(とにかく、無事に終わってよかったわ)
ダンスの前はあれだけ恐ろしかったこの舞踏会場も、今は少しも怖くない。
その理由はきっと、アレクシスが「踊れなくても問題ない」と本気で言ってくれたからだ。
呆れるでもなく、慰めるでもなく、ただ「問題ない」と――その一言に、エリスの心は救われた。
(でも、『俺を誰だと思ってる。帝国最強の男だぞ』って……あの台詞には本当に驚いたわ)
そのときのアレクシスを思い出すと、不覚にもときめいてしまう。
“帝国最強”だなんて言葉をあんなにサラッと口に出してしまえるアレクシスが、そのときのエリスにはたまらなく眩しく映ったのだ。
(殿下には、あとできちんとお礼を言わなくちゃ)
アレクシスはダンスが終わってすぐ、軍人と思われる誰かに声をかけられどこかへ行ってしまった。
その為エリスは、まだお礼を伝えられていないのだ。
感謝の言葉は、帰りの馬車の中で伝えよう――そう心に決めて、エリスはマリアンヌとのお喋りを再開する。
すると、そんなときだ。
マリアンヌが「お花を摘みにいってきますわね」と席を立ったそのすぐ後、エリスは一人の男から声をかけられた。
「失礼ですが、エリス皇子妃殿下でいらっしゃいますか?」
「……?」
聞き覚えのない声に顔を上げると、そこに立っていたのはやはり見知らぬ男だった。
ブルーグレーの瞳と、首の後ろで括られた銀色の長い髪。
歳はアレクシスと同じくらいだろうか――やや中性的な顔立ちの、柔らかな雰囲気を纏った男。
だが、エリスはすぐに相手の正体に気が付いた。
男の美しい装束の胸元の紋章は、ランデル王国の王家の印だ。つまり、この男は王族。
(ランデル王国の王族が、わたしにいったい何の用かしら。年齢的には、一番上の王子よね)
エリスは脳内で、事前に頭に叩き込んでおいた諸外国の要人リストをパラパラとめくり始める。
そして該当人物の名前を探し当てると、にこりと微笑んだ。
「わたくしに何か御用でしょうか、ジークフリート王太子殿下」
――ランデル王国が王太子、ジークフリート・フォン・ランデル。
彼は王太子でありながら、殆ど表舞台に出てこない謎多き王子として有名だ。
(そんな王子が、どうしてわたしに話しかけてくるの?)
エリスはただただ不思議に思う。
自分とランデル王国の繋がりは、弟のシオンが留学していることくらいなのに、と。
だがエリスがそう思ったのも束の間、ジークフリートが口にしたのは、まさかの弟の名前だった。
「シオンがあなたに会いに来ているんです。たった今、この会場の外に――」と。
「……え?」
それはあまりに予想外の内容で、エリスは茫然としてしまった。
この場で出るはずのない、シオンという名前に。
たった一人の大切な弟の名が、ジークフリートの口から出たことに。
「どう、して……?」
正直、わけがわからなかった。
そもそもエリスはシオンに対し、帝国に嫁いだことすら伝えていないのだ。
ユリウスから婚約破棄された挙句、帝国に嫁ぐことになったなどと伝えたら、絶対に心配をかけてしまう。
シオンには心配をかけたくない。たった一人祖国を離れ、苦労している弟をこれ以上苦しめたくない。
そう考えたエリスは、シオンに何一つ伝えず帝国に輿入れした。
そしてその後は、一度も手紙を出していない。
出そうと思ったことはあるのだが、皇族宛の手紙には全て宮内府の検閲が入ると聞いて、やめてしまった。
それなのにジークフリートは、今ここにシオンがいるという。
ランデル王国から馬車で十日もかかるこの地に、自分に会うために来ていると――そう言ったのだ。
驚きのあまり声を出せないでいるエリスに、ジークフリートはゆっくりと右手を差し出す。
「彼に会いませんか? 僕がお供しますよ」
「……っ」
「大丈夫。王宮の外には出ませんから」
「……でも」
「夫のことが、気になりますか?」
「――ッ」
ハッとするエリスに、ジークフリートはにこりと微笑む。
「ですが、殿下と共に会うのはおすすめしません。シオンは今とても気が立っていますから、殿下の顔を見ようものなら真っ先に殴り掛かかってしまうでしょう」
「殴りかかる? あの、優しいシオンが?」
「正直言うと、彼がどんな人間であるか僕は知らないのです。けれど僕の弟の言葉を借りるなら、『姉の結婚の記事を目にしたときからずっとイライラしている』と。それにここだけの話、彼は毎晩ベッドの中で泣いているんだそうですよ。そのせいで彼と同室の生徒がノイローゼになって困っていると、監督生の弟に相談されまして。おかげで僕が彼を連れて、こうして遠路はるばる足を運ぶことになったというわけです」
「……っ」
「だから僕の為にも、彼に会ってやっていただけませんか? エリス皇子妃殿下」
エリスを見つめる、ジークフリートの強い眼差し。
本当かどうか判断しようのない内容だが、無視するわけにはいかない。
エリスはひとり、心を決める。
彼女は小さく頷いて、ジークフリートの手を取ると会場を抜け出した。
ジークフリートに連れられていった中庭に、シオンはいた。
月明りだけが辺りを照らす、静かな中庭。その中心にある噴水の縁に腰かけて、シオンは神妙な顔で俯いていた。
(本当にシオンだわ)
記憶の中のシオンに比べ身体は大きく成長しているが、あれはシオンで間違いない。
ここに来るまでジークフリートに懐疑的な思いを抱いていた彼女だが、はた目にも肩を落としたシオンの背中を見て、一気に警戒心が消え失せる。
ジークフリートから「行っておいで」と優しい声で促され、エリスは芝生を踏みしめた。
けれど、よほど深く考え事をしているのか、シオンはエリスに気付かない。
そんなシオンに、エリスはそっと声をかける。
「……シオン?」
するとシオンはハッと目を見開いて、ゆっくりと顔を上げた。
その顔がエリスの方を向いて、泣き出しそうに歪む。
次の瞬間、シオンの口から洩れる、縋るような声。
「姉さん……ッ!」
――と、そう呼ばれたと思ったら、気付いた時にはシオンに抱きしめられていた。
すっかり大人の男に成長した弟の腕の中に、彼女の身体はすっぽりと納められていた。
「会いたかった……姉さん……」
エリスの耳元で囁かれる、聞き慣れないシオンの声。
それが声変わりのせいだと気付くまでに、エリスは数秒の時間を要した。
「シオン、大きくなったわね。もうすっかり大人だわ」
「――っ」
「わたしも会いたかった。ごめんなさいね、手紙、出さなくて……」
「……ほんとだよ。僕がどれだけ心配したか……きっと姉さんにはわからない」
シオンの両腕が、エリスの身体を更に強く抱き寄せる。
十六歳になったシオンの身長はエリスをとっくに超えていて、随分と逞しい身体に成長していた。
エリスがおずおずと顔を上げると、当然顔立ちも大人びていて、何だか知らない人の様に思える。
(でも、そうよね。会うのは四年ぶりだもの)
――エリスがシオンに最後に会ったのは、もう四年も前のこと。
そのときまだ十二歳だったシオンは、天使のように愛らしい少年だった。
エリスと同じ亜麻色の髪と、瑠璃色の瞳。
エリスもシオンも外見は母親譲りで、幼い頃の二人は性別こそ違えど、本当にそっくりだった。
シオンは目が大きく童顔で、色白だったこともあり、よく姉妹に間違えられた。
違うところと言えば、シオンの方は髪質がややくせ毛なところくらいだ。
そんな愛らしかった弟が、会わない間にこんなに大きくなっているものだから、エリスはとても驚いた。
けれど、自分をまっすぐに見つめるこの瞳は、紛れもなく彼女の記憶の中の弟のものだ。
エリスは、いつの間にか自分の頬を撫でていたシオンの手に、己の手のひらをそっと重ねる。
「本当にごめんなさい。わたし、シオンの気持ちを少しも考えてあげられていなかった」
「……っ」
――月明りだけが二人を照らす暗い庭園で、エリスはシオンを見つめ返す。
いつの間にか、ジークフリートの姿はなくなっていた。
「姉さん、僕にちゃんと説明してくれる? どうして姉さんが帝国に嫁ぐことになったのか。ユリウス殿下との婚約はどうしたの?」
「……それは」
「まさか……捨てられたの?」
「――っ」
あまりにもあっさりと言い当てられ、エリスはびくりと肩を震わせる。
するとシオンは図星だと悟ったのだろう。
目じりをギッと釣り上げ、唸るように声を上げた。
「あの男……殺してやる」
「――!」
殺意に満ちた弟の表情に、エリスは顔を青ざめる。
「ち、違うの……! 違うのよ! ちょっと誤解があっただけ。ユリウス殿下は何も……何も、悪くないのよ」
本当は何もなかったなんて嘘だ。
ちょっと誤解があっただけ? ――そんなはずはない。
だが、エリスはシオンに、ユリウスに悪い感情を抱いてほしくないと思っていた。
シオンはウィンザー公爵家の正当な後継者だ。いつか必ず爵位を継ぎ、ユリウスの臣下として務めなければならない日が来る。
だから、濡れ衣で婚約破棄されたなどと、伝えるわけにはいかなかった。
「本当に何もないの。あなたは何も気にしなくていいのよ」
エリスは必死に誤魔化そうとする。
けれど、シオンにそんな嘘は通じない。
「やめてよ姉さん。僕はもう子供じゃないんだ。そんな言葉に騙されたりしない」
「――っ」
「何もないなら、どうして嫁ぎ先が帝国の第三皇子なんだ? 僕だってアレクシス殿下の噂くらい知ってるよ。事実かどうかは別として、どれもゾッとするような内容だ」
「――! そんな……、殿下はそんな方じゃ……!」
「本当に? 確かに僕は殿下のことを何も知らないけど、火のないところに煙は立たないって昔から言うだろう? 姉さんは僕を心配させまいとしてそんなことを言うのかもしれないけど、そういう態度を取られると、逆に疑いたくなるんだよ」
「……シオン」
エリスを見つめるシオンの顔が、泣き出しそうに歪む。
「僕は姉さんが大切なんだ。僕の家族は姉さんだけなんだ。姉さんをこんな場所に送り込んだ祖国のことなんてどうだっていい。公爵位にだって興味はない。そもそも、僕が今までランデル王国で大人しくしていたのはどうしてだと思う? それが姉さんの為になると思ったからだ。卒業したらすぐに爵位を継げるように――それまではあの愚かな父親を油断させておく必要があったから。……なのに」
シオンの両腕が、再びエリスを抱きしめる。
強く、強く――その腕の力に、エリスは息をするのも忘れてしまいそうになった。
「ユリウス殿下を信じた僕が馬鹿だった。こんなことになるのなら、もっと早く攫っておくべきだったんだ」
「……え?」
(攫う……って、どういう意味?)
シオンの言葉の意味がわからず、エリスは困惑する。
そんなエリスの耳元で、シオンはそっと囁いた。
「ごめんね、姉さん。少しだけ眠っていてくれる?」
「――っ」
その声と同時に、鼻と口を湿った布で塞がれる。
そしてエリスは、あっという間に意識を失ったのだった。
同じ頃、アレクシスはセドリックと共に東側の廊下を足早に進んでいた。
その顔を、強い苛立ちに染めて――。
ことは数分前に遡る。
アレクシスが他国の軍事関係者と話をしていていると、マリアンヌが血相を変えてやってきた。
そして「エリスがいなくなった」と言うのだ。
詳しい説明を求めると、マリアンヌはこのように話した。
お花を摘みにいって戻る途中、東側の廊下をエリスと思われる女性が歩いていた。
その女性は、他国の衣装を着た男と一緒だった。追いかけたようとしたが、東側の廊下に着いたときには既にいなくなった後だった――と。
マリアンヌはそれが人違いだった可能性も考慮し、会場に戻ったあと一通りエリスの姿を探したという。
けれど、どこにもいないのだ、と。
それを聞いたアレクシスが、今度は廊下で見たという男の特徴を尋ねると、「銀色の髪の男」だったと返ってくる。
その答えに、アレクシスは確信した。エリスを連れ出したのは、ジークフリートに違いない、と。
「いったいあの男は何がしたいんだ。――セドリック、お前はどう思う?」
アレクシスは、自分の斜め後ろを歩くセドリックの意見を求める。
けれど流石のセドリックも、これには何の考えも浮かばないようだった。
「わかりかねます。ジークフリート殿下とエリス様の間に、特に面識はないはずですし」
「となると、またあいつの悪い癖か?」
「ああ、例の……」
「あの男は"他人の欲望を知りたがる"癖がある。その上、悪気なくそれを叶えてやろうとするからな。エリスから俺の情報を聞き出すなんてことは、流石にしないだろうが……厄介だな」
アレクシスの知る限り、ジークフリートという人間は基本的には善人だ。
性格は軽いところがあるが、人を思いやる心があるし、他人に悪意をぶつけたり、見下すといったこともない。王族にありがちな傲慢さも持っていない。
だが一つだけ、どうにも困ったところがあった。
それは、"他人の願いや欲望を知りたがるところ"。そしてそれが彼自身の理にかなっていると思えば、多少強引な手を使ってでも実際に叶えてしまうところだった。