ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜


「本当に、俺は君のことを何も知らないな」

 アレクシスは長い指で、エリスの瞼にかかった亜麻色の前髪をそっとはらう。

 早く目覚めてくれと思う反面、まだ眠っていてほしいと願ってしまう自分がいる。

 エリスとシオンが何を話したのか知らないアレクシスは、エリスの口から『シオンと共に暮らしたい』と告げられることを、心のどこかで恐れていた。

 聡明なエリスのことだから、国家間のことを考えて、たとえそう思っていても自分からは言い出さないだろう。
 けれど万が一にもそう言われたら、エリスの意思を無視してまで引き留めることはできない。――アレクシスはそう考えていた。

 幼い頃から虐待を受けていたらしき彼女を、これ以上苦しめてはいけない。
 正直言うと、シオンのエリスに向ける感情は姉に対するものとして不適切だと思っていたが、エリスが弟と生きることを望むのならば致し方ない、と。

 そんな、臆病な正義感と同情心、あるいはもっと別の何かが、アレクシスの心を(さいな)んでいた。


 すると、そんなときだ。

 不意にエリスの瞼がぴくりと動き、「ん」と小さく呻き声を上げる。

 ハッと息を呑むアレクシスの前で、三秒ほど遅れてようやく瞼が開き、瑠璃色の美しい瞳が、ぱちぱちと数回瞬いた。

「エリス」と、なるべく優しい声になるよう努めて声をかけると、彼女はゆっくりと視線をこちらに向ける。

 刹那、その瞳が驚いたように見開かれた。

「……殿下? どうして、こちらに……」
「どうって……覚えていないのか? 君は舞踏会場から、ジークフリートに連れ出されただろう?」

 まだ薬が抜けきっていないのだろうか。などと心配に思いながら問うと、エリスは思い出した様にハッとする。


「――! あ……そう、でしたわ。わたくし、中庭でシオンとお話していて……。――あ、シオンというのは、わたくしの弟なのですが……そしたら、急に眠くなって……」
「急に眠く?」
「はい……本当に申し訳ございません。舞踏会の最中でしたのに……。殿下は、シオンにお会いになりませんでしたか?」

 まるで疑うことを知らないエリスの瞳に、アレクシスは悟った。
 なるほど。どうやらエリスは、シオンの起こした事件について全く気付いていないらしい。

 ならば、と、アレクシスは話を合わせることに決める。

 知らないなら知らないままでいてくれた方がいい。それに、自分とシオンが話した内容――つまり、『姉さんを僕に返せ』と言われたこと――について、自分から言い出す勇気が持てなかった。


「いや、知らんな。俺はジークフリートから、君が中庭にいると聞きつけて迎えに行ったまで。――そしたら君が倒れていて、流石に肝を冷やした」
「……! そう、なのですね。それは本当に……本当にご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 エリスの顔が暗く陰る。
 その表情に、アレクシスはやはり罪悪感を覚えながらも、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

「気にするな。俺は部屋に戻るから、ゆっくり休め」

 本当はエリスとシオンが何を話したのか気になるところだったが、けれどもしもそれを聞いて、『シオンと一緒に暮らしたい』などと言われたら堪らない。

 だからアレクシスは、早々に部屋から退散することに決めた。

 だが、アレクシスがドアを開けようとしたとき、不意に「殿下」と呼び止められる。
 その声があまりに真剣すぎて、アレクシスはどきりとした。


(今日の俺は……なんだか、変だ)

 と、自分で自分を気味悪く思いながら振り向くと、やはりエリスが思いつめたような顔でこちらを見ている。

 もしや――と思った。
 シオンの話をされるのか、と。

 だが、エリスの口から出たのは、全く予想外の言葉だった。

「あの……、ありがとうございました」
「“ありがとうございました”?」

 驚きのあまり、うっかり復唱してしまう。
 まさか礼を言われるとは思わなかったからだ。

 だが、よくよく考えてみれば確かに、眠ってしまった自分を運んでくれた相手に礼を言うのは、何らおかしなことではない。

「いや。そもそも、俺が君から目を放したのがいけなかった。こちらこそ、すまなかった」

 そう答えると、エリスははにかむような笑みを浮かべる。

「いえ、あの、運んでくださったこともそうなのですが……」
「……?」
「ダンスのとき、動けなくなったわたくしに、殿下は『問題ない』とお言葉をかけてくださいました。あの一言に、わたくしは救われたのです。……そのお礼を、どうしても言いたくて」
「――っ」
「本当に、ありがとうございました」

 嘘偽りない真っすぐな眼差しで見つめられ、アレクシスは内心とても動揺した。
 自分では何気なく言ったその一言に、『救われた』などと言われても、どういう反応を取ればいいのかわからなかった。

 ただ、どうしようもなく、胸が熱くなったことだけは確かだった。


 結局アレクシスは「ああ」と短く答え、今度こそ部屋を出る。
 そして後ろ手に扉を閉めると、そのままトンと背中を預け――口元を覆った。


(――ああ、そうか。俺は……)

 気付いてしまった。エリスの笑顔を見て、気が付いてしまった。

 自分は、彼女が好きなのだ――と。


「――は? 兄上、今、何と……」


 宮廷舞踏会から一月(ひとつき)がたった、六月末のある日の午後。
 クロヴィスの執務室にひとり呼び出されたアレクシスは、思わず耳を疑った。

 クロヴィスが突然「シオンが我が国に留学することが決まった」――などと言い出したからである。


 ◇


 そもそも一ヶ月前、舞踏会が終わった翌日のこと、アレクシスはクロヴィスから「二人は本国に送り返した。お前が憂うことはない」と説明を受けていた。

 アレクシスはそのあっさりとした結末に多少の疑問を抱いたものの、「兄上がそう言うのなら」とそれ以上言及しなかった。
 つまり、その話は終わったと思っていたのだ。

 その後今日までの間も、クロヴィスは一度もジークフリートやシオンの名を口にしなかったし、エリスの方も「シオンに手紙を書いてもいいでしょうか?」と尋ねてきたくらいで、他には何も言ってこない。

 だから、アレクシスは仕事の忙しさと相まって、シオンのことをほとんど忘れていたのである。


「それがいきなり留学だと? くそっ、兄上め……!」


 クロヴィスの執務室から戻ったアレクシスは、ソファにぐったりと背中を預け、悪態をつく。

「いったいどういうことです?」と説明を求めるセドリックに、アレクシスは先ほどのクロヴィスとのやり取りをそのまま説明した。

「シオンのことは終わったはずじゃなかったのか」と問いただしたアレクシスに、クロヴィスが返した内容は、以下の通り。

「きっとお前は反対するだろうと思って黙っていたんだが、実は舞踏会の後、ジークフリート王子とエリス妃の弟――シオンと協議した結果、『我が国でシオンを受け入れる』のがベストだという結論に至ってな。ああ、断っておくがこれは私の提案ではない。言い出したのはジークフリート王子だ。エリス妃の引き渡しに応じてもらえないなら、シオンをエリス妃の側に住まわせてやってくれないか、と。なかなか肝の据わった男だった」

 そう言って、思い出し笑いのような声を漏らしたあと、クロヴィスは更にこう続けた。

「とは言え、受け入れ先の問題もあるからな。一旦保留にして方々(ほうぼう)に確認を取ったところ、国立公務学院で受け入れる方向で話がまとまった。というわけだから、義兄としてよく面倒をみてやるように」――と。

 セドリックはそれを聞き、驚いたように眉を寄せる。

「国立公務学院と言えば、キャリア官僚を育成するエリート養成機関……。あそこは数ある高等教育機関(グランゼコール)の中でも、帝国貴族しか受け入れない生粋(きっすい)の純血校でしょう。そこにシオン様を入れられるということは――」
「ああ。兄上は、卒業後もシオンをこの国で囲うつもりだろうな。しかも、学費含めた滞在中の費用は、すべて俺の私費から出すことになったというし」

 アレクシスは苛立ちに顔をしかめ、天井を仰ぎ見る。


 グランゼコールとは、帝国内に二百ほど存在する高等教育機関のことである。

 理工系を中心に、政治・経済・軍事・芸術に至るまで、職業と関連した諸学について最高クラスの教育を受けることができるエリート養成機関だ。
 一部の機関を除き全帝国民に門戸が開かれており、これらの機関に入れた者は各分野での将来が約束される。

 クロヴィスはシオンを、その中でも最も(くらい)の高い国立公務学院に入れると言ったのだ。
 それも、アレクシスの金を使って、である。


「殿下の私費で……ですか。なるほど」

 セドリックはその意味を理解して、感嘆に近い声を上げた。

「つまり、シオン様に帝国内での地位を約束すると同時に、殿下から恩を売った形にするということですね。何ともクロヴィス殿下らしい采配ではないですか。してやられましたね」
「お前、面白がっているな?」
「まさか、滅相もありませんよ。私はただ、これが殿下とエリス様を結ぶ、いいきっかけになればと思っただけです。結局未だに、エリス様には思いを伝えられていないのでしょう?」
「…………」

 そう。セドリックの言うとおり、アレクシスは自身のエリスに対する気持ちを自覚したのはいいものの、未だ想いを伝えられていなかった。

 あの日から早一月(はやひとつき)

 朝夕毎日顔を会わせ、食事をし、セドリックの助言で花を贈ってみたりはしているものの、それ以上踏み込む勇気もなく、きっかけもなく、時間だけがずるずると過ぎてゆく。

 そんなアレクシスの状況を、セドリックは内心歯がゆく思っていた。

 極度の女性嫌いのアレクシスが、"初恋のエリス"以外に初めて女性に興味を持ったのだ。
 しかもそれが妻となれば、上手くいくに越したことはない。

 友人として、臣下として、セドリックがそう考えるのは自然なことだった。


「殿下がシオン様を帝国に招き、その上学費まで出すとなれば、エリス様は間違いなく喜んでくださいますよ」

 とは言え、シオン本人が喜ぶかどうかは全く不明だが――と心の中で付け加えながら、セドリックはアレクシスに書類の束を差し出す。

 主人の恋路は大いに気になるところだが、そろそろ仕事に戻ってもらわなければならない。

「ところで殿下、こちら頼まれていた建国祭当日の皇族方の移動ルートと、警備担当者の名簿リストです。ご確認を」
「ああ、そうだったな。まったく、舞踏会が済んだと思ったら次は建国祭か。毎年のこととはいえ面倒なことだ」

 アレクシスは書類を受け取ると、煩わしげな顔で、それでも順に目を通していく。
 ――が、半分ほどチェックしたところで、なぜか手を止めてしまった。

「殿下?」

 何か問題でもあったのだろうか。
 そう思ってアレクシスの手元を覗き込むと、そこにはよく知った名前があり――。

(リアム・ルクレール? ――あっ)


 その男性名を見た瞬間、セドリックの脳裏に過ったのは一人の少女だった。

 その少女とは、オリビア・ルクレール、(よわい)十七歳。ルクレール侯爵家の長女で、中等部のころから付き合いのある、長男リアムの妹だ。

 アレクシスは昔から彼女に慕われているのだが、オリビアはとても押しが強く、けれど身体が弱いためにどうも強く出られない――言うなれば、アレクシスの天敵である。

 確か彼女はリアムに付き添われ、療養のためにここ二年ほど領地に引き籠っていたはずだが、リアムが軍に復帰したということはオリビアも帝都にいるのだろう。
 

「殿下……あの……」

「……戻っていたのか、オリビア」
「――っ」

 ボソッと呟かれた声の低さに、セドリックはハッと息を呑む。
 恐る恐る顔を覗き込むと、アレクシスの顔色は病的に蒼い。

(ああ、やはり殿下の女性嫌いは健在か。エリス様が平気なら、あるいは、と思ったが……)

 セドリックは、主人の放つどんよりとしたオーラに、やれやれと肩をすぼめながら、窓の向こうの遠い空を見上げるのだった。

 同じ頃、エリスはマリアンヌと共に帝国図書館を訪れていた。

 先日マリアンヌから借りた恋愛小説がとても面白く、「ぜひ同じ作家の他の作品を読んでみたい」と伝えたところ、「ならさっそく借りに行きましょう」と誘われたからである。


 帝国図書館とは、言わずもがな帝国内最大の図書館だ。

 言語・文化の垣根なく大陸全土からありとあらゆる分野の書物が集められており、蔵書数はなんと一千万巻。"英知の泉"と称され、帝国民に広く利用されている。

 そんな図書館に初めて足を踏み入れたエリスは、感嘆の息を漏らした。


(凄いわ。本棚が天井まであるなんて)

 吹き抜けになったホールの向こうに広がる三階層のフロアは、奥の壁が見えないほどずっと先まで続いている。
 そこに並ぶ何百もの本棚は、各フロアの天井にまで届いてた。
 
 マリアンヌとのお茶会で水晶宮を訪れた際にも思ったが、流石は帝国だ。規模が違う。

 それに、市民に一般開放されているだけあって人がとても多い。
 老若男女、階級の境なく、大勢の人に利用されているのがよくわかる。

 ホール内のフリースペースに目を向けると、まだ五、六歳と思われる――服装からして労働階級の――子供が行儀よく絵本を読んでいて、感心するばかりだった。

(凄いわ。あんなに小さいのに字が読めるのね。帝国市民の識字率がほぼ十割と聞いたときは信じられなかったけど、本当だったんだわ)

 帝国がこれだけ強大な力を維持できているのは、軍事力だけでなく、教育によって技術水準を日々進歩させているからなのだろう。


 エリスがそんなことを考えていると、マリアンヌは微笑ましげに目を細める。

「エリス様、わたくしは借りた本を返して参りますわね。恋愛小説は二階のF607の列にありますから、お先に行って見てくださって構いませんわ」

 そう言って、侍女を伴い返却窓口へと歩いていく。

 エリスはそんなマリアンヌの背中を見送って再び館内をぐるりと見渡し、胸をときめかせた。


 エリスは読書が好きだった。
 というより、正しくは『読書しかなかった』と言うべきかもしれないが。

 祖国で家族から虐げられていた彼女が、刺繍やピアノといった淑女教育以外で触れることができたのは、唯一本だけだったからだ。


(今思えば、ユリウス殿下に恋をしたのは、物語の影響もあったのかもしれないわ)

 侍女を連れ立って階段を上りながら、エリスはそんなことを考える。


 幼かった自分はユリウスのことを、ヒロインを悲劇的な運命から救い出す、物語の中の聡明で勇敢な王子たちに重ねて見ていたのかもしれない。
 火傷のことを庇ってもらったことで、この人だけが自分を救ってくれるのだと、過剰に依存し、期待してしまったのかもしれない、と。