(流石に働かせすぎたか。――そう言えばあいつ、昔はよく熱を出していたな)
アレクシスは幼いころのセドリックを思い出す。
アレクシスとセドリックは乳兄弟で、家族同然に育ってきた。幼いころの記憶の中には常にセドリックがいるし、ランデル王国へも共に留学した。
セドリック本人は口にしないが、もともと身体があまり丈夫ではないセドリックが軍人になったのは、アレクシスの側にいる為だ。
その忠誠心は母の愛より深いと断言できる。
(まぁ、そもそも母は俺のことなど愛していなかっただろうが……。ともかく、セドリックには数日休みを与えなければな)
――アレクシスがそんなことを考えていると、不意に馬車が停まった。
どうやら宮に着いたようだ。
化粧箱を片手に馬車から降りると、侍従が出迎えてくれる。
「お帰りなさいませ、殿下」
「ああ。妃はもう休んだか?」
「いいえ、まだ。エリス様は食堂で殿下を待っておられます。夕食を共にされると仰って」
「――! まさかずっと待っているのか?」
「はい。二時間ほど前からでしょうか」
「――っ」
その言葉に、アレクシスは言いようもなく胸が熱くなるのを感じた。
普段は着替えてから食事をするところだが、その時間すら惜しいと思った。
こんな感情は生まれて初めてだった。
気付いた時には、食堂の扉を開けていた。
するとそこには「お帰りなさいませ、殿下」――と、いつものように微笑んでくれるエリスの姿。
「……なぜ、こんなに遅くまで。夕方報せを出したはずだが……読まなかったのか?」
「いえ、ちゃんと読みましたわ。ただ、わたくしが待ちたかっただけで……。もしかして、もう夕食は済まされてしまいましたか?」
「いや……、まだだ。まだ……何も」
「良かった。でしたら、今から一緒に召しあがりませんか?」
「……っ」
(ああ……なぜだ? どうして俺はこんなにも動揺している?)
朝食のときは、彼女を見てもこんな気持ちにはならなかったはずなのに――。
アレクシスの心に芽生える未知の感情。
温かくて、むずがゆくて、けれど同時に、胸を締め付けられるような不思議な感覚。
苦しいのに、嫌ではない。
悲しくないのに、泣きたくなる。
そんな初めての感情に、アレクシスは化粧箱を持つ手にぎゅっと力を込めた。
緊張に、冷や汗が滲む。
「食事の前に、君に渡したいものがある。側に寄ってもかまわないか?」
アレクシスは、普段は決してエリスに近づかない。
食事を一緒にするようになっても、二人の物理的な距離は離れたままだ。
それはアレクシスが自分の女嫌いを自覚しているからであり、また、エリスが自分のことを恐れていると思っているからだった。
近づけばエリスを怯えさせてしまうかもしれない。
咄嗟に突き飛ばしてしまうかもしれない。
アレクシスの中には、常にそんな恐れが存在していた。
だが、贈り物くらいは自分の手で渡したい。
侍従や侍女の手を介さず、自分の手で……。
アレクシスはそんな気持ちで、エリスの返事を待つ。
するとエリスは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにふわりと微笑んだ。
「はい、もちろんです、殿下」――と。
その笑顔に、アレクシスの心臓が跳ねる。
彼はごくりと喉を鳴らし、一歩、二歩と慎重にエリスに近づいていった。
そしてエリスのすぐ目の前に立つと、化粧箱の蓋をゆっくりと開いた。
美しく輝くエメラルドと、沢山のダイヤモンドが散りばめられたネックレスが、エリスの瞳に映される。
「殿下……まさかこれを、わたくしに……?」
「そうだ。三日後の舞踏会のドレスに合わせて作らせた。ギリギリになってしまって、すまなかった」
「……っ」
「本当はもっと早く完成させる予定でいたんだが……デザインをあれこれ悩んでいたらこんな時期になってしまってな」
実は忘れていただなんて、口が裂けても言えやしない。
「え……? このネックレス、殿下がデザインされたのですか?」
「ああ……一応な。き……気に入らないか……?」
「そんな、まさか……! 気に入りましたわ! 凄く……凄く綺麗です。……本当に嬉しいです。ありがとうございます、殿下」
気恥ずかしそうに微笑むエリスに、アレクシスは心底安堵する。
こんなにも緊張したのは、初めて戦場に立ったとき以来かもしれない、と。
だが、とても良い気分だった。
戦果を認められるのとは、全く違う達成感。
自分の贈り物を、喜んでくれる人がいる。
その人の喜ぶ顔を見ると、こんなにも満たされた気持ちになるのかと。
それはアレクシスにとって、思い出の中のエリスとの出会いと同じくらい、特別な瞬間だった。
舞踏会当日の夕方。
エメラルド宮の私室で、エリスは侍女の手を借りて身支度をしていた。
宮内府から支給されたライムグリーンのドレスを身にまとい、アレクシスからプレゼントされたネックレスを付けたエリスは、姿見の前に立つ。
するとそこにあるのは、自分でも驚くほどに美しい女性の姿だった。
胸元を上品に飾る宝石が、自分の魅力を際立たせてくれているように思える。
「……本当に素敵」
ネックレスの眩さに、思わず溜め息が出てしまう。
この繊細なデザインを考えたのがアレクシスだと思うと、意外すぎてとても不思議な気持ちになった。
鏡をじっと見つめるエリスを、侍女たちは後ろから微笑ましそうに眺める。
「とてもお綺麗ですわね、エリス様」
「本当ですわ。ドレスも宝石もよく似合っていらっしゃる」
「殿下もたまには良いことをされますのね」
「でも時期が遅すぎですわ。もっと早くお贈りしてくだされば満点でしたのに」
「それはそうよね。あまりに遅いので心配してしまったわ。まさかお忘れになっているのかと」
侍女たちがアレクシスを非難する声を聞いたエリスは、ここ二週間のアレクシスの様子を思い出す。
二週間前から、急に帰りが遅くなったアレクシス。
それまでは朝夕食事を共にしていたのに、ある日を境に突然帰宅が真夜中を過ぎるようになった。
最初は気にしていなかったエリスだが、あまりにそれが続くのでおかしいと思い、ある朝理由を尋ねてみた。
けれどアレクシスからは「仕事だ」としか返ってこない。
朝食は変わらず共にするが、何か話を振っても上の空で反応が乏しく、口数も明らかに少ない。
それに、態度も何だか冷たいような気がする。
当然エリスは不安になった。
これは何か粗相をしてしまったのではないか。アレクシスを怒らせてしまったのではないか、と。
だが侍女たちに相談しても「きっとお疲れなのですよ」「気にすることはありませんわ」「殿下はもともとそういう方ですし」とかわされてしまう。
それも、何かを隠しているような風で。
(きっと侍女たちは理由を知っているんだわ。でもどうして教えてくれないのかしら。やっぱりわたしが原因だから?)
エリスはどんどんと不安に陥っていった。
それを表に出すことはなかったけれど、アレクシスとの距離がようやく縮まっていたと思っていた矢先のことだったから、正直落ち込んだ。
そんなある日、十日ぶりにアレクシスが「今日は早く帰る。夕食を共にとろう」と言ってくれたものだから、エリスは内心とても安堵したのだ。
避けられていると思っていたが、勘違いだったのかもしれない。きっと本当に仕事が忙しかっただけなのだ。
今夜はゆっくり食事をしてもらおう――と、マリアンヌから聞いた、アレクシスの好物のミートパイを手ずから焼いた。
だがその日の夕方、アレクシスから届いた報せには、「今夜も遅くなる」という短い一言。
その報せを読んだエリスは、気付けば手紙をぐしゃりと握りつぶしていた。
自分でもどうしてそんなことをしたのかわからない。
けれど、酷く裏切られたような気分になったのだ。
(こうなったら、帰るまで待っててやるんだから)
意地になったエリスは、食堂で二時間待ち続けた。
アレクシスが帰ってきたら、どれだけ待たされても笑顔で出迎える健気な淑女を演じるのだ、と心に決めて。
だが、ようやく帰宅したアレクシスがエリスの前に差し出したのは、このネックレス。
アレクシスの帰りが遅かったのは、ネックレスを用意していたからだったのだ。
そのときのエリスの感情といったら、一言では言い表せない。
贈り物をされたことは嬉しいのに、「どうして言ってくれなかったのだろう。言ってくれればこんなに悩むこともなかったのに」という怒りにも似た感情が溢れ出し、それと同時に、アレクシスの「仕事だ」という言葉を信じてあげられなかった自分が心底情けなくなった。
――そして気付いたのだ。
自分がいつの間にか、アレクシスを怖いと思わなくなっていることに。
それどころか、好意を抱いていることに。
(あんなに酷い目に合わされたのに……変よね、わたし)
そもそも女性嫌いのアレクシスだ。
常に愛想は悪いし、口調も全然優しくない。ユリウスのように髪型やドレスを褒めてくれることもない。
微笑んだ顔だって、一度たりと見たことがない。
それでも、このエメラルド宮で共に過ごすうちに彼の誠実さを知った。
いいことはいい、悪いことは悪い、好きならば好きだと言うし、できなければできないとはっきり言う。
けれど、他人に何かを押し付けたり、否定したりはしない。そういう実直なところに好感を持った。
最初は怖いと思っていた、側近のセドリックと仕事の話をしているときの気難しい横顔や、指示を出すときの低く抑揚のない声も、これがこの人の「普通」なんだと知った今は何とも思わなくなった。
むしろ、感情をあまり表に出さないアレクシスのことをもっとよく知りたいと――今、この人は何を考えているのだろうかと――エリスはいつの間にかそう思うようになっていたのだ。
――そんなことを考えているうちに、出発の時間を迎えたようだ。
部屋のドアがノックされ、「準備はできたか」という声と共にアレクシスが入ってくる。
その声にエリスが振り向くと、そこには軍服姿のアレクシスが立っていた。
結婚式のときと同じ、式典用の華やかな装飾が施された黒い軍服。
式の時はよく見ていなかったけれど、こうして改めて見るとアレクシスには黒が一番似合う。
ただでさえ長い足はもっと長く見えるし、その分圧迫感は増すけれど、それ以上に凛々しさと逞しさも増している。
(……何だか、顔が熱いわ)
エリスがパッと顔を逸らすと、アレクシスは不思議そうな顔をする。
「……? どうかしたか?」
「い、いえ。何でもありませんわ。参りましょう、殿下」
「? ああ」
エリスの言葉に、アレクシスは左腕を差し出した。
その仕草に、エリスは目を見張る。
(これってエスコートよね……? 嘘、女性嫌いの殿下が……?)
エリスが困惑していると、アレクシスは不満そうに言い放つ。
「俺だってエスコートくらいはする」
「――!」
「そもそも今夜は舞踏会だぞ。離れていたらおかしいだろう」
「た……確かに、仰るとおりですわね……」
(そうよね。舞踏会で夫婦が離れていたら、変よね……)
エリスは心の中でアレクシスの言葉を復唱し、右手をそっとアレクシスの左腕に添えた。
ユリウスと比べて、腕の位置が少し高い。
その当たり前の違いに、意味もなく胸の鼓動を速めながら――エリスはアレクシスにエスコートされて、夜の王宮へと向かった。
アレクシスと共に王宮の大ホールに足を踏み入れたエリスは、その荘厳さと人の多さに圧倒された。
まずとにかく広いのだ。
スフィア王国の王宮の十倍はあるだろう。
二階席のある吹き抜けの天井は、見上げると首を痛めてしまいそうなほどの高さがあり、ぶら下がるシャンデリアの数も馬鹿にならない。
二十……いや、三十はあるだろうか。
あれだけの数のシャンデリアを支えるためには、天井にも柱にもかなりの強度が必要なはず。
壁や柱に施された彫刻や金の装飾も、見事という他ない。
(やっぱり、帝国って凄いんだわ。それに、聞いてはいたけど人がとても多い)
エリスは女官から、宮廷舞踏会について一通りの説明を受けていた。
まず、宮廷舞踏会が行われるのは年に一度。開催時期は、社交シーズンの最も盛りな五月の初めだ。
時間は午後八時から十二時までの四時間。
出席者は成人済みの皇族と妃たち、伯爵位以上の貴族とその妻。また、軍の将官、それに各国から招かれた王族など総勢千名以上が参加する、政治的に重要な行事である。
とは言え、舞踏会のしきたりは全く厳格なものではなかった。
最初に皇帝と皇后が一曲踊り、次に皇子とその妃が躍る。そして未婚の皇子と皇女が躍ったら、あとは最後まで自由時間というフランクなものだ。
踊りたければ踊ればいい、食事をしてもいい。帰りたければ帰ってもいい、と。
実際、アレクシスは馬車の中でこう言っていた。
「陛下は毎年最初の一曲を踊られたら、すぐに退席される。俺も去年まではそうしていた」と。
エリスはそれを聞いたとき、まさか冗談だろうと思った。
一曲で退席するなんてことが本当に許されるのかと。
だが、一緒に馬車に乗っていたセドリックが事実であると認めたのだ。
「殿下は毎年一曲踊ったら、すぐお帰りになられます」――と。
それを聞いた瞬間、エリスはそれまで多少は感じていた緊張というものが全て吹き飛んでしまった。
だが、それでも一つだけ気がかりなことがあった。
それは、アレクシスとちゃんと踊れるだろうかということだった。
そもそも、エリスとアレクシスは一度も一緒にダンスをしたことがない。
アレクシスは三日前までずっと帰りが遅かったため、ダンスのことに気を回している余裕がなかったからだ。
(そう言えばわたし、去年ユリウス殿下と踊ったのを最後に、もうずっと踊ってないわ)
エリスは案内された皇族専用の席に腰を落ち着けながら、ユリウスと踊った最後のダンスのことを思い出す。
――それはもう半年も前、ユリウスから婚約破棄される一月前の、雪の降る寒い日のこと。
ユリウスがウィンザー公爵邸を訪れて、エリスにドレスをプレゼントしてくれた。
「年が明けた最初の宮廷舞踏会で、これを着てほしい。きっと君に似合うと思う」と。
もちろんエリスは喜んで受け取った。
恋人からの贈り物だからというのもあるが、自分を虐げる家族も、ユリウスからの贈り物には絶対に手を出さなかったからである。
「ありがとうございます、殿下。舞踏会、楽しみにしています」
エリスがそう答えると、ユリウスは嬉しそうに笑った。
そしてその後「せっかくだから今から一曲踊ろうよ。予行練習だと思って」と誘われ、一曲踊ったのだ。