい。わたくしも楽しみです、殿下」

 小鳥がさえずるような声に、その可憐な笑顔に、アレクシスの胸が熱くなる。
 ああ、きっとこれが『(いと)しい』という感情なのだろうな、と。

 舞踏会の後、自分の気持ちに気付いたときは大いに戸惑ったものの、今では少しずつ慣れてきて、エリスの笑顔を見る度に込み上げるこの感情が、心地いいとさえ思うようになった。

 もっとエリスの笑顔を見ていたいと、そう願うようになった。

(女嫌いの俺が、よもやこのような感情を知ることになるとはな)

 物心ついたときから女と言うものが嫌いだった。
 昔湖で命を救ってくれたひとりの少女を除いて、嫌悪感を抱くことはあれど、自分から触りたいと思ったことは一度もなかった。

 それなのに今自分は、彼女に触れたいと思っている。エリスを抱き締めたいと思っている。
 
 その為にはまず、自分の気持ちを伝えなければ。
 その上で、彼女に気持ちを受け入れてもらわなければならない。

(現状からするとかなり厳しいが、それでも俺は……)

 アレクシスはエリスを抱き締めたくなる衝動を押し留め、踵《きびす》を返す。

「ではまたパレード後に会おう。何かあればマリアンヌを頼れ。――ああそれから、昨日も伝えたが俺が行くまで広場からは出るんじゃないぞ。建国祭の間は周辺国からの観光客が多いせいで、揉め事が起きやすいんだ」
「承知しておりますわ。殿下の方こそ、お気を付けてくださいね」
「ああ、ではな」
 
 そう言い残し、今度こそエリスに背を向ける。
 そしてセドリックを伴って、休日前の最後の仕事を片付けるために宮を出た。