ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜


「いったいあの男は何がしたいんだ。――セドリック、お前はどう思う?」

 アレクシスは、自分の斜め後ろを歩くセドリックの意見を求める。
 けれど流石のセドリックも、これには何の考えも浮かばないようだった。

「わかりかねます。ジークフリート殿下とエリス様の間に、特に面識はないはずですし」
「となると、またあいつの悪い癖か?」
「ああ、例の……」
「あの男は"他人の欲望を知りたがる"癖がある。その上、悪気なくそれを叶えてやろうとするからな。エリスから俺の情報を聞き出すなんてことは、流石にしないだろうが……厄介だな」


 アレクシスの知る限り、ジークフリートという人間は基本的には善人だ。

 性格は軽いところがあるが、人を思いやる心があるし、他人に悪意をぶつけたり、見下すといったこともない。王族にありがちな傲慢さも持っていない。

 だが一つだけ、どうにも困ったところがあった。

 それは、"他人の願いや欲望を知りたがるところ"。そしてそれが彼自身の理にかなっていると思えば、多少強引な手を使ってでも実際に叶えてしまうところだった。


(あの男は毒だ。……それも、猛毒だ)

 人間誰しも心の中に欲望を秘めている。それを、ジークフリートは叶えてしまう。
 すると叶えられた人間はどうなるか。

 望みを叶えてもらったことに恩を感じ、それが繰り返されることで次第に陶酔していくようになる。
 あるいは、一部の者は弱みを握られたと思い、逆らえなくなる。

 どちらにせよ、ジークフリートから離れられなくなるのは同じだ。

 実際アレクシスも留学中、ランデル王国で"思い出のエリス"を探しているときにジークフリートに声をかけられたことがある。
 “人探しなら僕が手伝おう。すぐに見つけてあげるよ”――と。

 アレクシスはきっぱり断ったが、それが返ってジークフリートの興味を引いてしまったのか。
 その後卒業するまで、ジークフリートにまとわりつかれる羽目になった。

 まぁ、アレクシスは徹底的に無視を続けたのだが。

 ――とは言え、これらは全て四年以上も前のことだ。今のジークフリートが当時と同じであるとは限らない。

 だからアレクシスは油断していたのだ。四年も経てばその悪癖も多少は収まっているのではないか、と。

 だが実際はこの有り様だ。
 ジークフリートの目的がわからないとはいえ、アレクシスに何の断りもなくエリスを連れ出したとなると、あまりいい状況ではないだろう。


(ランデル王国の重臣たちは何をやっているんだ。自国に閉じ込めておけばいいものを)

 アレクシスはぐっと拳を握りしめる。
 

 ――すると、そのときだった。 
 廊下の先の角から足音が聞こえ、一人の男が姿を現す。

 光り輝く銀髪に、青みがかった灰色の瞳。四年前と変わらぬスラっとした細身の体躯。
 それは紛れもなく、ジークフリート本人だった。

「……ジークフリート」

 その姿が視界に入るや否や、アレクシスは眉間に大きく皺を寄せた。
 すると向こうもアレクシスに気が付いて、意味深に目を細める。

 その唇が薄く笑み、よく通るテノールの声がアレクシスの名を呼んだ。

「やあ、久しぶりだね、アレクシス。元気だったかい?」
「…………」

 何ともありきたりな挨拶だ。もしエリスのことさえなければ、アレクシスとて普通に返事をしただろう。
 けれど、今だけは無理だった。

 アレクシスはジークフリートの眼前に立ち、あからさまに敵意を漏らす。

「お前、エリスを知らないか?」と。

 だがジークフリートは怯まない。
 どころか、どこか困ったように眉を下げ、一層口角を上げたのだ。

「彼女は僕が預かった――って言ったら、君は怒るかい?」
「――何?」

 挑発するような物言いに、アレクシスの瞼がピクリと痙攣する。
 セドリックは、いつアレクシスがぶちぎれるかと思うと気が気ではなかった。

 ジークフリートは平然と言葉を続ける。

「ああ、すまない。本当に怒らせるつもりはないんだ。僕はただ、頼まれて君を呼びにきただけ。君に会いたいっていう人がいてね。だから、そんなに怖い顔をしないでくれ」
「頼まれた? 誰からだ。エリスもそこにいるのか?」
「ああ、彼女もそこにいる。一緒に来てくれるだろう?」
「…………」

 なんだかよくわからないが、つまり自分に会いたいという者がいて、そのせいでエリスは連れていかれたということだろうか。

 正直まだ的を得ないが、これ以上尋ねてもジークフリートは答えないだろう。

(どちらにせよ、そこにエリスがいるなら行かない選択肢はない)

 アレクシスはセドリックと目を合わせ頷き合うと、ジークフリートの後を追って中庭へと向かった。

 アレクシスが案内されたのは、灯りのない中庭だった。
 王宮内に多数点在する名もなき中庭の一つで、当然、この時間に立ち入る者はいないような場所である。


「こんな暗い場所にエリス様が……? 殿下、やはり衛兵を呼んで参りましょう」
「駄目だ。向こうの目的がわかるまでは下手に動くな。ここにはジークフリートもいる。大ごとにはしたくない」
「でしたら、せめて剣だけでも取りに戻られては」
「ハッ。今からか? 行って戻るだけでどれだけかかると思ってる」
「ですが――」
「それ以上言うな。お前はここで待て。何かあれば合図をする」
「…………」

 アレクシスはセドリックに中庭の出入り口で待機するように伝えると、ジークフリートと共に芝生に足を踏み入れた。

 ◇


 そこにいたのは、燕尾服を纏った年若い青年だった。
 暗がりのためにはっきりとはわからないが、顔立ちからすると歳は十五、六といったところか。

 身分は一目見て貴族だとわかる。
 その立ち姿が、全身から溢れ出る純然たる貴族の風格が、彼を貴族たらしめていた。


(こいつが、エリスを……。エリスはどこだ……?)

 男と対峙しつつ、アレクシスは視線を動かしてエリスの姿を探す。
 だが、見たところエリスの姿はどこにもない。

 いったいこれはどういうことだろうか。

「おい、貴様。俺の妃をどこへやった」

 アレクシスが傲然(ごうぜん)と問いかけると、男は大きく眉を寄せ、言い放つ。

「あなたには見えませんか? ――いますよ、ちゃんと、そこに」

 同時に男が身体を半歩斜めに引く。
 そしてゆっくりと右手を上げ、庭の奥を指差した。

 するとそこにあったのは、大木の根元に横たえられたエリスの姿。


「――ッ」

 さあっ――と、一瞬で血の気が引いた。

 地面に横たわり、ピクリとも動かないエリスを目の当たりにし、アレクシスの中で怒りが一気に膨張した。
 と同時に、頭は酷くクリアになり、どうやって目の前の男を殺してやろうかと算段をつけ始める。

「貴様……エリスに何をした」


 戦場で沢山の兵士が命を散らせたときも、砦が丸ごと敵の手に落ちたときでさえ、これほど心を乱すことはなかった。
 少なくとも表面上は、いつだって冷静であるように努めていた。

 そうでなければ、十歳のとき母親を事故で亡くし、後ろ盾を失ったアレクシスが王宮で生き残ることはできなかったからだ。


 他人に決して弱みを見せてはならない。隙を与えてはならない。感情を読まれるなどもっての外。
 笑うことも、涙を流すことも、アレクシスには禁忌だった。
 相手に恐れを与えるための荘厳(しょうごん)な態度を、決して崩してはならならない――そのはずだった。

 だが今のアレクシスは、それを忘れてしまったとでもいうように、怒りに身を打ち震わせている。
 仲間が目の前で吹き飛ぼうが、冷静さを崩さなかったアレクシスが、今、明確な殺意に囚われていた。


 ――目の前の男を殺さなければ、と。


 右手が無意識に腰へと伸びる。
 だが当然そこに剣はなく、そこでようやく、彼は自身が丸腰であることを思い出した。

「――!」

 ああ、そうだ。今夜は舞踏会である。剣がないのは当然だ。
 こんなことならセドリックの言うように、剣を取りに戻るべきだった。

 アレクシスは大きく舌打ちし、再び男に向き直る。

(頭を冷やせ。エリスは人質だ。ここで隙を見せれば相手の思う壺だぞ)

 いつも部下に口酸っぱく言っていることを自分自身に言い聞かせ、彼は冷静さを取り繕おうとした。

 するとそんなアレクシスを前に、男はようやく口を開く。

「まるで姉さんを心配しているかのような口ぶりですね。安心してください。眠っているだけですから」――と。

 刹那、アレクシスは顔をしかめた。
 姉さん――その言葉に、大きな違和感を覚えて。

「名乗り遅れて申し訳ありません。僕はスフィア王国ウィンザー公爵家嫡子(ちゃくし)、シオンと申します。……エリスの、弟です」
「……弟、だと?」

 アレクシスは驚いた。
 まさかここでエリスの弟が登場するとは思ってもみなかったからだ。

 そもそも、アレクシスはエリスに弟がいることを知らされていなかった。

 結婚が決まったときにクロヴィスから渡された書類には、シオンの名は記されていなかった。
 それに、エリスとは家族の話をしたことが一度もない。

 だから、目の前の男がエリスの弟であるということを、すぐには信じることができなかった。

 するとシオンは、そんなアレクシスの困惑を感じ取ったのだろう。
 片方の頬を引き攣らせ、小さく呟く。「ああ、何も知らないのか」と。
 そして、こう続けた。

「僕は今ランデル王国の王立学園に通っておりまして。僕がエリスの弟であることは、そこにいらっしゃるジークフリート殿下が証明してくださいます」

「――!」

 その声にアレクシスがジークフリートの方を振り向くと、ジークフリートは胸元から一枚の紙を取り出した。
 暗くてやはりよく見えないが、それはシオンの在学証明書だった。戸籍の内容も記されている。

 つまり、シオンがエリスの弟なのは事実だということだ。
 となると、次に問題になるのは――。

「エリスの弟が、いったいなぜこんなことをする? 目的を言え」

 そう。すべては目的だ。

 アレクシスは、シオンが自分をおびき出すために、ジークフリートに頼んでエリスを連れ出したのだと考えていた。
 エリスを人質に、自分に何か要件を突きつけてくるものだと。
 姉を連れ出し、眠らせる――そうしてまで、叶えたい望みがあるのだと。


「お前は俺に、何を望んでいる?」

 
 月明りの下、二人はしばらく睨み合う。

 舞踏会の音楽を遠くに聞きながら、シオンは口を開いた。


「僕は、姉を望みます」――と。

 瞬間、アレクシスは再び頭の芯が冷えるのを感じた。
 シオンの言葉の意味を図りかねている自分がいた。

 理解はできるのに、できない。
 いや、したくない、というのが正しいだろうか。

「エリスを望むと……? 弟のお前が? その意味を本当に理解しているのか?」

 もはや困惑を隠せないまま、アレクシスは問いただす。

 ”望む”――その意味は通常、ただ"欲しい"という意味で使われる言葉ではない。
 “自分のものにしたい”――つまり、"結婚したい"、という意味で使われる言葉だ。

 それにそもそも、エリスは自分と既に婚姻している。
 それなのに、このシオンとかいう男は、いったい何をほざいているのか。 

「エリスは俺の妃だぞ。お前はそれを――」
「別れればいいでしょう」
「……何?」
「姉さんを手放してください。あなたには、他にいくらだって妃候補がいる。姉さんでなければならない理由なんてない」
「なっ……」

(この男、正気か?)

 とてもまともな思考とは思えない。

 いや、そもそも、だ。
 ジークフリートの手引きがあったとはいえ、王宮に忍び込み、姉を攫い、眠らせるような人間がまともであるはずがない。

 とは言え、相手はエリスの弟だ。
 ただの暴漢ならばみぞおちに拳を一発ぶち込んでやれば済むことだが、今回ばかりはそうもいかない。

 対応に苦慮するアレクシスに、シオンは気持ちをぶちまける。

「僕はあなたのことをよく知りません。でも、あなたの女性嫌いのことは知っている。姉さんとの結婚が、あなたの望んだものではないことも。そんな男に、どうして姉さんを任せなくちゃならないんだ。僕の方が絶対に姉さんを愛しているのに」
「だからこんなことをしたと? 姉を攫い、眠らせてまで。――そこにエリスの意思はあったのか?」
「姉さんの意思だと? ――ああ、そうか。本当にあなたは何も知らないんですね。姉さんがどれだけ大変な思いをしてきたか。どれだけ辛い日々を送ってきたか。それなのに、愛した男に捨てられて……その上こんな場所に送られるなんて……可哀そうな、姉さん」
「…………」

(こいつ、いったい何を言っている……?)

 支離滅裂だ。話が通じない。
 これはやはり暴力に訴えるしかないだろうか。
 
 だが、アレクシスがそう考え始めた矢先だった。

 シオンはフラフラと数歩揺らめいて、憎悪に満ちた瞳でこう言ったのだ。

「聞きましたよ。あなたには思い人がいるんでしょう? ランデル王国に――初恋の女が」

「――ッ」

 刹那、アレクシスは全てを悟った。
 この件は、ジークフリートの起こしたものなのだ、と。

 初対面であるシオンが、そのことを知っている筈がない。
 それを知っているということは、ジークフリートが話したとしか考えられなかった。


「ジークフリート! お前、この男に何を吹き込んだ!?」

 ランデル王国に"思い出のエリス"がいることを知る人間は、自分とセドリックくらいなものだ。
 もしかしたらクロヴィスにも知られているかもしれないが、その程度のもの。

 だがジークフリートには、アレクシスが留学中に人を探していたことを知られてしまった。その対象が女性であることも、当然気付いていただろう。

 そもそも、シオンの在学証明書をあらかじめ用意していたということは、この件自体がジークフリートの計画の内だということだ。


「答えろ! お前、この男をたぶらかしたのか……!?」