ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜


 ◇


 その日の夜。

 侍女たちの手によって初夜の準備を整えられたエリスは、エメラルド宮の自室のソファに一人腰かけ、左肩に白粉を塗っていた。
 火傷の痕を隠すためである。

 湯浴みの際に傷跡に気付いた侍女が白粉を塗ってくれはしたが、念には念を入れなければ――と。


 白粉を重ね塗しりながら、エリスはスフィア王国出立前夜のことを思い出す。
 少ない持ち物を衣装ケースにまとめているところに父親がやってきて、言い放った言葉を。

「いいか! その醜い火傷の痕は絶対に隠しとおせ! 傷を理由にお前を送り返されるようなことになれば我が家は終わりだ!」――と。


(この傷を作ったのはお父さまなのに、随分勝手よね。でもわたしだって、あの国に戻るつもりはないわ)

 たとえ自分がアレクシスに歓迎されていないとしても、祖国に戻るわけにはいかない。
 

 肩に白粉を塗り終えたエリスはベッドの端に腰かけて、今日会ったばかりのアレクシスの姿を思い出す。

 アッシュグレーの髪に、赤みがかった黄金色の切れ長の瞳。
 顔立ちは凛々しく、身体は雄々しい。流石軍人というべきか、軍服の上からでもはっきりとわかるほど逞しい身体をしていた。
 
 元婚約者であるユリウスは武闘派ではなかったし、それほど身体も大きいわけではなかったから、正直、身体の大きさに圧倒された。

 そのことを思い出したエリスは、急に不安に襲われる。
 あの大きな身体のアレクシス相手に、無事に初夜を終えられるだろうかと。

 王太子妃教育の一環として多少はそういう知識も学んではいるが、あくまで知識は知識。

 それにエリスは少し前まで、その相手がユリウスであると信じて疑わなかった。
 愛するユリウスとその日を迎えることを夢見て生きてきた。

 ヴィスタリアへの輿入れが決まってからも、ユリウスのことを思い出さない日はなかった。
 自分はユリウスに捨てられたのだと頭では理解していても、嫌いになることができなかったのだ。

 それくらい、エリスにとってユリウスの存在は大きかった。
 婚約者として共に過ごした十年の歳月は、彼女にとってあまりにも長すぎた。


「ユリウス殿下……」

 エリスは胸の前で両手を握りしめ、瞼をぎゅっと閉じる。

 怖い……怖い。

 これからユリウス以外の男に抱かれるかと思うと、怖くて怖くてたまらない。
 いっそのこと、アレクシスが来なければいいのに。自分との初夜を拒否してくれたらいいのに――そう願ってしまうほど、恐ろしくてたまらない。


 けれどそんなエリスの願いは叶わず、まもなくして、アレクシスが部屋を訪れた。

 バスローブを一枚羽織っただけのアレクシスからは、強いアルコールの匂いが漂ってくる。

 かなりの酒を摂取したのだろう。
 酷く虚ろなアレクシスの眼差しに、エリスは強い恐怖を覚えた。

 エリスは酒が嫌いだった。
 父が酒に酔う度に、エリスの身体を殴ったからだ。
 
 身を固くするエリスに、アレクシスは吐き捨てるように命じる。

「脱げ」――と。

「……え」
「脱げと言っている。俺の妻ならば、夫の手を煩わせるな」
「――っ」

(……怖い)

 自分はこれから、本当にこの男と夜を共にしなければならないのか。
 そう考えると、恐ろしさのあまり逃げ出してしまいたくなった。

 けれど、そんなことが許されるはずもない。

(だってわたしはもう、この方と結婚してしまったのだから……)

 エリスは唇を嚙みしめる。

 どれだけアレクシスが怖くとも、恐ろしくとも、アレクシスと結婚した事実は変わらない。
 側室とはいえアレクシスの妻になったのだから、務めは果たさなければならない。
 怯えている場合ではないのだ。

 エリスは覚悟を決め、しゅるりと肌着の肩紐を落とす。
 練習したとおり、アレクシスに微笑みかける。

「アレクシス殿下。ふつつかなわたくしではございますが、殿下の妻として、誠心誠意努めたいと思いますわ」――と。

 それは今のエリスにとって、精一杯の言葉だった。
 最大の勇気を振り絞った結果だった。

 けれどそんなエリスを、アレクシスは蔑むように睨みつけた。
 まるで仇か何かを前にしたような顔で、冷たく言い放ったのだ。

「ハッ。勘違いするな。俺がお前を抱くのは皇子としての義務を果たすためであって、それ以上でも以下でもない。俺はお前に興味などないし、この先もずっと、お前を愛するつもりはない」
「……っ」

 刹那、エリスは言葉を失った。

 自分が歓迎されていないことは知っていた。
 けれどまさかここまで酷い言葉を投げつけられるとは、誰が想像しただろう。

 氷のような冷めた瞳でエリスを見下ろし、アレクシスは続ける。

「お前をここには置いてやる。それが陛下の命だからな。だがもし少しでも俺の気分を害すれば、女であろうと容赦はしない。たとえ妻相手でもだ。よく心に刻んでおけ」
「――っ」

(ああ……どうして。どうしてここまで言われなければならないの?)

 そう思っても、口に出すことは許されない。
 もしそれを言ってしまえば、きっと自分は殺されてしまうだろう。

 賢いエリスは瞬時にそう悟った。
 エリスは泣き出したくなる気持ちを必死に心の奥底に押し込め、淑女の笑みを取り繕う。

「わかりましたわ。今後は不用意な発言は控えさせていただきます。全ては殿下の御心(みこころ)のままに」

 するとその返事に、意外にも驚いたように眉を震わせるアレクシス。
 彼は何かを考える素振りを見せたが、結局態度を改めることはなく、無言でエリスをベッドに押し倒した。

「その言葉、よく覚えておけ」

 冷たく吐き捨てて――前戯も殆どせぬままに、アレクシスはエリスの中に、無理やり自身を押し込んだ。

 翌朝、アレクシスは目を覚まして早々に絶句した。
 隣に裸のエリスが寝ていたからだ。

「――ッ!?」

 彼は驚きのあまりベッドからずり落ちかけて、けれどなんとかバランスを持ち直し――ようやく昨日のことを思い出す。

 そうだ。自分はこの女と結婚したのだった、と。

 ――それにしても、夕べ酒を煽りすぎたせいか、記憶が殆ど抜け落ちてしまっている。

 エリスとの閨事(ねやごと)を見送ろうとする自分に、側近のセドリックが薬を差し出してきたところまでは覚えているのだが……。

(あいつ……薬の量を間違えたのか……?)

 いや、あのセドリックのことだ。間違えなど万に一つも有り得ない。
 とするなら、やはり記憶の喪失は酒のせい……ということになるが。

 何にせよ、この状況から察するに初夜は無事に済んだのだろう。
 記憶がほぼ飛んでしまっているので、実際のところはわからないが……。

 アレクシスは大きく溜め息をついて、自分の着ていたバスローブはどこだろうかとあたりを見回した。
 そうして、再び言葉を失った。

 なぜなら、アレクシスの視線の先――シーツの上に、本来あるはずのない赤い染みができていたからだ。
 処女でなければできるはずのない、くっきりとした血痕が。

 考えるまでもなく、それはエリスの血に違いなかった。

「…………は?」

(待て。この女……純潔だったのか?)

 瞬間、脳裏に蘇る昨夜の記憶。

 エリスに向かって"脱げ"、"お前を愛する気はない"と言い放ったことや、その後の、手荒……などという軽い言葉で片づけられないほどの所業。

 確かにそれらは全て本心から出た言葉だったが、その(さい)たる理由はエリスが幾人も男を取り替えるような、ふしだらな女だと聞いていたからだ。
 それなのに、まさか乙女であったとは……。

「…………」

 アレクシスはさぁっと顔を蒼くして、口元を手のひらで押さえる。

 自分は取り返しのつかないことをしてしまったのでは――と。



 ◆◆◆


 そもそも、この結婚はアレクシスの望んだものではなかった。

 ことの発端は二週間前に遡る。

 長い遠征からようやく帰還したアレクシスは、報告のために側近のセドリックを伴って、第二皇子クロヴィスの執務室を訪れた。
 
 クロヴィスとは、今年で二十五になるアレクシスの異母兄で、皇帝の第一夫人――つまり皇后の長子のことだ。

 この帝国では女帝が認められているために、第二皇子でありながら帝位継承権は第三位だが、次期皇帝に最も相応しい人物だと言われている。

 現在は内政を担当しており、金髪碧眼の眉目秀麗かつ頭の切れる皇子だ。物腰も柔らかで、帝国民からの信頼も厚い。

 だが笑顔の裏で何を考えているのかわからないところがあり、アレクシスは昔から苦手意識を持っていた。


 アレクシスが部屋に入ると、クロヴィスは執務卓から顔を上げニコリと微笑んだ。

「やあ、久しいな、アレクシス。北部はどうなった?」
「特にどうということは。いつも通り力づくでねじ伏せてやりましたよ。詳細はこちらに」

 アレクシスは事務的に答え、書類を提出するとさっさと部屋を後にしようとする。
 けれどそんなアレクシスを呼び止めるクロヴィスの声。
 仕方なく振り向くと、クロヴィスが満面の笑みで自分を見つめていた。

 その笑顔に、アレクシスの胸に一抹の不安が過る。

(この笑顔、嫌な予感しかしない)

 そう思ったのも束の間、クロヴィスの口から信じられない言葉が放たれた。

「お前の結婚相手が決まったよ。式は二週間後だ。準備をしておきなさい」と。

 瞬間、アレクシスは戦慄した。

 ――ヴィスタリア帝国には現在十二人の皇子がいる。
 うち成人している皇子はアレクシスを含めて四人だが、いまだに未婚なのはアレクシスだけだ。
 クロヴィスに至っては正妻の他に側室が三人もいる。

 皇族は一夫多妻が認められているため、二十二歳を迎えたアレクシスが未婚というのは有り得ないことだった。

 にも関わらず、アレクシスはずっと結婚を拒んできた。
 それは、どうしても結婚できない彼なりの理由があったからだ。

 それなのに、まさか自分の知らないところで結婚相手が決まったなどと……。


 もはや驚きすぎて言葉が出ないアレクシスの代わりに、側近のセドリックが問う。

「結婚ですか? 縁談ではなく?」
「ああ、結婚だ。側室だがな」
「……お相手は」
「スフィア王国の公爵家の娘だ。王太子の婚約者だったらしいが、異性問題を起こして破談になったと」
「そのような方が、アレクシス殿下の奥方に?」
「そうだ。異性問題云々については、当然先方は隠していたがな。我が帝国相手に隠し通せると思っている愚かさが、田舎の小国らしいというか」
「…………」

 開いた口が塞がらないセドリック。
 アレクシス本人も、怒りに肩を震わせる。

「陛下に抗議しにいく」――と、全身に殺気を纏わせて。

 だがそんなアレクシスを、クロヴィスは冷静な声で引き止める。

「陛下は視察でいらっしゃらない。式の前日までお戻りにはならないそうだ。諦めなさい」
「馬鹿を言うな……! 我が帝国の皇子妃は王女であると慣習で決まっている。それをあのような小国の公爵家……それも、異性問題で破談になった女を嫁にしろと言うのか!?」

 アレクシスは激高(げっこう)した。
 あまりにも横暴な話だろう、と。 
 
 だが、クロヴィスは冷静な態度を崩さない。

「私もそうは思うけどね。いい相手は今まで何人もいたのに、お前が全員追い払ってしまっただろう? 陛下はそんなお前の行動に酷くお怒りだった。つまり、これはお前への罰ということなのではないかな」
「――ッ」

 ぐうの根も出ないアレクシスに、クロヴィスは一枚の書類を押し付ける。
「これが相手の情報だ」と微笑みながら。

 結局アレクシスはそれ以上何も言い返せずに、書類を雑に受け取ると、不満一杯の様子で執務室を後にした。

 クロヴィスの執務室を出たアレクシスは、受け取った書類に少しも目をくれることなくセドリックに押し付けた。
 結婚などしてたまるか――と言いたげに。


 アレクシスはこれまで五回王女と婚約し、その五回とも破談になった過去がある。
 破談の原因は、アレクシスの大の女嫌いにあった。

 女性の中でも、男にだらしない女や男に媚びる女は特に受け付けない。
 直接素肌で触れたくないため、社交場では予備の手袋を二組も用意するほどの徹底ぶりだ。
 当然、お世辞の一つも言いはしない。ダンスも極力踊らない。
 どころか、会いに来た婚約者を冷たく追い返してしまうほどである。

 そんなわけで、婚約してもすぐに先方から破棄の申し出があり、アレクシスは喜んでそれを受け入れ――の繰り返しだった。

(それが突然結婚だと!? ふざけるな……!)

 それも相手は、王太子の婚約者でありながら別の男と通じた女。
 そんな女が妻になるかと思うと、考えるだけで吐き気がした。

「……すぐに追い出してやる」

 アレクシスは忌々(いまいま)し気に呟いて、自分の執務室へと続く廊下を速足で進む。
 すると不意に、後ろを歩いていたセドリックが足を止めた。

 アレクシスが振り向くと、セドリックが驚いた様子で書類を凝視している。

「どうした、セドリック」
「いえ……それが、その……。相手方の女性が、殿下が以前お探しになっていらっしゃった方に、よく似ているものですから」
「何?」

 アレクシスが書類を覗き込むと、確かにそこに描かれた肖像画の特徴は、自分がかつて探し求めた”彼女”と酷似していた。

 亜麻色の髪に瑠璃色の瞳。年齢は十八……それに、名前も――。

「“エリス”……だと?」


 ◇


 結婚式当日、アレクシスはエリスを一目見て、胸が高鳴るのを感じた。

(……似ている)

 そう。似ているのだ。
 かつて自分が唯一触れても平気だった記憶の中の少女に、エリスはよく似ていた。

 アレクシスが十二歳のとき、隣国のランデル王国に滞在していた際に出会った少女。
 湖に落ちた自分を救ってくれた、愛らしく(たくま)しい年下の女の子。

 亜麻色の髪と、瑠璃色の瞳。肩のどちらかに赤い火傷の痕があり、名前は「エリス」。

 当時のアレクシスは帝国語しか話せなかったために名前しか聞き取れなかったが、少女は確かに「エリス」と名乗ったのだ。


「エリス・ウィンザーと申します」
「……っ、……ああ」

 エリスの涼やかな声に、凛とした瞳に、純白のドレスを身にまとった美しいその姿に、アレクシスの心臓がドクンと跳ねた。

 けれど、彼は咄嗟に否定する。――違う、きっと別人だ。本物であるはずがない、と。

(俺が探しているのはランデル王国の人間で、スフィア王国の者ではない。それに、あの「エリス」が異性問題を起こすような女性だと、俺は認めたくない)


 アレクシスは、もう何年も「エリス」を探し続けてきた。
 学生時代にランデル王国に留学したのも「エリス」に会いたいがためだった。

 もしももう一度出会えたら、あのときと同じように彼女に触れてみたい。
 他の女性には嫌悪感を抱く自分が、彼女ならば大丈夫なのか確かめたい、と。

 だが結局見つけることはできず、ようやく諦めがついたところだったのだ。
 それなのに、今さらこんな都合よく会えるなど確率的に有り得ないだろう。


(だが……もし、もし彼女の肩に、火傷の痕があったなら……)


 ◇


 その夜、アレクシスはエリスの部屋を訪れた。

 緊張を誤魔化そうと自室で酒を飲みすぎた挙句、「やはり女を抱くなんて無理だ」と逃げ出そうとしたところをセドリックに捕まり、「この薬を飲めば嫌でもできますから」と媚薬を飲まされたせいで足取りは覚束なかったが――セドリックの「もしかしたら、本当に彼女が尋ね人かもしれませんよ」との言葉に励まされ、どうにかこうにかやってきた。

 だが、下着姿のエリスを一目見て落胆した。
 エリスの肩の左右どちらにも、火傷の痕がなかったからだ。

(ああ……違った……)
 
 期待を裏切られたアレクシスは、酒が入っていたことと、エリスが処女ではないと思い込んでいたために、つい強く当たってしまったのだ。
 
「お前を愛する気はない」と。

 その後は夜伽を早く終わらせようと、かなり手荒に抱いてしまった。


 アレクシスはエリスの寝顔を見下ろし、罪悪感に顔を歪める。

 彼は生粋の女嫌いであるが、世の中全ての女性の心が汚れているわけでなはないということを、頭ではきちんと理解していた。

 しかし、今さら後悔しても遅い。

 あれだけ手荒に扱ったのだ。エリスは自分を恐れて、この先二度と近づこうとは思わないだろう。
 そしてその状況こそ、自分が本来願っていたものであるわけだが……。

「…………」

(それなのに、何だ、この不快感は。俺は何をこんなに動揺している)

「――ああ、くそっ」

 アレクシスは苛立ちに任せて後頭部を掻きむしる。

 起こしてわざわざ謝罪するというのもおかしな話だが、かと言って、このままというのも寝覚めが悪かった。

(不本意だが……仕方ない。せめて医者の手配くらい……)

 アレクシスはバスローブを無造作に羽織り、使用人を呼びつける。
 そして、「宮廷医を呼び寄せろ。――ああ、女の医者だ」との指示を出し、自分は部屋を後にしたのだった。