ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜


(きっと侍女たちは理由を知っているんだわ。でもどうして教えてくれないのかしら。やっぱりわたしが原因だから?)

 エリスはどんどんと不安に陥っていった。
 それを表に出すことはなかったけれど、アレクシスとの距離がようやく縮まっていたと思っていた矢先のことだったから、正直落ち込んだ。

 そんなある日、十日ぶりにアレクシスが「今日は早く帰る。夕食を共にとろう」と言ってくれたものだから、エリスは内心とても安堵したのだ。

 避けられていると思っていたが、勘違いだったのかもしれない。きっと本当に仕事が忙しかっただけなのだ。
 今夜はゆっくり食事をしてもらおう――と、マリアンヌから聞いた、アレクシスの好物のミートパイを手ずから焼いた。

 だがその日の夕方、アレクシスから届いた報せには、「今夜も遅くなる」という短い一言。

 その報せを読んだエリスは、気付けば手紙をぐしゃりと握りつぶしていた。

 自分でもどうしてそんなことをしたのかわからない。
 けれど、酷く裏切られたような気分になったのだ。


(こうなったら、帰るまで待っててやるんだから)

 意地になったエリスは、食堂で二時間待ち続けた。

 アレクシスが帰ってきたら、どれだけ待たされても笑顔で出迎える健気な淑女を演じるのだ、と心に決めて。

 だが、ようやく帰宅したアレクシスがエリスの前に差し出したのは、このネックレス。
 アレクシスの帰りが遅かったのは、ネックレスを用意していたからだったのだ。


 そのときのエリスの感情といったら、一言では言い表せない。

 贈り物をされたことは嬉しいのに、「どうして言ってくれなかったのだろう。言ってくれればこんなに悩むこともなかったのに」という怒りにも似た感情が溢れ出し、それと同時に、アレクシスの「仕事だ」という言葉を信じてあげられなかった自分が心底情けなくなった。

 ――そして気付いたのだ。

 自分がいつの間にか、アレクシスを怖いと思わなくなっていることに。
 それどころか、好意を抱いていることに。

(あんなに酷い目に合わされたのに……変よね、わたし)

 そもそも女性嫌いのアレクシスだ。
 常に愛想は悪いし、口調も全然優しくない。ユリウスのように髪型やドレスを褒めてくれることもない。
 微笑んだ顔だって、一度たりと見たことがない。

 それでも、このエメラルド宮で共に過ごすうちに彼の誠実さを知った。

 いいことはいい、悪いことは悪い、好きならば好きだと言うし、できなければできないとはっきり言う。
 けれど、他人に何かを押し付けたり、否定したりはしない。そういう実直なところに好感を持った。

 最初は怖いと思っていた、側近のセドリックと仕事の話をしているときの気難しい横顔や、指示を出すときの低く抑揚のない声も、これがこの人の「普通」なんだと知った今は何とも思わなくなった。

 むしろ、感情をあまり表に出さないアレクシスのことをもっとよく知りたいと――今、この人は何を考えているのだろうかと――エリスはいつの間にかそう思うようになっていたのだ。


 ――そんなことを考えているうちに、出発の時間を迎えたようだ。

 部屋のドアがノックされ、「準備はできたか」という声と共にアレクシスが入ってくる。

 その声にエリスが振り向くと、そこには軍服姿のアレクシスが立っていた。

 結婚式のときと同じ、式典用の華やかな装飾が施された黒い軍服。
 式の時はよく見ていなかったけれど、こうして改めて見るとアレクシスには黒が一番似合う。

 ただでさえ長い足はもっと長く見えるし、その分圧迫感は増すけれど、それ以上に凛々しさと逞しさも増している。


(……何だか、顔が熱いわ)

 エリスがパッと顔を逸らすと、アレクシスは不思議そうな顔をする。

「……? どうかしたか?」
「い、いえ。何でもありませんわ。参りましょう、殿下」
「? ああ」

 エリスの言葉に、アレクシスは左腕を差し出した。
 その仕草に、エリスは目を見張る。

(これってエスコートよね……? 嘘、女性嫌いの殿下が……?)

 エリスが困惑していると、アレクシスは不満そうに言い放つ。

「俺だってエスコートくらいはする」
「――!」
「そもそも今夜は舞踏会だぞ。離れていたらおかしいだろう」
「た……確かに、仰るとおりですわね……」

(そうよね。舞踏会で夫婦が離れていたら、変よね……)

 エリスは心の中でアレクシスの言葉を復唱し、右手をそっとアレクシスの左腕に添えた。

 ユリウスと比べて、腕の位置が少し高い。

 その当たり前の違いに、意味もなく胸の鼓動を速めながら――エリスはアレクシスにエスコートされて、夜の王宮へと向かった。

 アレクシスと共に王宮の大ホールに足を踏み入れたエリスは、その荘厳さと人の多さに圧倒された。

 まずとにかく広いのだ。
 スフィア王国の王宮の十倍はあるだろう。

 二階席のある吹き抜けの天井は、見上げると首を痛めてしまいそうなほどの高さがあり、ぶら下がるシャンデリアの数も馬鹿にならない。
 二十……いや、三十はあるだろうか。
 あれだけの数のシャンデリアを支えるためには、天井にも柱にもかなりの強度が必要なはず。

 壁や柱に施された彫刻や金の装飾も、見事という他ない。
 
(やっぱり、帝国って凄いんだわ。それに、聞いてはいたけど人がとても多い) 

 エリスは女官から、宮廷舞踏会について一通りの説明を受けていた。

 まず、宮廷舞踏会が行われるのは年に一度。開催時期は、社交シーズンの最も盛りな五月の初めだ。
 時間は午後八時から十二時までの四時間。

 出席者は成人済みの皇族と妃たち、伯爵位以上の貴族とその妻。また、軍の将官、それに各国から招かれた王族など総勢千名以上が参加する、政治的に重要な行事である。

 とは言え、舞踏会のしきたりは全く厳格なものではなかった。

 最初に皇帝と皇后が一曲踊り、次に皇子とその妃が躍る。そして未婚の皇子と皇女が躍ったら、あとは最後まで自由時間というフランクなものだ。
 踊りたければ踊ればいい、食事をしてもいい。帰りたければ帰ってもいい、と。

 実際、アレクシスは馬車の中でこう言っていた。

「陛下は毎年最初の一曲を踊られたら、すぐに退席される。俺も去年まではそうしていた」と。

 エリスはそれを聞いたとき、まさか冗談だろうと思った。
 一曲で退席するなんてことが本当に許されるのかと。

 だが、一緒に馬車に乗っていたセドリックが事実であると認めたのだ。
「殿下は毎年一曲踊ったら、すぐお帰りになられます」――と。


 それを聞いた瞬間、エリスはそれまで多少は感じていた緊張というものが全て吹き飛んでしまった。
 だが、それでも一つだけ気がかりなことがあった。

 それは、アレクシスとちゃんと踊れるだろうかということだった。

 そもそも、エリスとアレクシスは一度も一緒にダンスをしたことがない。
 アレクシスは三日前までずっと帰りが遅かったため、ダンスのことに気を回している余裕がなかったからだ。

 
(そう言えばわたし、去年ユリウス殿下と踊ったのを最後に、もうずっと踊ってないわ)
  
 
 エリスは案内された皇族専用の席に腰を落ち着けながら、ユリウスと踊った最後のダンスのことを思い出す。
 

 ――それはもう半年も前、ユリウスから婚約破棄される一月前の、雪の降る寒い日のこと。

 ユリウスがウィンザー公爵邸を訪れて、エリスにドレスをプレゼントしてくれた。

「年が明けた最初の宮廷舞踏会で、これを着てほしい。きっと君に似合うと思う」と。

 もちろんエリスは喜んで受け取った。
 恋人からの贈り物だからというのもあるが、自分を虐げる家族も、ユリウスからの贈り物には絶対に手を出さなかったからである。

「ありがとうございます、殿下。舞踏会、楽しみにしています」

 エリスがそう答えると、ユリウスは嬉しそうに笑った。
 そしてその後「せっかくだから今から一曲踊ろうよ。予行練習だと思って」と誘われ、一曲踊ったのだ。



(今思えば、あれが最後のダンスだった。舞踏会当日は、ダンスどころかエスコートすらなかったから……)

 婚約破棄されたあの日のことを思い出し、エリスは顔を曇らせる。

 ここが舞踏会場だからだろうか。
 最近はすっかり思い出さなくなっていたあの夜の辛い記憶が、急に鮮明に蘇ってくる。

 会場のざわめきが、女性たちのヒソヒソという話し声が、シャンデリアの眩い灯りが、この広い空間が、自分を蔑むように見下ろす沢山の目が……「君との婚約を破棄する」と冷たく言い渡されたときのあの声が、耳の奥でこだまする。


「――っ」

 ――怖い。

 ここにいるのが怖い。今すぐ逃げだしてしまいたい。

 ここはあのときの場所ではないのに、隣にいるのはユリウスではなくアレクシスだと理解しているのに、手足が急激に体温を失っていく。


(どうしましょう……。わたし、踊れそうにない)

 踊れない。こんな状態で踊れるわけがない。

 でも、踊らなくては。……踊らなくては。

(だってわたしは、皇子妃なのだから)


 けれどそんな思いとは裏腹に、どんどんと冷えていく指先。無くなっていく手足の感覚。

 いつの間にか始まっていた皇帝と皇后のダンスを前にしても、自分の踊っているイメージが少しも湧いてこなかった。
 美しい弦楽器の音色も、好きだったはずの三拍子(ワルツ)のリズムも、今はただ、耳を塞いでしまいたいものでしかなくて。


 それでも、否応(いやおう)なしにダンスの順番は回ってくる。

 エリスは真っ白な頭のままアレクシスに手を引かれ、気付いたときには他の皇子や妃らと共に、ホールの中央に立っていた。

「――っ」

(待って……まだ、踊れない)

 手足に震えが走る。
 怖くて怖くて、足が竦んでしまう。
 人の視線が痛い。注目されるのが、どうしようもなく怖い。

(どうしよう……。どうしたらいいの……?)

 ユリウスと何度も踊ったワルツ。
 自分を虐げる家族のしがらみから離れることのできる、数少ない時間。

 大好きだった舞踏会を、こんなに恐ろしく思う日がくるなんて想像もしていなかった。


 エリスは恐ろしさのあまり、無意識にアレクシスの手を握っていた。
 ホールドした手のひらに、力を込めてしまっていた。

 するとアレクシスは異常を察したのだろう。
 下を向いてしまったエリスの耳元に、そっと唇を寄せる。

「どうした? 気分でも悪いのか?」
「……っ」

 その声に、エリスの心臓がドクンと跳ねた。

 こんなところで、こんなに大事な場で、醜態をさらすわけにはいかない。――そうとわかっていても、どうしようもなく弱音を吐いてしまいたくなった。

 言えばきっと愛想を尽かされる。でも、黙っておくこともできなかった。
 

「――ない……です」
「?」

 掠れた声で呟くエリスに、アレクシスは怪訝そうに眉を寄せる。

「よく聞こえない」

「……踊れない、です」
「――何?」
「踊れないんです、殿下」
「…………」

 絞り出すようなエリスの声に、アレクシスは嘘ではないと悟ったのだろう。
 瞼をピクリと震わせて、ほんの一瞬黙り込む。

 だが、すぐにこう言った。

「問題ない」――と。

「……え?」

 それはいつもと変わらない、アレクシスの抑揚のない声。
 少しも動揺していない、淡々とした声。

 エリスが顔を上げると、そこには自分を至近距離で見下ろす、普段通りのアレクシスの顔があった。

「あの……問題ないってどういう……」

 エリスが問うと、アレクシスはどこか得意げに目を細める。

「俺を誰だと思っている。帝国最強の男だぞ」
「……え?」
「俺が怖ければ目を閉じていろ。ただし、身体の力は抜いておけ」
「それって……」

(この人、いったい何を言ってるの……?)
 

 困惑するエリスの思考を置き去りに、音楽が始まった。

 すると同時に、ホールドした背中をぐいっと引き寄せられる。
 身体がしなり、天井を大きく見上げる体勢になったと思ったら、今度は足が床からわずかに浮き上がった。

 そしてそのまま、アレクシスの大きなステップに合わせ、身体を右に左に持っていかれる。

「――っ!」

(嘘でしょう……!? まさか腕の力だけで……!?)

 確かにドレスに隠れて足の動きは見えないかもしれない。――が、こんな力技が許されるのか。

 (はた)から見たらいったいどう見えているのだろう。ちゃんと踊れているように見えるだろうか。

 いや、それは絶対にない。
 きっと周りからは、自分がアレクシスに振り回されているようにしか見えないだろう。

 けれど、そんなアレクシスの無茶な行動のおかげだろうか。エリスの中から、いつしか恐怖が消えていた。


 見上げた天井が、アレクシスの動きに合わせてクルクルと回転する――その不思議な光景を、エリスはいつの間にか、心から楽しんでいる自分がいることに気付くのだった。

 それから約三十分が経ったころ、エリスはマリアンヌと会場隅のソファに腰かけ、和やかに談笑していた。

 話題は先ほどのダンスについてである。


「わたくし、びっくりしっちゃったわ……! アレクお兄さまがあんなに楽しそうに踊るなんて! 去年まではわたくしのペアはお兄さまだったのだけど、いつもどこかそっぽを向いているし、本当につまらなそうで。それなのに先ほどのお兄さまったら……! お二人は本当に仲がいいのね、羨ましいわ」
「そう仰っていただけるとほっとしますわ。実は、ここのところ殿下はとてもお忙しくて、ダンスの練習ができなかったものですから」
「まぁ! だからお兄さまったら最初あんなに(りき)んでいらっしゃったのね。お二人の距離があまりに近くて、わたくし本当にドキドキしてしまったのよ。会場の誰もが驚いたんじゃないかしら。女性嫌いのお兄さまが、あんなに正面からエリス様を見つめておられて……」
「…………」

 マリアンヌの言葉に、エリスは先ほどのことを思い出す。

 これから踊るという大事な場面で、ホールの中央で立ち尽くしてしまった自分。
 けれどそんな自分を、アレクシスはフォローしてくれた。

 方法はかなり力技なものだったけれど、そのおかげで中盤以降、彼女はいつもの自分を取り戻し自力で踊ることができたのだ。

 もともとダンスの得意だった彼女は、アレクシスとの体格差を思わせることなく見事なステップを披露し、無事にフィニッシュ。

 アレクシスからも「何だ。踊れるじゃないか」とお褒めの言葉(?)を授かり、今に至る。