ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜


 エリスがヴィスタリアに輿入れしてから、一ヶ月が過ぎたある日の午後。

 軍の定例会議を終えたアレクシスは、執務室にてセドリックと共に書類仕事をこなしていた。


 アレクシスは二十二歳の若さでありながら、帝国軍を統帥(とうすい)する権限を与えられている。
 帝国軍は大きく陸軍と海軍の二つに分かれ、更に軍令組織と軍政組織に分かれ……とピラミッド構造になっているのだが、その全てを束ねる重要な立場だ。

 有事(ゆうじ)の際は昼も夜もなく、軍の指揮や作戦立案に明け暮れなければならない大変な仕事である。


「海軍の来期の予算案、数字が大きいな。これではクロヴィス兄上は納得せんぞ。組み直して再提出させろ」
「承知しました。念のため第四皇子(ルーカス)殿下にも確認しておきます」

「新しい兵器の開発はどうなっている。進捗報告の期日はとっくに過ぎていると、技術本部に伝えておけ」
「はい、(ただ)ちに」

 アレクシスは淡々と書類に目を通し、可否の判断を下していく。
 気になる箇所が少しでもあれば差し戻しだ。
 
 そうして一時間が過ぎたころだ。
 三人の側近を引き連れて、第二皇子クロヴィスがやってきた。

 約束もしていない突然の兄の訪問に、アレクシスはあからさまに不機嫌な顔を向ける。

「何の用です。俺は忙しいのですが」
「つれないな。まぁいい。手短に話そう」

 そう言いながらソファに腰を下ろすクロヴィスに、アレクシスは仕方なく仕事の手を止めた。

「――で、話とは」

 アレクシスが問うと、クロヴィスはスッと目を細める。

「お前、初夜以降一度も妃の元を訪れていないそうじゃないか。エリス妃はこの一ヵ月ですっかり侍女たちの信頼を勝ち得たというのに、お前がそんなことでどうするんだい」

 その内容に、アレクシスは瞼をピクリと震わせた。

 確かにクロヴィスの言う通り、エリスの評判はエメラルド宮の使用人から報告が上がってきている。

 相手が誰であろうと優しく接し、誠実で穏やかな性格。驕り高ぶるようなところはない。
 下働きのメイドがうっかり花瓶を割ってしまったときも、エリスは真っ先にメイドに怪我がないかを心配したと聞いている。
 
 どうやら、彼女は俺の知る女たちとは少し違うらしい。

 アレクシスはここ最近ようやくそんな風に思い始めていたが、けれど結局、初夜以降一度もエリスの元を訪れていなかった。

 初夜の罪悪感が邪魔をするからか、アレクシスは結婚前と同じく、皇子宮にて寝食をしているのだ。


「兄上には関係のないことでしょう」

 不愛想に突っぱねるアレクシスに、クロヴィスは困った顔をする。

「彼女は噂とは随分違う女性だと聞いているが……。女嫌いもほどほどにしないと、(みずか)らの評判を(おとし)めかねないよ」
「俺の評判など元からよくないでしょう。言いたい奴には言わせておけばいい」
「私はお前を心配しているんだよ。お前が初夜以降一度もエリス妃に会いに行っていないことは、既に宮廷内に広まっている。これ幸いと、娘をお前の妃にしようと考える家臣が出てもおかしくない」
「……は?」
「皆まで言わねばわからんか? 今までは皇子妃は王族であると慣習で決まっていた。だが、今回陛下がそれを覆してしまった。皇子妃は王族でなくてもよいのだ、とな。となると、帝国貴族たちはこぞって娘を我らの妃に据えようとするだろう。お前がエリス妃と不仲となれば尚更だ」
「…………」

 クロヴィスはそこまで言うと、ソファから立ち上がりアレクシスに一通の封筒を差し出した。

「これは?」
「我が妹、第四皇女(マリアンヌ)からエリス妃への茶会の招待状だ。来月の宮廷舞踏会の前に、一度顔合わせをしたいと言っていた。お前から渡しておいてくれ」
「…………」

 しぶしぶ受け取るアレクシスに、クロヴィスは「頼んだよ」と言い残して去っていく。
 アレクシスはその背中を見送って、大きく溜め息をついた。



 アレクシスは、この一ヵ月のエリスの行動について考える。

 セドリックの報告によると、エリスはこの一月、エメラルド宮で淡々と毎日を過ごしているという。

 侍女や下働きの者に当たったり、我が儘を言うようなことはない。宮内府から支給された予算に手を付けることもなく、侍女たちと本を読んだり刺繍をしたり、花を愛でて過ごしているのだと。

 最初はエリスによそよそしい態度を見せていたエメラルド宮の者たちも、今ではすっかりエリスに懐いてしまった。
 最近は自ら厨房に入り、祖国の料理を作っては使用人に振る舞っていると聞く。

(普通、するか? 公爵令嬢が料理など……)

 アレクシスはこの報告を受けたとき、セドリックから「注意した方がよいのでは?」と進言された。
 けれどアレクシスは、この調査が内々のものであることを理由に静観することに決めた。

「宮の外に漏れなければ問題ない。好きにさせろ」と。

 それはアレクシスなりの罪滅ぼしのつもりだった。
 初夜でエリスを手荒に扱ってしまったことに対する罪悪感。それが、アレクシスの心を普段より寛容にさせていた。

(いくら彼女が俺の探している「エリス」と別人だったとはいえ、俺のしたことは到底許されることではない)

 アレクシスはクロヴィスから受け取った封筒を見つめ、セドリックに命じる。

「今夜、妃と夕食を共にする。宮に使いを出しておけ」

 その言葉に、セドリックはこれでもかと両目を見開く。
 けれどすぐに我に返り、「承知しました」と答えると、急いで部屋を出て行った。

 それはエリスが庭園の手入れをしているときのことだった。

「エリス様、大変です! 殿下が本日夕食を共にされると、たった今使いが来て……!」

 ――と、侍女が血相を変えて、アレクシスの来訪予定を伝えに来たのは。


 ◇


「本当に殿下はこちらにいらっしゃるのね?」
「はい、間違いありません」
「……そう」

 侍女から話を聞いたエリスは、急いで私室に戻り身支度を整え始める。
 その心に、強い不安を抱きながら――。


 エリスはこの一ヵ月ですっかりエメラルド宮に馴染んでいた。

 最初はどこかよそよそしく感じていた侍女たちの態度も、実際に話してみると、実は自分を心配してくれてのことだったとわかった。

 アレクシスが女性に冷たいことは、王宮内では有名な話。
 そんなアレクシスの妻になるなんて不憫だ。どうにかお支えしなくては――と。


 そもそも、この帝国では成人した皇子に宮殿を与える習わしがある。

 第一皇子にはルビー宮、第二皇子にはサファイア宮、そして、第三皇子のアレクシスにはエメラルド宮を。

 それらの宮殿には皇子が使う謁見室や執務室、複数の妃たちを住まわせる為のいくつかの棟やホールがあり、妃たちが何不自由なく暮らせるように設備が整えられている。

 だが、アレクシスはいつまでたっても妻を娶ろうとしない。
 それどころかアレクシス本人も殆どここを訪れることなく、アレクシスが十八で成人してから約四年もの間、実質(あるじ)不在の状態だった。

 そんな状況でも、使用人たちはいつでも皇子妃を迎え入れることができるよう宮の管理を続けてきた。

 それなのにアレクシスは、昨年五度目の婚約が破断になった際に、宮を返還する意思を示したのだ。

 だがもし本当にそんなことになれば、ここで働く者たちは全員職を失うことになる。

 だから侍女たちは、初めての妃を大切にしなければと、エリスに粗相をするようなことがあってはならないと気を遣っていたのだ。

 そんな背景と、エリスの優しく穏やかな性格のためか、エリスは気付けばエメラルド宮に溶け込んでいた。
 アレクシスがこの一ヵ月、一度も宮を訪れなかったことも、エリスと使用人の距離を縮めた大きな要因だろう。

 ともかく、エリスにとってこの一ヵ月は夢のような毎日だった。

 祖国で受けた仕打ちの傷はそう簡単に癒えはしないけれど、それでも、親切な使用人たちと心穏やかに過ごす日々は、彼女にとってかけがえのない日々だった。

 それが今、突如脅かされようとしている。
 エリスは今、それほど憂鬱な気分に陥っていた。


「エリス様、顔色が悪いようですが……少し横になられますか?」

 先ほどまで庭の手入れをしていたエリスの指先を、桶の水で丁寧に洗いながら、侍女の一人がエリスの顔を覗き込む。
 
 アレクシス来訪の報せを聞いたエリスの顔は青白く、周りの侍女たちを心配させた。

「……ありがとう。でも大丈夫よ」


 エリスは、アレクシスの来訪の目的は自分と伽をするためだと考えていた。
 初夜からちょうど一ヵ月。このタイミングで訪れるとしたら、それしかない、と。

(女性がお嫌いな殿下にも、後継者は必要だもの)


 ――本当はすごく怖い。

 初めての伽は、痛くて痛くて、声を上げないようにするのに必死だった。

 身体の奥を容赦なく突き上げられて、あまりの痛みに何度も意識が飛びかけた。
 嫌だ、やめて、触らないで――そう泣き叫びたくなる気持ちを必死に堪え、ただただ時間が過ぎ去るのを待ったのだ。

 あのときの様な思いをもう一度するのかと思うと――これから先、子供ができるまであの痛みに耐えなければならないと思うと、エリスは足が竦んで動けなくなりそうだった。

 けれど、それが皇子妃としての自分の役目。
 アレクシスが自分に唯一求めているものは、子供を産むことなのだろうから。


「……湯浴みの準備をしてちょうだい」

 青白い顔で、エリスは侍女たちに指示をする。
 すると、侍女たちは顔を見合わせた。

「でも、エリス様。やっと傷が癒えたところなのに……」
「そうですよ。普通に歩けるようになるまで二週間もかかったことをお忘れですか?」
「殿下の伽に応じる必要なんてありません!」
「夕食ごとお断りしたらいいんです! 体調がすぐれないと言えば、殿下だって諦めるほかないと思いますわ!」

「……あなたたち」

 自分を庇おうとする侍女たちの姿に、エリスの心が熱くなる。
 自分は一人ではないのだ、と。ここには、こんなにも自分に優しくしてくれる人がいる。

 ならば、自分もそれに応えなければ――そう思った。

「ありがとう。あなたたちの気持ちはとっても嬉しいわ。でも、お願い。殿下の悪口は言わないで。わたしのためにあなたたちが罰を受けたりしたら、耐えられないもの。――ね?」
「エリス様……」
「それに、ここで殿下の御不興(ごふきょう)を買ってわたしが追い出されたら、今度こそ殿下は宮を返還してしまうかもしれないわ。そんなことになったら、あなたたちも困るでしょう?」
「…………」
「さあ、わかったら殿下をお出迎えする準備を始めてちょうだい。もうあまり時間がないわ」
「……はい」

 こうしてエリスは侍女たちと共に、アレクシスを迎え入れる準備に取り掛かった。
 

 午後八時を回った頃、エリスはダイニングにてアレクシスと夕食を共にしていた。
 
 だが食事が始まって三十分が過ぎた今も、二人の間に会話らしき会話は一切ない。
 二人は十人以上掛けられる長いテーブルの端と端に座り、無言でナイフとフォークを動かし続けていた。


(どうしましょう……。わたしから話しかけた方がいいのかしら。でも、余計なことを言って前回のように怒らせてしまってはいけないし……)

 ――気まずい。料理の味がしない。
 部屋の空気の重たさに、胃が痛くなってくる。

 エリスは憂鬱な気持ちで、それでも淑女らしくピンと背筋を伸ばし、料理を口に運ぶ。

 けれどしばらくして、メインの肉料理が運ばれてきたときだ。
 アレクシスが不意にこんなことを言う。

()は、料理をするらしいな」と。

「……え?」

 エリスは驚いた。

 この一ヵ月、一度も宮を訪れていないアレクシスがどうしてそのことを知っているのだろう、と。
 それに、今アレクシスは自分のことを「君」と呼んだ。前回、初夜のときは「お前」呼びだったのに――。


(急にどうなさったのかしら……)

 エリスは一瞬放心するが、すぐに我に返って返事をする。

「申し訳ございません。皇子妃が料理をするのは、よくありませんでしたか?」
「いや、そうは言っていない。――ただ……」
「ただ……?」
「どんな料理を作るのだろうかと思ってな」
「……? 殿下は、料理に興味がおありなのですか?」
「興味と言うか…………いや、もういい」
「…………」

(いったい何なの……?)

 エリスは困惑した。
 目の前のアレクシスが、まるで自分と会話したがっているように思えたからだ。

 絶対に有り得ないことだとわかっているのに、一瞬でもそう感じてしまったことが、自分でも不思議でならなかった。

(もしかして、どこかお身体の具合でも悪いのかしら? でも、もしそうならこちらにいらっしゃったりはしないはず。……やっぱりわたしの気のせいね)

 エリスは再び食事を食べ始める。

 だが、食後のデザートが運ばれてきたときのことだ。
 アレクシスが突然「人払いをしろ」と言い出した。

 それを受けてセドリックを含めた全ての使用人は外に出され、部屋にはエリスとアレクシスだけが残される。

 当然エリスは恐怖した。
 アレクシスと二人きり――初夜のことを思い出し、身が縮んだ。

 いったい自分は何を言われるのだろうか、何か粗相をしてしまったのだろうか、と。

 そんな中、アレクシスが口にした言葉。それは、エリスの予想を上回るものだった。

 なんとアレクシスは「すまなかった」――と、謝罪の言葉を口にしたのだ。